あなたの立つ所は聖なる場所 ヨシュア記5:13~15

 主なる神様の御業によりヨルダン河が堰き止められて、イスラエルの民が河を歩いて渡り、カナンの地に足を踏み入れることができました(ヨシュア3:14~17,4:23~24)。この知らせはヨルダン河西方に住む王たちに恐怖を与えました。なぜなら、岸一杯に水が溢れるヨルダン河を堰き止められたのが全能の主だからです。イスラエルの軍勢が相手なら戦いようがあるでしょうが、天地万物の創造主が相手では勝負になりません。それで、王たちの心が萎え、彼らは戦う気力さえ失ってしまいました(ヨシュア5:1)。

 ところで、カナンの地には先住民がいますので、ここをイスラエルの民が占拠するためには数々の戦闘が予想されます。その戦いの準備として第一に、主は「イスラエル人に割礼を施すこと」をヨシュアに命じられました(同5:2~3)。割礼はアブラハムの時代に神との契約として制定されました(創世記17:9~11)。また、出エジプト記12章において、イスラエルの全会衆と在留異国人も、過ぎ越しのいけにえを奉げようとするなら、その家の男子はみな割礼を受けなければならないと命じられました(47~48節)。ところが、割礼を受けて出エジプトした男子は心をかたくなにして、主の御声を聞こうとしなかったのです。その結果、カレブとヨシュア以外の男子は皆、荒野で死に絶えてしまいました。一方、エジプトを出た後に荒野で生まれた息子たちは誰も割礼を受けていませんでした(ヨシュア5:4~7)。それゆえに、なる神とイスラエルの民との間の契約を再度、正式に結ぶ必要があったのです。このことによって、“イスラエルの民が不信仰のために荒野で滅びた”というそしりが取り除かれたのです。

第二の準備は、“過ぎ越しのいけにえ”をささげることでした。“過ぎ越しのいけにえ”はイスラエルの民が出エジプトするときに主から命じられたことです。傷のない1歳の子羊をほふり、その血を取って家の二本の門柱とかもいにつけてあれば、主はその戸口を過ぎ越されて助かるが、そうでないエジプトのすべての初子が打たれて死んだのです(出エジプト12:21~29)。その結果、イスラエルのすべての民が奴隷の身から解放されて、出エジプトすることができました。だから、過ぎ越しのいけにえはイスラエル人にとって記念すべき出来事であり、主なる神の御業を再確認することでありました。そして、この時からマナは止まり、カナンの地で収穫したものを食べるようになりました(同5:12)。マナはイスラエルの民の40年間の荒野生活を毎日支えた貴重な食糧でした。

 ヨシュアがエリコの近くで抜身の剣を持った人(主の軍の将)と出会い、彼は顔を地につけてその人を伏し拝み、「わが主は、何をしもべに告げられるのですか。」と聞きました。すると、主の軍の将はヨシュアに「あなたの足のはきものを脱げ、あなたの立っている場所は聖なる所である。」と言われました(同5:15)。これは、モーセが燃える芝の中から聴いた神の声と全く同じことばです(出エジプト3:5)。ヨシュアが地上に足を置いて立っていましたが、その場所が“聖なる場所”であり、彼がそこに立てる者として認められたのです。つまり、ヨシュアは”神の領域に属する者”として任命されたということです。今後、ヨシュアはカナンでの先住民族との戦いが始まりますが、いつも主が共におられて戦いを導いてくださいました。

 クリスチャンとは”キリストに属する者”として認められた人々です。この人々と主なる神がいつも共にいてくださるので、クリスチャンは自分だけで孤軍奮闘する必要はありません。仮に一人のことがあっても、祈りを通して、常に主の応援を受けることができるのです。 ですから、「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。あなたの神、が、あなたの行く所どこにでも、あなたと共にあるからである。」(ヨシュア1:9)。 牧師 北林行雄記

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