聖書の言葉から

そもそも、なぜ聖書を読む?

「山路を登りながら、かう考へた、智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい。」
夏目漱石「草枕」冒頭の、とても有名な言葉です。

人は誰でも自分に対してネガティブな言葉を発せられることを好みません。友人からの忠告や諭しがあって、「良薬は口に苦し」という言葉を憶(おも)って、友人に感謝すれば、それはとても美しい友情物語ではありますが、しかし、それは結果論として後で思うことであって、その時はなかなかそうは思うことができず、意地を張って口論になったり、逆に彼奴(あいつ)は俺のことを誤解している、丸で分かっていないと仲違いをしてしまうことさえあるのではないでしょうか?だから、角が立たない様に、流されないように、窮屈な思いをしないように生きようとすると、結果住みにくいなぁと思う。
さすが夏目漱石、現実の人と人の間にある生き方の難しさを端的に表した名文だと思います。

しかし、だれしも誰かと争いたくて日々を過ごしているわけではありません。また、自分をないがしろにされたり疎外されたりすることを望んだりもしません。にも拘わらず、「争い」は人間の歴史とともに、イエイエ考古学的遺跡を見れば有史以前からも存在したことは容易に推測できます。

そう考えると、これは人類というものの宿命なのだろうか?と疑いたくもなります。だとすれば、自分達の努力ではどうしようもないことなのだと諦めるしかないのでしょうか?そうなのでしょうか?そこが問題だと思うのです。

確かに難しいことなのでしょうが、だからと言って、「仕方がない、何も出来ないのだから」と無為に生きるしかないのでしょうか?むしろ、「だからこそ」真剣に考えるべきことであるとは言えないでしょうか?「住みにくい人の世」を作っているのは、他ならぬ私たち自身なのですから。

多くの人々の中でよく見かけることですが、何かやろうとするとき、先にやらない理由を考える人がいます。結局、問題を先送りするわけです。
面倒なことはしたくない、誰かがやるだろう。誰かがやってそれの賛同者が増えれば、その時自分も乗っかればいいという人々です。結果、そういうことが世の中をつまらなく駄目にしていくのではないでしょうか?つまり、自分が自分で世界を駄目にしているということに気が付かないのです。

聖書の言葉にこういうのがあります。
「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」(マルコ4:20)
と。

「良い地に蒔かれる」とは、「実を結ぶ人たち」に掛かっています。前に踏み出そうとせず、踏み出さない理由を考えることは罪であると、イエスは教えておられるのではないでしょうか?

聖書は、このように私たちにメッセージを送っているのだと考えられないでしょうか?
聖書をよく読んで、その御言葉に耳を傾けてみませんか。

 

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