良きサマリヤ人 ルカの福音書10:25~37

今朝は主イエスが語られた有名な「サマリヤ人のたとえ」から学びます。ユダヤ人の律法の専門家が主イエスを試して「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」と聞きました。それに対して、主イエスは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)と「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(レビ19:18)という御ことばを実行することであると答えられました。それでも、律法の専門家は自分が正しいことを示そうとして「私の隣人とは誰ですか」と言った質問に答えるために、以下の「良きサマリヤ人」のたとえを話されました。

ある人がエリコに向かう道中、強盗に襲われて半殺しの状態になった。そこを祭司やレビ人が通りかかったが、何もしないで、反対側を通り過ぎて行った。しかし、サマリヤ人がそこに来合せ、彼を可哀そうに思って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、彼を家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱した。しかも、宿屋の主人にお金を渡して、この人の介抱を頼んだ。サマリヤ人はユダヤ人と関係が悪かったが、それにも拘わらず、この人はユダヤ人の怪我人を助けた。その行為は彼の真実の愛から出たことであった。

皆さんは、道ばたに重傷を負った怪我人を見つけた場合、どうしますか?主イエスは「あなたも行って同じようにしなさい。」と言われました(同10:37)。今日の日本社会において、あおり運転や、突然の通り魔で全く関係のない人が多数被害に会う事件が続発しています。このような現場に遭遇したら、まず110番通報し、警察が到着するまで、被害に遭った人を優しく、愛をもって見守ってあげることです。聖書の時代と違って、今日、予想外で複雑の問題が沢山あります。私は民生委員を9年間、継続してさせて頂いています。複雑な社会問題には、警察や行政、社会福祉協議会や医療関係者と連携を取って進めることが必要であることを体験から実感しております。

 ところで、私たち人間の“真の救い主”であるイエス・キリストはこのサマリヤ人以上のことをされました。キリストは私たち人間を救うために十字架上で命を捨てられたのです。これ以上の愛はどこにもありません。教会はキリストのからだであり(エペソ1:23)、キリストの愛を実感できるところです。世の中はいろいろな問題で、恐怖感や不信感が増大していますが、教会は温かいところです。イエス・キリストの愛に接して、自己中心的で弱い人々が徐々に”キリストに似た者“に変えられて行くところです。

イエスにある兄弟姉妹は互いに祈りあい、助け合うことができます。その愛をもって、教会の外にいる人たちにも接しましょう。「私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」(Ⅰヨハネ3:18)。 (牧師:北林行雄記)

背信の罪と主の裁き ヨシュア記7:2~13

ヨシュアに率いられたイスラエルの民は堅固な城壁で固められていたエリコを征服し、約束の地カナンに入ることができ、士気が高まっていました。その状態で小国のアイを簡単に制圧できると考えたが、千メートルも高い地にあるアイから敵軍が攻めて来たので、イスラエル軍は退却し、兵士36人が死亡して戦いに負けてしまいました(ヨシュア7:3~5)。このため、ヨシュアもイスラエルの民も大きな衝撃を受け、民の心が萎え、水のようになりました。ヨシュアは着物を裂き、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、頭に塵をかぶって、次のように主の前で嘆きの祈りをしました。「ああ、神、主よ。あなたはどうして私たちをエモリ人の手に渡して、滅ぼそうとされるのですか。カナン人やこの地の住民が、私たちを攻め囲み、私たちの名を地から絶ってしまうでしょう。あなたの大いなる御名のために、何をなさろうとするのですか。」(同7:7~8)

何故、このようなことが起きたのか。その理由は、イスラエルの民の中で、主が命じられた契約を破り、聖絶のものを盗んだ者がいたからです。なお、“聖絶”とは、神のものとして完全に絶ち滅ぼし、人の使用を禁じ、完全に神のものとして神にささげるという意味です。 

 なる神はヨシュアに次のように仰せられました。「あなたはどうしてそのようにひれ伏しているのか。イスラエルは罪を犯した。現に、彼らは、わたしが彼らに命じたわたしの契約を破り、聖絶のものの中から取り、盗み、偽って、それを自分たちのものの中に入れさえした。彼らが聖絶のものとなったからである。あなたがたのうちから、その聖絶のものを一掃してしまわないなら、わたしはもはやあなたがたとともにはいない。」(同7::11~13)

 聖絶のものを盗んだのはユダ部族のゼラフ人の氏族ザブデイの子で、カルミの子アカンでした。彼はシヌアルの美しい外套(高級品)1枚と銀200シェケル(1シェケルは11.4g)と50シェケルの金の延べ棒を見て、欲しくなり、自分の天幕の中の地面の下に隠したのです。このようにして、アカンは聖絶のものを盗み、なる神を裏切る大罪を犯してしまったのです。そのため、彼と、彼の家族、牛などの家畜は殺され、彼の所有物は火で焼かれ、アコルの谷で聖絶されました(同7:24~25)。の契約はイスラエルの民全体と結ばれたものです。それゆえ、イスラエルの中の一人が罪を犯しても、民全体に被害が及ぶ結果となったのです。との契約は厳粛で聖なるものです。

 しかし、なる神は厳しいだけの方ではありません。は愛の方です。私たち人間は不完全な者であり、皆、生まれながら罪があり、誘惑に負けてしまうものです。だから、神の命令を完全に守り切ることができません。そのような人間を救うために、なる神の御子イエス・キリストが十字架にかかり、われら人間の罪を贖ってくださいました。それゆえ、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)。つまり、私たちが罪の誘惑に負けてしまった場合でも、神の前に自分の罪を告白して、真に悔い改めるなら、主は私たちを赦し、悪からきよめてくださるのです。クリスチャンの信仰生活は、ある意味で、日々悔い改めの積み重ねです。そして、そこから、神の赦しを受けて、御心に従う新たなことにチャレンジする力が与えられるのです。 既に信仰をお持ちの方には更に実り多い信仰生活となりますように! また、まだ信仰の決断をされていない方には、神の愛と恵みを理解することができますように、お祈り申し上げます。 (牧師:北林行雄記)

クリスチャンとこの世 コロサイ人への手紙4:2~6

使徒パウロはコロサイ教会に「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈るように」伝えました(コロサイ4:2)。祈りはクリスチャンにとって、この世の誘惑と試練に打ち勝つための最大の武器であります。先週、私たちの教会員である90歳の女性が胃がんの手術を受けました。「超高齢の身体に長時間の手術が耐えられるだろうか?」と心配でしたので、水曜祈祷会に出席した全員が、心を合わせて、この姉妹の手術の成功を祈りました。さらに、翌日の手術が実施される予定時刻にも熱心に祈りました。すると、その姉妹の娘さんから、夕方、「3時間半に及ぶ手術が成功し、ガンの箇所を全部摘出することができました。お祈り有難うございました。もし、この手術が遅れたら、末期状態にあるガンが他の臓器に転移する状況にあったのです。」というメールが届き、直ぐに私たちは感謝の祈りをささげました。 “イエス・キリストの名によって祈る”なら、その祈りは聞かれるのです(ヨハネ14:13)。

 続いて、パウロは「神が御ことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように祈ってください。また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください」と伝えました(コロサイ4:3~4)。彼はその時、牢獄におり、辛く厳しい環境に置かれていました。このような状態にあっても、パウロの願うところはいつも福音宣教が第一の祈りの課題でした。彼はローマで処刑されて生涯を閉じますが、その祈りのリクエストの通り、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許され、満2年の間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちを皆迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えることができました(使徒28:30~31)。

最後の勧めとして、パウロはこの世の人々に福音を正しく伝え、信仰の証をするための大切なポイントを語りました。すなわち、「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。」(コロサイ4:5~6)。

外部の人、つまり、イエス・キリストのことをよく知らない未信者の人達に福音を伝えるとき、彼らに失礼なことを言ってつまずきを与えて聴く耳を失わせないように、賢明にふるまうこと。さらに、彼らが聖書に対して関心を持って来た時、それを見逃さず、好機を生かして福音を有効に伝えることが、大切な第一のポイントです。

 また、あなたがたが語ることばにおいても、聞く人の気持ちを配慮して、聖書のことばが相手の心に届くように語り、味があって退屈にさせないようにすることが第二のポイントです。そのことにより、ひとりひとりに対する答え方がわかるのです。つまり、聞く人の個性に応じて、最も適した対応が取れるようになるということです。このことについてもう少し詳しく説明いたします。

 私の尊敬する吉持章先生が6月14日に83歳で召天されました。先生は家庭の中で不遇な少年時代を過ごされ、大工の見習いになられた。17歳の時に自分の将来に絶望して、ヤクザになろうと岡崎城の公園をさまよっていたとき、天幕伝道で語られた福音を聴いて、回心し、イエス・キリストを信じ、その後の生涯を常に神と共に歩まれ、素晴らしい業績を残された先生です。この先生に私は大変可愛がっていただきました。

2012年6月に行った私たちの教会の特別伝道礼拝と信徒研修会の講師に、吉持章先生をお迎えしました。その集会は大変恵まれました。特に、先生は自分の生き方を赤裸々に語られ、どんな時もイエス・キリストを信じて歩まれた証は感動的でした。集会が終わった後、先生からいろいろとアドバイスを頂きました。その一つを今から紹介します。

吉持先生は河原に行っていろいろな石を拾つたり、山に行って木株を拾ってくるのが趣味でした。拾った石は、それぞれ、曲がったものもあれば、角ばったものも、傷ついたものもある。それら癖のある石を回しながら、いろいろな角度から見ると、どこか良い点、何か光るものが見えてくる。その光る部分を磨いていくことにより、素晴らしい飾り物になる。 教会にはいろいろな人がやって来る。へそ曲がりの人もあれば、角立てる人や、心が傷ついた人もいる。そういう人であっても、良いところが必ずある。その良いところを磨いてあげれば、素晴らしいクリスチャンになる。また、未信者についても、福音を全く受け入れようとしない堅い岩のような人であっても、その人に拠り添って、話をよく聞いてあげると、自分から聖書のことばを求めて来るようになる。とにかく、ひとりひとりの個性を尊重して、忍耐深く伝道、あるいは牧会することが大切であると教わりました。その後、私は、先生のアドバイスに従って、できるだけ教会の皆さんの意見や、地域社会の人々との交わりを大切にして、信頼関係を構築することに努めてまいりました。そのことを通して、自分の信仰や教会についても認めてもらえるようになり、沢山の恵みを味わってきました。ぜひ皆様も、パウロが教えたアドバイスにチャレンジしてみてください。皆様の上に主なる神の豊かな祝福がありますようお祈りします。 (牧師:北林行雄記)

岩の上に建てた人生 マタイの福音書7:24~27

イエス・キリストは「岩の上に建てられた家は雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けても倒れなかったが、砂の上に建てられた家はひどく倒れた。」というたとえを話されて、「わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます」と言われました(マタイ7:24)。ここで、家は私たちの人生を、岩は「イエス・キリストのことば」を意味します。すなわち、主イエスが山に登って、群衆にお話しになった “山上の垂訓”で、主イエスの教えのことです。

 建築された家の土台は見えませんが、洪水や台風が来て、その真価が明らかになります。

皆さんの人生の土台はいかがでしょうか?平穏な日々を過ごされているときは何事もないでしょうが、人生の大きな試練に直面したときは大丈夫でしょうか?

 聖書は天地万物の創造者である神のことばであり、神のひとり子イエス・キリストのことばです。宇宙や人間の始まりから将来の出来事に至るまで、しかも、私たち人間の心の問題である罪の解決と魂の救いの方法まで記載されています。

 人生の諸問題は複雑多岐にわたり、時代と共に激しく変化しています。現代社会は主イエスの時代と大きく異なりますが、主イエスのことばを今の私たちの生活の中にどのように適用したら良いでしょうか。

そこで、砂の上に家を建てた愚かな人のことを考えてみましょう。彼は土台のことを十分考えないで、簡単な気持ちで建てたと思われます。現代はそんな建て方は全く認可されません。家を建てるときは堅い岩盤がある所まで地面を掘り、寸法通りにコンクリートの基礎を作ります。同様なことが、人間の心の面で行われている国があります。イスラエルの人々は小さい時から子供に聖書を教え、自分たちも日常生活の中で実践しています(申命記6:7~8)。私たちも聖書を毎日読むことが大切です。読み方は各自のペースに合わせればよいと思います。「今日読むところは、今の自分に何を教えているか理解できるように」と、祈り求めながら読むことをお勧めします。

聖書のことばは、あなたの人生を豊かにします。そして、地上生涯を終えた後も、主なる神の祝福にあずかり、イエス・キリストを信じる信仰によって永遠の御国に入ることが約束されているのです。皆様の上に、主の豊かな祝福がありますようお祈りします。

(牧師:北林行雄記)

試みと悪からお救いください マタイ6:13、ルカ22:31~34

 “主の祈り”の最後の祈り「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」について学びます。“試み”は試練のことですが、聖書を見ると“試みに会う”ことは決して、悪い意味に捉えられていません。例えば、詩篇119:71では、「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」。また、ヤコブの手紙1:2~4では、「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」と書いてあります。つまり、信仰者の成長には試練は必要なものであると教えているのです。

 そこで、この主の祈りでイエス様が教えておられる“試み”とは何かを考えてみましょう。ルカの福音書22:31~34で、イエス様はペテロに次のように言われました。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

ここで、イエス様はペテロが「麦のようにふるいにかけられる」と宣告されました。これは、ペテロには到底耐えきれない試練で、彼の信仰を根底から覆し、ペテロを破滅させる危険なものでした。そこで、イエス様はペテロの信仰がなくならないように祈られたのです。

つまり、主の祈りで使用されている“試み”はクリスチャンの信仰を成長に導く試練について言っているのでなく、逆に、信仰を押しつぶしてしまい、破壊してしまうような試練のことです。

 ペテロはイエス様に、「主よ。ご一緒になら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と答えますが、彼はこの後、主イエスを知らないと3度も否認しました。そのときイエス様が振り向いてペテロを見つめられました。ペテロは「今日、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のお言葉を思い出し、外に出て、激しく泣きました。イエス様の一番弟子と自負していたペテロは、自分の信仰の弱さを暴露する結果となりました。このようなペテロの危機に備えて、イエス様は彼のためにとりなしの祈りをささげられたのです。それで、ペテロは背教の危機から救い出され、初代教会を担う使徒に成長したのです。

 続いて、「悪からお救いください」について考えてみましょう。この祈りは私たちの心に宿る悪と、この世の悪を前提としています。マルコ7:21~23に「内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」と書かれております。さらに、もう一つの所から悪がやって来ます。それは「この世」です。この世は私たちを罪へ誘い込む罠に満ちています。この世的な楽しみや、巧妙な儲け話などにより、高齢者など弱い立場の人々を狙う事件が頻繁に起きております。 そのような心の内側とこの世の悪に引き込まれないように、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と、毎日祈らなければなりません。ぜひ、皆さんもお祈りしましょう。 (牧師:北林行雄記)

エリコ陥落と契約成就 ヨシュア記6:12~25

 エリコは「やしの都」として知られ、ヨルダン川流域の緑の多い地域にあり、主要な貿易路に通じて豊かな町でした。しかも、その町は二重壁の堅固な城壁で固められて、難攻不落の城と見られていました。しかし、エリコの住民は、がヨルダン川の水をからし、イスラエル軍がカナンに渡って来たことを聞いて、恐れおののいていました(ヨシュア2:9、5:1)。どんなにエリコの城壁が堅固に見えても、その内側は弱体しきっていたのです。全知全能のが働かれると事態が急変するのです。

はヨシュアに「エリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。あなたがた戦士はすべて、町の周囲を七日間回れ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らせ。」と仰せられました(ヨシュア6:2~4)。七は無限数であり、旧約時代の祭儀には重要な数でした。主が命じられた独特な行動は軍事的というより、宗教的な行為を表しています。ヨシュアの指導の下に、祭司たちや武装した者たちが町の周りを7日間回り、イスラエルの民が大声で、ときの声を上げると、堅固なエリコの城壁が崩れ落ちました。彼らが主の命令に忠実に従ったので、エリコの町を占拠することができたのです。彼らの親たちは主の恵みにより、出エジプトして約束の地カナンに向かいましたが、自分たちの欲望にかられて、荒れ地で神を試み、主の命令に背き、雄牛の偶像を造って、神の怒りをかいました(詩篇106:13~27)。そのため、彼らは40年間荒野を旅しますが、ヨシュアとカレブ以外はすべて荒野で死に、約束の地カナンに入ることができなかったのです。主の命令に忠実に従うことは人間として、特に、信仰者にとして一番大切なことなのです。

さらに、ヨシュアがエリコを偵察するために派遣した二人の斥候を匿って、助けてくれた遊女ラハブとの誓いも果たすことができました(ヨシュア2:12~14、6:22~25)。エリコを制圧したイスラエルの民が、町にあるものは、男も女も、若い者も年寄りも、また、牛、ろばも、すべて剣の刃で聖絶したとき、遊女ラハブとその父の家族と彼女に属するすべての者だけは生かされました。しかも、ラハブはイエス・キリストの系図に掲載されるほど祝福される人物となりました(マタイ1:5)。 以上のことから、信仰者は常にの命令に忠実に従うならば、大きな祝福を受けることができるのです。是非、皆さんも、主の仰せ(御ことば)に忠実に従い-、祝福された人生を歩んでください。 (牧師:北林行雄記)

コロサイ人への 聖書本来の家族 コロサイ人への手紙3:18~25 手紙3:18~25

 現代は夫も妻も外で働き、家事や子育ても共同で進めるフィフテイな関係になってきております。そのために、ゼロ歳時からこどもが保育園に預けられ、親とのスキンシップが大幅に欠如する事態になってきました。そこで、今回は、聖書が語る本来の家族について学びたいと思います。

 先ず、夫婦の関係についてコロサイ人への手紙3章18節で次のように書かれています。「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。」。妻は夫に従うことは当然であり、仕方なしに従うのではなく、主イエスに仕えるように自発的に従うことが大切であるというのです。人間的に言えば、夫も妻もともに欠点があるので、相手に首をかしげるところが多々在るかも知れません。しかし、主キリストによって愛されている相手だからこそ、自発的に、喜んで夫に従いなさいと教えているのです。

一方、「夫たちよ。妻を愛しなさい。妻に対して辛く当たってはいけません。」(コロサイ3:19)と教えています。また、エペソ人への手紙5章22節に「キリストが教会を愛し、教会のために御自身をささげられたように愛しなさい。」とあります。つまり、夫婦はお互いが相手のことを思って仕え合うべきであり、夫は自分を犠牲にしてでも、妻を愛すべきであるということです。

私たち夫婦は今年、結婚45周年を迎えます。結婚式の祝辞でカナダ人宣教師から同じような内容のメッセージを伺いました。「お二人は、イエス・キリストを信じて、神様のお導きで、今日、結婚されました。それで、お二人の間にはいつもイエス様がおられることを覚えてください。意見が合わないことがあっても、お互いにイエス・キリストを通して見ると、分かり合えるのですよ。」。私たちはこのことをずっと実践してきました。私が日立製作所の研究所を退職し、安定した生活を捨てて、カナダの神学校に行くことも、妻は同意してくれました。その時以来、何をするにしても、二人は一緒でした。彼女は私の同労者となり、良きパートナーとなってくれました。

 続いて、親子関係について、コロサイ人への手紙3:20節に、「子どもたちよ。すべてのことについて両親に従いなさい。それは主に喜ばれることなのです。」と書いてあります。

こどもは幼いときから親元で育ち、親の訓練を受けて成長します。佐々木正美氏は著書「子どもへのまなざし」の中で、次のように述べておられます。「乳幼児期が基礎工事のときで、人間の基礎をつくる大事な時であり、小学校や中学校、高校、大学、あるいは大学院、留学などはあとから造っていく建築の部分です。あとからやるものほど、やり直しがきくが、基礎工事は建物が建った後は、見えなくなっているので、やり直しは考えられないのです。」 

だから、乳幼児期に親とのスキンシップをして、親子の絆をしっかり固めておかなければなりません。健全な子どもは親の愛のもとで育つのです。

もちろん、親は子どもを正しく訓練する必要があります。しかし、子どもを怒らせて気落ちさせてはいけません。佐々木正美氏は“ありのままの子どもを受け入れることの大切さ”も語っておられます。「人間というのは、どこかで全面的に受容される時期があればあるほど、安心して自立していけるのです。自分が全面的に受容されるということは、ありのままの自分を承認されるということです。ありのままを承認されるということは、子どもにとっては、このままで私はいいのだという安心感、すなわち、自信になるのです。人生のできるだけ早い時期に、この安心感が与えられることが大事なのです。」

特に、クリスチャン家庭では、子どもが親と一緒に生活することによって、親の愛、その背後におられる主なる神の愛、イエス・キリストの愛に触れることができます。それによって、心身ともに健全に成長することができるのです。

以上まとめますと、主イエスの愛に包まれた家庭は、夫婦も親子関係も良く、聖書的に見ても健全であることがわかります。皆様のご家庭の上に、主なる神の豊かな祝福がありますようお祈り申し上げます。 (牧師:北林行雄記)

自然の恵み

 梅雨明けと同時に猛暑到来。先週金曜日(7月26日)は富山市で37.5度まで上昇し、全国で一番気温が高く、本当に暑い日でした。そのとき、ふと庭先を見ると、1羽の雀がいかにも嬉しそうに、電線の上で動き回っていました。小さな命であっても、生きている恵みを喜び、感謝の気持ちを表しているようでした。人生は長さではなく、中身であることを、教えられました。

7月の最後の日曜日(7月30日)は神岡キリスト教会との講壇交換でした。私たちの富山聖書教会は小畑光弘師(神岡キリスト牧師)がルカの福音書から「信仰者の歩み」と題して説教してくださいました。当日は求道者の方も集われ、狭い部屋が一杯になり、大変恵まれた集会となりました。

一方、私は神岡キリスト教会に向かいました。飛騨峡谷の美しい自然を眺めながら神通川沿いの国道41号線を妻と共にドライブしました。神岡キリスト教会の礼拝において、マタイの福音書11章28~30節まで、「キリストの愛とへりくだり」と題して、私の信仰の証を交えて説教いたしました。神岡教会は124年の歴史のある教会で、中学時代から教会に来ておられる熱心な信徒の方もおられ、信仰の証を分かち合い、主にある良き交わりを持つことができました。感謝!

また、これまでの長雨と猛暑で庭の草花も驚くほど成長し、庭に多くの花が咲きほころび、特に、槿(むくげ)の花が目を楽しませてくれます。このような美しい自然を創造された主を誉め称えます。  (牧師:北林行雄記)

負い目をお赦しください マタイの福音書6:12、18:23~35

主の祈り第5番目の祈りが「私たちの負い目をお赦しください。」です(マタイ6:12)。“負い目”は返さなければならない負債であり、私たちすべての人間が生まれながら持っている罪、“自己中心”のことです。

 この負債についての神の取り扱いを、主イエスは“1万タラントのたとえ”(マタイ18:23~35)で紹介されました。借金の清算のために、1万タラントの借りのある“しもべ”が最初に連れて来られました。このしもべはひれ伏して、「もう少し待ってください。そうすればすべてをお返しします。」と懇願しました。それを見て、王は可哀そうに思って彼を赦し、借金を免除してやりました。

この譬えでは王は神を、しもべは私たち人間を象徴していますが、1万タラントは約16万年分の労働賃金に相当する莫大な金額です。つまり、罪ある私たちは神に対して到底返すことができない債務があることを意味しています。

 しかし、神は私たち人間を救うためにイエス・キリストを遣わされ、私たちの身代わりにキリストは十字架にかかって死んで、私たちの罪の贖いをしてくださいました。それゆえ、私たちが自分の罪を神の前に告白すれば、神は私たちの罪を赦してくださいます。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)。

 ここで、「神の赦し」について考えてみましょう。「赦す」という言葉は聖書の原語で、「行かせる、去らせる」という意味です。神が私たちの罪を取り除き、それを拭い去ってくださり、跡形もないほどに消し去られることです。「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたのそむきの罪を拭い去り、もうあなたの罪を思い出さない。」(イザヤ43:25)。ただし、私たち人間は生来、自己中心的であり、直ぐに罪を犯しやすい者です。それを清算するには、毎日罪の赦しを求めて、父なる神に祈る必要があるのです。

 ところで、王に1万タラントを免除されたしもべが、わずか100デナリ(日当)の借金のある人を赦さずに、牢に投げ込みました。この事は王の怒りをかい、彼は借金全額を返済するまで獄につながれました。「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(マタイ6:14~15)。クリスチャンは神から罪の赦しを得た人々です。それゆえ、罪赦された者は自分に対して罪のある者をも赦すべきです。 (牧師:北林行雄記)

あなたの立つ所は聖なる場所 ヨシュア記5:13~15

 主なる神様の御業によりヨルダン河が堰き止められて、イスラエルの民が河を歩いて渡り、カナンの地に足を踏み入れることができました(ヨシュア3:14~17,4:23~24)。この知らせはヨルダン河西方に住む王たちに恐怖を与えました。なぜなら、岸一杯に水が溢れるヨルダン河を堰き止められたのが全能の主だからです。イスラエルの軍勢が相手なら戦いようがあるでしょうが、天地万物の創造主が相手では勝負になりません。それで、王たちの心が萎え、彼らは戦う気力さえ失ってしまいました(ヨシュア5:1)。

 ところで、カナンの地には先住民がいますので、ここをイスラエルの民が占拠するためには数々の戦闘が予想されます。その戦いの準備として第一に、主は「イスラエル人に割礼を施すこと」をヨシュアに命じられました(同5:2~3)。割礼はアブラハムの時代に神との契約として制定されました(創世記17:9~11)。また、出エジプト記12章において、イスラエルの全会衆と在留異国人も、過ぎ越しのいけにえを奉げようとするなら、その家の男子はみな割礼を受けなければならないと命じられました(47~48節)。ところが、割礼を受けて出エジプトした男子は心をかたくなにして、主の御声を聞こうとしなかったのです。その結果、カレブとヨシュア以外の男子は皆、荒野で死に絶えてしまいました。一方、エジプトを出た後に荒野で生まれた息子たちは誰も割礼を受けていませんでした(ヨシュア5:4~7)。それゆえに、なる神とイスラエルの民との間の契約を再度、正式に結ぶ必要があったのです。このことによって、“イスラエルの民が不信仰のために荒野で滅びた”というそしりが取り除かれたのです。

第二の準備は、“過ぎ越しのいけにえ”をささげることでした。“過ぎ越しのいけにえ”はイスラエルの民が出エジプトするときに主から命じられたことです。傷のない1歳の子羊をほふり、その血を取って家の二本の門柱とかもいにつけてあれば、主はその戸口を過ぎ越されて助かるが、そうでないエジプトのすべての初子が打たれて死んだのです(出エジプト12:21~29)。その結果、イスラエルのすべての民が奴隷の身から解放されて、出エジプトすることができました。だから、過ぎ越しのいけにえはイスラエル人にとって記念すべき出来事であり、主なる神の御業を再確認することでありました。そして、この時からマナは止まり、カナンの地で収穫したものを食べるようになりました(同5:12)。マナはイスラエルの民の40年間の荒野生活を毎日支えた貴重な食糧でした。

 ヨシュアがエリコの近くで抜身の剣を持った人(主の軍の将)と出会い、彼は顔を地につけてその人を伏し拝み、「わが主は、何をしもべに告げられるのですか。」と聞きました。すると、主の軍の将はヨシュアに「あなたの足のはきものを脱げ、あなたの立っている場所は聖なる所である。」と言われました(同5:15)。これは、モーセが燃える芝の中から聴いた神の声と全く同じことばです(出エジプト3:5)。ヨシュアが地上に足を置いて立っていましたが、その場所が“聖なる場所”であり、彼がそこに立てる者として認められたのです。つまり、ヨシュアは”神の領域に属する者”として任命されたということです。今後、ヨシュアはカナンでの先住民族との戦いが始まりますが、いつも主が共におられて戦いを導いてくださいました。

 クリスチャンとは”キリストに属する者”として認められた人々です。この人々と主なる神がいつも共にいてくださるので、クリスチャンは自分だけで孤軍奮闘する必要はありません。仮に一人のことがあっても、祈りを通して、常に主の応援を受けることができるのです。 ですから、「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。あなたの神、が、あなたの行く所どこにでも、あなたと共にあるからである。」(ヨシュア1:9)。 牧師 北林行雄記