内なる人は日々新たにされる コリント人への手紙第二4:7~18

 今お読みいただいた聖書箇所、コリント人への手紙第二4章から特に、以下の三つのことについてお話をさせていただきます。

  • すべてのクリスチャンに与えられている宝は何であるか?
  • 内なる人は日々新たにされるとはどういうことか?
  • 今、生きる私たちはどうあるべきか?

 先ず、1番目の課題から検討する。この手紙の作者パウロは旧約聖書に精通し、律法(十戒)の専門家であった。彼は律法を厳格に守ることによって神の義を獲得しようと努力した。しかし、彼はどれだけ努力しても神の義を得られないことを痛感した。自分の心の中にある自我が邪魔して、罪の思いが湧き出てしまう自分を発見した。彼はローマ人への手紙7章に次のように書かれてある。以下抜粋

私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。(ローマ人への手紙7:22~25)

 パウロは心の葛藤の末、私たち人間の罪の問題の解決はイエス・キリストによるしかないことを発見した。つまり、神の御ひとり子イエス、キリストが私たち人間の贖罪のために、十字架にかかって死んでくださった。それゆえ、イエスを信じる者は救われる(永遠のいのちを持つ)。このこと以外に人が救われる道がないことを確信し、神に感謝をささげた。

 以上のことから、すべてのクリスチャンに与えられている宝は「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識」である(コリント人への手紙第二4:6)。 私たちはこの宝を土の器に入れてある(7節)。土の器は価値のないものを意味し、もろく、こわれやすく、直ぐに傷がつく。これは私たち人間を表しており、神の目から見たら、弱く、小さなものである。しかし、どんなに入れ物が貧弱であっても、中に宝が入っていれば、貴重な存在として扱われる。クリスチャンは幸いである。いつも心のうちにイエス・キリストが宿ってくださるから。

次に2番目の課題について検討する。16節に「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」外なる人、つまり、私たちの身体は高齢になるにつれ、体力的に弱くなっていく。それに付随して、記憶力や気力も衰えてくる。

 しかし、心のうちにイエス・キリストを信じて、日々聖書のことばに養われているなら、毎日が新しい発見であり、喜びが沸き上がり、新しいことに挑戦することができる。しかも、コリント人への手紙第二4章8~9節にあるように、四方八方から苦しめられても、窮することがなく。迫害されても、見捨てられることがなく。倒されても、滅びない。

私は22歳でイエス・キリストを信じ、約50年間教会生活を送っている。毎日聖書を読んで、新たな力を神様から頂いている。聖書を読むことが楽しみで、キリストの十字架の贖いの業を思い浮かべると神の愛と喜び、感謝で満たされる。このようなことは皆さんも体験されているでしょう。毎日のデボーション(御ことばの学びと祈りのとき)で新たな神の恵みに満たされ、一日の霊的な力をいただいで、仕事に向かわれるのではないでしょうか?

イエス・キリストにある信仰によって日々新たにされる、これはクリスチャンの特権です。あなたはどうですか?

 第三の課題に入りましょう。今生きる私たちはどうあるべきでしょうか?日常生活の個々の問題ばかりでなく、大国の覇権争いで、核戦争の危険性が心配される。不安を感じている方がおられるでしょう。このような状況に対して、聖書は次のように語ります。「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」(コリント第二4:18)。そうです。皆さんの生活の中で、常に神を見上げて、あなたのための神の導きを求めましょう。そして、神のなさる御業を見て、神の御名を褒め称えていきましょう。(牧師:北林行雄記)

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