ある糖尿病患者と医者との対話から導き出される定理

ある糖尿病患者がちょっと気に入っている担当の女医に向かってこう言った。

「私は糖尿病を患い治療をこうしてしているわけですが、そもそもです、わたくしはもともと甘いものが大好きで、それをよく食べた。それでこの病気を患うことになったわけです。にも拘わらず、あなたは、私に以後甘いものは食べるなという。これはわたくしに、二重の責め苦を与えることになっています。精神的苦痛とそこから生まれる哲学的苦痛でです。これは治療していることになるのですか?」

女医「そうですか、その苦痛を具体的に」

患者「精神的苦痛とは、好きなものを我慢しなければならないというストレスです。」

女医「あ、精神的に苦痛ならば、精神科医を紹介しますが」

患者「そういうことを言っているのではない。精神科でストレスは治療できるかも知れんが、私の甘いもの好きを治療することはできんじゃないですか。つまり根本治療ができていないのだから精神科に通っても私の病は永久に治らんだろうということです。だから治療の意味があるのかということです。」

女医「根本治療ではなく、対症療法で十分だと思いますよ。ストレス治療で我慢できれば、それでいいわけですから」

患者はムカついた。

患者「それだけではない、そもそもそうまでして生きていく意味はわたくしに存するかという哲学的問題です。そうして食べたいものも食べずに、我慢して長生きすることにどれだけの意味があるのですかね?」

女医「そうですね、意味があるのかどうか私もわかりません。しかし、長生きしなければその意味の答えは見つかりませんよね。ですから長生きしてみましょうか。」

患者はまたムカッときた。内心、女医がたじろがずに答えたことに多少満足しながら・・・。

 

定理

「人間は、正論を言われるとムカつく動物である。」(屁理屈第一定理)

また、これから次の原理的予想が生じる。

「人間は、合理性をもって満足できない動物である。」(屁理屈第一予想)

「人間は、合理性か欲望かの選択を迫られるとき、欲望を選択する。」(屁理屈第二予想)

なお、第二予想は、

「人間は、合理性か信念かの選択を迫られるとき、信念を選択する。」に応用できる。

 

しかし、以下の場合は、その超越論的属性のゆえ、上記の定理を拡大できない。

「人間は、合理性か信仰かの選択を迫られるとき、誠実が真なるものとすれば、合理性、信仰のいずれをも選択しうる。」つまり、これは何れを選択しても互いの完全性を証明できない。

また、

「人間は、信仰か救いかの選択を迫られるとき、イエス・キリストの十字架がなんであったかを知る。即ち自らが救われたからこそ、信仰があることを知る。自らの信仰があったから、救われたのではないと。しかし、これの事実と重要性に気付く信者は稀である。」これを信者の不完全性定理という。

#アハッ、これ、全部ヘリクツですから(^^;)

教会こぼれ話

教会は現在、牧師の自宅のリビング兼ダイニングキッチンの部屋を利用しています。愛餐会の準備も月一回ここで行います。
従いまして、説教の最中においしい匂いがしてくることがあるわけです。牧師は真面目ですから、聴衆には説教に集中してきちんと聞いて貰いたいと思う。一方聴衆は早く説教が終わらないかと思い始め、腹の虫がならないようにそっちが気になり、説教が頭に入らない。
つまり、心の満腹か、肉体の満腹かの究極の選択を、聴衆が心ならずもすることになりわけです。大抵は後者の方が勝ってしまうのですが(少なくともわたくしは(;^_^A)。
これは困ったことです。ですから早く会堂を建てたい。しかし、建ったらきっと、お腹をグーグー言わせながら早く説教が終わらないかと思ったことが、懐かしく想い出されることになるんだろうな。早くそうなりたい(^^ゞ
教訓、「不都合は、修行の恰好の機会である。」(^^;)