終末の日の祝福 (イザヤ書4章2~6節)

私たちは今、平和な時代に生きていて、自分がクリスチャンであることを自由に表明できますが、やがて到来する終末の時代には多くの苦難や迫害が待ち受けることが予想されます。今朝はイザヤ書から、苦難があっても大きな希望があること、つまり、終末の日の祝福についてイザヤ書4章から学びたいと思います。

イザヤは旧約聖書を代表する預言者です。彼は紀元前740年、今から2770年前に預言者として召命を受け、ユダヤのウジヤ王からヒゼキヤ王までの50年間活躍した人物です。私たちがイザヤ書を学ぶのは過去の出来事を知るだけでなく、私たちがまだ経験したことがない世の終わりの時、つまり、終末に起きる出来事もイザヤ書に預言されているからです。以下、この箇所から3つのポイントを揚げてお話をいたします。

  • 新しい主の若枝と地の実

それでは、イザヤ書4章を見てください。2節にある“その日”とは終末の時のことです。“若枝“は木が育って実を結ぶ過程における最初の段階であり、”生命力“の象徴でもあります。それで、”主の若枝“は、やがて主なる神によって遣わされて来る”メシヤ“を表しているのです。

また、“地の果実はイスラエルの逃れの者にとって、誇りとなり、輝きになる”とは、長く厳しい奴隷生活から解放されたイスラエルに、“主の若枝”である方、メシヤ(救い主)によって救われた人々による新しい共同体が誕生し、豊かな生活が訪れることを期待し、展望しているのです。

  • 聖なる残った者

“シオンに残された者”、つまり、エルサレムに残った者とは捕囚としてバビロンに連れて行かれないでエルサレムに残った人のことではありません。むしろ、捕囚後の新しいエルサレムに住むようになる人々のことで、新しい共同体のことです。
 なぜ新しい共同体が作られる救いの地が依然としてエルサレムなのでしょうか。その理由は、エルサレムは天地万物の創造者なる神がこの地に,神ご自身の名を置くために選ばれた町だからです(列王記第一11章32、36節)。また、選ばれた民の系図に属した人たちは “みなエルサレムに生きる者として書き記されている。」のです(ネヘミヤ記7章5節参照)。

  • シオンの浄化と主の栄光に輝く臨在

シオン(エルサレム)の浄化は、人間の手によるのでなく、聖なる神がくだされた裁きによって達成されました。具体的に神は汚れた民を火で焼き尽くすことによってエルサレムを清められたのです。神は聖なる方ですから、汚物を残すことはなさいません。

 汚れた民を清められた聖なる神はイスラエルの民と共に住まわれます。一例を言いますと、出エジプトしたイスラエルの民と共におられました。出エジプト記13章21~22節をお読みします。「主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすための火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱が、夜はこの日の柱が、民の前から離れることはなかった。」

また、神が伴ってくださるイスラエル人の仮庵は昼に暑さを避ける影となり、嵐と雨から逃げる避け所、また隠れ家となりました。

このようにイスラエルの人々と共に主なる神が歩んでくださる所はいつも平安と喜びで満たされていました。同様に現代に生きるクリスチャンの皆さんと、主なる神、主イエス・キリストがいつも共にいてくださるので、どんな厳しい環境に置かれようと、常に平安と喜びで満たされるのです。

また、イエス・キリストの御名によって心を注ぎだして祈るなら、主は必ず最善の回答を持ってあなたを導いてくださいます。皆様の上に主なる神の祝福がますます豊かにありますようお祈り申し上げます。 (牧師:北林行雄記)

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