ことばは神と共にあった ヨハネの福音書1:1~5

 本日からヨハネの福音書の学びを毎月開始します。この福音書はイエス・キリストの12弟子のひとりであるヨハネによって書かれたものです。ヨハネは“雷の子”と呼ばれるほど、気性の激しい人でした。彼はペテロと共にエルサレム教会の指導者のひとりとなりましたが、晩年は迫害により捕らえられ、パトモス島に島流しになりました。ヨハネの黙示録はそこで執筆されたものです。また、ヨハネの福音書は彼が90歳近くになったときに執筆されたと言われています。その頃はすでにマタイ、マルコ、ルカの三福音書は出来あがっていたと思われます。そこで、ヨハネは他の3つの福音書にはない出来事や主イエスのことばなどを多く記載しました。

 「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(1節)。

皆さん、この“ことば”は何を指しているか、直ぐに判られるでしょうか? この“ことば”はイエス・キリストを指しているのです。ヨハネの福音書にはイエス様の御降誕の記事はありません。この福音書においては、イエス様は初めから万物の創造主なる神と共におられた方であり、万物の創造の御業にも参画された方であると述べられています(3節)。 

原語の聖書では、この“ことば”とはギリシャ語のロゴスです。ロゴスは「知恵、英知」と訳され、重い“真理のことば”をさします。それゆえ、イエス・キリストのことばは真理であり、神のことばです。

 「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」(4節)。神の“ことば”によって人間のうちに注ぎ込まれたこの“いのち”は単に肉体的、動物的ないのちではなく、人間として生きる人格的、霊的な機能を生み出す(源泉となる)いのちを意味します。神を礼拝し、神と交わることのできるいのちです。何と素晴らしいことでしょう!

 

 人の光となるいのちとは何のことでしょうか?このいのちは「主イエスを信じる者に与えられる永遠のいのちのことであり、肉体が死んでも生きるいのちです。」つまり、ヨハネの福音書11章25節にある「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」に示された“いのち”、すなわち、イエス様が復活されたように、信じる者も肉体が滅んでも、霊的に、永遠に生かされるのです。

 “光”とは、詩篇36篇9節「いのちの泉はあなたとともにあり、あなたの光のうちに、わたしたちは光を見るからです。」とあります。つまり、イエス・キリストにある光のことです。私たち人間は皆、生まれながら原罪をもっています。罪ある世界は神の眼から見たら暗闇の世界です。罪ある人間は死後、裁かれなくてはなりません。真っ暗やみの中を夜、歩くと怖いですね。光が必要です。主イエスと共にあるなら、闇の中を歩まなくていいのです。

 ヨハネ福音書1章5節を見ましょう。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」。私たちがイエス・キリストを自らの救い主と信じ、主と共にあるならば、光のうちを歩むことができるのです。落ち込んだり、悲しんだり、嘆いたりしなくて、喜びの中を歩むことができるのです。そして、最終的な到達点は天の御国です。本当に素晴らしい恵みですね。

 

 皆さんもご存じのように、北海道の三橋萬利(みつはし みつとし)牧師のことが思い浮かびました。三橋牧師は生まれたときから身体に障害のある方でした。脳性麻痺に冒され、両足はまったく機能を失い、歩くのはもちろんのこと、立つことすらできません。右手は全然動かず、左手が少々きくだけの状態でした。そのため、三橋さんは小さい時から「自分は何の役にも立たない暗やみの人間だ」と思い込んで生きて来られたそうです。著書「北国に駆ける愛」の中で、「人間にとって自分の存在になんの価値も意義も見出せないことほど悲しく、辛いことはありません。この悲しさとつらさは、私がイエス・キリストに出会う時まで続きました。」と書かれています。三橋牧師は長い間まったく光のない、孤独で、暗やみの中にいる思いで過ごしてこられました。

 三橋牧師が友人の紹介で聖書を読むようになり、教会に集うようになりました。三橋さんは聖書から本当の神様がおられることを確信し、自分のような不自由な身体を持った人間でも、他の人々と何ら変わらない一人の人間であるという自己の尊厳を持つようになられました。

 以下、著書に、こう記しておられます。

世間一般では、人の値打ちをその人の能力、学歴、財力、社会的地位などによって判断するのが普通です。だからこそ私のような境遇にある者は、いつもセルフイメージを低くしてしまうのです。それまでは「私は何の役にも立たない者だと思っていました。しかし聖書には、「天と地を創造した」神が「人をご自身のかたちに創造され…‥神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」とあります。人間を差別せずに男と女とをお造り下さったのです。男と女とを同じ人間としてお造り下さった神の前に、私も一人の人間だということが判った時、私も他の人々とまったく同じ者であることを知ったのです。」

それから彼の人生は暗やみから光の中に移され、生きる喜びが与えられ、神様の恵みを伝える人に変えられたのです。

皆さん、どんな環境の中にあっても、三橋さんのように、いつも主イエス様を見上げ、与えられた人生を感謝しつつ、歩んでまいりましょう。(牧師:北林行雄記)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください