天に宝を積む マタイの福音書19:16~26

 “Man is mortal”  人間は死すべき運命にある。つまり、人は永遠に生きられないことを意味する。ところが、この聖書の箇所では、ある青年がイエス・キリストに「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいでしょうか。」と訪ねると、イエスは「十戒を守ること、そして財産を売り払って貧しい人に与えよ。そうすれば天に宝を積むことになる。」と回答された。大金持ちであった青年は悲しみながら去った。彼は地上の宝を手放すことができなかった。 地上の宝は金銭や財産に限らず、仕事などで成果を上げて人からの賞賛や地位、名誉などいろいろある。

 それでは、天に宝を積むとはどういうことであるか?このヒントはテモテへの手紙第一6:17~19にある。「今の世で富んでいる人たちに命じなさい。高慢にならず、頼りにならない富にではなく、むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて下さる神に望みを置き、善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え、来るべき世において立派な土台となる物を自分のために蓄え、まことのいのちを得るように命じなさい。」 つまり、神に望みを置き、来たるべき世において土台となるものを蓄えることである。私たちは有事に備えて、必要な物資や資金を準備しておかないと安心できないものである。これは当然である。しかし、地上の富に固執すれば、大切な神の警告を忘れてしまう危険性がある。残念ながら、沢山持っている人ほど貪欲で、困った人に施すことを惜しむ傾向がある。「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が易しい。」(24節)。地上の富に貪欲な人は神の国に入れない。しかし、神にとって不可能なことがないので、そのような人でも、自らの罪を悔い改め、真実に神を求めるなら、主なる神は報いて下さる。

 それゆえ、私たち、特にクリスチャンは神に望みを置き、神のことば(聖書)に従い、信仰の証に励むべきである。友人や知人に聖書のことばを伝え、自分の救われた証をすることも、天に宝を積むことである。また、人々の救いのために祈ること、教会の奉仕をすることなども天に宝を積むことである。

 さらに、隠れた所での奉仕や親切な行いは大変貴重なものである。私の個人的な証であるが、私はイエス・キリストを救い主と信じてから、すごい喜びに満たされた。しかし、それから、しばらくして信仰のスランプに陥った。その時、教会の備えつけの週報ボックスに封筒が入っており、北林行雄兄へと書かれてあるが、差出人の名はなかった。その封筒に3000円と短い手紙が入っていて、「このお金で聖書を買ってください。お祈りしています。」と書かれていた。私がまだ学生で、自分の聖書を購入したいと思っていたので大変励まされた。誰であるかわからないが、自分のことを覚えて祈って下さる。”隠れた親切、隠れた祈り“、これぞクリスチャンの世界であることを実感した。

 天に積まれた宝には虫やさびは決してつくことはない。主の業に励むなら、その宝は増え続け、益々豊かになる。「ですから、わたしの愛する兄弟たち。堅く立って動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(コリント人への手紙第一15章58節)。

 皆さん方が主の業に励み、天にあなたの宝を積んで、より豊かな人生を歩まれ、永遠のいのちの素晴らしさを味わうことができますよう祈ります。(牧師:北林行雄記)

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