クリスマスのご案内

12月になり、すっかり寒くなってきましたね!イエス様の誕生を祝うクリスマスが待ち遠しいです。今年のクリスマス集会・礼拝をご案内します。歌や演奏、聖書のお話をとおして、クリスマスの本当の喜びが伝わるようにお祈りしています。会堂は誰にでも開かれた場所です。予約や事前の連絡も必要ありません。もちろん無料です。駐車場もあります。ぜひおいでください😄

12/24(土)14:00~ クリスマス集会      

クリスマス音楽劇 聖書のお話 証し ハンドベル演奏 キャンドルサービス 

12/25(日)10:30~ クリスマス礼拝      

聖書のお話 特別賛美(ハンドベル)

主の道を整える者 マルコの福音書1:1~8

本日から5回にわたり、クリスマスにちなんだメッセージをします。本日、第一回は、「主の道を整える者」と題して、イエス・キリストのことを紹介したバプテスマのヨハネについてお話します。

バプテスマのヨハネの登場 マルコの福音書は4福音書の中で最初に書かれたものです。1章1節に「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」とありますが、これはこの書のタイトルのようなもので、この書全体を一言で表していると言えます。

 2~3節にはイザヤ書40章3節が引用されています。救い主の道を整える者が将来登場すること。彼は主の道を用意し、主の通られる道を真っ直ぐにする。その預言通りに現れた人がバプテスマのヨハネです。

悔い改めのバプテスマ  ヨハネは荒野に現れて、人々に罪の赦しのための、悔い改めのバプテスマを宣べ伝えました。彼は預言者エリヤに倣って、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野密を食べる質素な生活をしながら、精力的に伝道したのです。当時のユダヤ全国の人々と、エルサレムの全住民がヨハネのところにやって来て、自分の罪を告白して、ヨルダン川でバプテスマを受けたのです。ヨハネのバプテスマは水によるバプテスマでした。

 私たち人間は皆、生まれながら罪を持っています。自己中心の罪です。たとえば、子どもの友達が先生から大切に扱われ、褒められるのに、自分のこどもは厳しく叱られてばかりいたら、心の中からひがみが生じて、わが子の悪い面をそっちのけにして、先生に文句をつけたりする父兄がいるのも事実です。このように誰でもが持っている自己中心の罪を考えれば、バプテスマのヨハネのメッセージは、当時のユダヤの人々の心に強く迫ったのでしょう。そのため、沢山の人々が悔い改めのバプテスマを受けたのです。 

イエス・キリストに関する言及

・ヨハネよりさらに力のある方で、彼のあとに来られる。ヨハネはその方の靴のひもを解く値打ちもない。(7節)

・この方は聖霊のバプテスマを授けることのできる方である。(8節)

考察

 1.バプテスマのヨハネは立派な人物です。彼はイエス・キリストを紹介し、自分はこの方の靴の紐を解く値打ちもないと言いました。ヨハネより半年後に誕生する主イエスを心から尊敬し、自分は水による悔い改めのバプテスマを授けたが、この方は聖霊のバプテスマを授ける方であると説明しました。聖霊のバプテスマとは、私たち人間の救いに関係するものです。すなわち、主イエスを救い主として信じる信仰によるバプテスマであり、救いのしるしとしてのバプテスマです。

 2.聖霊の働きについて

  ①聖霊の働きがなければ、誰もイエスは私の救い主ですと告白できません。

  ②聖書をよく理解するためには聖霊の助けが必要です。全知全能の神を信じています。しかし、神は目に見えません。聖霊の働きによって、聖書のことばを理解し、神の愛や御心を知ることができるのです。それゆえ、聖書を学ぶ時は、最初に聖霊の導きがあるよう祈って読む必要があります。

  ③信仰生活におけるいろいろな試練を克服するためには聖霊の働きが必要です。たとえば、苦しみの中にあるとき、聖書のことばによって励まされることがよくあります。弱さの中にあるとき、神の力が最も強く働き、聖霊の導きによって最もふさわしい神のことばが与えられ、心の中に勇気がわいてくるからです。

結び

    救い主イエスの誕生は全人類にとって喜びの知らせです。主イエス・キリストの誕生、それに先立って、主の道を整えるバプテスマのヨハネの誕生は、それが実現する800年以上前から預言されていました。天地万物の創造者なる神の遠大な計画によるのです。

    待降節に当たって、主の御降誕を覚え、改めて計り知れない神の御愛に感謝しその思いを深め、この喜びを人々に伝えて行きましょう。そして、本当のクリスマスの素晴らしさを味わいながら、それを人々に証しましょう。 (牧師:北林行雄記)

主はわが牧者なり エゼキエル書34:1~16

本日はエゼキエル書からメッセージをさせていただきます。エゼキエルが預言者になった時、バビロニアの支配下にあり、捕囚の身でした。人々はバビロニアの支配から早く解かれて、エルサレムに帰りたいという希望を持ち、解放運動を起こそうとする動きがありました。エゼキエルは「この地に落ち着くことが、今の時点では神の御旨である」と人々に話しました。しかし、民衆は忠告を受け入れず、バビロニアに反乱を起こしました。その結果、紀元前587年にエルサレムは占領され、イスラエルは滅ぼされてしまいました。エルサレムの陥落は捕囚の身にあるイスラエルの人々にとって最後の望みの綱が切れてしまったことを意味します。絶望する民衆に、エゼキエルは再び語り始めました。それがエゼキエル書34章の「羊飼いの預言」です。

エゼキエルは主なる神から託された御ことばを民衆に伝えます。「わざわいだ。自分を養っているイスラエルの牧者たち。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊は養わない。弱った羊を強めず、病気のものを癒さず、傷ついたものを介抱せず、追いやられたものを連れ戻さず。失われたものを捜さず、かえって力ずくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配した。」(2~4節)。ここで言う“牧者”は当時のイスラエルの指導者で、国王のことです。イスラエルが滅んだのは、「自分を養う羊飼い」、つまり、国の指導者である王たちが民衆のことを考えず、自らの保身に走ったことが原因であると指摘されたのです。

このように牧者が本来の勤めを果たしていないので、羊は散らされ、あらゆる野の獣のえじきになり、散らされてしまいました。それで、神である主は、牧者たちに立ち向かい、彼らの手から主の羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせられたのです(8~10節参照)。そして、主は可哀そうな羊を放っておくことができないと思われ、「わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らを憩わせる。」と仰せられ(15節)、主自らが羊の牧者になると宣言されました。主の下に置かれた羊は幸いです。牧草が生い茂る良い牧場で養われ、イスラエルの高い山々が檻となって、安心して過ごすことができるのです。また、傷ついた羊は包まれ、病気の羊は力づけられます。なお、「肥えたものと強いものを根絶やしにする。」(16節)とあるのは、神は強いものを優遇するのでなく、いつも公平な裁判をされるという意味です。主によって養われるすべての羊は本当に幸せです。 この聖書の箇所から私たちは何を学ぶでしょうか?

今、皆さんもご存じのように世界はウクライナの悲惨な状況、そしてあちこちの国々において、テロや暴力で国民が被害者となり、今も悲しい争いや戦いが続いています。先週は世界を震撼とさせるような出来事が起きました。ポーランドに突然ミサイルが落ち市民の犠牲者が出ました。それぞれの国が自己主張すれば、第三次世界大戦に発展するような危機に直面しました。正に一触即発したら、核の脅威で人類はどうなるのでしょうか?このような時にこそ、人類の造り主なる神の前に静まって、冷静に御ことばの深い意味を考察すべき時ではないでしょうか。

ベトナム戦争で多くの若いアメリカ兵たちが戦争によって傷つき、心が蝕まれ、ロストジェネレーションと呼ばれるようになり、その結果、物を持つことによって飢えを満たすというマテリアリズムに陥りました。

真に私たちの心を満たしてくださる方は、今の時代も旧約の時代も同じで、本当の愛と赦しに満ちた牧者なる神ではないでしょうか。羊が100%牧者を信頼し、平安に“メ~~”と鳴いて羊飼いに従っているように、、私たちもどのような状況でも本来の牧者なる主を信頼し、御ことばを口ずさんで日々充足した生活ができますように祈ります。               (牧師:北林行雄記)

信仰者の願い 詩篇27:1~8

 詩篇27篇はイスラエルのダビデ王が詠んだ詩である。ダビデは一介の羊飼い出身ながら、王となり、イスラエル王国の礎を築き、エルサレムに都をおいて、40年間、王位についた人物である。彼はサウル王に仕えていた頃、いわれなきことで命を狙われ、都を逃れて、荒野で逃亡生活を送らざるを得ず、苦しい体験をした。また、王についた後も、息子のアブサロムが反逆し、都落ちをする苦悩を味わった。今朝はダビデが詠んだ詩篇27篇から「信仰者の願い」について学びたい。

 先ず、1~3節において、戦場におけるダビデの生き方が語られている。敵が彼の命を狙って襲い掛かっても、ダビデは主なる神に信頼し、邪悪な敵に対しても勇敢に戦う決意が現れている。その決意の根本になるのが、「主は私の光、私の救い、だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦、だれを私は怖がろう。」(1節)。つまり、主なる神は信仰者を救いに導く光であり、救い主である。また、“主は私のいのちの砦”であると語る。砦は本城から離れた要所に築く小規模な城であり、信仰者をサタンの攻撃から守る前線基地である。このように主が信仰者を守ってくださるから、野獣が餌食を狙うように、敵(サタン)が私たち信仰者を襲うことがあっても心配がない。仮に敵が襲って来ても、主の御業によって敵は打ち負かされ、崩れ落ちる。また、敵が陣営を張って、押しかけて来ても、恐れることはない。さらに、戦闘が実際に開始されても、動じることはないとダビデは確信していました。同様に、私たち信仰者も何も心配することはありません。なぜなら、私たちが如何なる状況に置かれても、必ず主なる神が守ってくださるからです。

 4節「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ(仰ぎ見る)、その宮で思いを巡らすために。」主の家に住むことによって、主と生活を共にできる。つまり、主と親しく交わりを持つことができるので、主の麗しさ(主の恵み深さ)を体感できる。

 また、敵の攻撃に苦しめられる日に、主は私を隠れ場(安全地帯)にかくまって、守ってくださる。そして、私を岩の上(敵の手の届かない安全な所)に置いてくださる。このように主が守ってくださるので、詩人は主の幕屋で喜びのいけにえをささげ、心から賛美することができた。 

 その結果、ダビデは主の家に住み、主の麗しさを仰ぎ見ることを第一に祈り求めるようになった。このことは私たち信仰者にとっても最も大切な教えである。さらに、ダビデは8節で「主よ。あなたの御顔を慕い求めます。」と祈った。信仰者にとって主なる神の御顔を仰ぎ見ることは最高の喜びで、最も平安が与えられる境地である。

 現代に生きる私たちは、主なる神、救い主イエス・キリストを肉眼で見ることはできません。しかし、心の眼、信仰の眼で見ることができます。聖書の御ことばを熟読・吟味すると、私たちのために十字架にかかり、いのちを捨てられたイエス・キリストの姿が目に浮かんできます。そして、神の愛の深さに感動します。ぜひ皆さん、充実した信仰生活を歩むために、日々のデボーションをしっかりと守りましょう。                        (牧師:北林行雄記)

心の眼が開かれる ヨハネの福音書 9:24~34

 現代医学の著しい進歩によって、これまで難病と言われ続けてきた病気も癒されるようになってきました。しかし、生まれながら目の見えない人が即座に見えるようになって、普通に生活ができるようなることは、今の医学でも非常に難しいことです。

 本日の聖書箇所には、生まれつき目が見えない男の人がイエス・キリストによって癒された話が紹介されています。この人は癒された経過を説明しますが、癒された日が安息日であったために、律法学者たちはこの事実を断固として認めようとしませんでした。しかし、彼の前に再び現れて下さったイエス様に出会い、この方が真の救い主であることが判り、彼の心の眼が開かれたのです。 

それでは、ヨハネの福音書9章からもう少し詳しく説明いたします。イエス・キリストがエルサレム神殿の帰り、通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった(1節)。そして、地面に唾をして、その唾で泥を作り、それを彼の眼に塗ってから、「行って、シロアムの池で洗いなさい。」と彼に言われた(6節)。彼は言われた通りシロアムの池で眼を洗うと、眼が見えるようになった。イエス様の素晴らしい御業が行われたのである。

 人々が癒された人をパリサイ人のところに連れて行った。パリサイ人たちは「どのようにして見えるようになったか?」と質問すると、この人は事実をそのまま説明した。しかし、癒された日が安息日であったので、「この人(イエス)は安息日を守らないから神のもとから来た人ではない。」というパリサイ人がいて、パリサイ人の中で分裂が起きた。そのような背景もあり、ユダヤ人たちは生まれながら目の見えない人の癒しを信じようとしなかった。

 ユダヤ人たちは癒された人を再び呼び出して、「イエスは神に栄光をきさないので、罪人である。」と言うと、彼は次のように答えた。「あの方が罪人であるかどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(25節)。さらに、「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたは知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。私たちは知っています。神は罪びとたちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神の御心を行う者がいれば、その人の言うことをお聞きくださいます。盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」(30~33節)。このように、癒された人は「イエス様は神から出られた方であるから、盲目で生まれた者の眼を開けられた。」と信じて、ユダヤ人たちの前で告白したのである。

 そのため、彼はユダヤ人たちから外に追い出された。しかし、このことを聞かれたイエス様は彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」(35節)。彼は信じることができるように教えて欲しいと言うと、イエス様は「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」(37節)。イエス様ご自身が人の子(神から遣わされた救い主)であると宣言されたのである。彼は即座に、「主よ。信じます。」と言って、イエス様を礼拝した。彼の心の眼が開かれ、自分を癒してくださった方が真の救い主イエス・キリストであることを信じたのです。この人はその後どのように歩んだか聖書には書かれていませんが、彼の心は癒された恵みを感謝し、喜びに満たされて、いつもイエス様と共に歩んでいたことでしょう。このことはクリスチャン一人一人にとって大切なことです。

 先日、金沢中央教会で開催された星野富弘絵画展を見に行ってきた。星野富弘さんの書かれた花の絵とその絵に載せて書かれた詩、そして作品の題名を見ながら、沢山の作品を一つ一つ味わいながら鑑賞した。星野さんがそれぞれの絵に込めて描かれた心情が伝わって来て、感銘を受けた。たとえば、題名が春蘭という絵に記載された詩は、「どんな時にも神さまに愛されている。そう思っている。 手を伸ばせば届くところ、叫べば聞こえるところ、眠れない夜は枕の中にあなたがいる。」。星野さんは温かい表情でインタビューされている録画が流れていた。しかし、星野さんが大怪我をして身体を動かせなくなったとき、お母さんにひどい言葉でののしっていた様子の画面もあった。本当に気持ちを出せるのはやはり親なんだ。辛い気持ちが一層伝わった。もし、私が星野富弘さんと同じ境遇になったら、やはり同じことをしていただろう。所詮、私たち人間は不完全で、罪深い者である。このような人間を救うために、イエス・キリストは十字架にかかって死んでくださった。神は愛なり。このイエス様を知っていること、そして心を降り注いで祈ることのできる特権は本当に素晴らしい恵みである。それゆえ、日々感謝して、イエス様のことを人々に宣べ伝えよう。

 既にイエス様を自らの救い主と信じて救われている皆さん、日々の信仰生活において、いつも喜びと感謝に満たされていますか?落ち込んだり、不平を言ったり、高ぶったりしていませんか?何があっても、絶対に大丈夫な人はいないと思います。人生には波があり、調子の良い時も、悪い時もあります。特に、クリスチャンにとって、一番危険なことは高ぶりの罪を犯すことです。なぜなら、高ぶっているとき、サタンが一番強く攻撃を仕掛けてくるからです。私の尊敬する立派なクリスチャンの方が次のように言っておられました。「私のクリスチャンとしての歩みは、日々、謙遜を学ぶことでした。」。この方は既に天に召されましたが、大変優秀で、神学校の学長をされた方です。

 まだ、信仰を持っておられない方にお伝えします。本日お話しした生まれつき目の見えない人がイエス様に出会い、眼が見えるようになり、しかも、心の眼が開かれたこと、これは大変素晴らしいことです。心の眼が開かれると、イエス様の十字架の意味や、神様の愛の深さがわかり、心の内から喜びがあふれてきます。皆さんも心砕かれ、この恵みを味わうことができますように!主なる神の祝福が皆さんの上に豊かに注がれますようお祈りいたします。    (牧師:北林行雄記)

1年は早いなあ

す~っごく久しぶりの投稿です。当教会のホームページをつくったものの、たまに更新するくらいでした😅せっかく礼拝堂が建ったのだから、このホームページを通してもっともっと富山聖書教会のことを知ってもらいたい!そんな思いです。奥村と申します。

さて、礼拝堂が完成してから1年が経とうとしています。昨年、クリスマスに間に合うように、みんなで力を合わせて引っ越しを済ませました。クリスマス礼拝では会堂にたくさん人が集まって、イエス様の誕生をいっしょにお祝いしました。大雪に見舞われたときは駐車場の雪かきが大変でした。春には献堂式がありました。夏にはすぐに草が伸びてきたので、早朝のうちに草むしりに行きました。暑さが長引いたけど、もう、肌寒さを感じるくらいになりました。1年ってあっという間だな。

しみじみ思うので2回言いますが、1年ってあっという間だなあ。私は昨年の春から働き始めた、社会人2年目です。24歳です。働き始めてから、日々の過ぎる速さに圧倒されています。8時間働くと1日はすぐに終わっちゃうし、自由にできる時間のほうが少ないです。毎日が貴重だなあと思います。私は、時間の使い方は命の使い方だと思っています。神様が与えてくださる時間を無駄にせず生きたい。

とりとめのない文章ですが、とりあえず更新します。お読みくださり、ありがとうございます! 奥村恵

主イエスに従うことを第一に ルカの福音書9:57~62

主イエス・キリストはガリラヤ伝道を終えられ、いよいよ“イエスの後期伝道旅行”がスタートする段階に来た。主イエスは天に上げられる日が近づいて来たことを認識され、エルサレムに向けて毅然として進んで行かれた(ルカの福音書9:51)。なお、“天に上げられる”はイエス・キリストの十字架の死と復活、そして昇天を意味する。

主イエスはご自身の死(十字架刑)を覚悟して進んでおられた。このことを知ったサマリヤ人は主イエスを受け入れなかった。これを見たヤコブとヨハネは「天から火を呼び下して、彼らを焼き滅すことを提言するが、主はこのことについて彼らを戒められた。

今朝の説教において、主イエスと弟子たちの一行が道を進んでいるとき、主イエスと出逢って対話した3名の人たちとイエスとの会話について、内容を掘り下げて説明する。

最初の人との対話

マタイの福音書8章19節によれば、最初の人は律法学者であった。彼は主イエスに「私はあなたのお出でになる所なら、どこでもついて行きます。」と言った。これは彼の真実な心の思いで言ったことだろうが、主イエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子(主イエス)には枕する所もありません。」と返答された。すなわち、住む家もなく、落ち着いて休むところがないので、不自由な生活を強いられる。それでも良いのか?と返答されたわけである。確かに、その後しばらくして、主イエスは捕えられて、裁判にかけられ、十字架の死を遂げられた。

2番目の人との対話

 主イエスはこの人に「わたしに従って来なさい。」と声をかけられた。しかし、彼は「まず行って、父を葬ることをお許しください。」と言った。ユダヤ人の社会において丁寧な埋葬を行うことは大切なことであった。特に、自分の親の葬儀は重要であった。日本においても親の葬儀を正しく行うことはその親の子として当然のことであって、そうしなかったら非難される。

しかし、主イエスは「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」と言われた。つまり、親の葬儀をきちっと行うことより、神の御国のことを伝える方がより重要度が高く、緊急性が高いことを明確に示された。  

3番目の人との対話

 61節;また、別の人が言った。「主よ、あなたに従います。ただ、まず自分の家の者たちに、別れを告げることをお許しください。」 自分の家の者に別れの挨拶をするのは、一般社会おいては当たり前のことで、むしろ挨拶しない方が不自然である。しかし、主イエスは彼に言われた。「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません。」。イエスの弟子になるということは、鋤で畑に畝を作るのに似ている。つまり、前方をしっかり見ていないと曲がってしまう。私の母は野菜作りの名人であった。よく耕した土できれいに畝を作って、その畝に一定間隔に種や苗を植えていった。いくつも畝が整然と並んでいる姿を今もしっかりと記憶している。

 主イエスが語られたこのたとえは、弟子たる者は主イエスに従うことを最優先にしなければ、神の国にふさわしくない。ただし、イエスをキリスト(救い主)と信じる者はだれでも救われるので、神の国に入れないわけではない。

結論

  • 3名の人たちとイエス・キリストの会話に主イエスの緊張感が表れている。それは、伝道旅行後半を迎え、主イエスが今後、自らの身に起きる十字架の受難を考えておられるからである。このイエスのことばを通して、弟子たちにも緊張感をもって従って欲しいことを願っておられる。
  • 昨今は、ロシアのウクライナ侵攻や中国の台湾政策にも、力による制圧の断行、核兵器使用の危険性等不安が漂っている。このような情勢だからこそクリスチャンとして真価が問われる。私たちも緊張感をもって信仰の証や伝道に励むことが大切である。  
  • 具体的には、感謝と喜びをもって心からささげる礼拝、個人的な日々のデボーション、日常の生活の中で友人や同僚に対する信仰の証や教会への招き等である。

「ですから、私の愛する兄弟たち。 堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。 あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」    コリント人への手紙第一15:58

                        文責:北林行雄(牧師)

信仰による歩み ルカの福音書24:36~49

 へブル人への手紙11章には信仰によって歩んだ素晴らしい先達たちが紹介されています。例えば、アブラハムは相続財産として受け取る地に出て行くように主なる神の召しを受けた時、どこに行くか知らずに、その召しに従って出て行きました。また、モーセは成人した時、エジプトの王ファラオの娘の息子と呼ばれることを拒み、つまり、特権階級である身分を捨てて、エジプトの王の憤りを恐れることなく、エジプトの地から立ち去りました。そして、神の命令に忠実に従って、エジプトの奴隷であったイスラエルの民を出エジプトさせました。へブル人の手紙11章にはその他、ノアやヨセフ、ギデオン、ダビデ、サムエル等の信仰の歩みも記載してあります。「これらの人たちは皆、その信仰によって称賛されましたが、約束されたものを手に入れることはありませんでした。」(へブル11:39)。彼らの歩みは信仰によって、ただ主なる神の命令に忠実に従ったものでした。

 

イザヤ書7章14節に「見よ。処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」とあります。インマヌエルは「神はわれらと共におられる」という意味です。この予言はイエス・キリストの誕生に関するものであり、約850年後に成就し、イエス・キリストは処女マリヤから誕生されました。この方は神の子であり、素晴らしい教えと多くの奇跡を行われ、人々から尊敬されました。しかし、この方は当時の支配階級から妬まれて、十字架にかけられ処刑されました。ところが、3日目に死からよみがえられて、弟子たちや女性たちに姿を現されました。なぜなら、イエス・キリストは罪のない方だからです。それゆえ、イエス・キリストの十字架は私たち人間の罪を贖うためのものであることが判ります。

続いて、本日の聖書箇所、ルカの福音書24章36~49節について解説します。死からよみがえられたイエス様はエマオに向かう二人の弟子の前に姿を現された。二人の弟子はエルサレムに戻ると、11人の弟子とその仲間たちが集まって「イエスは本当によみがえられた。」と話していた。二人の弟子もその話に加わって道中で起きたことやパンを裂かれた時、イエスだと判った次第を話した。

 そこに、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。この挨拶は普通に人々が互いに交わすものであるが、この時はイエス様が弟子たちに特に親しみを込めて言われた言葉である。弟子たちはおびえて震えあがり、幽霊を見ていると思った。そこで、イエス様は十字架刑の傷跡が残る手と足を見せて「わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見てわかるように私にはあります。」と言割れた召し上がった。イエス様は本当に死からよみがえったことを実証された。

それから、イエス様は旧約聖書に書いてあるキリストに関することすべてが成就しなければならないと言われた。なお、モーセの律法と預言者の書と詩篇は旧約聖書全体を表す言葉である。

 そして、イエスは聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、次のように言われた。

  • キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえる。(イエス・キリストの十字架刑による死と復活)
  • イエス・キリストの名によって罪の赦しを得させる悔い改めがあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。(イエス・キリストの十字架による罪の贖いを伝える福音宣教)
  • この福音宣教の働きがエルサレムから開始される。その働きの証人が弟子たちである。

このようにして主イエスは弟子たちを福音宣教の使者として任命された。そして、49節「見よ。わたしはわたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。 あなたがたはいと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」と言われた。この力とは聖霊のことである。イエス様と寝食を共にした弟子たちでも福音宣教の働きは容易なことではない。その働きのために聖霊の力がどうしても必要であるのです。

 私たちクリスチャンは主の恵みと導きによって信仰に導かれた。クリスチャンとしての日常生活の中で信仰の証をしていく、つまり「信仰による歩みをすること」が大切である。

皆さんは自分の職場や日常生活で出逢う人々に信仰の証をしていますか? 日々のみ言葉の学びは実施されていると思いますが、あなたの周りの人々に福音を伝えていますか? 現実の厳しさに直面されていませんか?

このような時、あなたを助け導いて下さる方が聖霊なのです。信仰に生きるためには聖霊の働きが大切である。 聖霊の助けには:

  • 苦難にあって倒れそうになった時の励まし“慰め主”
  • 新しいことに挑戦する時の勇気、思慮“導き手”
  • 聖書のことばを正しく理解できるよう導く“良き指導者”
  • サタンの誘惑から守って下さる。事前に警戒のメッセージを聖書から示してくださる。
  • 人びとを信仰に導くための助け、疲れた信徒を助けるための“良き協力者”等々

以上まとめると、私たちがしっかりとした信仰による歩みをするためには、

  • 主なる神の命令(みことば)に忠実に従うことである。
  • 聖霊の助けを求めて祈り、実生活の中でその助けを体験し、神の恵みに感謝することである。

皆様の上に聖霊のとりなしが豊かにありますように。(牧師:北林行雄記)

迫害者から宣教師に ガラテヤ人への手紙 1:13~24

1.迫害者パウロ

 使徒パウロ(ユダヤ名はサウロ)は厳格なユダヤ教の信者であった。彼はキリスト教徒を異端視して、彼らを激しく迫害した。彼はユダヤ議会の議員であり、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリヤの諸教会に散らされた。サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた(使徒8:3)。彼は教会を迫害し、それを滅ぼそうとした(ガラテヤ1:13)。

2.回心

 サウロはなおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと考え、大祭司に手紙を要求した。その手紙の主旨はクリスチャンたちであれば、男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いてくるためであった。

 サウロの道中、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らし、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」との声を聞いた。彼が「主よ、あなたはどなたですか?」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる」と答えがあった(使徒9:3~6)。

 そのとき、サウロは目を悪くし、目を開けていても、何も見えなかった。それで、人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。彼は3日間、目が見えず、飲食を全くしなかった。

 そこに、主なる神から遣わされたアナニアという人がサウロのいる家に入り、彼の上に手を置き、「兄弟サウロ。あなたが来る道中であなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」と言った。すると直ちに、サウロの目から鱗(うろこ)のようなものが落ちて、目が見えるようになった。サウロ(パウロ)は回心してイエス・キリストを信じた。そこで、サウロは立ち上がってバプテスマを受け、食事をして元気になった(使徒9:17~19)。

3.宣教師パウロに

 変えられたパウロは異邦人に福音を伝えるために、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻った。それから3年後にエルサレムに上って使徒ペテロを訪問した。その後、シリアおよびキリキア地方に行った。 パウロはユダヤの諸教会には顔を知られていなかったが、人々は、「以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている。」と聞いて、神を崇めていた。このように、パウロ(サウロ)は個人的に主イエスの声を聞くという特別な御業によって、迫害者から何と、宣教師に大転換したのである。

この箇所から私たちが学ぶべきこと

  • 主イエスが働かれると、必ず人は変えられる。どんな迫害者であっても、どんなに福音を拒む人であっても、聖書を読んで、キリストの愛に触れるなら必ず変えられる。その人は真の悔い改めをもって、イエス・キリストを救い主として信じることができる。
  • 伴侶や親友のために、主イエスの名によって祈り続けるなら、その祈りは聞かれ、最もふさわしい時に、祈られている人が信仰に導かれる。諦めずに祈り続けよう。
  • 人が信仰に導かれるために、祈りの応援と具体的な協力が必要である。自分の身近な人が救われて欲しいと願っている人は必ず、その旨を牧師に伝え、祈ってもらうことである。
  • クリスチャン一人一人も祈りの応援が必要である。自分の祈りの課題を牧師に伝えて祈ってもらうことが大切である。
  • 牧師はサタンの攻撃の最前線に立たせられることが多いので、教会員は牧師のために毎日祈ることが大切である。