主イエスは群衆が自分のことを誰だと言っているか?と弟子たちに尋ねられた後、彼らに「あなたがたはわたしを誰だと言いますか?」と聞かれた。すると弟子の筆頭であるペテロが「神のキリストです。」と答えた(ルカ9:20)。“神のキリスト”とは、神により油注がれた者、メシアであることを意味する。つまり、イエスは神の権威と力を持つ方であると答えた。
すると、イエスは即座に弟子たちを戒め、このことを誰にも話さないように命じられた。その理由は、主イエスの十字架を、復活以前であり、弟子たちがイエスのことを大胆に証する時がまだ来ていなかったからである。ペンテコステの時に弟子たちは聖霊に満たされて、大胆にイエスのことを証した。「このイエスを神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。」(使徒の働き2:32~33)。
続いて、イエスは語られた。ルカの福音書9章22節「人の子(イエス)は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない。」イエス・キリストの十字架の死と復活を予告された。
そして、弟子たち皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(23節)。これは、弟子たちばかりでなく、私たち一人一人に対しても、主イエスが呼びかけておられることばである。
24節の「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」。つまり、自己中心な思いを捨てて罪を悔い改めてイエスを信じ、従う者は救われる。すなわち、永遠のいのちを持つことができる。そうでないものは滅びる。人は全世界を手に入れても、自分自身を失い(神の裁きを受け、新たないのちに預かれない)、損じたら、何の益もない。
次に“永遠のいのち”について考察する。(新キリスト教辞典参考)
- 永遠のいのちとは、本質的に神のいのち、神に属するいのちである。
イエスは彼に言われた。「私が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければだれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネの福音書14:6)
私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。(ヨハネの手紙第一5:20)
- 永遠のいのちとは時間を超越した神の世界、神の国に生きるいのち、神に救われたいのちである。神とキリストを「知り」永遠なる神とキリストとの交わりに生きる時に、人は神のいのち、永遠のいのちにあずかる。(ヨハネ17:3)
- 死後にキリストにあってよみがえらされて、生かされる新しいいのち、復活のいのちである。「わたしはよみがえりです。いのちです。私を信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)。
27節にある、「ここに立っている人たちの中には、神の国を見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」において“神の国を見る”とは全世界に福音が伝えられ、聖霊の働きにより、世界各地で救われる人々が次々と起きてくる時を指す。
ところで人間は誰しも皆、生まれながら自己中心という罪を持っている。自我が強い人、プライドの高い人、うなじのこわい人、自分の弱さを認めず人の非難ばかりする人等などいろいろある。このような罪深い私たち人間は、もっと主の助けが必要なのは言うまでもない。そのためには、私たちがどこに行っても聖書を持参し、困難に直面した時は主に祈りつつ、御ことばを読むことである。そうすれば聖霊が働かれ、新たな力がわいてくる。
以上まとめると、クリスチャンは、永遠のいのちが約束されている。それ故、私たちがいつどこにいてもイエス・キリストとの交わりを大切にすることである。聖書のことばを吟味し、何をするにも主の導きを求めて祈りに専念し、示されることをしっかりと実践しようではありませんか。皆さんの上に主なる神の豊かな祝福があらんことを!(牧師:北林行雄記)