神岡キリスト教会との講壇交換

先週8月27日は神岡キリスト教会との講壇交換でした。

神岡から小畑光弘牧師が当教会で説教をしてくださいました。

たまにはこういう講壇交換もいいですね(;^_^A

(信徒 廣瀬)

主イエスへの信仰と感謝 (ルカの福音書17章11~19節)

今朝の聖書箇所には、ツアラアトに冒された人々10人に対する主イエスの癒しの奇跡が書かれています。ツアラアトは重い皮膚病のことで、この病気にかかった人は世(一般社会)から離れ、差別され、世から捨てられたようにして生きることしかできなかった人たちのことです。

 主イエスがエルサレムに上る途中、ガリラヤからサマリヤに向かう際に或る村に入られた。すると、ツアラアトに冒された10人が主イエスを出迎え、遠く離れた所から声を張り上げて「イエス様、先生、私たちをあわれんでください。」と叫びました。なぜ彼らはこのようなことをしたのでしょうか。彼らは世間の人々から、“汚れた者”としてレッテルを貼られていたので、主イエスの御前で直接訴えることが出来ず、こうするしか方法がなかったからです。

 彼らの叫びを聞かれた主イエスは心を動かされ、彼らを深く憐れんで、大声で「祭司のところに行って身体を見せなさい」と返答された。10人は主イエスのことばに従って祭司のところに出かけて行きました。その道中で彼らの重い皮膚病が主イエスによって治されました。その結果、彼らが祭司の所に行き、身体を診てもらい、祭司が治ったと判断すると、彼らは社会復帰できました。

ツアラアトが治った10人のうちの一人、サマリヤ人だけが主イエスのもとに戻って来て、足もとにひれ伏して感謝したのです。

なぜ、他の9人は主イエスのもとに戻って、感謝の気持ちを伝えずに、そのまま祭司の所に行ったのでしょうか? 主イエスは「10人きよめられたのではなかったか。9人はどこにいるのか。この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」と言われた。

当時、生粋のユダヤ人とサマリヤ人は社会的に大きな差がありました。ユダヤ人がツアラアトに冒されている間は卑下せざる得ない身であっても、その重病がいやされると、普通の「ユダヤ人」として、社会的に優位な立場に戻ることができました。当時のユダヤ人の社会では、ナザレのイエス、つまり、私たち人類の救い主であるイエス・キリストをユダヤ人はあまり評価していなかった故でないかと思われます。一方、サマリヤ人は他国人であって、社会的な評価は低く、ツアラアトが治っても、社会的な立場は変わりませんでした。

ツアラアトが癒されたサマリア人は大声で神をほめたたえながら引き返して来て、主イエスの足もとにひれ伏して感謝しました。彼は自分の身に起きた現実、つまり、難病が癒されたこと、それ正しく主なる神の御業であり、主イエスの足もとにひれ伏し、心の底から感謝と喜びを表明しました。

この姿を見て、主イエスは言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」

なぜ、主イエスはわたしが癒したと言わないで、あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言われたのでしょうか? 彼は主イエスを信じ、主の指示に従って祭司の所に行くときに起きたことでした。信仰をもって彼が祭司の所に向かう道中で起きたことであったので、「あなたの信仰があなたを救った」と主がおっしゃった理由です。

「信仰は望んでいることを保証し、目に見ないものを確信させるものです。」

へブル人への手紙11章1節

 現代はかって常識であったことが守られないで、とんでもない事件が起きたり、大きな自然災害が起きたりする不安定な時代です。しかし、神のことばは変わることはありません。皆さん、この時こそ、主イエスにある信仰を固く保って歩みましょう。(牧師:北林行雄記)

終末の日の祝福 (イザヤ書4章2~6節)

私たちは今、平和な時代に生きていて、自分がクリスチャンであることを自由に表明できますが、やがて到来する終末の時代には多くの苦難や迫害が待ち受けることが予想されます。今朝はイザヤ書から、苦難があっても大きな希望があること、つまり、終末の日の祝福についてイザヤ書4章から学びたいと思います。

イザヤは旧約聖書を代表する預言者です。彼は紀元前740年、今から2770年前に預言者として召命を受け、ユダヤのウジヤ王からヒゼキヤ王までの50年間活躍した人物です。私たちがイザヤ書を学ぶのは過去の出来事を知るだけでなく、私たちがまだ経験したことがない世の終わりの時、つまり、終末に起きる出来事もイザヤ書に預言されているからです。以下、この箇所から3つのポイントを揚げてお話をいたします。

  • 新しい主の若枝と地の実

それでは、イザヤ書4章を見てください。2節にある“その日”とは終末の時のことです。“若枝“は木が育って実を結ぶ過程における最初の段階であり、”生命力“の象徴でもあります。それで、”主の若枝“は、やがて主なる神によって遣わされて来る”メシヤ“を表しているのです。

また、“地の果実はイスラエルの逃れの者にとって、誇りとなり、輝きになる”とは、長く厳しい奴隷生活から解放されたイスラエルに、“主の若枝”である方、メシヤ(救い主)によって救われた人々による新しい共同体が誕生し、豊かな生活が訪れることを期待し、展望しているのです。

  • 聖なる残った者

“シオンに残された者”、つまり、エルサレムに残った者とは捕囚としてバビロンに連れて行かれないでエルサレムに残った人のことではありません。むしろ、捕囚後の新しいエルサレムに住むようになる人々のことで、新しい共同体のことです。
 なぜ新しい共同体が作られる救いの地が依然としてエルサレムなのでしょうか。その理由は、エルサレムは天地万物の創造者なる神がこの地に,神ご自身の名を置くために選ばれた町だからです(列王記第一11章32、36節)。また、選ばれた民の系図に属した人たちは “みなエルサレムに生きる者として書き記されている。」のです(ネヘミヤ記7章5節参照)。

  • シオンの浄化と主の栄光に輝く臨在

シオン(エルサレム)の浄化は、人間の手によるのでなく、聖なる神がくだされた裁きによって達成されました。具体的に神は汚れた民を火で焼き尽くすことによってエルサレムを清められたのです。神は聖なる方ですから、汚物を残すことはなさいません。

 汚れた民を清められた聖なる神はイスラエルの民と共に住まわれます。一例を言いますと、出エジプトしたイスラエルの民と共におられました。出エジプト記13章21~22節をお読みします。「主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすための火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱が、夜はこの日の柱が、民の前から離れることはなかった。」

また、神が伴ってくださるイスラエル人の仮庵は昼に暑さを避ける影となり、嵐と雨から逃げる避け所、また隠れ家となりました。

このようにイスラエルの人々と共に主なる神が歩んでくださる所はいつも平安と喜びで満たされていました。同様に現代に生きるクリスチャンの皆さんと、主なる神、主イエス・キリストがいつも共にいてくださるので、どんな厳しい環境に置かれようと、常に平安と喜びで満たされるのです。

また、イエス・キリストの御名によって心を注ぎだして祈るなら、主は必ず最善の回答を持ってあなたを導いてくださいます。皆様の上に主なる神の祝福がますます豊かにありますようお祈り申し上げます。 (牧師:北林行雄記)

主のなだめのかおり (レビ記1章10節~2章2節)

レビ記はイスラエル民族の信仰生活に深いかかわりのある書です。イスラエルの人々が主にささげる主要なささげ物は5つあります。①全焼のいけにえ、②穀物のささげ物、③和解のいけにえ、④罪のためのいけにえ、⑤罪過のためのいけにえがあります。  神にいけにえを捧げるのは、自分が罪を犯したり(④)、神が定められた規則に違反した(⑤)時と考えがちですが、今朝はその反対であり、主なる神と信仰者がより信頼関係が深まる前向きのささげ物に関することを取り扱います。換言すると、健全な信仰生活をおくっておられる皆さんが神にもっと喜んでいただくためにおささげする霊的な“ささげ物”について学ぶわけです。

レビ記1章3節から13節に、“全焼のいけにえ”について書かれています。全焼のいけにえとは、すべてが火で燃え尽くされるいけにえのことです。10節には傷のない雄を捧げなければならない。その羊は屠られ、祭壇の側面にその羊の血を振りかけるとあります。この箇所から私たちの救い主イエス・キリストのことを連想します。ペテロの手紙第一1章18~19節をお読みします。「ご存知のように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちるものにはよらず、傷もなく汚れもないキリストの尊い血によったのです。」。イエス・キリストは地上生涯の中で一度も罪を犯すことなかった完全な方でした。その方が私たち人間を救うために、十字架にかかり、死んで、三日目に復活して下さったのです。イエス・キリストは真の救い主です。

全焼のいけにえは現代の私たちに何を教えているのでしょうか?全焼のいけにえはすべて焼き尽くされることですから、それが示すところは、自分のすべてを神にささげるということです。つまり、私たちが自我を捨てて、神の前に砕かれて、神の御こころに全面的に従うことを意味します。

換言すると、全焼のいけにえは、罪の贖いを成し遂げると同時に、礼拝者である私たちの全き献身を象徴しています。つまり、私たちの救いのために、大きな犠牲(痛み)を払われた神に感謝し、全幅の信頼をもって従い、異教社会の中にあっても、クリスチャンとして信仰の証の生活を続けていきますと決断することです。

ローマ人への手紙12章1節参照。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによってあなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物としてささげなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」

続くレビ記2章には「穀物のささげ物」について書いてあります。この場合は収穫した初物を神にささげ、神に感謝の思いを伝え、自分たちに与えられた「神のめぐみを告白」することです。しかも、ささげ物は小麦粉であって、その上に油をそそぎ、乳香を添えました。油や乳香の使用は、聖霊の働きや祈り、神との契約を恒久的に維持することを象徴しています。つまり、穀物のささげ物は「私たちは神との契約のもとに、常に祈り、聖霊に導かれながら信仰の歩みを今後もずっと続けていきたいと思います。豊かな信仰生活を歩めるように、いつも聖霊のお導きがありますよう今後とも宜しくお願いします。」という願いを込めた意思表明でもあるのです。

続いて、本日の説教題にしました「主のなだめのかおり」について説明します。“なだめの香り”は新改訳聖書で使用されていますが、新改訳2017では“香ばしい香り”と表現されています。“なだめのかおり”はヘブル語の言語では「覚えさせる」「思い出させる」という意味で、詩篇作者が自分たちのことを神に覚えていただけるようにとの願いをもって書いたものと推測されます。

<まとめ>

本日は全焼のいけにえと穀物のささげ物についてレビ記から学びました。

① 全焼のいけにえは全部を焼いて神にささげることで、全き献身を示しています。これは、キリストの犠牲の死を預言するものです。正に、御子イエスの父なる神に対する献身は完全無欠のものでした。主イエスは謙虚で柔和な方であり、父なる神の御心に従って、私たちのために十字架にかかり、わたしたちの罪の贖いをしてくださったのです。感謝!

② 穀物のささげ物は主イエスの全きご性格を物語るものです。小麦粉は全部が一様に細かく砕かれ、柔らかな感触のものでなければなりません。小麦粉に注がれる油や乳香の使用は聖霊の働きを表わすものです。私たちの信仰生活における聖霊の働きは本当に大切なものであり、その関係は永遠に続くのです。

③ 全焼のささげ物や穀物のささげ物は神へのなだめの香り(香ばしい香り)であり、その香りを通して、神とイスラエルの人々はつながることができたのです。現代の私たちクリスチャンにとっては、主イエスの御名による祈りと神への賛美のことです。

特に祈りにおいては、神の御心を求め、御心に沿った祈りをすれば、その祈りは必ず聞かれるのです。

  「何事でも神のみ心にしたがって願うなら、神は聞いて下さということ、

これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」       

                     ヨハネの手紙第一 5:14

                         (牧師:北林 行雄記)

キリスト復活の証人として(使徒の働き3章1~19節)

 使徒の働き3章には最初からイエス・キリストのいやしの奇跡が登場します。生まれつき足の不自由な人がエルサレムにある“美しの門”に運ばれて来ました。この人はペテロとヨハネがその宮に入ろうとするのを見て、施しを求めました。そのとき、ペテロは次のように明言しました。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」。そして、施しを求めた人の手を取って立たせると、彼のくるぶしが強くなって、躍り上がって立ち、歩き出したのです。しかも、神を賛美しつつペテロとヨハネと一緒に宮に入って行きました。確かに、信仰を持ってイエス・キリストの御名によって祈ると、その祈りは聞かれるのです。

 この癒しの奇跡を見ていた群衆が驚いているのを見て、ペテロはこの癒しの業について説明を加えます。ナザレのイエスは十字架にかけられて死に、三日目に復活された。そのイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、生まれつき足の不自由な人を強くしたのです。「イエスによって与えられる信仰が、皆さんの前で、このとおり完全な身体にしたのです。」(使徒の働き3章16節後)と伝えました。

 更にペテロは群衆に対して次の呼びかけをしました。「あなたがたは、いのちの君を殺したのです。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。わたしはそのことの証人です。悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪は拭い去られます。」(使徒の働き3章15節、19節)。

 このようにペテロはイエス・キリストの福音を人々の前で大胆に証しました。以前の彼はおくびょう者で、イエスが捕らえられたとき、「イエスのことを知らない」と3度まで否定した人です。しかし、復活された主イエスに出逢って、しかも大宣教命令を与えられ、そして、先週学んだように、ペンテコステの日に聖霊降臨がありました。その後、弟子たちは聖霊に満たされてイエス・キリストの復活の証人として、大活躍しました。その典型的な例が弟子の筆頭であるペテロです。彼はイエス・キリストにある信仰に生き抜き、イエスの福音宣教に命を懸けた人物です。

 

 皆さんは日常生活の中でどのように信仰の証をされていますか?人前でも恥ずかしがらずに堂々と証できる人もあれば、思っていてもなかなか証ができないという人、証しそのものが苦手という人もいらっしゃると思います。人それぞれ賜物が違うので、自分のできるところから証をスタートしてください。なお、私自身は証をするときは、先ず聖霊の導きがあるように祈ってから行うようにしています。すると、不思議に平安が与えられ、相手の目線に立って自然体で話すことができます。

ところで、福音宣教のために一番必要なもの何だと思いますか? 

資金でしょうか?そうではありません。大切な人たちの救いのための切なる祈りです。そのためには、愛と忍耐が必要です。時として疲れ果てて、あきらめムードになることもあるでしょう。

その時こそ大切な祈りは使徒の働き4章29~31節に書かれてある祈りです。

 

主よ。今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたの御ことばを大胆に語らせてください。また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒しとしるしと不思議を行わせてください。彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。

皆さんの中で自分はどんな賜物があるのか分からないと思っている方もいらっしゃると思います。そこで、今朝は日々の信仰生活の中で大切な“聖霊の賜物”についてお話したいと思います。

聖霊の賜物の種類について聖書の中に5か所に書かれています。そのうち、エペソ人への手紙4章7~13節、コリント人への手紙第一12章28~31節には、牧師、伝道師、宣教師など教職者の賜物のことです。ローマ人への手紙12章3~8節は仕事の内容で7種類(預言、奉仕、教える、勧める、分け与える、指導する、慈善を行う)に分けています。

私はペテロの手紙第一4章10~11節が奉仕者全般に対する心得が示されていると思います。以下、その箇所を抜粋して紹介します。

「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々の恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」

その他、あなたの周りにいる人々でまだ信仰を持っていない人に、あなた自身の救いの証しをし、教会に誘いましょう。これは信徒伝道であり、神からの賜物です。

また、教会員の中で病気の人や、悩んでいる人、その他、助けを必要としている人のために、とりなしの祈りをしましょう。喜んでとりなしの祈りができること、これも聖霊の賜物です。その他、賛美の賜物や喜んで兄弟姉妹や求道者の送迎ができることも、聖霊の賜物です。

既に信仰をもって毎週欠かさずに礼拝してくださっているすべての皆さんの上に、聖霊の導きがあることを確信しております。聖霊の導きがあったからこそ、信仰が与えられ、イエス・キリストを救い主として信じることができたのです。また、信仰の決心に至っていない方も、聖書に関心を持ち、聖書の話を聞こうとされるのは、聖霊の働きがあるからです。このような方々にお伝えします。聖書を読むとき、また、礼拝説教を聞くとき、神の導きを求めて祈ってください。そうすれば、不思議に今まで理解できなかったことも、確信をもって理解し、喜びに満たされるのです。

私は福音を恥としません。福音はユダヤ人をはじめギリシャ人にも、

信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。

          ローマ人への手紙1:16

皆様の主なる神の恵みが益々豊かにふりそそがれますようお祈り申し上げます。

          (牧師:北林行雄記)

聖霊降臨 (使徒の働き2章1~13節)

本日はペンテコステ記念礼拝です。ペンテコステはギリシャ語で50番目という意味です。ユダヤ人社会ではこの日を「五旬節」または「7週目の祭り」として祝われています。一方、キリスト教会では「聖霊降臨節」として、記念礼拝が行われます。

 

イエス・キリストの弟子たちや関係者が皆、集まって、心を合わせて祈っておりました。使徒の働き1章14節を見ると、そこには婦人たちやイエスの母マリヤ、それにイエスの兄弟たちも一緒に集まって祈っていたことが判ります。そこに120名ほどの人が集まっていました。

 すると、突然、天から激しい風が吹いてきたような響きが起こって、彼らがいる家全体に響き渡りました。すると、炎のような舌が分かれて現われ、その場にいる一人一人の上に留まった。本当に不思議な現象ですが、人間の舌というと、人が話すことばを連想しますね。しかも、そこに集まっていた人たちが突然、外国のことばで話し始めました。

その日、エルサレムに集まって人たちはユダヤ人だけでなく、地中海沿岸の国々やメソポタミア、アフリカ、ヨーロッパから来て滞在している人たちでした。ですから、彼らは弟子たちやその関係者が、自分の国の言語を話していることがよく判り、びっくりしました。

 どうして、弟子たちやその関係者が一度も習ったこともない外国のことばを話すことができたのでしょうか?それは聖霊の導きによってできたことなのです。彼らは聖霊に満たされて、御霊が語らせてくださるままに話し出したのです。聖霊の御業は人知をはるかに超えた力があります。そして、この出来事はキリスト教の歴史において画期的で、記念すべき出来事でした。

 人々は驚き、当惑しましたが、その中に「彼らは酒に酔っているのだ」と弟子たちを嘲る人もいました。そこで、ペテロは声を張り上げて群衆に語り掛けました。その内容を要約しますと、

  • 今、朝の9時だから酒に酔っているのではない。この出来事は預言者ヨエルが語った預言の成就である。その内容は、「終わりの日に、人々に神の霊が注がれるので、その人の息子や娘は預言し、青年は幻を見、神のしもべやはしためも預言するにようになる。」ということである。
  • イエスは力ある業と不思議としるしを行って神から遣わされた者として証された。神の御計画によって来られたこのイエスを、あなたがたは異邦人(ポンテオ:ピラト)の手によって、十字架にかけて殺してしまった。
  • 神はこのイエスを死から蘇らせられた。私たちはそのことの証人である。そして、このイエスが、今あなたがたが見聞きしている聖霊を注がれた。私たちはそのことの証人である。
  • 「だから、イスラエルの皆さんはこのことをはっきりと知らなければならない。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。大変のことをあなたがたはしてしまったのだ。」

とペテロは宣言しました。

 すると、人々はこれを聞いて心をさされ、「兄弟たち、私たちはどうしたら良いでしょうか?」と言った。

 そこでペテロはすかさず、次のように彼らに宣告しました。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」

 その結果、ペテロのことばを受け入れた人々は信仰をもって、バプテスマを受けました。実に、その日、3000人の人々が自らの罪を悔い改め、主イエス・キリストを信じて、バプテスマを受けたのです。画期的な出来事でした。

 このようにして、世界最初のキリスト教会が誕生したのです。それゆえ、ペンテコステはキリスト教会誕生の歴史的な記念日なのです。

私たちの教会も1995年に開拓伝道を開始して、小さいながらも教会としての群れができあがり、2021年末に新会堂が完成し、翌2022年4月30日に日本同盟基督教団の朝岡勝理事長を招いて献堂式を行うことができました。

 1日に3000人のバプテスマとはいかなくても、地道に伝道しながら、教会員が増やされ、成長する教会でありたいと願います。富山聖書教会は開拓当初から音楽会などイベントを毎年実施しておりました。若い人が沢山集い、信仰をもちましたが、就職や結婚で他県に移動しました。しかし、いつも活気に満ちていました。

 コロナも収まりつつある今日、いろいろなイベントを実施していきましょう。お互いの意見の違いがあっても、主キリストにある兄弟姉妹です。共に協力して頑張っていきましょう。そのことを通して主イエス・キリストの栄光が益々豊かに表されますように!

 最後に、ペンテコステにちなんで、私のささやかな体験を紹介して説教を終わります。 私は大企業の研究者を辞して、カナダのバンクーバーの神学校で学びました。日本人は私ひとりでしたが、クラスメートにはカナダやアメリカばかりでなく、海外からいろいろな国の留学生が来ておりました。ナイジェリアの神学校の校長や、インドの有名な牧師、中国や韓国、マレーシアなどです。

授業中に教授から課題が出され、デイベイトの時間がよくありました。私や韓国の学生はおとなしいのですが、毎回激しい議論が交わされました。特に、アフリカの学生は自己主張が強く、激論が続き、なかなか話がまとまりませんでした。そのとき、皆で聖書の御ことばに注目すると、直ぐに一致してまとまりました。そのとき、私はどんなにバック・グランドが違う人たちであっても、主イエス・キリストにある信仰の一致ができることを。身を持って確信しました。

  ペンテコステの出来事は世界最初の教会誕生として重要ですが、教会の成長のためにも、聖霊の働きは大変重要です。クリスチャン人口の少ない日本において、教会に集う信徒の皆さんが実社会で証するには、妨害もあることは御承知だと思います。その妨害の中にあってもクリスチャンとして為すべきことを行いつつ、教会の諸集会に参加し、証をするには勇気が必要です。そのとき、主イエスに切にお祈りしていると、聖霊があなたを助けてくださいます。例えば、上司や先輩にどのように話すか、聖霊がふさわしい言葉をあなたの心に浮かばせてくださり、勇気を与えてくださいます。

 また、会社で忙しく、疲れて教会を休みたくなる誘惑に会われることがあります。そのときこそ、主の前に出て行って、真実の自分の気持ちを訴えて祈ってください。そうすると、聖霊があなたを励まし、勇気を与え、話す言葉を与え、会話を導いてくださいます。

 友人や知人に福音を伝えるときも、病気の中も、試練の中も、常に主に祈って、導きを求めるなら、あなたは安心して日々の仕事や証を全うさせてくださいます。

 また、自分のことばかりでなく、教会のため、主にある兄弟姉妹のため、求道者のために祈ってください。

 皆さんの日々の信仰生活が初代教会のようにいつも聖霊に満たされ、豊かで味わいのある素晴らしいものとなりますように、心からお祈り申し上げます。

  在主 (富山聖書教会牧師:北林行雄記)

愛と成熟の祈り (エペソ人への手紙3章14~21節)

 今朝は皆さんが健全なクリスチャン・ライフを歩むための大切な提言について、エペソ人への手紙からメッセージをさせていただきます。この手紙の著者パウロは初期キリスト教の使徒として活躍しました。彼は信仰に導かれる前はクリスチャンたちを激しく迫害していましたが、回心してイエス・キリストを信じる者となり、ヘレニズム世界に熱心に宣教を行った人物です。 パウロは膝をかがめて、エペソの教会の人たちのために、父なる神の前に祈りました。ユダヤ人は一般的に立って祈ります。“膝をかがめて祈る”とは、深い感情と熱烈な願望を表す場合の姿勢で、パウロはエペソ教会の人々のために心を込めて切に祈ったことを表しています。 パウロが祈った内容が16節から19節にあります。その祈りを要約すると以下の3点に絞られます。

内なる人に働く御霊により、力をもって、あなたがたを強くしてくださるように

つまり、内なる人(私たちの心)が御霊の働きによる霊的な力を受けて強められることです。人は罪を犯すと、霊的にダウンして、前に進めなくなります。そのときこそ、イエス・キリストの御名を通して罪を赦されて、新たな力を受けることが必要です。あなたがこの苦しい状況から解放していただきたいと必死に祈ることでしょう。そのとき、あなたを背後から応援してくださるのが聖霊なのです。それによってあなたは大いに励まされるでしょう。

  • 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができるように。

生まれながら罪人である私たち人間を救うために、身代わりとなって、罪のない方であるイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださった。そして、3日目に死より復活されました。それゆえ、イエス様を自らの救い主と信じる者は、誰でも、救われて、永遠のいのちを持つことができます。この素晴らしい道を主が準備してくださったのです。本当に感謝なことです。人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることは私たち人類にとって一番大切なことです。

  • 神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされるように

イエス・キリストを信じたすべてのクリスチャンが神の愛と恵みを、より一層、より深く味わうことができるように、それによって、ひとりひとりのクリスチャンの心が神の恵みで満ち溢れるように!とパウロはクリスチャンひとりひとりの信仰がさらに成長し、成熟することを祈ったのです。

もちろん、信仰生活の中でスランプに陥ってしまうことがあります。でも、安心してください。じっと時を待っていると、スランプから抜け出す時がやってきます。そして、神の満ち溢れる豊かさに強く励まされ、新たな道が開かれてくるのです。さらに、試練を通してもっと大きな働きができるように成長していくのです。このことが、偉大な使徒であり、伝道者であるパウロの真の願いでした。

 教会はクリスチャンたちや求道者の群れです。また、聖書は語ります。教会はキリストのからだであると。身体には多くの器官があります。心臓や胃、腸や、頭や手足など、ひとつも無駄なものはありません。すべての器官は必須不可欠で、非常に大切なものです。それゆえ、小さな器官であるからといって、馬鹿にされることはありません。

 それゆえ、弱さをおぼえている人には心から尊敬の念を持って、助けてあげてください。弱い人も強い人もイエス・キリストにあって大変貴重な人たちです。

 

とは言っても、教会は生まれも、育ちも異なる人々の集まりですから、やはり意見の食い違いが生じることがあります。私はこの教会を開拓する前はいくつかの教会に集って信仰生活をしてきました。ある教会はこれから成長し、50名、100名となる教会だと誰しもが認める教会でした。ところが、若い学生たちが牧師の意見に反発し、自分の仲間同士で集まり、神学校を卒業したばかりの教師をたてて別の群れを作り、教会が分裂しました。その群れは、最初は勢いがありましたが、やがて更に分裂を繰り返し、消滅状態に近い集まりになってしまいました。一方、前からの指導者(元の牧師)の教会は存続し続けました。

    私はこの経験を踏まえ、教会が建てられ、豊かに成長する秘訣は、どんなに厳しい環境に置かれても、それが神の御心であれば、成功するということだと、はっきり判りました。それゆえに、社会の変動によっても、富山聖書教会は、いつも神の御心を求めて、皆が心を合わせて祈っていくことを第一にしたいと思います。

    

次に、大切なことは教会員の一人一人の賜物を生かし、皆が喜んで奉仕する教会にしていきたいと思います。ただし、奉仕は義務ではありません。自分から喜んで行なうものです。     一番大切なことですが、教会員皆がキリストの愛に満たされて、奉仕することが大事です。言い換えると、イエス様が私のために十字架にかかって死んでくださった。その素晴らしい愛に感動し、心から奉仕を喜んでするものです。そのことを見ておられる神は教会を豊かに祝福し、成長させて下さるのです。皆様の上に三位一体の主なる神から益々豊かな祝福がありますようお祈りいたします。(牧師:北林行雄記)

ナアマン将軍の癒し (列王記第二5章1~27節)

 ゴールデンウイークが始まりました。今年は沢山の人たちが海外や国内各地へ旅行されると報道されています。皆さんはどこかにお出掛けでしょうか?それでは、司会者にお読みいただいた聖書の箇所からメッセージをさせていただきます。 

 ナアマン将軍はかってアラムの国との戦いで大勝利をおさめた功績により、主君から重んじられ、尊敬されておりました。ただし、彼は偉大な勇士でしたが、ツアラアト(らい病)に冒されておりました。 ナアマンの家において、彼のツアラアトが何とか癒されて欲しいということが最大の願いであったと思われます。その証拠がナアマンの妻に仕える若い娘が「サマリヤにいるエリシャという預言者がきっとナアマン将軍のツアラアトを治してくださるだろう。」と伝えると、直ぐに、ナアマン将軍は自分の主君の許可を得て、出発しました。しかも、彼は銀10タラント(340キログラム)、金6000シェケル(68.4キログラム)と晴れ着2枚を持って出かけました。非常に高価なお土産を持参して出かけたのです。 早く治りたいと大きな期待と豪華な手土産を持って、ナアマン将軍はイスラエルの預言者エリシャの家の入り口に立つと、エリシャは彼の使者を遣わして言った。「ヨルダン川へ行って、7回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元通りなって、清くなります。」。

ナアマンはこれを聞いて激怒し、一度帰途につきますが、彼のしもべの忠告を受け入れ、ヨルダン川へ行って、7回身を浸しました。すると、彼のからだは元通りに癒されて、幼子のからだのようにきよくなったのです。

 さて、現代の科学技術が進んだ社会にいて、皆さんはこの奇跡をすんなりと受け入れ、理解することができるでしょうか?この出来事は信仰に拠らなければ理解できません。15節と16節のナアマン将軍と神の人(エリシャ)の会話に注目してください。「私は今、イスラエルのほか、全世界どこにも神はおられないことを知りました。」(ナアマン)、「私が仕えているは生きておられます。」(エリシャ)。
 ナアマン将軍は本当の神を知ったこと、その神は生きている方であるということです。皆さん、私たちが信じているお方は全地全能の神であり、今も生きている方です。そのことを、あらためて私たちも固く信じ、しっかりと理解することが必要です。

「神が生きておられる」ということは、

第一に、神は本当に力のある方です。神は無から有を作り出すことのできる方であり、どんな困難な問題も必ず解決できる方であるということです。

第二に、神は私たち人間の本当の気持ちを理解し、私たちの必要をすべて判って下さる方です。

第三に、神は私たちの真剣な祈り、心からの祈りを真にお答えくださるお方です。

 20節から27節までに、エリシャの従者ゲハジのことが書かれています。ゲハジはエリシャがナアマン将軍が彼に渡そうとした感謝の贈り物を一切受け取らなったのを見て、それがもったいなく思い、それを自分の手に入れようとしました。彼はナアマン将軍から銀2タラントと晴れ着着を受け取って、家の中にしまい込んでしまいました。

家に帰って、主人エリシャの前に立つと、エリシャから「どこに行って来たか?」と聞かれると、彼はどこにも行かなかったようにうそぶいても、エリシャの眼にはすべてがお見通しでありました。その結果として、ナアマンのツアラアトがゲハジに乗り移ってしまったのです。ゲハジは自分の貪欲の心に支配されて、大きな罪を犯して、裁かれたのです。

 程度の差があれ、私たち人間はゲハジのような罪を犯してしまうかもしれません。皆さんはどうですか?このような誘惑が襲ったときは、立ち止まって神様の導きを求めて、主イエスの御名を通して祈るべきです。そうすれば、正しい判断が与えられ、間違った道に進むことがありません。

 以上をまとめますと、

  • 私たちが信じているお方は全地全能の神であり、今も生きている方です。そのことを、あらためて私たちも固く信じ、しっかりと理解することが必要です。
  • 私たち人間はゲハジのような罪を犯す誘惑に直面することがあります。そのときは、立ち止まって神様の導きを求めて、主イエスの御名をよって、祈るべきです。そうすれば、正しい判断が与えられ、間違った道に進むことがありません。 

                    (牧師:北林行雄記)

放蕩息子のたとえ ルカの福音書15:11~32

 今朝の聖書箇所は私がイエス・キリストを自らの救い主として信じる決断に導かれた記念すべき箇所です。21歳のころ、私は仲の良い友だち4~5人と下宿で、毎日夜遅くまで、たわいもないことを語りながら、楽しく日々を過ごしておりました。その会話はもちろん、勉強の話ではありません。工学部で、仲間全員が男ですから、皆の話題は、各自の人生観や女性の話題などでした。楽しく、遊び惚けていた時代でした。(このように彼らは何でも話し合える良い仲間で、いつまでも親しく、今も交流があります。)

 ある時、友達の一人が、皆の前で「北林は真面目だし、これから大学院に進むかもしれない。自分らと遊んでばかりいたらダメだ。」と言い、皆が賛同して、私だけ戦列をはずれるようになりました。

 そこで、私は勉強に集中することにしました。先ず、英会話を学ぼうと考え、先日、皆さんにお話したようにカナダの宣教師宅を訪問しました。そこで、宣教師が奉仕されるキリスト教会を紹介され、毎週、礼拝に出席するようになりました。それで、勉強ではなく、今度は聖書を学ぶことに熱中するようになってしまいました。毎日、時間があれば、ひたすら、聖書を読んでいました。

 春の特別伝道集会でルカの福音書から「放蕩息子のたとえ」の説教を聞きました。この箇所から示されて、私は自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主として信じる決心をいたしました。

ルカの福音書15章に“放蕩息子のたとえ”があります。弟息子は父親の財産の分け前をもらって遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を使い果たし、食べるにも困ってしまった。そして、豚の食べるイナゴマメで腹を満たしたいほどになった。これを聞いた時、私の心に次の質問が浮かんできました。もしこれが財産でなく、自分のいのちであったらどうだろうか?若いと言って何でもやりたい放題に、自己中心の生き方をし、与えられた大切ないのちを台無しにしてしまったらどうなるか。最終的に裁きを受けるだけだ。仏教で言う地獄行きである。すべての人間は放蕩息子のように父なる神から離れ、失われた存在であると聖書に書かれてあります。

何故そのような状態になったのでしょうか?それは人類の最初の人、アダムとエバが、サタンに誘惑されて、神から禁じられたことをしてしまったためです。それで、神との正しい関係が崩れ、人間の自由意志に従って行動するようになったのです。だから、私たち人間は、程度の差はあっても、皆、罪人です。

放蕩息子は落ちぶれてしまったとき、我に返って父のところに帰ろうと決心しました。そして、立ち上がって自分の父のもとに向かいました。正しく人生の方向転換です。

まだ、家まで遠かったのに、父は彼を見つけ、可愛そうに思い、駆け寄って彼を抱き、口付けし、彼を喜んで迎え入れてくれました。放蕩をして、財産を使い果たした哀れな息子を怒鳴り散らすのではなく、駆け寄って彼の首を抱き、口づけし、大歓迎したとあります。この父親が父なる神のことです。神は愛です。心から罪を悔い改めたら真の救いに導かれるのです。

 それでは、聖であり義である父なる神が、悔い改めたからと言って、放蕩息子のような罪ある人間を受け入れてくださったのでしょうか?その答えは、特別な神の愛の業から判ります。それは、イエス・キリストの十字架の贖いです。

 ヨハネの福音書3章16節をお読みします。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 

父なる神は、私たち人間を救うために、御子イエス・キリストを十字架におかけになって、殺されたのです。なぜそのようなむごいことをされたのでしょうか?その理由は、人間の罪を贖う、つまり、“罪のつぐないをする”ことができるのは、罪の全くない方、イエス・キリスト以外に誰もできないことだからです。 イエス・キリストは私たち人間の代わりに罪の裁きを受けて下さり、十字架にかかって死んで3日目によみがえられました。それによって私たち人間の罪の問題を解決する道が準備されたのです。

 それゆえ誰でも心から罪を悔い改め、イエス。キリストを自らの救い主として信じるなら、救われて、永遠のいのちを得ることができるのです。 罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリストにある永遠のいのちです。                     (ローマ人への手紙6:23)

 それにしても、父が最愛の長男を十字架にかけることは本当につらい、苦渋の選択であったと思います。子供が苦しむ姿を見ることは耐え難いものです。

 しかし、このような痛みがあるにもかかわらず、父なる神はキリストの十字架刑を承認なさったのです。それはひとえに、私たち人間を救うためでした。神はご自分が犠牲を払ってまで、罪人を救おうとされた愛の方です。

 神は愛です。生まれながら、罪を持った人間を救うために、イエス・キリストの十字架という大きな犠牲を払ってまで、皆さん一人ひとりを愛して下さる方です。その神が望んでおられるのは皆さんが、罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じて永遠のいのちを持つようになることです。是非、神の深い、大きな愛に応答してください。(牧師:北林行雄記)

この岩の上に マタイの福音書16:15~18

  本日は富山聖書教会の創立記念礼拝です。今から28年前の1995年4月16日(日)に最初の礼拝を私の自宅で持ちました。私たち夫婦と仲井さん親子だけの参加でしたが、喜びと感謝に満たされて、教会の開拓をスタートしました。

私たちの教会は全国的に見ると非常に福音宣教の難しい所と言われるこの地で、ただひたすら主なる神様の召命に従うことによって始まった教会です。

私はカナダのバンクーバーにあるNorthwest Baptist theological Seminary (神学校)の神学修士課程を卒業しましたので、ここ富山県に帰っても、幸いにカナダの宣教師とのパイプがありました。それを通じて福井県にその時おられたダビデ・マーチン宣教師と知り合いになることができました。マーチン宣教師にお会いすると、早速、日本同盟基督教団を紹介されました。その後、教団主催の松原湖研修会などに参加させてもらい、教団に関する学びや日本における教会の実情等をリサーチし、1996年3月の日本同盟基督教団総会に出席して、教団の新任教師たちの就任式が行われ、同時に富山聖書教会と北林行雄牧師の日本同盟基督教団への加入も承認されて今日に至っています。

 私が教会をスタートするにあたり、教会形成の理念として「未伝地域に福音を伝える」をモットーにし、聖書に根差した「キリストのからだを形成する」を目標に掲げて、伝道、牧会を進めてまいりました。

 本日は創立記念礼拝に当たり、「この岩の上に」と題して聖書のマタイの福音書からメッセージをさせていただきます。

イエス様はピリポ・カイザリヤ地方に行かれ、弟子たちに「人々は私のことを誰だと言っているか」と尋ねられました。彼らは「バプテスマのヨハネ、エリヤ、またエレミヤだと言っています」と答えると、弟子たちに向かってイエス様は「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか。」と質問されました。すると、弟子の筆頭であるペテロが「あなたは生ける神の子キリストです。」と答えました。この地ピリポ・カイザリヤには沢山の偶像があったのを見て、それと比較して、ペテロがイエス様は本当に生きておられる神の御子キリストであると確信をもってこのように答えたのです。するとイエス様から非常に重要な意味を持った次のような御ことばが返ってきました。

あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、私の教会を建てます。」と言われました。これはどういう意味でしょうか。皆さん判りますか?エペソ人の手紙2章20~21節の御ことばをお読みします。「使徒たちや預言者たちと言う土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。このキリストにあって、建物の全体が組合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。」

イエス様はペテロを筆頭として、弟子たちの信仰が豊かに成長し、彼らの信仰を土台として開拓中の教会の基礎が築きあげられ、それが全世界に波及していくのを切望されたのではないでしょうか。

 私たちの富山聖書教会も、しっかりとした堅い岩(イエス・キリスト)の上に建てられ、イエスは父なる神の御子であり、私たちの救い主であると言う信仰に立って歩んでいる教会であることを再確認しましょう

特に、私たちの教会の建物はしっかりした岩盤の土地に立っているのです。建築会社の社長さんがそうコメントしておられました。感謝です。皆さんの信仰もますます堅固なものとなりますようお祈りいたします。

 また聖書にはこう書かれています。「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」(Iコリント12:27)

 身体には多くの器官がありますが、それぞれが大切な働きをしています。どれも欠かすことのできないものです。同様に、教会員の皆さんひとりひとりも大切なメンバーです。各自が主から与えられた賜物を用いて、全体の調和を保ちながら、教会の奉仕を自分でできるところから積極的に進めていただきたいと思います。

これからも、皆さんが一層信仰の一致を保ち、互いに仕え合って、主イエス様の身体なる教会を建て上げてまいりましょう。

 私たちの教会は2年後の2025年には教会創立30周年を迎えます。

昨年、新会堂が与えられ、自由に教会活動が行えるようになりました。このような整った環境の下で福音宣教の働きに励んでまいりたいと思います。

教会員皆さんの霊的な理解力が増し加えられ、グループ研究や更なる祈り会が増し加えられ、大きな成長につながりますようにお祈りしております。   教会創立記念日を覚えて———-(牧師:北林行雄記)