罪に死んで神に対して生きる者~ローマ人への手紙6:4~11

先日、テレビのサスペンス番組を見て、人間の弱さ、罪深さを改めて考えさせられました。一人の女子高生が男子生徒に恋文を送ったが、男子生徒はそれを机の中にしまっておきました。その同級生の悪ガキ3人組がその様子を見ていて、恋文を探し当てて、女子生徒の指定した場所に行って、彼女をレイプしてしまいました。女子生徒は後に弁護士になり、虐待やレイプなどの被害者を助けるグループで働くようになりました。一方、彼女が恋文を送った男子生徒は刑事になり、悪ガキ3人組のひとりが国会議員になりました。女子生徒は弁護士として困った人を助ける働きをしていますが、高校3年のときにレイプされたことが時々思い出されて悩み、悪ガキ3人組みを憎んでいました。ある時、悪ガキ3人組の二人が殺害され、国会議員ひとりが残される事件が起こり、刑事になった同級生が捜査に当たりました。そして、国会議員が狙われていることが判り、その議員の周辺を捜査するにつれて、弁護士の事件への係りが見えてきました。彼女が活動していたグループの女性とその子どもが家族旅行中に交通事故で死亡しました。実は、その事故は悪ガキ3人組の車が引き起こしたものでしたが、国会議員が乗っていたこともあり、当時の警察が十分に調査もしないで、運転していた男性による交通事故として処理していました。死亡した女性の夫が飲食店の経営者で、交通事故を起こした3人組を恨んでおり、残った国会議員も殺害しようとしていました。その議員が殺されそうになったとき、刑事が犯人の男性を捕らえ、更なる罪を犯さないようにし、国会議員をひき逃げ犯容疑で逮捕しました。
また、弁護士は直接手を下しませんが、殺人犯擁護の罪で逮捕されました。このように人の心に受けた深い傷は容易に解決されるものではありません。どうしたら、完全に解決できるでしょうか。
聖書の中に真の解決法を発見できます。すべての人間は生まれながら罪人です(マルコ7:20-23)、どんな学問や修行によっても罪から離れることができません(ローマ7:15-20)。そのためにイエス・キリストが、私たち人間の身代わりとなって十字架にかかって死に、三日目に死からよみがえられたのです。それゆえ、自分の罪を悔い改め、イエスを信じて主と告白する人は誰でも救われて(ローマ10:9)、「罪に対して死に、神に対して生きる者となる」のです(ローマ6章4, 11節)。
それでは、“罪に死に、神に生きる“とは具体的に何を意味するのでしょうか。「キリストに接ぎ合わされ」(ローマ6:5)、しっかりと結びつくことによって、人間の欲望やサタンの誘惑に負けない心に変えられ、”神の国と力“(神の支配)が自分の生活の中に生じることです。
接木された枝が台木の根や幹から栄養分を吸収して、継ぎ目が判別できないほど成長するように、皆さんの心が開かれて、“神に対して生きよう”と意識改革をすれば、最初は変化が無いように見えても、やがてキリストに似た姿に成長することができるのです。

ーーーざわつき

ー 人は順風の時は心穏やかなものです。ですからその時の信仰も穏やかなものです。しかし信仰は穏やかなときばかりでなく、何か苦難や試練、いや苦難や試練と感じているときはまだ余裕があるのかも知れません。そういう余裕さえ持てない苦痛を味わった時こそ、信仰の意味、愛の意味について聖書から学ぶことが大きいのです。分かりますか?

ー 苦痛や不条理な目に遭っているとき、信仰の意味なんて考える暇あるかしら?ただその苦痛やら不条理やらを現実として跳ね返す力をこそ必要とするのじゃないかしら?

ー そうですね。お気持ちは分かりますよ。それはそうでしょうとも。しかしですね、その時私たちは復讐することですっきりするでしょうか?そこに新たな罪が生まれるとは思われませんか?悪い奴はやっつけられて当たり前、それだからこそ神の存在があるとでも?

ー むつかしいことは分かりませんが、しかしそうでなければ世の中不公平だし不条理のままではないですか?!

ー 勧善懲悪!そうであれば、私たちはスッキリしますよね。それは私も否定はしません。誰だって悪い奴がのさばっていて、いい感じはしませんものね。しかし、翻って悪い奴はその報いを受けて当然と思う気持ちは善でしょうか悪でしょうか?誉められるに値することでしょうか?そこに罪はないでしょうか?それは神の義でしょうか?

ー 理屈はどうか分かりませんが、悪い奴は悪い。責めて当然だとやはり思いますよ。そうでなければ世の中悪ばかりがはびこるではないですか?

ー 人を責めるのは楽です。しかし、責めたてたら悪がはびこらなくなるでしょうか?相手を責めなければ損だと思う気持ちが蔓延した世の中は平和で良い世の中と言えるでしょうか?寧ろ、世の中を少しでもよくすることは、責める自分を顧みることの中にこそ生まれるのではないですか?イエスは悪い奴に罰を与えなさいとはおっしゃいませんでした。7回赦せばいいのかの問いに7の70倍赦しなさいと言われました。また、あなたの敵を愛しなさいと言われました。この言葉の意味を私たちは深く味わわなければなりません。真の信仰はそこから生まれるのだからです。

ー そうですね。正直まだよく理解できたとは言えませんけど、今の言葉でなんか心がすごく穏やかな気持ちになりました。そのことは素直に告白します。ところでちょっとお訊ねしますけど、私、ときどきうちの人をからかったり、おちょくったりしますけど、それは罪ではないですよね?だって、そうした時、私の心が穏やかになりますし、スッキリしますもの。ちょうど今のお話を聞いた時の様に・・・。

ー あ、そうですか?気持ちが似たものにねぇ・・・。ただ、ご主人がいささかお気の毒な気もいたしますが(^_^;)

主が示された新たな使命~ヨハネの福音書20:19~23

週の初めの日、すなわち、主イエスが復活された日の夕方、主は弟子たちの前に姿を現されました。弟子たちはユダヤ人を恐れて、家の戸はいつも鍵がかけられていましたが、主イエスは自由に入ってくることができました(ヨハネ20:19)。死から復活された主イエスのからだは物体の影響は受けない霊の身体でした。その姿は弟子たちがよく見慣れたもので、しかも、主の手と脇腹に十字架の傷跡がありました(同20:20)。
実は、主イエスが捕らえられたとき、弟子たちはイエスを見捨てて逃げてしまいました(マタイ26:56)。それで、彼らは叱責されるのでないかと恐れていたと思います。しかし、主は彼らの真ん中に立って、「平安があなた方の上にあるように」と言われ、手と脇腹を示されました。そこにある傷跡は正しく十字架刑による傷跡であり、自分たちの罪の贖いのために付いたものだと弟子たちは直ぐに判ったでしょう。主イエスは弟子たちの失敗も、彼らの罪も赦してくださっているのです。それゆえ、この平安は“神の赦し、神との和解の平安”です。
続いて、主は「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしはあなたがたを遣わします。」と言われました(同20:21)。罪を赦され、神との平安を得た者は自分たちが受けた恵みを他の人にも伝えること、すなわち、福音宣教の働きのために主イエスは弟子たちを派遣されました。その50日後に彼らの上に聖霊がくだり(使徒2:1)、エルサレムから始まり、全世界に向けて福音宣教の働きが進められていくようになりました(使徒1:8)。その働きの先頭に立って活躍した人々は主の弟子たちだったのです。

ーーーざわつき

ー 「父がわたしを遣わされたように、わたしはあなたがたを遣わします。」これは全世界に向けた宣教開始を告げられた言葉です。宣教には、いろいろなことがこれまでありましたし、挫折も腐敗も人の常としてありました。しかし、この世界へ向けての宣教宣言が、今このように私たちが、信仰を世界で多くの兄弟たちと分かち合えている根拠でもあるのです。主の復活を祝いましたが、それだけではだめです。大事なのはその後なのです。主の教えを伝えること。それも広く世界に向けてです。私たちはそのことを自覚しなければならないのです。

ー ま、確かにそうかも知れませんがですね。しかし、そう高飛車に言われてもですねぇ。使徒の様にこれから皆さんもなってくださいと言われても荷が重いですよ。正直。

ー あ、いや、そうですね。すべての人が使徒の様に動くべきと言っているのではありません。まずは、私たちはその使徒たちに感謝をして、自らの信仰を顧みるところから始められることでいいと思います。自らの信仰告白を自然のこととして皆さんの前に披歴するといいますかね。ことさらに構える必要はありませんし、何か重大なことを話すから聴きなさいと言わんばかりに、ムキになる必要もさらさらありません。日々の生活のワンフレーズとしてですね。少しずつ信仰の喜び、美しさのようなものを伝えて行ければいいのではないでしょうか?

ー あ、そうですね。信徒でない人に話すの最初ちょっと話しづらいというか、こっちの方で勝手に身構えてしまいがちですけど、日々の生活の体験やら、感じた信仰の喜びやらを話すことなら、抵抗ないかも・・・。

ー 大事なのは、あなた自身の言葉で話されることだと思います。誰かの請売りではなく、あなたの今思っていることをあなたの言葉で話すことです。でないと、相手に伝わりませんから。

ー なるほどぉ。でも私の教養も疑われないように、注意して話さないとねぇ・・・。

ー あ、ですからですね。どう思われるかではなく、どう思っているかを話すということです。飾りはいりません。飾りは、返って言いたいことの邪魔になります。

ー しかし、あまりストレートなのも子供っぽいでしょ?

ー 子供っぽいと言ったら語弊がありますが、素直にということは大事だと思いますよ。

ー 素直に飾らず、思ったままを・・・。う?それって難しいですぅ。

ー あ、そうですか。こ、困りましたねぇ(;^_^A

主イエスの復活~マタイの福音書28:1~10

私たち人間を救うために、主イエスは金曜日に十字架にかかり死んで墓に葬られました。週の初めの日(日曜)の早朝、二人の女性が主イエスのからだに香料を塗ろうと出かけました。すると、大きな地震が起こって墓の入り口の巨大な石は取り除けられ、中に入るとイエスの死体がありませんでした。主イエスはよみがえられたのです(マタイ28:1-7)。彼女たちは墓の入り口にある巨大の石があることも承知で、主イエスへの愛のゆえに、とにかく出掛けていきました、その結果、この素晴らしい復活のニュースを彼女らは最初に知ることができたのです。

次に、キリストの復活が持つ意味を考えてみましょう。

①復活されたということは、キリストは罪のない正しい方です(使徒2:14)。罪のない方が私たち人間の身代わりに死なれたのですから、私たちの罪の問題は解決されました(ローマ3:23-24)。

②キリストが眠った者の初穂として、死者の中からよみがえられたので、イエス・キリストを信じる者もよみがえることができるのです。

③キリストは生きておられます。今、肉眼で見ることができなくても、信仰者の心の中に働き、いつも励まし、支えてくださるのです。

本日は主の復活を記念する喜ばしい日です。皆さん、イースターおめでとうございます。

ーーーざわつき

ー イースターおめでとうございます。イースターは、イエスさまの復活を祝う日です。復活は、まさに私たちの救いの証でもあります。その意味はお分かりですか?

ー 分かるかと言われれば、分かるような気もするし、分かってないと言われれば、分かってないようにも思いますねぇ。

ー 正直でいいですねぇ。理屈で考えると、多分本当には理解できないと思います。いいえ、生き返りなんて実際はあり得ないからというのではありません。復活の意味が分からなくなるだろうと思うのです。復活の意味は、あの世での保証とかいうことではなく、今生きている私たちの希望であり、この世を生き抜く力だと思うのですよ。信仰をもって、勇気をもって、力強く生きていいんだという保証です。

ー あのぉ、おっしゃってる意味がよく分かりません。

ー あ、すみません。少し飛躍してしまいましたかね(;^_^A でも皆さんは信仰をもって間違いないし、自分を主に委ねて間違いないということです。その証が復活だということです。だから主に感謝です。

ー やっぱりよくわかりません。ただ、最初に言われた、理屈ではなくというのは、少しわたっかような気がします。生きるエネルギーのようなものとして、復活の意味を考えなさいと言うことですよね。

ー えぇ、そうです。ご理解いただいて感謝です。

ー でもそれって、やっぱり理屈じゃありません?エネルギーを言葉で説明するから理屈になるんですよ。なんかそんな気がするんですけどね。

ー 素晴らしい!よく理解なさってますね。これこそ復活(;^_^A

Easter2018

Happy Easter !

今年(2018)の教会のEaster記念行事は、昨年に引き続き、DVD鑑賞会となりました。今年のDVDは「天国からの奇跡」というタイトルの映画です。

幼い女の子が腸ねん転による癒着で、腸が機能しなくなるという難しい病気になり、その治療の効果もなかなか現れない中で、ストレスによる精神的治療を兼ねて自宅療養をしていた時、木登りをしていてそこから落下する事故に遭ったのです。しかし、そのことがキッカケで不思議と病が回復しました。まさに奇跡的な出来事でした。

その後、その女の子は両親に、落下で気を失っていた時のこと、どこからか病が治るという言葉が聞こえたのだと言いました。そのことが教会で証され、そのことは当時マスコミにも取り上げられました。これは実話に基づく物語です。

実際は落下によって腸ねん転が元に戻ったということなのでしょうが、それは名医であっても予想できないことでした。まさに神の技がそこに働いたと思われたことでした。そしてそのことは、この子の神への素直な信仰からきていることでもあると言えるでしょう。感動的でした。これを見たみんなが感動を覚えた映画でした。

映画鑑賞「天国からの奇跡」~ Easter 2018に寄せて

廣岡先生が正教師となられました!

白山めぐみキリスト教会の廣岡師が、正教師となられ、教団総会において按手礼を受けられました。

廣岡先生は、講壇交換でこの教会でもよく説教奉仕をして下さっていますので、私達にとっても本当に嬉しいことです。これからも、ますます御言葉の力ある取り次ぎ手として、私たちに福音のメッセージを伝えてくださることでしょう。心よりお祝い申し上げます。

おめでとうございます!

三度主を否んだペテロ~ルカの福音書22:54~62

イエス・キリストは真実で罪のない方です。自分がどんなに疲れていても、病で苦しんでいる人々を癒し、多くの奇蹟を行い、人々から尊敬されていました。この方の人気が上がるにつれ、当時の支配階級から警戒され、妬まれて、最終的に十字架刑に処されました。
大祭司や民の長老たちから差し向けられた多くの群集によって、イエス・キリスト(以下、主イエスと記載)は逮捕されました。主イエスが、祭司長カヤパの家で尋問されている時、弟子の筆頭ペテロもその家の中庭に入り、事の成り行きを伺っていました(ルカ22:54~55)。その時、女中から「あなたは、イエスと一緒にいた」と問われると、即座に否定し、別の2人の質問も加えて三度否定しました。しかも、三度目はのろいをかけて誓ってまでも「イエスを知らない」と否定したのです(マタイ26:74)。何故ペテロは主イエスを三度までも否定したのでしょうか。彼は主イエスを愛し、心から尊敬し、主イエスの弟子であることを誇りとしていましたが、目に見えない恐れから否定してしまったのでしょう。
しかし、主イエスはペテロの否認を予め判っておられました。三度の否定の後直ぐに鶏が鳴くと、「主が振り向いてペテロを見つめられました」(ルカ22:41)。主の眼差しは叱責ではなく、ペテロへの憐れみの眼差でした。以前、主イエスはペテロに次のように言われました。「わたしは、あなたのために祈りました。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(同22:32)。確かに、三度の否定はペテロにとって非常にショックで、悲しいことでしたが、その後、復活された主に再会して、ペテロは大きく変えられ、忠実な使徒になりました。苦しみに会い、挫折を経験することは、その人の人生にとって非常に有意義なものです。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)。

ーーーざわつき

ー この出来事はすべての福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)に書かれていますから、事実として当時から広く伝えられていたことなのでしょうね。ところであなたはこのペテロさんをどう思われますか?

ー そりゃぁまぁ、男としてカッコ悪いわよね。ダラシないというか、みっともないというか。情けないというか・・・。

ー そうですね。しかしそれって男だからですかねぇ?男だけでしょうか?

ー いや、それはまぁ。女もあるでしょうけど。しかし、ここは男としてそうあって欲しくないと思うのは、当然でしょ?

ー そうですね。男としてだらしないのは事実ですね。しかし、お認めになられましたように、男であれ女であれ、関係なくあることですよね。であれば、人間の弱さとして普遍的に言えることではないでしょうか。自己保身という意味でも、周囲に流されるという意味でも・・・。ペテロさんはそういうところがあったらしく、実はこの後もこういう失敗をします(パウロから非難される、アンテオケの争いなどは有名です)。しかし、それはペテロさんが駄目な人間だと言うことではなく、人間の裡にあるそういう面を如実に表しているに過ぎない。だからイエス様はそういうペテロさんを責めてはおられません。それが人間に普遍的なことだからこそ、大事なのは、そういうことを責めるのではなく、自覚させることだと知っておられた。イエス様はだから、責めるのではなく、導くということをされたのではないでしょうか。(ま、こういうことは倦まず弛まずやり続けるしかないでしょうが。)

ー でも、人間はそういう弱いところがあるから仕方がないことでもあるわけでしょ?

ー そこが大事なところじゃないでしょうか?だからと言って弱さをそのままでいいと言っておられるのではないですね。そういう弱さ、不完全さを自覚して、自らのあるがままを、まずは素直に受け止めることから始めるということでしょうね。そこの自覚がないと始まらない。いつまでもイエス様の愛の意味は分からない。神の赦しは分からないことになります。

ー 悔い改めってこと?

ー お、鋭い。その通りです。そこが信仰の土台の土台とも言えますね。

ー 自分に素直になる。駄目な自分をあるがままに見るねぇ。でも、私自分のいいところも結構見えるんですけど。だってほら、今言われたこととかも私ちゃんと理解したでしょ。それって私の長所よね。ね?

ー あ、そうですね(^_^;)

会堂建設用地に看板を設置しました

会堂用地看板

昨年正式に取得した会堂用地に看板を設置しました。教会のO兄弟が設置してくれました。その奉仕に感謝です。

ここに教会が建つことを近隣の人に知ってもらえると思っています。この会堂は近隣の方々に広く開けた施設としても活用していきたいと思っています。

今はまだ看板だけですが、一日も早い会堂の建設を願っています。あらためまして、ご支援をよろしくお願いいたします。

 

誘惑に陥いらないように祈りなさい~ルカの福音書22:39~46

イエス・キリストは私たち人間を救うために、十字架にかかって死んでくださった方です。なぜなら、人間の罪(原罪)を贖うことのできる方は罪のないイエス・キリスト以外にいないからです。この方(主イエス)は十字架刑に進む一連の出来事の前に、ゲッセマネの園で苦闘の祈りをされました。その様子は“汗が血のしずくのように地に落ちた”ほどでした(ルカ22:44)。十字架刑は極刑で、肉体の激しい苦しみばかりでなく、それ以上に、父なる神から断罪されるという耐え難い苦しみを味わわなければならないのです。
このことを十分承知の上で、主イエスは「父よ。御心なら、この杯(十字架刑)をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、御心の通りにしてください。」と祈られました(同22:42)。同じ言葉で三度目の祈りをし、父なる神の御心に従って十字架にかかることを決断されました。
この祈りの現場に、3人の弟子(ペテロ、ヨハネ、ヤコブ)を立ち合わせ、彼らに「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と命じられました(ルカ22:40)。彼らは、主イエスが苦しみ悶えて祈られる姿を初めのうちは見ていましたが、側近の弟子である彼らは主を応援するどころか、悲しみの果てに眠り込んでしまいました。
そこで、主は彼らに、「起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい」と再度命じられました(同22:46)。“誘惑に陥る”とは、人が神から引き離されて、信仰が眠ってしまうことです。起きている状態は神と霊的につながっていることです。信仰が眠った状態になることを防ぐ特効薬は祈りです。私たち人間は誘惑に陥りやすいものです。このような人間の性質をご存知の上で、主イエスは私たちが健全な信仰を維持するためには、“祈ることが大切である”ことを示されたのです。

ーーーざわつき

ー このゲッセマネの祈りは、有名な箇所ですね。ところで、私たちはこのような祈りをしたことがどれぐらいあるでしょうか?いえいえ、はたしてしたことがあるでしょうか?懸命に祈るということですが。

ー ま、改めて言われると、正直このような祈りはそうないわねぇ。いえ、一度もないかも知れない。そもそもそんなに真剣に祈ることも、そう多くないですしね。

ー そうですね、真剣に祈らなければならないことがそう度々あるとは、私も思いません。ただ、大事なことは、何を祈るかということではなく、どのように祈るかということではないでしょうか。

ー Whatではなく、How?

ー あ、まぁそうですね。ゲッセマネの祈りは、文字通りイエスが全身全霊を傾けて祈られた祈りだと思います。私たちもそのような祈りをすることが、人生の中にはきっとあるでしょうが、常にあることではないでしょう。ただ祈りとは、本来神と向き合うことですから、愉しいことのはずだと思うのです。が、なかなかそういう気持ちにならないのはなぜでしょうか?神の前に素直に、こどもの様に向き合って祈ることもあっていいと思いますよ。肝心なんなことは、「しかし、わたしの願いではなく、御心の通りに」というふうに祈ることですね。

ー 子供のようにねぇ。そうね、子供の様に無心に祈れば、おねだりだってなんだっていいのよね。堅苦しく考えるから面倒臭くなるのよ。

ー あ、私の言いたいことはそこではなくてですね、アレ?(^_^;)

神の栄冠を得るために~ピリピ3:12~14

使徒パウロは生粋のヘブル人として生まれ、良い教育も受け、一流の律法学者でしたが(ピリピ3:5-6)、「イエス・キリストを知っているすばらしさのゆえに、一切のことを損と思うようになった」(同3:7-8)と告白しています。彼はイエス・キリストに出会って大きく変えられた人物です。
しかし、彼は「既に得たのでもなく、既に完全にされているのでもない」と言っています(同3:12)。何故でしょうか?それは不思議なことではなく、キリストのすばらしさを本当に知っている者の声であり、信仰の高嶺を目指す姿から出る発言です。
パウロは、ただ一事のことに励みました。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向って進み、神の栄冠を得るために目標を目指して一心に走ることでした(同3:13-14)。平昌オリンピックでの日本選手の活躍は記憶に新しいと思います。レース中、選手たちは走ることに集中し、ひたすらゴールを目指しました。もし過去の失敗に捉われていたら、ハプニングが起こり、良い結果は出せません。
ところで、神が与えてくださる栄冠は、この世のものではなく、天において与えられるもので、最高のものです。また、地上のレースにおける栄冠とは異なり、このレースに参加して完走したすべての者に与えられるものです。だから、一緒に走っている人に勝って、自分が一番になろうと思う必要がないのです。一緒に走っている人同士が互いに励まし合い、神の栄冠を得るために邁進しましょう。なお、このレースはイエス・キリストを自らの救い主として信じているすべての人に開かれたものですが、皆さんの家族や友人、知人もこのレースに参加できるように、信仰の証しと福音宣教に励みましょう。

ーーーざわつき

ー 皆さぁん、オリンピック愉しまれましたかぁ。これからパラリンピックも始まりますが、これまでの実力を発揮できる人もいれば、発揮できずに残念な思いをする人もいるでしょう。しかし、一所懸命に頑張る姿は美しいものですよね。

ー そうね。スポーツって皆が共通のルールでするから、フェアーだし結果もはっきりわかるじゃない?だから選手も目標がはっきりするし、見る方もそれを共有できるから、応援しながら興奮もできるんじゃないかしらね。ただ、実際の生活の上ではルールがあるにしても、結果がはっきりするわけのものではないでしょ?また、そのルールもフェアーだと必ずしも言えないんじゃないかしら。そこが悩ましいというか・・・。

ー 確かにこの世にあって皆が平等で、誰もが努力すれば同じように報われ、誰もが幸せということでは、多分ないでしょうね。そう考えると虚しくなるでしょうが、ただ、昔、名前は忘れたのですがイギリスのある学者だったか、評論家だったかの人がこのように言ったそうです。「人生の価値とは、人が死んだとき何をしたかではなく、何をしようとしたかなのだ。」と。向かう目標をもって、そこへたどり着こうと努力することに人の価値はあるのじゃないでしょうか。パウロさんの、「この一事に励んでいます。すなわち、後ろの物を忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」という言葉もそう考えれば身に沁みて感じられるのではないでしょうか。

ー なんであるかではなく、何であろうとするか、ですか。

ー 別の言い方をすれば、こうも言えるかも知れません。「他人にどう思われるかではなく、自分がどうありたいか」が大事だと。

ー どうありたいか。そうねぇ、とりあえず今思いつくのは、亭主をいかに素直に私の言うことを聞くようにさせるか、ですかね。

ー え、そこですか?あ、なるほど(;^_^A

計り知れない神の愛と赦し~マタイの福音書18:21~35

兄弟が私に罪を犯した時、何度まで赦すべきかの問いに、主イエスは「7度を70倍するまで」と答えられました(マタイ18:22)。聖書では3が完全数で、7は無限数。7を70倍するとは無制限に赦しなさいという意味ですが、私たち人間にとって自分をいじめた人や意地悪した人をなかなか赦せないものですね。

それでは、主イエスの発言は単なる“綺麗ごと”に過ぎないのでしょうか。そうではありません。イエス・キリストは、私たち人間の罪を背負って、十字架にかかり、私たちの罪を贖ってくださったほどの愛の方です。主イエスは、ご自分を十字架にかけて、くじを引いている兵士等のために、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないからです。」と父なる神に祈られました(ルカ23:34)。主イエスは敵を愛し、敵のために祈られたのです。

それゆえ、もし私たちがキリストの愛を知り、その愛に満たされているなら、私たちも兄弟の罪を限りなく赦すことは十分できるのです。また、「主君に1万タラント(現代のお金で6000億円相当)の借金を免除された家来が、同僚に貸した100デナリ(100万円)の返済を強要して牢に投げ入れた結果、主君の怒りを受けて、負債をすべて返すまで投獄された」喩え(マタイ18:22-35)から、私たちは、主イエスの十字架の贖いによって自分の巨大な罪を赦されたのだから、当然、兄弟を赦すべきであることを教えられます。
今週の暗唱聖句:「互いに赦し合いなさい。主があなたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ3:13)。

ーーーざわつき

ー 7の倍数どうのこうのはともかく赦しなさいということですよね。裁くな裁かれないためですよね。ま、頭ではそうよねぇとは思うんですけどねぇ。

ー それは実際はできないと思われるんですね。確かに!簡単にできることではないと思います。言うは易くです。しかし、だからと言ってできなくていいというものでもないですよね。譬え、裁いて服させたところで、相手が心から服しているわけではないことは経験からおわかりでしょ?人は裁き合っても実は何も解決はしていない。しこりが残るだけですね。残念ながら。大事なのはその人を認めてあげることでしょうね。それが赦すことの始まりになるでしょうか。そしてそれは、自分が神から赦されているという自覚からできることでしょうね。そして、その神の愛を感じることです。ただひとつ、戒めると裁くとを混同しない様にしなければなりませせんがね。それを理解していない人もいますから困りますが・・・。

ー あなたが赦されているのだから、ほかの人にもそうしなさい?ということですか?

ー そうなのですが、そもそも人は罪びとであるとするなら、罪びとが罪びとを裁くことはおかしなことですよね?ま、ちょっと理屈っぽい言い方ですが・・・。まずは自分が罪びとであると自覚することから始まるのじゃないでしょうか?イエスさまはまず「悔い改めなさい」ということを言われていますから。それは、まずは自分自身を見つめなさいということでもあろうかと思います。

ー ちょっと、私修行が必要だわ。

ー あ、いえいえ、修行が必要なのはあなただけではありません。私もです。人は皆そうなのだと思います。ただ、その気持ちが大事だと思います。一緒に修行いたしましょう。

ー まずは、何から修行しようかしら。ま、おいしいご飯でも家族に作ってやりますか!しょうがないから。

ー あのぉ、まずはそのしょうがないというのを無くしましょう(^^ゞ