終末への心備え マルコの福音書13:1~8,28~31

エルサレム神殿はヘロデ大王によって着工され、当時46年かかってもまだ建設中の壮大で華麗な建築物でした。そのエルサレム神殿を見て、キリストの弟子の一人が感激して、「何と素晴らしい石、何と素晴らしい建物でしょう。」と言うと、イエス様は「この大きな建物を見ているのですか。ここでどの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」と言われました。キリストはエルサレム神殿の崩壊を預言されたのです。事実紀元70年ローマ帝国の攻撃によってエルサレム神殿は崩壊しました。ここでイエス様は弟子たちに眼に見える美しさに心を奪われるのでなく、もっと大切なものがあることを教えられました。さらに、神殿崩壊によって古い契約の時代が過ぎ去り、やがて新しい時代が来ることも暗示されました。

 そこで、キリストの弟子4名(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレ)が「いつそのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づく時のしるしはどのようなものですか。」とイエス様に尋ねました。

 イエス様は世の終わり(終末)の前兆として以下の3つの特徴を掲げられました。

1.キリスト(救い主)を名乗るものが大勢現れる。

2.戦争や戦争のうわさを聞く。そして、民族は民族に、国は国に敵対して争いが起こる。

3.あちこちで地震や飢餓など、自然災害が起こる。

イエス様が弟子たちに語られてから約2000年経ちます。

ここで語られた3つの前兆は世界各地で既に起きています。最近では、新型コロナウイルス感染拡大のように世界各国に広まり、地球規模で拡大しています。また、地球温暖化によって自然災害も増発しています。かつて温暖であった日本でしたが、今年の猛暑、生命の危険を及ぼす程の気温上昇、熱中症で多くの方が亡くなっています。

しかも、台風や地震はほぼ毎年起きています。

このような状況から,終末(世の終わり)がさらに近づいていると考えられます。

そこで、イエス様が話された次の言葉に注目しましょう。

マルコの福音書13章28~30節

「いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかくなって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。同じように、これらのことが起こるのを見たら、あなたがたは、人の子が戸口に近づいていることを知りなさい.まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代は過ぎ去ることは決してありません。」

 終末の前兆を見たら、”人の子が戸口まで近づいている“つまり、イエス・キリストの再臨が非常に近くなっているということです。しかし”これらのことが全部起こってしまう”つまり、世の終わりの時の前兆がすべて起こるまで、この時代が過ぎ去って新しい時代が到来しないのです。

 若い皆さんは将来に希望を持っておられるでしょう。

私もそうでした。しかし、人生を長く生きていると小中学校時代の日本の自然や気候、人と人の交わりが、今と比べるとずいぶん穏やかであったと思います。時代は確かに終末に近づき、生みの苦しみを味わう覚悟が必要です。

しかし、クリスチャンにはいつも希望があります。

終末の厳しい時代を越えたら、イエス・キリストにある新しいいのち、永遠のいのちがあることが約束されているからです。

イエス様は言われました。

天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」

マルコの福音書13:31(新改訳第3版)

時代が変化し、社会の一般常識が変わっても、常に変わらない聖書の言葉にしっかりと耳を傾けて歩んで行きましょう。

そして、皆さんの家族や友人など、大切な人たちの救いのために祈りましょう。

           (牧師:北林行雄記)

信仰に立つ決断 ルツ記1:1~18

 本日の説教に登場する主な人物はナオミとルツとオルパです。自国ユダが飢饉になったので、ナオミは夫エリメレクと二人の息子と一緒にモアブの荒野で住む事になりました。

しかし、エリメレクが死亡したので二人の息子はモアブの女を妻に迎えました。

妻となった二人はオルパとルツです。

 ところが、息子たちの結婚生活は約10年で終わることとなりました。ナオミの二人の息子が死に、彼らの妻オルパとルツが残されたのです。

そこで、ナオミはユダの地に戻ることを決意し、二人の嫁に次のように言いました。

「あなたたちは、それぞれ自分の母の家にもどりなさい。あなたたちが亡くなった者たちと私にしてくれたように、主があなたたちに恵みを施して下さいますように。また、主があなたたちがそれぞれ、新しい夫の家で安らかに暮らせるようにしてくださいますように。」

(ルツ1:8~9)

 二人は声をあげて泣き、自分たちもナオミと一緒に行かせてもらいたいと願ったが、ナオミは彼女たちが自分について来ても良いことはない。つまり、この世的な幸福は望めない。それは、ナオミ自身にとってとても辛いことだと説得しました。オルパはナオミの説得に従い、別れの口づけをして去って行きましたが、ルツはナオミにすがり付いて離れようとしませんでした。

 ルツはナオミに「お母さまを捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母さまが行かれる所に私も行き、住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(ルツ1:16)と宣言しました。

ナオミは二人の嫁のこの世的な幸福を考えて説得しましたが、ルツは”この世的な幸福”

以上のもの、信仰と愛に基づいて決断しました。ルツはナオミとの約10年間の生活においてナオミとの人間的な絆とその背景にある精神的土壌、すなわち、主なる神を信ずる生き方が彼女のうちに根付いていたのです。それゆえ、ルツはナオミに対して「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」と明言することができたのです。

しかも、ルツはナオミに対して、「あなたの死なれる所で私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」(ルツ1:17)と誓ってまで、自分の決心の固いことを表明しました。

 ナオミはルツの決心が固いのを見て、もうそれ以上は言いませんでした。

ルツはナオミと一緒にベツレヘムに到着しました。そこにおいて、主は素晴らしい御業を成なして下さいます。

 私たちの人生において重要な決断をしなければならないことが何度かあるものです。

その時にこの世的な幸せを選ぶか?それとも、主なる神の御心を求めて、それに従うかどうかによって、その後の生き方が大きく違ってきます。

 ルツは姑ナオミに対する愛と信仰に立って、ナオミについて行くことを決断しました。

その結果、主に祝福され、新たな希望が与えられました。有力な親戚のボアズと再婚しその孫にダビデが誕生し、救い主イエス・キリストの系図に彼女の名前が記載されることになったのです。(マタイ1:5~6)

何と素晴らしいことでしょう。

「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」 (コリント第一13:13)                     (牧師:北林行雄記)

信仰の生涯 ヘブル人への手紙11:1   (N兄召天記念礼拝)

私がN兄(教授)に最初にお目にかかったのは、今から27年前の1993年8月でした。当時私は県内のある企業の研究開発部門の責任者でした。富山県内の大学の先生方との技術交流会を持たせていただき、富山大学からも電子、機械、金属、化学、情報分野の教授が参加して下さいました。その時、N教授もご出席下さり、日立製作所の中央研究所におられたことをお聞きし、私もカナダの神学校に留学する前、12年間日立製作所の日立研究所に勤務しておりましたので、お互いに話が弾み、以後26年間大変親しくさせて頂きました。よく家内と共にご夫妻を訪問させて頂き、和やかな時を持たせて頂きました。

 N兄は誠実で温厚な方でした。音響技術や音声認識の専門家で、日本音響学会の佐藤論文賞を受賞された方です。私は地元の会社を辞し富山聖書教会の開拓を始めた頃に、N先生の研究室に籍を置いて、音声認識に関する博士論文をまとめさせて戴きました。先生には大変お世話になり心から感謝しております。

 ある時N教授から、「実は自分もクリスチャンで、高校生の時に信仰を持って洗礼を受けた。」とお話になられました。N教授は教師をされている親の元で厳しく育てられ、優等生であったと伺っております。高校生の若い多感な時に、机に向かっても心の中から雑念や不純な思いが沸き出て来て勉強に集中できず、大変悩まれたそうです。その解決を図るために教会の門を叩き、聖書を真剣に学ばれるようになられました。

 マルコの福音書7章18~23節に、イエス・キリストが「外から人に入って来るもの(食物)は人を汚すことは出来ません。しかし、人から出て来るもの、それが人を汚すのです。

内側からすなわち、人の心の中から悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、妬み、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」と言われました。

 使徒パウロは熱心に旧約聖書の律法を守ろうと努力しました。しかし、自分の体の中にしみついている罪、「自己中心的な思い」があって善をしたいと願っても,それとは逆な行動をとってしまう。自分は本当にみじめな人間だと告白しました。そしてこの死の身体から救い出すことができるのはイエス・キリスト以外にないことを発見しました。

N兄もこのことに眼が開かれてイエス・キリストを自らの救い主として信じられたのです。そして、1953年9月24日宇都宮の教会で洗礼を受けられました。

進学や就職で上京後、諸事情があって教会には行かれず、富山に来られてから60年ぶりに教会に戻って来られました。

2012年6月10日に奥様のA子姉妹の洗礼と同時に富山聖書教会のメンバーとして入会されました。日曜礼拝の時はいつもご夫妻が並んで最前列で聖書の話を真摯に聞いておられた様子をよく覚えております。

 N兄は聖書を愛読しておられました。聖書は世界のベストセラーです。天地万物の創造主である神様から私たち人間に送られたラブレターでもあります。

 私は聖書を読むと、いつも励まされます。神の愛の大きさに感動し、生かされていることの喜びに満たされるからです。

ヨハネの福音書3:16

「神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに世(私たち人間)を愛された。それは御子(イエス・キリスト)を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

神は私たち人間を救うために一人息子のイエス様を十字架にかけられたのです。イエス・キリストは罪のない正しい方です。その方が私たち人間の身代わりに十字架にかかって、私たちの罪を贖ってくださいました。それ故、イエス・キリストを信じる者の罪が許されて、私たちは滅びることなく、永遠のいのちを持つことができるのです。N兄は地上生涯を閉じられましたが、永遠のいのちが与えられていますので、私たちは天国にて、N兄と再会することができます。素晴らしい希望があるのです。

 N兄はいつも奥様のA子姉を気遣っておられました。A子姉は本来快活な方ですが、スモン病による不自由な体で大変つらい思いをされていました。そのA子姉がイエス・キリストを信じて洗礼を受けられた時、N兄は本当に喜ばれました。

その後N兄は息子さんの救いのために祈られるようになりました。本当に家族思いの先生でした。

 N兄は、高校生の時に信仰を持たれ、86歳で召天されるまで信仰の歩みを全うされました。まさしく、信仰の人でした。私たちはN兄とはしばしの別れを致しますが、やがて天国で再会できることを楽しみに期待しております。

ヘブル人への手紙11章1節

 「信仰は望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」

                          (牧師:北林行雄記)

父なる神の十字架の計画 マルコの福音書12:1~12

イエス・キリストがエルサレムに到着されると、祭司長たち、律法学者たち、長老たちがやってきました。そこでイエス様は「あるぶどう園のたとえ話」をされました。

マルコの福音書12章1~2節

「ある人がぶどう園を造った。垣根を巡らし、踏み場を掘り。見張りやぐらを立て、それを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので,ぶどう園の収穫の一部を受け取るため、農夫たちのところにしもべを遣わした。」

 ところで、ぶどう園を造るには数多くの労苦が注がれなければできないことです。

先ず、ぶどうが育つ畑作りが必要です。テラロッサと呼ばれるぶどうに適した上質の土がありますが、その土に混在している岩や石を取り除きます。次に、取り除けた石や岩で、畑を囲う垣を巡らします。その垣に茨などを垂らして,山羊などの動物が畑に入れないようにします。続いて、見張りやぐらを建て、酒ぶねを掘って収穫に備えます。最終的に、ぶどうの木を植えて収穫するまでに少なくとも2年、普通は4年ほどかかります。

 これほどに苦労して建設したぶどう園を農夫たちに貸して主人は旅に出ました。大変な苦労を考えれば、主人がぶどう園の収穫の一部を期待することは当然なことです。

 ところが、農夫たちは、主人から遣わされたしもべを打ちたたき、何も持たせないで送り返しました。その後、主人は何度も別のしもべたちを遣わしましたが、しもべの頭を殴って辱めたり、打ちたたいたり、殺したりしたのです。

 主人は最後の手段として愛する一人息子を遣わしましたが、彼らはその息子をとらえて、殺し、ぶどう園の外に投げ捨てました。

彼らは一人息子を見て「あれは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる。」と考えたからです。

イエス様はこのたとえ話の最後に「ぶどう園の主人はどうするでしょうか。やって来て、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるでしょう。」(マルコ12:9)と結ばれました。

 このたとえ話の、「ぶどう園の主人」は天地万物の創造者、主なる神であり、「ぶどう園」は神が創造された自然界や全人類です。また、「農夫」は神の特別な教え“十戒“を受けてそれに養われた人々、つまり、ユダヤ人であり、その指導者たちの事です。

マルコの福音書12章12節に「彼ら(祭司長たち、律法学者たち、長老たち)はこのたとえ話は自分たちを指して語られたことに気付いたので、イエスを捕えようと思ったが、群衆を恐れた。それでイエスを残して立ち去った。」とあります。

なお、マルコの福音書12章10~11節はイエス様が詩篇118篇22~23を引用されて、ご自分が「家を建てる者たちが捨てた石」となり、たといユダヤ人の指導者が反対し、見捨てても、主なる神はご自分を新しいイスラエルを建設するための「礎の石」とされることを表明されたのです。

 イエス・キリストの十字架の死と復活がここに暗示されているのです。

 ぶどう園の主人は愛するひとり子が殺されることが判っていても、何故あえて一人息子を農夫たちの元に遣わされたのでしょうか?

私は一人息子が小学校に入学するや否や近所の6年生にいじめられて苦しんでいる子を見て本当に悩みました。そのいじめは執拗で、その上級生が県外の大学に行くまで約7年も続きました。

そのため、心に大きな傷を負った我が子が回復するまでに、小学1年から高校3年までかかりました。本当に長い苦難と忍耐の時でした。

我が子を虐待されて殺されることは親にとって耐えがたい悲しみであり苦しみです。

たとえそうであっても、主なる神は罪人を救うために愛するひとり子を犠牲にされたのです。 神のひとり子イエス様は罪のない方です。 罪のない方が罪人の身代わりとして死んで下さらない限り、人類の救いはありません。イエス・キリストの十字架の死と復活はそのためにあるのです。

 神は愛です

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し宥めの捧げものとしての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネの手紙第一4:10)

 神の愛に感謝して、皆さんの家族や親しい人々の救いのために祈り、福音を伝えていきましょう。            (牧師:北林行雄記)

神が一番願っておられる事 ヨナ書4:1~11

ヨナは旧約聖書に出て来る預言者で、紀元前800~750年頃に活動しました。あるとき彼は主なる神から、「立ってあの大きな町ニネベに行きこれに向かって叫べ。彼らの悪が私の前に上って来たからだ。」との命令をうけました。ニネベはイスラエルの東にある強国アッシリヤの主要都市ですが、ヨナはニネベの反対方向にあるスペインのタルシシュ行の船に乗って逃亡しようとしました。

そこで、主は大風を海に吹きつけられたので、激しい暴風が海に起こり、船は難破しそうになりました。船長はじめ乗組員たちは誰のせいでこの災いが来たかを調べるためにくじを引くと、ヨナに当たりました。ヨナは陸と海を造られた主の御顔を避けて逃れようとしたと正直に白状しました。そして、自分を荒れ狂う海に投げ込んだら海が静まると伝えてそのようにしてもらうと、海は静まって凪になりました。

憐れみ深い主は、大きな魚を備えてヨナを飲み込ませられたので、彼は三日三晩魚の腹の中で過ごしました。ヨナは祈りながら自分のいのちが助けられたことを感謝し、罪を悔い改めて、主の指示に従うことを決断しました。魚の腹から吐き出されたヨナに主は再び「立ってあの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げる言葉を伝えよ。」と命じられました。ヨナは主のことばに忠実に従って、ニネベの町を巡って、「あと40日すると、ニネベは滅びる。」と叫び回りました。すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ身分の高いものから低いものまで荒布をまといました。

ニネベの王も王服を脱ぎ捨て荒布をまとい、灰の上に座りました。そして、ニネベの全住民に向けて「人も家畜も、牛も羊も皆、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。人も家畜も荒布を身にまとい、ひたすら神に従い、それぞれ悪の道とその横暴な行いから立ち返れ」と布告しました。主なる神は彼らが悪の道から立ち返ったことをご覧になり、彼らに下すといった災いを思い直し、それを行われませんでした。

このことをヨナは不愉快に思い、怒って、主に祈りました。ヨナ書4章2~3節「ああ、主よ。私がまだ国にいた時に、このことを申し上げたではありませんか。それで私はタルシシュへ逃れようとしたのです。あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、災いを思い直される方であることを知っていたからです。ですから、どうか今私のいのちを取って下さい。私は生きているより死んだ方がましです。」

ヨナにとって大国アッシリヤは自国イスラエルを脅かす敵国ですから、その主要都市ニネベが滅ぼされることを望んでいたかもしれません。それが主の憐れみによって裁きがなされず、しかも、40日するとニネベが滅びると予言したことも実現せず偽りの預言者と非難されることで、心の中が怒りで満ちていたからでしょう。

主なる神はヨナに憐れみをかけ、一本の唐ゴマを備えて、彼の上を覆うように生えさせ、それを彼の頭の上の陰にして、ヨナの不機嫌を直そうとされました。ヨナはこの唐ゴマを非常に喜びました。

しかし、主は翌日の夜明けに一匹の虫を備えられ、虫がその唐ゴマを噛んで唐ゴマは枯れてしまいました。そのため、ヨナの頭に太陽が照り付けたので、ヨナは弱り果てました。このことを通して主なる神は大切な教訓をヨナに教えられます。

ヨナ書4章10~11節

主は言われた。「あなたは自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐ゴマを惜しんでいる。 まして、わたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられようか。 そこには、右も左もわからない12万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」

ヨナは自己中心的な思いから、自国の事や自分の事だけを考えて、結果が期待していたものとは異なったので怒っていました。

一方、天地万物の創造者なる神は、ニネベに住む12万人以上の人々の救いと、数多くの家畜のいのちを守ることを考え、そのことの重大性をヨナに教えられました。

原罪を持ったままで生涯を閉じれば、その終わりは”永遠の裁き“で〝火の池”に投げ込まれるのです(黙示録20:14~15)。生まれながら原罪を持った人間を救うために、神の御子イエス・キリストを十字架にかけられたのです。罪のない方が罪ある者の身代わりとなって死に、3日目によみがえり、人が救われる道を準備して下さったのです。神はこのような大きな愛の御業をなされたのです。そのことによって、イエス・キリストを自らの救い主と信じる人は誰でも救われるのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3:16)

皆さん、主なる神の測り知れない愛の御業に感謝し、愛する家族や友人、知人の救いのために祈り、喜んで福音を伝えて行きましょう。

                      (牧師:北林行雄)

信仰による祈りの力 マルコの福音書11:20~25

主イエス・キリストは弟子たちを連れてエルサレムに入り、白昼、そこで活動されて夕方には郊外のベタニヤに行って休まれました。翌日、ベタニヤを出られたとき、イエス様は空腹を覚えられました。その時、葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれましたが、葉の他に何も見つかりませんでした。

そこで、イエス様はその木に向かって「今後いつまでも、誰もお前の実を食べることがないように」(マルコ11:12~14)と言われました。

 この記事に関して、いちじくの実がならない季節なのに、イエス様は実がないと言っていちじくの木を呪うこと自体がおかしいと思う人がいるでしょう。

 では、何故イエス様は、いちじくの木を呪われたのでしょうか?

それは、空腹を覚えられた機会を利用して、弟子たちに教訓を与えようとされたからです。

 その日の翌朝、イエス様一行が同じ道を通りかかりました。

すると、イエス様が呪われたいちじくの木が根元から枯れていたのです。(マルコ11:20)それを見たペテロは直ぐに思い出してイエス様に「先生、ご覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が枯れています。」と言いました。そこで、イエス様は、この機会を利用して ”神を信じる信仰の重要性“ を説明されました。マルコの福音書11章22~23節に次のように書かれています。

イエスは弟子たちに答えられた。

「神を信じなさい。まことにあなたがたに言います。このに向かい『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者にはそのとおりになります。」

当時の社会では、”山” は困難なことを象徴して用いられました。”山が動いて海に入る“とは、不可能と思われていた難しい課題が解決することを意味しています。

大切なことは、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると固く信じて神に祈ることです。祈りは神に対する信頼の現れです。

「ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすればその通りになります。」(マルコ11:24)

さらに、イエス様は「立って祈っているとき誰かに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば天におられるあなたがたの父もあなたがたの罪を赦してくださいます。」(マルコ11:25)と言われました。

神の前に立って祈るときは自分の罪を認めて、神からの赦しを求めなければなりません。自分の罪の赦しを求めるなら、当然、他人に対する恨みがあってもそれを赦してあげなければなりません。

最後に聞かれる祈りとはどのような祈りか考えてみましょう。新キリスト教辞典(いのちのことば社)に “聞かれる祈り” の条件として以下の7項目があげられています。

  • 神のみこころにかなう。
  • 主イエスキリストの御名によってささげられる。
  • 御霊によってささげられる。
  • 粘り強さ、挫折せずに、夜昼いちずに、熱心に求める。
  • 心を合わせる。大勢であれば一同が一つ心になって祈る。
  • 不義を離れ、悔い改める。
  • 幼子のように求める。疑いを交えず、確信を持って祈る。

私たちの教会は現在、新会堂建設という課題を持っています。

この地域は、神社,仏閣があちこちにありますが、教会が一つもない所でした。25年前から開拓し、新たなクリスチャンが徐々に導かれ、一つの群れができました。長い祈りの中で主なる神が答えてくださり4年前に187坪の会堂用地を購入することができました。2年前から新会堂建設計画を開始し、概略の設計図も完成し、建築業者も決まりました。

 開拓当初はキリスト教と言えば異端扱いをされ排除されることが多かったです。しかし、最近では新会堂建設に理解を示し、期待を寄せてくださる地域の方々も現れました。これまでの歩みを考えるならば、私たちの教会にとって新会堂建設は主の御こころであると確信いたします。更に、新型コロナウイルス感染予防としてソーシャルデイスタンスを確保する上で広い会堂は喫緊の必要です。 今、残された課題は会堂建設資金です。すでに、目標の3,500万円の80%の資金が与えられました。あと700万円が何とか与えられるように、何の疑いも持たずに信仰を持って主なる神に祈り求めて行きましょう。そうすれば必ず与えられるのです。

「ですからあなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、その通りになります。」

ホームページをご覧の皆様、是非、新会堂建設のための熱きお祈りとご支援を宜しくお願い申し上げます。皆様の上に主の豊かな祝福がありますようお祈り致します。

                (牧師:北林行雄記)

「互いに仕え合うこと」マルコの福音書10:35~45

イエス・キリストはエルサレムに上られる途上で、弟子たちをそばに呼んで近い将来、自分の身に起こる十字架の道と苦しみについて、次のように予告されました。

「私はエルサレムに上って行きます。そして、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子(イエス様ご自身)を死刑に定め、異邦人に引き渡します。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、鞭で打ち殺します。しかし、人の子は3日後によみがえります。」(マルコ10:33~34)

 しかし、 弟子たちはこの予告を聞いても、その中味を全く理解していませんでした。

 ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが主イエスのところにやって来て、「先生。私たちが願うことを叶えて頂きたいのです。あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」(マルコ10:35,37)と頼みました。 この二人は、民衆の人気が急上昇しているイエス様がこれからいよいよ栄光の道を歩まれ、神の都エルサレムで王座に着かれる方だと思い込んでいました。そして、その時は自分たち兄弟が右大臣、左大臣の高い位に着けてもらいたいという身勝手な思いから言ったのでしょう。

彼らに対して、イエス様は次のように言われました。

「あなたがたは自分が何を求めているのか分っていません。しかし、わたしの右と左に座ることはわたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」(マルコ10:38,40) 

ヤコブとヨハネの発言を聞いた他の10人は2人に腹を立て始めました。彼らも二人と同じ自己中心的な人間であり、イエス様のことは全く判っていませんでした。

そこで、イエス様は弟子たちを呼び寄せて、次のように言われました。

「あなたがたも知っている通り、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は皆のしもべになりなさい。」(マルコ10:42~44)

 この教えはこの世の支配者とは全く別の生き方であり、”人々に仕える生き方“です。この生き方の原点はイエス・キリストご自身にあります。イエス様は「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、多くの人のための贖いの代価として自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコ10:45)と言われました。

このお言葉通り、イエス・キリストは私たち人間を罪の裁きから救うために実際に十字架にかかって死んで下さり、3日目に死から復活されました。神の御子キリストご自身が“しもべ”として生きる奉仕の模範を残されました。

「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵の良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。」(ペテロ第一4:10)

私たちの信仰が健康に成長していくためには、奉仕が必要です。各自に与えられている賜物を用いて、互いに仕え合い、主なる神が望まれる奉仕をすることによって、私たちの信仰と教会は、健全な成長ができるのです。さらにその奉仕を通してイエス・キリストの十字架の贖いにみられる愛の大きさに感動し、主の御用のために用いられた充実感と感謝、喜びが増し加えられるのです。

皆さん、イエス・キリストの愛に満たされて、兄弟姉妹がお互いに仕え合いましょう。

また、実社会においては、困った人たちを助け、その人のためにイエス・キリストにあって祈ってあげましょう。

皆さんの上に主なる神様の豊かな恵と祝福がありますように。

                   (牧師:北林行雄記)

「主はあなたを守って下さる」詩篇121:7

詩篇121篇はエルサレム神殿への巡礼者が歌ったものと言われています。

エルサレムはユダヤの山地の上に建てられた町で、海抜約800メートル、地中海から約50kmの位置にあります。西は切り立った山地、東はユダの荒野に囲まれ,北側を除き周辺は険しい崖となっており、海からも川からも接近することは容易なことではありません。

ソロモンとヘロデが建てた神殿はモリヤの山の上に建てられており、そこは、アブラハムがイサクをいけにえとして捧げようとした場所です。

 ここに、世界各地から大勢の巡礼者が訪れました。長期間の巡礼の旅で病気になり死にそうになる人々も少なくありませんでした。

 このような状況の中で、詩篇作者は「私は山に向かって目を上げる私の助けはどこから来るのだろうか。私の助けは天地を造られた主から来る。」(詩篇121:1~2)と宣言しました。

主は天地万物の創造者なので自分のすべてを御存じですから、どんな環境の中に置かれても彼は主によって必ず助けられると確信していました。

3節から主語が「私」から「あなた」に変わりますが、これは巡礼者たちが交互に歌う、いわゆる交唱形式をとったものです。

「主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方はまどろむこともなく、眠ることもない。」(3~4節)これはイスラエルの民が出エジプトするときに主は寝ずの番をして、彼らを守って下さった歴史的な事実から出た言葉です。(出エジプト12:42)

 続いて、5節では「主はあなたの右の手をおおう陰」と歌いました。

「陰」は一般的に”守護“(守り)を表し、「右手」は”利き腕“を表すので、「右手を覆う陰」は戦うための利き腕を主がいつも守って下さるということです。つまり、どんな状況の中にあっても、常に主の守りがあることを意味しているのです。

 さらに、「昼も日があなたを打つことがなく、夜も月があなたを打つことがない。」(6節)と続きます。日中の強い日差しによる日射病や夜の月が原因で起こる“てんかん”などの危険がありますが、主の守りによって巡礼者は守られるのです。

 私は先週新聞を読んでいて、「コロナ禍、失業者に支援届かず。三重から東京野宿し転々」という記事が目に留まりました。新型コロナウイルス感染拡大で、仕事や住まいを失った人に、充分な支援が届いていない現状を表すものでした。三重県桑名市の自動車工場に就職し入社研修を受けたばかりの青年が4月中旬に上司から突如、「悪いけど雇えなくなった。コロナで仕事がないんだ。」と言われ解雇された。

彼の所持金は数千円、仕事も貯金も住む所もない。しかも、家族にも頼れない。市役所に行って相談するも、期待する援助が得られず、三重から東京まで、電車を乗り継ぎ、夜は公園や駅前で野宿してやっとの思いで地元、東京までたどり着いたとの報告です。彼は行政への不信感が募り本当に困ったときに誰も助けてくれない悲惨さを味わいました。

 政府は経済発展ばかりを重視してきましたが、人間の心を大切にしてこなかった。そのため、コロナ禍の影響で益々人々の愛が冷え、本当に助けを必要とする人が無視されるようになっています。残念なことです。このような中で本当に私たちを助けてくださる方は誰かが明らかになるのです。

詩篇作者は力強く言いました。

私の助けは天地を造られた主から来る。(2節)

主はすべてのわざわいからあなたを守り、あなたのたましいをを守られる。(7節)

主はあなたを行くにも帰るにも今よりとこしえまでも守られる。(8節)

主は真実な方で、私たちの全生活を守って下さる方です。

皆さん、そのことを心から感謝してお互い助け合い、お互いのために祈っていきましょう。

                      (牧師:北林行雄記)

聖書の教えの中心 マルコの福音書12:28~34

律法学者(旧約聖書に精通した律法の専門家)たちは、人々の人気が高いイエス・キリストを罠にかけようとして、意地悪な質問を立て続けに投げかけてきました。それに対してイエス様は見事に答えられました。

その議論を聞いていた律法学者の一人が、「すべての律法の中でどれが一番大事ですか。」とイエス様に尋ねました。これは聖書の中心に関わる重要な質問です。

 イエス様は次のように答えられました。「一番大事なのはこれです。聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4~5引用)。

 ここで「愛する」は聖書の原点ギリシャ語のアガペーが使われています。

この言葉は「愛されるもののうちに、その理由が見いだされ得ない愛」と言われ、神の愛のことです。つまり、生まれながら原罪を持つ私たち人間を救うために、神の御子イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さった事実に表された愛のことです。すなわち、大きな犠牲を払ってでも相手のために尽くす、”犠牲的な愛“です。

 この素晴らしい愛を示されたあなたがた自身、心といのちと知性と力、あなたの持てる物すべて、全身全霊であなたの神、主を愛するべきなのです。これが第一のポイントです。

 続いてイエス様は「二番目に大切なことはあなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。これらよりも重要な命令は他にありません。」と言われました。

私たち人間は皆生まれながら、“自分が可愛い“、”自分を愛する“ 自己中心的な性質を持っています。

しかし、他人に対しては、好みの人もあれば嫌な人もいます。当然の感情でしょうが、ここでは、「隣人を愛しなさい」の愛もアガペーが使われています。

たとえ、自分に意地悪をする嫌な隣人であっても犠牲的な愛を持って、「あなた自身のように愛しなさい。」と命じられているのです。これは簡単ではないと思います。でも、イエス様のことを思い浮かべたら出来るようになるのです。

私たちはこれら二つの大切な教えを実践していく必要があります。聞いて頭で理解しただけではだめなのです。

 そこで、どのように実践すべきかこれから説明します。

  1. 実生活の中で、第一にすべきことは神との関係です。

主日礼拝や日々のデボーション(聖書の学びと祈り)、奉仕、献金等をあなたの信仰生活の柱とするようにしましょう。先ず神様との関係をしっかりしたものにすることが大事です。

2.家庭や学校、職場など他者との関係において、まず自分自身が神に愛され、生かされていることを感謝し、他の人を思いやる気持ちを持って、相手が必要とすることを自然体で無理なく行えるように努力しましょう。

 イエス様の説明を聞いた律法学者は「先生その通りです。『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、隣人をあなた自身のように愛する』ことはどんな全焼の「いけにえや供え物よりも、ずっと優れています。」と答えました。

当時のイスラエル人の中では供え物をどれだけするか重要視されていました。しかしこの律法学者はイエス様の教えに感動してこう答えたのでしょう。イエス様は彼が賢い返事をしたのを見て「あなたは神の国から遠くない。」と言われました。この律法学者は神の国に近づいたのです。あとは二つの大切なことを実践するだけです。

 最終的に、天の御国に入るために最も必要なことは何か、お判りになったと思います。

今朝学んだ大切な二つの教えをしっかりと実践していきましょう。

                       (牧師:北林行雄記)

「神の国に入るには何が必要か」   マルコの福音書10:17~27

 イエス様が道に出て行かれると、一人の人が駆け寄って、主の前に跪いて尋ねました。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたら良いでしようか?」と。

 この人はお金持ちで、才能もあり、前途有望な青年の役人でした。(マタイ19:22、ルカ18:18参照)

この質問に対して、イエス様は「なぜ私を『良い』と言うのですか。良い方は神お一人のほか、誰もいません。戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」と旧約聖書(出エジプト20:12~17)の十戒の後半部の言葉を述べられました。

すると、この青年は「先生。私は少年の頃から、それらすべてを守ってきました。」と答えました。確かに彼は品行方正で、自信を持ってこれまで生きてきたのでしょう。

そこで、イエス様は彼を見つめ慈しんで次のように言われました。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物全てを売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。その上でわたしに従ってきなさい。」(マルコ10:21)

この青年役人は多くの財産を持っていたので、イエス様の言葉を聞いて顔を曇らせ、悲しみながら立ち去りました。彼は永遠のいのちを望んでいましたが、それ以上に財産を大切にしたのです。彼の求道心は何を投げ打ってでもそれを得たいというものではなく、今自分が

大切にしているものを侵害しない範囲で永遠のいのちを求めただけでした。このような求め方では永遠のいのちを得ることすなわち神の国に入ることは出来ません。

 主イエスは財産を一銭も残さずに貧しい人々に分け与えない限り人は救われないといわれたのではありません。人の心の中心の座にお金や財産が有りそれが絶対的な偶像のようなものになっていたら、真の信仰も芽生えず、その人の救いはないということです。

 それでは人は何をすれば永遠のいのちを得ることができるでしょうか。「人には出来ないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。」と主イエスは言われました。

私たち人間は生まれながら自己中心という原罪を持っていますので、律法を完全に守ることは出来ません。

それができる方は罪のないイエス・キリストだけです。

イエス・キリストは私たち人間を救うために十字架にかかり死んで三日目に蘇られました。

それによってイエス・キリストを自らの救い主と信じる者は、その信仰によって救われ、永遠のいのちを持つことができるのです。

つまり、私たち人間が救われる唯一の道は、イエス・キリストを自らの救い主と信じて受け入れることです。

「あなたがたは恵みのゆえに信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく神からの賜物です。」(エペソ2:8)

さらに、信仰を持ってクリスチャンとして歩んでおられる皆さんにお伝えします。

 新型コロナウイルスの感染拡大によって人々が自分の身を守ることに心を注ぎ他の人に対する愛が冷えている傾向が全世界に見られます。

私はかつてアメリカに住んでいるとき教会の人々は移民や貧しい人、弱者を率先して助けました。しかし、最近では黒人や病気の人は見捨てられ、社会的な格差は増大しています。

日本でも感染者に対する中傷、誹謗のため社会復帰が困難な人たちもいます。

 このような時こそ私たち人間の本当の救いはどこから来るのか、主イエスの十字架の贖いに目を留め、神の愛に満たされて、イエス・キリストにある信仰の歩みを全うしましょう。何を食べるか何を飲むか、何を着るかなどと言って心配することはやめましょう。

「まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはすべてそれに加えて与えられます。(マタイの福音書6:33)

                  (牧師:北林行雄記)