湖の上を歩かれた主イエス マルコの福音書6:45~52

 主イエス・キリストは、伝道旅行から帰った弟子たちを静かなところで休ませるために、彼らを無理やりに舟に乗りこませ、向こう岸のベッサイダに先に行かせられました。その間に主イエスは群衆を解散させて、ご自分は祈るために山に向かわれました。祈りは父なる神との交わりであり、最も楽しく、心休まる時で、最高の栄養補給の場でした。

夕方になったとき、弟子たちの乗った舟は湖の真中まで来ていましたが、向かい風のために彼らは漕ぎあぐねていました。それをご覧になった主イエスは夜明けが近づいたころ、湖の上を歩いて彼らに近づかれました。しかし、弟子たちは幽霊だと思っておびえて叫び声をあげたのです。主は彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われました(マルコ6:48~50)。

 弟子たちは、9時間ほど前に主イエスが、“5つのパンと2匹の魚で5000人以上に給食された”奇跡を体験したのに、彼らの心が閉じていて、湖の上を歩かれる主イエスの姿を見極めることができませんでした。なお、マタイの福音書14章22~33節にはこの出来事に加えて、使徒ペテロが主イエスにお願いをし、主のおられる所を目指して水の上を歩いたことが記されています。ただし、ペテロが主イエスを見ている間は大丈夫でしたが、彼は強風を見てこわくなり、主から目を離した途端、沈みかけました。そこで、彼は「主よ。助けてください。」と叫びました。主は直ぐに手を伸ばして彼をつかみ、「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか。」と言われました。ペテロをはじめ主イエスの弟子たちは主イエスが成される沢山の奇跡を見て、素晴らしい信仰体験をしていても、その信仰が自分たちの実生活の場に生きていなかったのです。皆さんはどうでしょうか?聖書のメッセージを聞いて、頭で判っていても、実生活でその信仰が正しく機能しているかを点検してください。

 生きた信仰が大切です。「信仰がなければ、神に喜ばれることは出来ません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)。  ぜひ皆さん、聖書を毎日読むだけで終わるのではなく、その箇所から示された御ことばを実行してみましょう。そうすれば、さらに大きな恵みを味わうことができます。皆様の上に主の豊かな祝福がありますように! (牧師:北林行雄記)

遂に約束の地を制圧 ヨシュア記11:15~20

 モーセの後継者ヨシュアには「がイスラエルに領土として与えると約束された地」を制圧する使命が与えられました(ヨシュア1:2~4)。彼はヨルダン川を渡り(同3章)、最初にエリコの町を陥落させ(6章)、アイを制圧し(8章)、エルサレムやヘブロン等の連合軍を打ち破って南パレスチナを制圧しました(10章)。これらの情報を聞いて、怖れをなしたハツォルの王ヤビンは北パレスチナ地方の王たちに呼びかけて連合軍を作り、イスラエルと戦おうとしました(同11章)。なお、ハツォルは当時、北部パレスチナにおける重要な町で、紀元前15世紀にはカナンの首都でした。集まった国の王はマドンなど7つの国で、カナン人やアモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、エブス人、ヒビ人でした。この連合軍の人数は海辺の砂のように多く、馬や戦車も非常に多くありました。

 一方、イスラエルには馬も戦車もなく、貧弱な部隊でした。人間的な見方からすれば、到底勝利が見込めません。しかし、全知全能の主が彼らの味方をして下さいました。主はヨシュアに告げられました。「彼らを恐れてはならない。明日の今ごろ、わたしは彼らをことごとく、イスラエルの前で刺し殺された者とするからだ。あなたは彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼け。」(ヨシュア11:6)。そこで、ヨシュアはすべての戦う民ととともに、メロムの水のほとりにいる彼らを急襲しました。その結果、敵を一人も残らず討ち取り、彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼きました。このようにして、遂にヨシュアは約束の地を制圧することができたのです。彼は恐れないで、主の命令に忠実に従いました。ヨシュアの忠実さについて、同じ11章の15節でも「がそのしもべモーセに命じたとおりに、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりに行った。がモーセに命じられたすべてのことばを、彼は一言も省かなかった。」とあります。ヨシュアは本当にに忠実な信仰者であり、リーダーでした。

 ところで、皆さんは何か新しいことを行うとき、希望とともに不安に襲われることがありませんか?私は36歳の時に、大企業の研究者から転身して、牧師になるためにカナダのバンクーバーにある神学校に入学しました。妻は冬に風邪を引くと冬眠状態になってしまうほど身体が弱かったので、彼女は「バンクーバーでなく、温かいハワイの方が良かったのに。」と言っていました。私も彼女の健康が心配でしたが、主がバンクーバーに道を開かれたので、主の導きに従いました。

バンクーバーで2年半過ごしました。その間、私は過酷な勉強で、修士論文を書いている途中で重症の肺炎になり、3か月入院しましたが、妻は健康が支えらえて、多くの親友ができて、快適な日々を過ごしました。妻はカナダの人々との会話が楽しく、いつもいきいきとしていました。そこで、私は彼女に関する新たな発見をしました。それは、『彼女はカナダの人々に通じるユーモアのセンスがあること。そして、彼女の心も身体も元気になったことを。』。その後、私も癒されて、無事に卒業することができました。このことを通して、主の導きに忠実に従うときには主が必ず最善を成してくださることを学ぶことができました。  今日、私たちはヨシュアのように、主のことばを直接聴くことはできません。しかし、“神の御ことば”である聖書が与えられています。聖書を読むことによって、私たちは励まされて、いかなる困難にも立ち向かうことができるのです。ぜひ皆さん、困難な状況にあるとき、また、新たなことに挑戦するときは、必ず聖書を開いて、主の導きを求めて祈りながら、聖書をお読みください。そうすれば、必ず道が開かれて、心に平安が来ます。聖書はあなたのための素晴らしいガイドブックです。「あなたのみことばは、私の足の灯、私の道の光です。」(詩篇119:105)。  (牧師:北林行雄記)

福音の恵みを知る特権 ペテロの手紙第一 1:10~12

私は学生時代に教会に初めて行き、聖書を紹介されて、それを熱心に学びました。そして、イエス・キリストを自らの救い主と信じて、1971年11月21日に洗礼を受けました。  

現代に生きる私たちは聖書をいつでも手にして読むことができます。しかし、普通の人でも聖書を自由に読めるようになったのは宗教改革後のことです。

 イエス・キリストによる救いは紀元前の旧約時代から預言者たちによって預言されていました。例えば、イザヤ書53章に次のように記載されています。「彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、は私たちすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ53:5~6)。これを語った預言者たちは、この預言は誰のことか、いつ起きることか分からなかったのです(Ⅰペテロ1:10~11)。結局、彼らは神の啓示により「自分たちが預言していることは、後の時代の人々のためのものである」と理解しました(同1:12)。

ペテロはキリストと共に歩み、キリストの十字架と復活を体験し、救いの恵みを味わうことができました。そして、彼の仲間たち(キリストの弟子たちや主イエスの母マリヤや女性たち)が、一つ所に集まっているときに聖霊降臨があり、初代教会がエルサレムに誕生しました。迫害が厳しくなったので、弟子たちが各地に散って福音宣教に励みました。その伝道によって小アジアにも福音が伝わりました。使徒ペテロはポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビテニアに散って寄留しているクリスチャンたちに手紙を書きました。その手紙の中で「旧約時代の預言者たちが熱心に調べたことが今や、天から遣わされた聖霊によって福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされた。これは御使いたちも見たいと願っていたことである。」と記載されています(同1:13)。つまり、旧約の預言者たちが熱心に調べても明確に判らなかったことが、今日の私たちは聖書を読むことによって理解することができるのです。なんとすばらしい特権でしょう。イエス・キリストは真の救い主です。天地万物の創造主である神のひとり子である方なのに、私たちを救うために十字架にかかって、ご自分のいのちを捨てられたのです。なんと大きな愛でしょうか。私たちはこの恵みを人々に知らせる責任があります。

ところで、新約聖書の黙示録にはまだ経験したことのないことが預言されています。やがて到来する世の終わりと新天新地のことです。従って、私たちが自由に福音宣教できる時間が限られています。それゆえ、この救いの恵みをもっと多くの方々にお伝えしたいと願っております。皆様の上に主の豊かな祝福をお祈り申し上げます。 (牧師:北林行雄記)

すべての人が持つ罪の解決 マルコ福音書7:14~23、ローマ人への手紙6:23

 最近、想定外の災害や事件が起きていますが、事件の背景に人間が持つ罪性が考えられます。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」(マルコ7:20~22)。何故このような悪い考えが生まれるのでしょうか。それはすべての人間の心の内にある“罪”(自己中心の思い)が原因です。

 “罪人の頭”と言われたザアカイは同国民から嫌われる職業をしていました。それは、ユダヤ人から税金を集めて、自分たちを支配しているローマ帝国に、そのお金を納める仕事です。その上、彼は自己中心の思いから、税金に上乗せをして余計にお金を集め、私腹を肥やしていました。そのため、彼は人々から嫌われ、のけ者にされていました。ザアカイはどんなに沢山お金を持っていても、友達を得ることは出来ません。ザアカイの楽しみは唯お金を貯めることだけで、彼は本当に寂しかったのです。

 丁度その頃、主イエスが彼の住む町エリコを通られることになり、ザアカイはイエスがどんな方かを見ようとしましたが、群衆のために見ることができません。彼は背が低かったからです。そこで、彼はいちじく桑の木に登って下を見ていました。すると、主イエスの方から声をかけられ、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。わたしは、今日、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と言われました(ルカ19:5)。人々から尊敬されているイエス様が自分の客となられる。彼は急いで降りて来て、大喜びで主イエスを迎えました。

 主イエスはザアカイの客となって、共に食事をされました。主は彼の友となって、親しく交わられたのです。このことにより、ザアカイは喜びに満たされて、次のように宣言しました。「主よ。ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。誰かから脅し取った物があれば、4倍にして返します。」(ルカ19:8)。主イエスは彼に言われました。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハム(信仰の父)の子なのですから。」(同19:9)。このようにして、ザアカイは真の救い主イエス・キリストを知って大きく変えられたのです。彼に本当の信仰が与えられたのです。

 主イエスは私たち人間の罪を贖うために、実際に十字架にかかり、私たちの身代わりになって死なれ、3日目に死よりよみがえられました。そのことにより、イエスを信じる者は救われ、永遠のいのちを持つことができるのです。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ 6:23)。 すべての人が生まれながら持っている罪を解決する唯一の方法が「イエス・キリストによる十字架の贖い」です。そして、イエス・キリストを自らの救い主と信じて、告白する者は救われるのです。皆様の上に、主イエスによる真の救いと神の豊かな祝福がありますようお祈りいたします。 (牧師:北林行雄記)

心身の必要を満たされる方 マルコの福音書6:34~44

 イエス・キリストの周りにはいつも沢山の人々が集まって来ました。キリストの弟子たちが伝道旅行から帰って来ても、ゆっくりと休むところがありませんでした。そこで、主イエスは、弟子たちが十分に休息できるように人里離れた寂しい所に行くように勧められました。ところが、弟子たちが出掛けて行くのを見ていた多くの人々が、そこに弟子たちより早く到着して、多くの人々が集まりました。主イエスは舟でやって来られ、その舟から上がられて多くの群衆をご覧になりました。はその人々が“羊飼いのいない羊”のようであるのを深く憐れみ、多くのことを教え始められました(マルコ6:34)。羊は5メートル位までしか見えず、直ぐ道に迷います。危険な場所に誤って近づいて崖に落ちることや、野獣の餌食になる傾向がありました。それゆえ、羊は羊飼いなしでは生きていけません。その羊と同様な状態にある群衆を深く憐れんで、は“神の国”のことを語り(ルカ9:11)、病気を治されました(マタイ14:14)。

 また、主イエスは群衆に食事も与え、心身ともにケアしてくださいました。弟子たちが主イエスに、「時間が遅くなったので、群衆を解散させてください。彼らが自分たちで周りの里や村で、食べ物を買うことができるでしょう。」と言いました。それに対して、主イエスは彼らに「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」と答えられました。弟子たちは驚き、『200デナリ(1デナリは日当の金額)のパンを準備する』ことは不可能でした。残っている食べ物は5つのパンと2匹の魚だけです。主イエスはそれらを取って、天を見上げて祝福を求めて祈り、パンを裂き、魚を分けて、人々に分配するように弟子に渡されました。人々にパンと魚を分け与えている間、それらが増え広がり、男だけでも約5000人に給食されました(女性やこどもを加えれば1万人以上)。この奇跡は4福音書すべてに記録されており、大変重要な奇跡です。

 天地万物の創造者、神のひとり子である主イエスは私たち人間を深く愛し、その必要を心身共に満たして下さる方です。それゆえ、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(ピリピ4:6)。   なお、このような奇跡は今日、物理的に見て稀有なことでありますが、霊的、精神的な面ではありうることです。『わずかな物でも他の人に分かち合えば、増え広がる』ことを体験することができます。私たちの罪を贖うためにイエス・キリストは十字架にかかって死んでくださいました。何と大きな愛でしょう。この愛に感動して私はイエス・キリストを救い主と信じました。この恵みを私の友人に話して、恵みを分かち合いました。それによって友人が信仰に導かれ、その友人が他の友達に救いの証(分かち合い)をしました。このように神の恵み(霊的祝福)の分かち合いは増大していくのです。皆さんも、臆することなくご自身の信仰の証をするようにして下さい。主の祝福が豊かにありますように! (牧師:北林行雄記)

主が共に戦われる ヨシュア記10:8~14

モーセの後継者となったヨシュアはなる神から、「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、があなたと共におられるのだから。」(ヨシュア1:9)と励ましを受けて、イスラエルの民を引率してカナンの地に入りました。そこには多くの先住民族が住んでいました。先ず、難攻不落の城壁を持つエリコを滅ぼし、続いて、アイも制圧し、大きな町ギブオンと和を結びました。

このイスラエルの勢いをエルサレムの王が恐れて、ヘブロンなど4か国と連合を組み、ギブオンに攻めて来ました。そこで、ギブオンの人々がヨシュアに助けを求めました。ヨシュアは早速、すべての戦う民たちとすべての勇士たちとともにギルガルに上って行こうとしました。そのときが「恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。」と仰せられました(ヨシュア10:8)。この戦いにおいて“全能のが共に戦われる”ことを確信して、ヨシュアはギルガルからギブオンまでの30キロの道のりを夜通し歩いて、突然彼らを襲撃したのです。主の指示に即座に従ったヨシュアの行動力はさすがです。

 主が敵軍をイスラエルの前でかき乱されたのを見て、イスラエルは彼らを激しく攻撃し、ベテ・ホロンの上り坂を通って彼らを追って行きました。そのため敵軍はイスラエルから逃げて、ベテ・ホロンの下り坂にいたとき、は彼らの上に天から大きな石(雹)を降らされました。その結果、敵軍の多くの者が死亡し、イスラエル人の剣によって殺された人数より、雹の石による死亡者が多かったのです(同10:11)。がイスラエルと共に戦ってくださったからです。

さらに、ヨシュアは主に語って、「太陽よ、ギブオンの上で動くな。月よ、アヤロンの谷で」と言いました(同10:12)。これは太陽や月の動きが変わることを要求しているのではなく、ヨシュアが『敵を全滅させるまで時間を与えてください』という祈りです。主がそれに答えてくださり、敵を滅ぼすまで暗くなることはなく、ヨシュアは敵の連合軍に対して完全勝利を得ることができたのです。戦いの中でも、主がヨシュアを支えて、共に敵と戦って下さったのです。

主なる神を信じて、主の御こころに従う者に主は助けを与え、危険から守ってくださいます。皆さんが日常生活の中で自分の力ではどうしようもない困難なことに直面されることがあるでしょう。今既に、難しい問題と戦っている方がいらっしゃるかも知れません。そのような状況下にあっても、思い煩うことは必要ありません。は真実な方で、を求める者・信仰者の味方です。皆さん、今あなたが抱えておられる重荷を全知全能の主に委ねましょう。そうすれば、心に平安が来ます。

聖書のことば:「あなたの重荷をにゆだねよ。はあなたを支えてくださる。主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。」(詩篇55:22)。 (牧師:北林行雄記)

主にあって賜物を用いよう ペテロの手紙第一4:10~11

 新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。本日は2020年の最初の日曜日、新年礼拝であります。

近年、我が国において地震や想定外の強風を伴う台風、洪水など自然災害が起きています。さらに、人々の格差が増大し、お互いの愛が冷え、凶悪犯罪や児童虐待など悲惨な事件も勃発し、終末の様相を呈しております。そのため、将来に不安を感じている人もおられるでしょう。使徒ペテロはこのような状況の中でも、安心して生きるための4つの秘訣を勧めています。①祈りのために、心を整え、身を慎みなさい。②互いに熱心に愛し合いなさい。③不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。④それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。

この中の4番目の御ことばが、新年度の富山聖書教会の主題聖句として、昨年秋から祈りの中で示されました。

私たちの教会は成長途上にありますが、さらに前進していくためには、教会員の皆さんが賜物を用いて主が望まれる奉仕に励むことが大切です。自分には人に言えるような賜物がないと言う方がいらっしゃるかも知れません。そこで、私の証をさせていただきます。私は学生時代に信仰を持ち、イエス・キリストを自らの救い主と信じました。私は救われた喜びに満たされて、教会に行くことが楽しくて、友人や家族を誘っていました。ところが、その喜びも3か月ぐらい過ぎると、徐々に薄れてきました。現実が見えて、教会といえども、罪深い人間の集まりであることが判り、遂にスランプに陥りました。そのとき、私の週報ボックスに匿名の封筒があるのを発見しました。その中に3000円と手紙が入っており、「このお金で聖書か、信仰書を買ってください。あなたのことを覚えてお祈りしております。」と書かれていました。私は「自分のことを心配し、祈っていてくださる人がいる。」ことが判り、本当に励まされました。このことを通して私は回復しました。この体験を通して、自分の周りに困っている人がいたら、その人の事を心にかけることも立派な賜物であることがよく判りました。皆さんが自覚しておられなくても、確かに主なる神はすべての信徒に賜物を与えておられます。

私たちは自分に与えられた賜物を用いなければなりません。マタイの福音書25章に“タラントのたとえ”があります。主人が自分のしもべ3人にそれぞれ、5タラント、2タラント、1タラントを預けて、彼らにそれを管理することを任せて旅に出ました。やがて、主人が帰ってきたとき、5タラント預かった者はさらに5タラントを儲け、2タラント預かった者もさらに2タラントを儲けたと報告した。主人は彼らに言った。『良い忠実なしもべだ。』と誉めて、彼らに沢山の物を任せた。しかし、1タラント預かったしもべはお金を地の中に隠していただけだった。彼は『悪いなまけ者のしもべだ。』と主人に叱られて、そのお金を取り上げられ、暗闇に追い出された。ここでの“主人”は主なる神を表していますから、与えられた賜物を用いることを神が私たちに望んでおられるのです。皆さんも是非賜物を活用してください。

そして、賜物を活用することによって兄弟姉妹が互いに仕え合うことです。教会は“キリストのからだ”と言われます。一つのからだには多くの器官があってそれぞれが特有の働きをします。同様に、各人が持つ特有の賜物をお互いに活用する(仕え合う)ことによって、からだ全体が正しく機能するのです。

 さらに、賜物を用いる中で留意すべき大切なことは、「イエス・キリストを通して神があがめられることです(Ⅰペテロ4:11)。つまり、私たちの信仰生活、いや人生において、私の栄光ではなく、神の栄光が現わされることを第一に求めるべきなのです。有名な作曲家ヨハン・セバスティアン・バッハは作曲した楽譜の最後に、自分の名前のイニシャルJSB(Johann Sebastian Bach)でなく、SDG (Soli Deo Gloria ラテン語)「ただ、神に栄光あれ!」 を書き込みました。彼は敬虔なクリスチャンで、素晴らしい証を残しました。ぜひ皆さんも、与えられている賜物を主の栄光のために喜んで用いましょう。皆さんが互いに仕え合うところに主も働かれて栄光を現されます。ハレルヤ! (牧師:北林行雄記)

主の守りと導きに感謝しよう 詩篇121篇

2019年最後の主日礼拝に当たり、詩篇121篇の学びを通して、今年1年のなる神様からの恵みと導きへの感謝の時としたいと思います。この聖書箇所は巡礼者が厳しい環境を乗り越えながらエルサレム神殿に向かう時の歌であり、全知全能のがいつも彼らと共にあって守ってくださるという確信に満ちています。

 僅か8節だけの短い詩ですが、4つのパートに分かれています。1~2節はにある信仰告白です。主の聖所のあるエルサレムの山を見上げて、「私の助けは天地を造られたから来る」と確信をもって歌っています。3~4節はいつ如何なる時も主の守りがあることを確信して、はまどろむことも、眠ることもなく守ってくださると歌いました。私たち人間は弱く疲れやすい者ですから、休養が必要です。しかし、は信仰者のために寝ずの番をしてくださるから、安心です。

続く5~6節はの守りは完璧であり、昼はパレスチナ地方の厳しい日差しからもは日陰を作って守り、夜も守ってくださると歌いました。私は小学生5年生まで、山道を歩いて1時間以上かけて通学しました。朝は上級生と一緒に行きますが、帰りは一人だけの時がよくありました。しかし、寂しさや不安を感じたことがありませんでした。道ばたには美しい花が咲き、鳥や虫も出てきました。木の実がなるときは、アケビや山葡萄などを取って食べました。今日のような不審者に遭うことは全くありませんでした。ただ、道路にアオダイショウが気持ち良さそうに寝そべっていて、ハッとしたことがありました。そのときは、彼の機嫌を損ねないように静かに避けて通ったので安全でした。7~8節は、は信仰者のすべての人生を守る方であり、「はすべての災いからあなたを守り、あなたのいのちを守られる。は、あなたを行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも、いのちを守られる。」と確信をもって歌いました。私たちの助けは天地万物の創造者、全知全能のです。それゆえ、いつもに在って安心して生きることができるのです。

 私たちの教会は2019年にはから沢山の恵みを頂きました。ひたすら祈り求めてきた新会堂の建設が前進し、聖書の学び会も充実してきました。また、青葉キリスト教会との一泊合同修養会が大変祝福され、良い学びと交わりができました。

迎える新年度はさらに信仰の高嶺を目指して、に喜ばれる歩みとなることを祈ります。皆様の上に新たな年も、の恵みと導きが豊かにありますようお祈り申し上げます。 (牧師:北林行雄記)

すべての民の救い主 ルカの福音書2:10~11、ヨハネの福音書3:16

 皆様、年末のお忙しい中、クリスマス特別集会にお集まりくださり、誠に有難うございます。クリスマスの喜びを皆様と共に味わわせていただきたいと存じます。

 さて、今年も多くの自然災害や凶悪な事件がありました。特に、台風19号の被害は関東、東北、中部地方に甚大な被害を及ぼしました。千曲川が決壊して、堤防から大量の水が住宅地に襲い掛かり、車が流されている様子が私の脳裏に残っています。そのために、大切な身内を失い、家は浸水し、畑や田んぼも水浸しで、収穫間近のリンゴや野菜は台無し。被災地の方々は本当に辛い思いをされていると思います。この方々の復興のために教会はいつもお祈りをさせていただいています。

 一方、暗いニュースの中に、人々の励ましとなるものが二つありました。フランシスコ・ローマ教皇と中村哲さんのことです。ローマ教皇は被爆地の長崎と広島を訪問されて核の廃絶を力強く訴えられました。中村哲さんはクリスチャンのお医者さんです。精神科医ですが、登山家の医師としてパキスタンとアフガニスタンにまたがっている山に行かれたとき、その山で目にした人々の現実に直面しました。アフガニスタンは大干ばつで苦しめられていました。地面が乾ききって農産物が一切育たなく、26万人が避難せざるを得ないことが起きました。これを見て、中村医師は人々を救うためには、医療よりむしろ、アフガニスタンを復興させるために用水路を建設しなければならない。そこで、自ら率先してトラクターを運転して、用水路を作って水を引き、緑あふれる土地にしたのです。住民から尊敬されて、その活動が認められ、ノーベル賞のアジア版と言われるマグサイサイ賞を受賞されました。先日、凶弾で天に召されましたけれど、人々を救うために最後までいのちを掛けて尽くされた素晴らしい方です。

 本日はクリスマス特別集会です。クリスマスは救い主イエス・キリストの誕生をお祝いする行事です。イエス・キリストは今から約2,000年前に誕生されて、33年半の地上生涯を遂げられた方です。この方は処女マリヤからお生まれになりました。この方は罪のない方で、神の子と呼ばれています。この方の誕生のニュースを最初に聞いた人々は荒野で羊の番をしていた貧しい羊飼いたちでした。ルカの福音書2章にこんな記事があります。

羊飼いたちが野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、次のように言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のための素晴らしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼い葉おけに寝ておられるみどり子を見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

イエス・キリストは私たち人間を罪から救ってくださる“救い主”です。ここで言う“罪”とは、人間が生まれながら持っている「自己中心」という原罪のことです。小さい子どもにお菓子を見せると、どの子も僕に頂戴!私に頂戴!と叫びます。私が育てた子どもが、口もきけないのに、哺乳瓶を見ると頂戴!頂戴‼と合図して必死になってミルクを飲んだ姿を覚えています。

すべての人間は生まれながら罪を持っています。幼い時はまだ良いのですが、成長していくに従い、罪が原因で、自分より優れた人を見ると“いじわる”をし、大人になって“あおり運転”などをする人が現れて来るのです。

 この罪がある限り、私たち人間はだれも神から栄誉を受けることができないと聖書に書かれています(ローマ3:23)。この罪を解決するために、罪のないイエス・キリストが誕生されて、私たちの罪を背負って十字架上で死に、私たちに変わって罪を解決してくださったのです。人の身代わりになって死ぬことは、口で言うのは簡単ですが、大変な決断がいることです。

私たち人間が救われるために、イエス・キリストは率先して十字架にかかって、救いの道を準備されました。父なる神もそれを承諾されたのです。何と大きな愛でしょうか。ヨハネの福音書3:16には「神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世(私たち人間)をされた。それは御子(イエス・キリスト)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と書かれています。神は愛です。愛の神はこのような大きな犠牲を払っても、私たち人間を救おうとされたのです。

是非この機会を通して、皆様に神様の深い愛を知っていただきたいと願っております。皆様の上に主なる神様の豊かな祝福がありますようお祈りいたします。(牧師:北林行雄記)

 追記 なお、この集会には教会員の家族や友人、新しい人も多く出席されました。

処女マリヤの信仰 ルカの福音書1:26~38

イエス・キリストは処女マリヤからお生まれになりました。ある時、マリヤのもとに御使いガブリエルがやって来て、「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられます。あなたは神から恵みを受けたのです。あなたは身ごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」と言いました(ルカ1:28,30~31)。

マリヤはひどく戸惑って次のように言います。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」マリヤはヨセフと婚約をしていましたが、夫婦生活を一緒にしたことは一度もありません。しかも、二人は旧約聖書の律法に従って真実な歩みをしていましたから、当然子どもを出産することなどあり得ないことです。

 御使いはマリヤに「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」と答えました。マリヤが身ごもるのは“聖霊の働きによる”。つまり、人の精子による受精ではなく、主なる神の直接介入(聖霊)による妊娠であったのです。創世記1章には、地は茫漠として何もないところから、神はいろいろなものを創造されたことが記載されています。つまり、主なる神は創造主であり、無から有を造る方で、全知全能の方ですから、「神にとって不可能なことは何もありません。」(ルカ1;37)。それゆえ、聖霊によって処女が妊娠するということが起きたのです。聖霊が送られると、そこに創造の御業が起きるのです(詩篇104:30)。

このように、マリヤが聖霊によって身ごもったので、マリヤから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれ(同1:35)、普通の人間とは違って罪のない方です。さらに、御使いがマリヤの親類エリサベツの妊娠のことを引き合いに、「神に不可能なことは一つもない。」ことを告げると、マリヤは「本当に私は主のはしためです。どうぞ、あなたのお言葉通りこの身になりますように。」と答えました。これは、神に対する彼女の信仰告白であり、今後如何なる迫害があろうと主の御心に従う決意表明でした。処女の身で出産することで、マリヤが私生児を産んだとの噂が立って、社会的な蔑視や疑いが起きることが予想されたと思います。そうであっても、彼女は主なる神の御業を受け入れたのです。マリヤの信仰は本当に素晴らしいものでした。私たちも純粋なマリヤの信仰に習いたいものです。ホームページをご覧の皆様はいかがですか? (牧師:北林行雄記)