内なる人は日々新たにされる コリント人への手紙第二4:7~18

 今お読みいただいた聖書箇所、コリント人への手紙第二4章から特に、以下の三つのことについてお話をさせていただきます。

  • すべてのクリスチャンに与えられている宝は何であるか?
  • 内なる人は日々新たにされるとはどういうことか?
  • 今、生きる私たちはどうあるべきか?

 先ず、1番目の課題から検討する。この手紙の作者パウロは旧約聖書に精通し、律法(十戒)の専門家であった。彼は律法を厳格に守ることによって神の義を獲得しようと努力した。しかし、彼はどれだけ努力しても神の義を得られないことを痛感した。自分の心の中にある自我が邪魔して、罪の思いが湧き出てしまう自分を発見した。彼はローマ人への手紙7章に次のように書かれてある。以下抜粋

私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。(ローマ人への手紙7:22~25)

 パウロは心の葛藤の末、私たち人間の罪の問題の解決はイエス・キリストによるしかないことを発見した。つまり、神の御ひとり子イエス、キリストが私たち人間の贖罪のために、十字架にかかって死んでくださった。それゆえ、イエスを信じる者は救われる(永遠のいのちを持つ)。このこと以外に人が救われる道がないことを確信し、神に感謝をささげた。

 以上のことから、すべてのクリスチャンに与えられている宝は「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識」である(コリント人への手紙第二4:6)。 私たちはこの宝を土の器に入れてある(7節)。土の器は価値のないものを意味し、もろく、こわれやすく、直ぐに傷がつく。これは私たち人間を表しており、神の目から見たら、弱く、小さなものである。しかし、どんなに入れ物が貧弱であっても、中に宝が入っていれば、貴重な存在として扱われる。クリスチャンは幸いである。いつも心のうちにイエス・キリストが宿ってくださるから。

次に2番目の課題について検討する。16節に「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」外なる人、つまり、私たちの身体は高齢になるにつれ、体力的に弱くなっていく。それに付随して、記憶力や気力も衰えてくる。

 しかし、心のうちにイエス・キリストを信じて、日々聖書のことばに養われているなら、毎日が新しい発見であり、喜びが沸き上がり、新しいことに挑戦することができる。しかも、コリント人への手紙第二4章8~9節にあるように、四方八方から苦しめられても、窮することがなく。迫害されても、見捨てられることがなく。倒されても、滅びない。

私は22歳でイエス・キリストを信じ、約50年間教会生活を送っている。毎日聖書を読んで、新たな力を神様から頂いている。聖書を読むことが楽しみで、キリストの十字架の贖いの業を思い浮かべると神の愛と喜び、感謝で満たされる。このようなことは皆さんも体験されているでしょう。毎日のデボーション(御ことばの学びと祈りのとき)で新たな神の恵みに満たされ、一日の霊的な力をいただいで、仕事に向かわれるのではないでしょうか?

イエス・キリストにある信仰によって日々新たにされる、これはクリスチャンの特権です。あなたはどうですか?

 第三の課題に入りましょう。今生きる私たちはどうあるべきでしょうか?日常生活の個々の問題ばかりでなく、大国の覇権争いで、核戦争の危険性が心配される。不安を感じている方がおられるでしょう。このような状況に対して、聖書は次のように語ります。「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」(コリント第二4:18)。そうです。皆さんの生活の中で、常に神を見上げて、あなたのための神の導きを求めましょう。そして、神のなさる御業を見て、神の御名を褒め称えていきましょう。(牧師:北林行雄記)

天に宝を積む マタイの福音書19:16~26

 “Man is mortal”  人間は死すべき運命にある。つまり、人は永遠に生きられないことを意味する。ところが、この聖書の箇所では、ある青年がイエス・キリストに「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいでしょうか。」と訪ねると、イエスは「十戒を守ること、そして財産を売り払って貧しい人に与えよ。そうすれば天に宝を積むことになる。」と回答された。大金持ちであった青年は悲しみながら去った。彼は地上の宝を手放すことができなかった。 地上の宝は金銭や財産に限らず、仕事などで成果を上げて人からの賞賛や地位、名誉などいろいろある。

 それでは、天に宝を積むとはどういうことであるか?このヒントはテモテへの手紙第一6:17~19にある。「今の世で富んでいる人たちに命じなさい。高慢にならず、頼りにならない富にではなく、むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて下さる神に望みを置き、善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え、来るべき世において立派な土台となる物を自分のために蓄え、まことのいのちを得るように命じなさい。」 つまり、神に望みを置き、来たるべき世において土台となるものを蓄えることである。私たちは有事に備えて、必要な物資や資金を準備しておかないと安心できないものである。これは当然である。しかし、地上の富に固執すれば、大切な神の警告を忘れてしまう危険性がある。残念ながら、沢山持っている人ほど貪欲で、困った人に施すことを惜しむ傾向がある。「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が易しい。」(24節)。地上の富に貪欲な人は神の国に入れない。しかし、神にとって不可能なことがないので、そのような人でも、自らの罪を悔い改め、真実に神を求めるなら、主なる神は報いて下さる。

 それゆえ、私たち、特にクリスチャンは神に望みを置き、神のことば(聖書)に従い、信仰の証に励むべきである。友人や知人に聖書のことばを伝え、自分の救われた証をすることも、天に宝を積むことである。また、人々の救いのために祈ること、教会の奉仕をすることなども天に宝を積むことである。

 さらに、隠れた所での奉仕や親切な行いは大変貴重なものである。私の個人的な証であるが、私はイエス・キリストを救い主と信じてから、すごい喜びに満たされた。しかし、それから、しばらくして信仰のスランプに陥った。その時、教会の備えつけの週報ボックスに封筒が入っており、北林行雄兄へと書かれてあるが、差出人の名はなかった。その封筒に3000円と短い手紙が入っていて、「このお金で聖書を買ってください。お祈りしています。」と書かれていた。私がまだ学生で、自分の聖書を購入したいと思っていたので大変励まされた。誰であるかわからないが、自分のことを覚えて祈って下さる。”隠れた親切、隠れた祈り“、これぞクリスチャンの世界であることを実感した。

 天に積まれた宝には虫やさびは決してつくことはない。主の業に励むなら、その宝は増え続け、益々豊かになる。「ですから、わたしの愛する兄弟たち。堅く立って動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(コリント人への手紙第一15章58節)。

 皆さん方が主の業に励み、天にあなたの宝を積んで、より豊かな人生を歩まれ、永遠のいのちの素晴らしさを味わうことができますよう祈ります。(牧師:北林行雄記)

堅く信仰に立って歩もう ペテロの手紙第一5:6~11

 ロシアのウクライナ侵攻からもう半年近くになる。対立するロシアとNATO諸国連合、緊張が高まれば第三次世界大戦へ、そして核戦争の勃発が危惧される。このような不安定な時代に私たちは今生かされている。

本日の聖書箇所、ペテロの手紙第一5章6節から11節までに、時代は異なっているが、使徒ペテロがこの手紙を執筆した時も、同様に試練の中に置かれていて、祈りのために心を整えて身を慎むように勧めた。

若者には特に、長老たち(牧師、教会の指導者たち)に従うことと、謙遜を身に着けるように勧めた。何故、謙遜が大切なのか? それは、神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えて下さるからである。

 次に、大人の一般信徒たちに対する教訓が4つ並べられている。

  • 神の力強い御手の下にへりくだること。
  • 思い煩いをいっさい神に委ねること。
  • 身を慎み、目を覚ましていること。
  • 堅く信仰に立って、悪魔に立ち向かうこと。

 先ず、“へりくだり”について考えよう。私たち人間は皆、自己中心で、傲慢なものである。例えば、小さな子どもたちにおやつをあげる時、どの子供も皆最初に、ぼくに! わたしに! 頂戴!と叫び出す。子どもを幼稚園にやっている時、このような光景を毎日のように目にした。大人だって一緒だ。自分の子が先生から誉められると嬉しく、鼻高々になるが、子どもがうまく答えられなかったら、家でガミガミお説教する。みんな自己中心である。

このような人間(大人)に対してペテロは「神の力強い御手の下にへりくだりなさい。」と勧める。特に終末の時代を迎え、皆が協力して生きていく時代には大切な教訓である。あなたもへりくだることができますか?

イエス・キリストは神の子であり、偉大な力を持った方だ。そのお方が腰に手ぬぐいをまとわれて、12人の弟子一人一人の足を洗われた。先生が弟子の足を洗われたのである。このようにして、主イエスはへりくだることを、身をもって示されたのである。この光景を見ていた使徒ペテロには特に印象的なことだったろう。私たちの主イエス様がこのようにされたなら、我々も主イエスに習ってへりくだることを学ぼう。もしあなたがたがへりくだるなら、神がちょうどよい時にあなたがたを高くしてくださるのである。

 次に、思い煩いの処理について考える。思い煩いとは、いろいろなことを心配し過ぎて、心を一つのことに集中できない状態にあることを意味する。私たちは生きている限り、“思い煩い”に付きまとわれる。学校に行ったらいじめられるのではないか?就職したら、与えられた仕事をきちんとやり遂げることができるだろうか? 結婚、子育て、老後などなど、思い煩いは絶えることがない。

しかし、クリスチャンは幸いである。思い煩いをいっさい神に委ねることができる。そうすれば、全知全能の神があなたがたのことを心配して下さる。ここで、私たちは神に委ねるから、何も考えないでいいと言っているのではない。自分の生き方や学び、人との折衝は自分で考えて、最善がなるよう努力すべきである。

続いて、信仰者に働くサタンの攻撃に対する処理について考える身を慎み、目を覚ましていること。サタンの攻撃は巧妙である。“うまい話”に簡単に引き込まれないように、日頃から、目を覚まして悪いものを見分けて、はっきり断ることが大切である。

最後に一番大切なこと、堅く立って悪魔に立ち向かうことである。サタンの攻撃は巧妙で、かつ、急がせる。うまい話に直ぐ飛びつくのではなく、神の御心であるかどうかよく祈って結論を出すべきである。自分で判断できなければ、牧師に相談し、よく祈ってもらい、時を待つことである。そうすれば、恵みに満ちた神ご自身があなたがたを最善の道に導いて下さるのである。

あなた方がサタンの攻撃にあって、しばらくの苦しみを体験してもその後で、神はあなたを完全にし、堅く立たせ、強くし、不動のものとしてくださる。ただし、私たち人間は、数十年の信仰歴を持ったクリスチャンでも、サタンの誘惑や試練が来れば、悩み、苦しむ時があるのである。その時に最も力になるものは祈りの応援である。教会員皆、主イエス・キリストにある兄弟姉妹、神の家族である。それゆえ、試練に逢った時、一人で悩まないで、必ず、牧師や教会員に祈ってもらうことである。そして、神にあなたがたの思い煩いをいっさい委ねることである。そうすれば、神があなたがたのことを心配し、最善を為してくださる。

あなたがたの思い煩いをいっさい神に委ねなさい。神があなたがたのことを心配して下さるからです。」(ペテロの手紙第一5:7)神の御支配が皆さんの上に世々限りなくありますように!(牧師:北林行雄記)

あなたの道を主に委ねよ 詩篇37:1~7

詩篇37篇は、各区切りが判りやすく、ヘブル語のアルファベットで始められています。全体として、「正しい者」と「悪者」の思想が統一されています。 例えば、1~2節は悪を行う者について語り、3~7節は正しいものの生き方とそれに対する主なる神の祝福について語っています。本日の説教において特に3節の「主に信頼し、善を行え。地に住み、誠実を養え。」を暗唱聖句として取り上げ、「あなたの道を主にゆだねよ。」と題しました。

 ところで、皆さんに二つの質問をします。第一は、皆さんはは自分自身のことをどこまで判っておられますか?心の中にある本当の自分の姿を知っていますか? 第二に、皆さんの心の中にある問題を、どう取り扱って解決へと進みますか? 

先週の月曜日、神岡で開かれた「ほくひ宣教区大会」に出席しました。山口陽一先生から同盟教団の130年の歴史を振り返った、証も交えた良い集会を持つことができました。そこの展示ブースで、学長が編纂された小冊子を手にすることができました。それは山形県にある基督教独立学園高等学校の元校長であり、教育哲学が専門の安積力也先生が東京基督教大学で講演された時のメッセージをまとめたものでした。特に、この小冊子の中で印象的だった記述は、こんな記事でした。そこで、安積力也著<出発する人間>へ 何において“自分を確かに”するか(東京基督教大学2015年度祈祷日講演録)の一部を紹介いたします。

 安積先生が初めて教職について、出会った忘れられない生徒さんの一人のことが書かれています。その生徒は、見るからに優秀で何の心配もない生徒のように思われました。ところが、高校3年の卒業を目前にして、深刻な顔をして相談に来て、自らの心のうちを告白し、「私、このままでは卒業できないんです。」と訴えた。自分は多くの先生や友人、後輩からもしっかりした考えを持っていると思われているが、本当の私は違うのだと。そして自分の頭で考えたことがない。例えば本で読んだ話を論理的にまとめて自分が考えたようにして話しているけど、本当の自分は空っぽなんだと言ってさめざめと泣いたことを。

 先生はそれに対して「あなたはどっかで大切なものをあきらめてしまったみたいだね」と返答すると、一人っ子で可愛がられスムーズに育ってきたが、小学1年生の時に嫌いな算数の宿題が嫌で母親にそのことを強く訴えた時の衝撃。これまで優しかった母親が鬼のようになって怒ったこと、その衝撃が今までずーっと残っていること。そして、彼女は「小さな時から、私は考えちゃいけないんだ、言われた通りのことをしなくちゃいけないんだ。」と思うようになってしまった」。しかし、安積先生と話したら、彼女の頭の奥で凍りついていたものが溶け始めた。そして、毎朝の礼拝の時間に、一人で祈るようになった。神様への祈りは嘘をつかなくていい世界なのだと判った。自分の思いをすべて打ち明けていい。

 教会の皆さんもご存じの方がおられると思いますが、この安積先生とは、私たちの一人息子Tの独立学園入学を通して出会いました。あの時、主の導きで崖の絶壁に立たされている最も困難な状況の中で、先生に出逢えたのは本当に一筋の光でした

 元気で明るくピチピチしていた息子、近所の上級生から受けた“ひどい言葉”と暴力のいじめに遭い、生きるか死ぬかの瀬戸際の状態にまで落ち込み、自らの出生に悩み、不登校となり、家庭内暴力や自傷行為にまで至りました。私は彼と付き合い、身も心も疲れ果てていた時、かつての友人から頂いた独立学園の本を思い出したのです。それを読んで「彼が回復するにはここに行くしかない!」と示され、はるばる遠くまで試験を受けに行きました。その時の最終面接が安積校長とのものでありました。先生からTが出生のことを聞かれ、大粒の涙を流して面接室から出て来ました。その後、私との面接の時、安積校長は次のように言われました。「T君は大変重いものを背負っています。これを克服することは並大抵なことではありません。しかし、これを克服したら、素晴らしい人物になります。」

 安積校長は入学した生徒すべてに「皆さんは、これまで人には絶対見せたことのない自分が心の中にうごめいていませんか?」と質問し、「内なる自己」を認識するよう勧められた。

 先程紹介しました優秀な女子生徒が、全知全能なる神の前に心をふり注いで祈る世界は「嘘をつかなくてよい世界」とわかったのです。私たちには明日のことはわかりません。ですから、日々の祈りの中で、あなたの道を主なる神に委ねましょう。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる。」(6節)

あなたの人生も波瀾万丈かもしれません。またいつどこで戦争が勃発するかわからない不安な世界です。自分の健康や家族のことなど、心配事はたえません。しかし詩篇作者はこう激励します。「主に信頼し、善を行え。地に住み、誠実を養え。」いつも主に信頼し、祈りによって主から力を受けて信仰の証に励みましょう。(牧師:北林行雄記)

悪霊を追い出された主イエス ルカの福音書9:37~45

 今日の聖書の箇所から本当の悪霊を追い出す力を持った方、すなわち、神の御子イエス・キリストとはどういうお方かを共に考えたいと思います。また、緊急事態の時にどうして弟子たちには悪霊を追い出すことができなかったのか?そして、主イエスの悪霊につかれた人の癒しの御業を通して私たちに何を教えようとされたかについて考えてみましょう。

主イエスは12人の弟子たちに、すべての悪霊を制して、病気をいやす力と権威をお与えになりました(ルカの福音書9章1節)。そして、祈るために3人の弟子(ペテロ、ヨハネ、ヤコブ)を連れて山に登られました。翌日、山から降りると、悪霊に取りつかれたひとり息子を持つ父親が悪霊を追い出して欲しいと懇願しました。しかも、弟子たちにお願いしても、悪霊を追い出せなかったことを伝えました。

 主イエスは人々の不信仰を悲しまれ、息子に取りついた悪霊を叱り、その子を癒して父親に渡されました。弟子たちが悪霊を追い出せなかったのは何故でしょうか?その理由は43節から判ります。すなわち、主がなされた悪霊追い出しと癒しの奇跡を見て、「人々はみな、神の偉大さに驚嘆した。」ことです。つまり、この奇跡は、イエスは神の子であり、特別な方であることを人々に示すためのものであり、弟子の力を必要としなかったからです。

 そして、弟子たちに、「あなたがたは、これらのことばを自分の耳に入れておきなさい。人の子(主イエス)は、人々の手に渡されようとしています。」(44節)と言われました。弟子たちには理解できませんでしたが、主イエスはこれから起きる自らの受難、つまり、主イエスご自身が捕えられて、十字架にかかり、私たち人間の一切の罪を背負い、十字架にかかって死んでくだることを予告されたのです。

 その後、この予告通り、イエス・キリストの十字架の死と復活がおきました。そして、私たちの罪の問題を解決してくださったのです。私たち人間の罪を贖うため、神のひとり子イエスが十字架にかかって死んでくださったとは、なんと測り知れない大きな愛でしょう。この素晴らしい神の愛に感謝し、永遠のいのちに至る希望を持って、イエス・キリストにある信仰をもって地上生涯を力強く歩みましょう。

 私たちの教会は日本同盟基督教団に属しています。この教団はアメリカから派遣された宣教師たちによる、福音宣教によって生み出され、成長した教団です。この宣教団スカンジナビア・アライアンス・ミッシヨンの結成はフレデリック・フランソンによるものです。 彼はミッションの礎石(土台の石)を信仰と希望と愛の3点に置きました。

 現在、世界は不穏な状態ですが、主イエス・キリストにある信仰と希望と愛をもって歩みましょう。困難が襲って来ても、恐れることなく、主に信頼することが大切です。なぜなら、「主は真実な方です。あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます。」                       (テサロニケ人への手紙第二3章3節)。最後に、主の豊かな祝福が皆様の上に豊かにありますようお祈りします。(牧師:北林行雄記)

主の御心の実践チーム 出エジプト記4:1~17

モーセはイスラエル民族のレビ人の両親から生まれ、まだ赤子の時にナイル川の葦の茂みに置かれたが、すぐにパロの娘に拾い上げられ、王女の息子として育てられた。エジプトのあらゆる学問を受けて成長した。 モーセが40歳になった頃、同胞イスラエル人を奴隷の苦しみから救おうとしたが、同国人に受け入れられず、ミデヤンの地に逃れた。それから40年後に、主なる神がモーセをイスラエルの指導者として召し出された。(出エジプト3:4~10) 神はモーセに次のように仰せられた。イスラエルの民に「あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたがたのところに私を遣わされた。」と言え(15節)、さらに長老たちを集めて「主なる神は、あなたがたのこと、また、エジプトであなたがたに対してなされていることを、必ず顧みる。」と言いなさい。

 モーセは主に答えた。「彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょうむしろ、『主はあなたがたに現れなかった。』と言うでしょう。」彼はイスラエルの長老や民がモーセのことばを素直に受け入れないことを、40歳の時にモーセがイスラエル人に受け入れられなかった自らの体験から判っていたのだろう。

 そこで、主はモーセがもつで奇跡を行われた。モーセが杖を地に投げるとそれがに変わった。続いて、手を伸ばして、蛇の尾をつかむと手の中で杖に変わった。手を懐に入れると雪のように白くなった。もう一度入れると元のようになった。 これら二つの奇跡を行っても、イスラエルの民がモーセのことばに聞き従わなかったら、ナイル川の水を汲んで、渇いた地面に注ぎなさい。すると、ナイル川から汲んだ水は渇いた地面の上で血となる。

 主はモーセがイスラエルの民に知らせるために、以上3つの奇跡を準備して下さった。これだけあれば充分なはずであるが、モーセはなおも拒んで主に言った。「ああわが主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く舌が重いのです。」(10節)。モーセは学識もあり、しっかりとした考えもある人物であるが、口下手でどもりであったらしい。

 主はモーセに「人に口をつけたのはわたし、主である。わたしがあなたの口とともにあってあなたが語るべきことを教える。」と言われた。それにも拘わらず、モーセは拒んで、「ああ、わが主よ、どうか他の人を遣わしてください。と言った。彼は言い訳の出来ない強情さで反発した。

 すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう言われた。「あなたの兄レビ人アロンがいるではないか。…見よ彼はあなたに会いに出て来ている。」 主はアロンが雄弁である事、弟モーセに会いたがっていることを充分承知の上で、二人のチームミニストリーを宣言された。その内容は、「私(主)は、あなた(モーセ)の口とともにあり、また彼(アロン)のくちとともにあって、あなたがた(モーセとアロン)がなすべきことを教える。」(15節)。モーセはエジプトで十分な教育を受け、判断力も優れ、主なる神によってえらばれた指導者であった。しかし、彼は会話力に弱さがあった。その弱点をアロンがカバーし主の言葉をモーセに変わって伝達した。アロンの語るべきことはモーセが主から示されて、それをアロンに伝えた。モーセとアロンの協力によって、イスラエル人の出エジプトという神の御業が遂行された。 チームミニストリーにはお互いに相手のことを考え、共に協力し合うことが大切である。教会はキリストにある神の家族で、教会員ひとりひとりはお互いにキリストにつながった兄弟姉妹である。お互いに相手のことを考え、主の奉仕と信仰の証に努めることが大切である。各人が持っている賜物を活かし、皆が喜んで奉仕し、豊かな実を結ぶ教会を目指して励もう。(牧師:北林行雄記)

結婚の奥義 マタイの福音書19:3~12

イエス・キリストが行かれる所にはいつも大勢の群衆が集まりました。すると、パリサイ人たちがイエスをことばのわなにかけようとしてやって来ました。彼らはイエスに「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっていることでしょうか。」と質問しました。

これに対して主イエスは結婚の本質、結婚の奥義を語られました。天地万物を創造された主なる神は、「初めの時から男と女に人間を創造された」(マタイ19章:4節)。その目的は「男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、二人は一体となる」(5節)ためです。これが結婚の本質で、神が定めたものです。つまり、男同士の結婚や女同士の結婚はありません。

 しかも、男と女は結婚して、二人は一体となる。つまり、社会的、法的に一つの単位として認められます。もちろん、神の前に一体として認められたものであり、「神が結び合わせたものを人は引き離してはならない。」(6節)のです。

この本質を忘れて、若い男女がただ自分の好みに合う、相思相愛であるというだけで、結婚したために悲惨な結果になった例は世の中にかなりあります。 現代はモラルが著しく低下した時代です。もし、結婚の危機に遭遇したら、結婚の誓約を思い出すべきです。

 次に、パリサイ人たちがした質問に対して、イエスはモーセが離縁状を渡して妻と離別せよと命じたのは、あなたがたの心が頑ななので、モーセがそれを許したのであり、最初からそうでなかったと回答された。そして、9節「だれでも淫らな行い以外での理由で、自分の妻を離別し、別の女を妻とする者は姦淫を犯すことになるのです。」と言われた。

 これを聞いた弟子たちが「それじゃ、結婚しないほうがましだ」というと、主イエスは生涯独身でいることが認められる人について12節で3種類のタイプを説明された。①母の胎から独身者として生まれた者、②人から独身者にされた者(宮廷の寝室に仕える宦官)、➂神の御用に仕えるために献身した独身者。例えば、婦人宣教師として召命を受けた人たちが該当します。

 そこで、改めて結婚の奥義について考えてみましょう。創世記1章27~28節

 神は人を御自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「産めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。

 ①私たち人間は神のかたちに創造された。私たちは通常、“かたち”と言えば、形状や姿を連想しますが、私たちは神の姿を肉眼で見ることが出来ません。それゆえ、神のかたちは人間の内面、思考や感情、創作能力、統率や指導力、信仰を通して神の御意志を読み取る能力etc.が考えられます。

②男と女とに創造された。男と女、別人格として神のかたちに創造された。それぞれの賜物が異なる。

➂男と女の組み合わせ、つまり、結婚を通して、新たないのちが与えられる。

➃子孫が次々と誕生することを通して、地上に人が増えていく。

➄自然界を正しく管理する責任を人に任せられた。

 結婚は全知全能の神の祝福です。私たちはこのことを大いに感謝すると共に、謙遜に神から与えられた使命を全うする者でなければなりません。サタンの誘惑にあって高ぶって傲慢になり、己を神とすることのないように十分注意しなければなりません。

 結婚生活で忘れてはならないのが夫婦間の愛です。本当の愛は自己犠牲の愛です。これは、イエス・キリストが示された愛、私たち人間を救うために十字架にかかって死んで下さいました。この愛に習って、夫婦が互いの幸せのために、自分を犠牲にしてまで相手に尽くす気持ちで共に生活することです。そうすれば、どんな困難が襲って来ても、愛と喜びに満ちた家庭を築くことができます。

最後に、神の恵みによって導かれた皆さんの結婚生活がさらに祝福される秘訣は、

  • 短い時間でも、毎日必ず、家庭礼拝のときを持つこと。
  • 夫婦そろって祈り、聖書から神のみことばの糧を得ること。
  • ふたりの間で意見の相違がある事が起きた場合は、キリストの愛で満たされるまで、静まって神の前に告白し、祈りに専念すること。
  • 夜、就寝前には、その日受けた恵みを分かち合って、主なる神に感謝の祈りをささげること。

皆さんの結婚生活が祝福されますように。また、将来結婚する若い皆さんも、主にある信仰と希望をもって、力強く歩んでください。主なる神の祝福を祈りつつ。(牧師:北林行雄記)

主と共に生きる喜び 詩篇34:1~22

人生は山あり、谷あり、絶好調の時もあれば、どん底の時もある。私たち人間は自己中心的な者で、いろいろな働きが順調に行っている時は、有頂天になってあまり祈らなくなり、神に感謝することも少なくなってしまう。ところが、どん底になると、必死に助けを求めて祈る傾向がある。 主なる神はこのようなわがままな私たち人間を愛し、決して見放すことなく、助けを与え困難な状況から、脱出する道を与えて下さる方である。本当に感謝なことである。 私たちは一人の信仰者、クリスチャンとして、願わくば、どんな状況の中にあっても神を賛美し、真心をもって主に祈り、いつも感謝をする者でありたい。

 今朝は一人の信仰者が歩んだ体験から歌った詩篇34篇から学びたい。この詩篇は3つの要素から構成されている。1~3節が神への賛美、4~10節は祈り、11~22節は教えと信仰である。

 この詩篇はダビデによるもので、彼がアビメレクの前で、頭がおかしくなったように振る舞い、彼に追われて去った時に歌ったものと考えられている。 ダビデは羊飼いであったが、石投げと一つの石でペリシテ人の大男ゴリアテに勝利し(サムエル記第一17:41~50)、サウル王に用いられて戦果を上げた。そのため民衆から、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」と評判になった。それがサウル王に妬まれて命を狙われるようになった。そこで、ダビデはガテの王アキシュの所へ逃れた。

しかし、アキシュの家来にダビデの素性が見破られたので、ダビデは彼らの前で気が狂ったようにふるまい、捕えられて狂ったふりをし、門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを流したりした。かつての英雄ダビデにふさわしくない姿になり下がった彼を神は救ってくださった。実に主なる神は恵み深い方である。それ故、ダビデは真心を込めて、「私はあらゆるときに、主をほめたたえる。私の口にはいつも主への賛美がある。私の魂は主を誇る。貧しいものはそれを聞いて喜ぶ。私とともに主をほめよ。一つになって御名をあがめよう。」(1~3節)と歌った。

 その後、逃亡中のダビデのもとに彼の家族や親族、かつての部下たちがやって来て600人ほどになった。そのため、自分のことばかりではなく、彼らのためにも祈る必要が生じた。4節から10節まで「祈り」について書いてある。 「私が主を求めると、主は答え、すべての恐怖から、わたしを救い出してくださった。」(4節)と祈りが聞かれた個人的な体験を語った。

 続いて、彼に従ってきた人々のために祈った回答について5~6節に表した。「主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。彼らの顔は辱められることがない。この苦しむ者が呼ぶと主は聞かれ、すべての苦難から、救ってくださった。」(5~6節) 私たち信仰者がどんな厳しい状況に置かれても、「主の使いは主を恐れる者の周りに陣を張り彼らを助け出される。」(7節)それ故、私たちは何があっても恐れることなく堅い信仰を持って歩むべきである。 

 さらに、8~10節に主なる神を信じ、祈りの生活を歩む者の幸いが書かれてある。主を恐れる者は乏しいことがなく、主を求める者は良いものに何一つ欠けることがない。信仰者の日々の必要を主はいつも満たしてくださるのである

   第3の要素は教えと信仰である。11節に「来なさい。子たちよ、私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。」。つまり、大切な教えの第一が主を恐れることである。「主を恐れることが知恵の始まりである。」(箴言9:10)。それゆえ、人間が最初に学ばなければならないのは全知全能の主なる神を恐れ、従うことである。

 主に恐れて主に従い続けることはすばらしい祝福を受けるが、同時にいろいろな苦難も待ち構えている。しかし、恐れることはない。「主の目は、正しい人たちの上にあり、主の耳は、彼らの叫びに傾けられる。」(15節)ので、正しい人がその困難の中から救い出されるのである。「苦しむ者が叫ぶと、主は聞かれ、そのすべてから救い出してくださる。」(17節)

主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。」(18節)。

正しい人には苦しみが多い。しかし主なる神はそのすべてから救い出して下さる。」(19節)。「は、そのしもべの魂を贖い出される。主に身を避ける人は、だれも責めを負わない。」(22節)。私たち人間は生まれながら罪がある。その罪を贖うためにイエス・キリストは十字架にかかって死んでくださった。

 主なる神とともに生きるなら、たとえどんな困難が襲って来ても、主がそこから救い出してくださるので、何の心配もない。「若い獅子も乏しくなり、飢える。しかし、主を求める者は良いものに何一つ欠けることがない。」(詩篇34:10)。 それゆえに厳しい現実、不穏な世界の中にあっても、皆さん信仰を堅く持って、力強く生きていきましょう。(牧師:北林行雄記)

キリストにある永遠のいのち ルカの福音書9:18~27

主イエスは群衆が自分のことを誰だと言っているか?と弟子たちに尋ねられた後、彼らに「あなたがたはわたしを誰だと言いますか?」と聞かれた。すると弟子の筆頭であるペテロが「神のキリストです。」と答えた(ルカ9:20)。“神のキリスト”とは、神により油注がれた者、メシアであることを意味する。つまり、イエスは神の権威と力を持つ方であると答えた。

 すると、イエスは即座に弟子たちを戒め、このことを誰にも話さないように命じられた。その理由は、主イエスの十字架を、復活以前であり、弟子たちがイエスのことを大胆に証する時がまだ来ていなかったからである。ペンテコステの時に弟子たちは聖霊に満たされて、大胆にイエスのことを証した。「このイエスを神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。」(使徒の働き2:32~33)。

 続いて、イエスは語られた。ルカの福音書9章22節「人の子(イエス)は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない。」イエス・キリストの十字架の死と復活を予告された。

そして、弟子たち皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(23節)。これは、弟子たちばかりでなく、私たち一人一人に対しても、主イエスが呼びかけておられることばである。

24節の「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」。つまり、自己中心な思いを捨てて罪を悔い改めてイエスを信じ、従う者は救われる。すなわち、永遠のいのちを持つことができる。そうでないものは滅びる。人は全世界を手に入れても、自分自身を失い(神の裁きを受け、新たないのちに預かれない)、損じたら、何の益もない。

 次に“永遠のいのち”について考察する。(新キリスト教辞典参考)

  • 永遠のいのちとは、本質的に神のいのち、神に属するいのちである。

イエスは彼に言われた。「私が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければだれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネの福音書14:6)

私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。(ヨハネの手紙第一5:20)

  • 永遠のいのちとは時間を超越した神の世界、神の国に生きるいのち、神に救われたいのちである。神とキリストを「知り」永遠なる神とキリストとの交わりに生きる時に、人は神のいのち、永遠のいのちにあずかる。(ヨハネ17:3)
  • 死後にキリストにあってよみがえらされて、生かされる新しいいのち、復活のいのちである。「わたしはよみがえりです。いのちです。私を信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)。

27節にある、「ここに立っている人たちの中には、神の国を見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」において“神の国を見る”とは全世界に福音が伝えられ、聖霊の働きにより、世界各地で救われる人々が次々と起きてくる時を指す。

 ところで人間は誰しも皆、生まれながら自己中心という罪を持っている。自我が強い人、プライドの高い人、うなじのこわい人、自分の弱さを認めず人の非難ばかりする人等などいろいろある。このような罪深い私たち人間は、もっと主の助けが必要なのは言うまでもない。そのためには、私たちがどこに行っても聖書を持参し、困難に直面した時は主に祈りつつ、御ことばを読むことである。そうすれば聖霊が働かれ、新たな力がわいてくる。

 以上まとめると、クリスチャンは、永遠のいのちが約束されている。それ故、私たちがいつどこにいてもイエス・キリストとの交わりを大切にすることである。聖書のことばを吟味し、何をするにも主の導きを求めて祈りに専念し、示されることをしっかりと実践しようではありませんか。皆さんの上に主なる神の豊かな祝福があらんことを!(牧師:北林行雄記)

キリストにある永遠のいのち ルカの福音書9:18~27

 

主イエスは群衆が自分のことを誰だと言っているか?と弟子たちに尋ねられた後、彼らに「あなたがたはわたしを誰だと言いますか?」と聞かれた。すると弟子の筆頭であるペテロが「神のキリストです。」と答えた(ルカ9:20)。“神のキリスト”とは、神により油注がれた者、メシアであることを意味する。つまり、イエスは神の権威と力を持つ方であると答えた。

 すると、イエスは即座に弟子たちを戒め、このことを誰にも話さないように命じられた。その理由は、主イエスの十字架を、復活以前であり、弟子たちがイエスのことを大胆に証する時がまだ来ていなかったからである。ペンテコステの時に弟子たちは聖霊に満たされて、大胆にイエスのことを証した。「このイエスを神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。」(使徒の働き2:32~33)。

 続いて、イエスは語られた。ルカの福音書9章22節「人の子(イエス)は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない。」イエス・キリストの十字架の死と復活を予告された。

そして、弟子たち皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(23節)。これは、弟子たちばかりでなく、私たち一人一人に対しても、主イエスが呼びかけておられることばである。

24節の「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」つまり、自己中心な思いを捨てて罪を悔い改めてイエスを信じ、従う者は救われる。すなわち、永遠のいのちを持つことができる。そうでないものは滅びる。

人は全世界を手に入れても、自分自身を失い(神の裁きを受け、新たないのちに預かれない)、損じたら、何の益もない。

 次に“永遠のいのち”について考察する。(新キリスト教辞典参考)

  • 永遠のいのちとは、本質的に神のいのち、神に属するいのちである。イエスは彼に言われた。「私が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければだれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネの福音書14:6) 私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。(ヨハネの手紙第一5:20)
  • 永遠のいのちとは時間を超越した神の世界、神の国に生きるいのち、神に救われたいのちである。神とキリストを「知り」永遠なる神とキリストとの交わりに生きる時に、人は神のいのち、永遠のいのちにあずかる。(ヨハネ17:3)
  • 死後にキリストにあってよみがえらされて、生かされる新しいいのち、復活のいのちである。「わたしはよみがえりです。いのちです。私を信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)。

27節にある「ここに立っている人たちの中には、神の国を見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」において“神の国を見る”とは全世界に福音が伝えられ、聖霊の働きにより、世界各地で救われる人々が次々と起きてくる時を指す。

 ところで人間は誰しも皆、生まれながら自己中心という罪を持っている。自我が強い人、プライドの高い人、うなじのこわい人、自分の弱さを認めず人の非難ばかりする人等などいろいろある。このような罪深い私たち人間は、もっと主の助けが必要なのは言うまでもない。そのためには、私たちがどこに行っても聖書を持参し、困難に直面した時は主に祈りつつ、御ことばを読むことである。そうすれば聖霊が働かれ、新たな力がわいてくる。

 以上まとめると、クリスチャンは、永遠のいのちが約束されている。それ故、私たちがいつどこにいてもイエス・キリストとの交わりを大切にすることである。聖書のことばを吟味し、何をするにも主の導きを求めて祈りに専念し、示されることをしっかりと実践しようではありませんか。皆さんの上に主なる神の豊かな祝福があらんことを!(牧師:北林行雄記)