主イエスへの信仰と感謝 (ルカの福音書17章11~19節)

今朝の聖書箇所には、ツアラアトに冒された人々10人に対する主イエスの癒しの奇跡が書かれています。ツアラアトは重い皮膚病のことで、この病気にかかった人は世(一般社会)から離れ、差別され、世から捨てられたようにして生きることしかできなかった人たちのことです。

 主イエスがエルサレムに上る途中、ガリラヤからサマリヤに向かう際に或る村に入られた。すると、ツアラアトに冒された10人が主イエスを出迎え、遠く離れた所から声を張り上げて「イエス様、先生、私たちをあわれんでください。」と叫びました。なぜ彼らはこのようなことをしたのでしょうか。彼らは世間の人々から、“汚れた者”としてレッテルを貼られていたので、主イエスの御前で直接訴えることが出来ず、こうするしか方法がなかったからです。

 彼らの叫びを聞かれた主イエスは心を動かされ、彼らを深く憐れんで、大声で「祭司のところに行って身体を見せなさい」と返答された。10人は主イエスのことばに従って祭司のところに出かけて行きました。その道中で彼らの重い皮膚病が主イエスによって治されました。その結果、彼らが祭司の所に行き、身体を診てもらい、祭司が治ったと判断すると、彼らは社会復帰できました。

ツアラアトが治った10人のうちの一人、サマリヤ人だけが主イエスのもとに戻って来て、足もとにひれ伏して感謝したのです。

なぜ、他の9人は主イエスのもとに戻って、感謝の気持ちを伝えずに、そのまま祭司の所に行ったのでしょうか? 主イエスは「10人きよめられたのではなかったか。9人はどこにいるのか。この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」と言われた。

当時、生粋のユダヤ人とサマリヤ人は社会的に大きな差がありました。ユダヤ人がツアラアトに冒されている間は卑下せざる得ない身であっても、その重病がいやされると、普通の「ユダヤ人」として、社会的に優位な立場に戻ることができました。当時のユダヤ人の社会では、ナザレのイエス、つまり、私たち人類の救い主であるイエス・キリストをユダヤ人はあまり評価していなかった故でないかと思われます。一方、サマリヤ人は他国人であって、社会的な評価は低く、ツアラアトが治っても、社会的な立場は変わりませんでした。

ツアラアトが癒されたサマリア人は大声で神をほめたたえながら引き返して来て、主イエスの足もとにひれ伏して感謝しました。彼は自分の身に起きた現実、つまり、難病が癒されたこと、それ正しく主なる神の御業であり、主イエスの足もとにひれ伏し、心の底から感謝と喜びを表明しました。

この姿を見て、主イエスは言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」

なぜ、主イエスはわたしが癒したと言わないで、あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言われたのでしょうか? 彼は主イエスを信じ、主の指示に従って祭司の所に行くときに起きたことでした。信仰をもって彼が祭司の所に向かう道中で起きたことであったので、「あなたの信仰があなたを救った」と主がおっしゃった理由です。

「信仰は望んでいることを保証し、目に見ないものを確信させるものです。」

へブル人への手紙11章1節

 現代はかって常識であったことが守られないで、とんでもない事件が起きたり、大きな自然災害が起きたりする不安定な時代です。しかし、神のことばは変わることはありません。皆さん、この時こそ、主イエスにある信仰を固く保って歩みましょう。(牧師:北林行雄記)

終末の日の祝福 (イザヤ書4章2~6節)

私たちは今、平和な時代に生きていて、自分がクリスチャンであることを自由に表明できますが、やがて到来する終末の時代には多くの苦難や迫害が待ち受けることが予想されます。今朝はイザヤ書から、苦難があっても大きな希望があること、つまり、終末の日の祝福についてイザヤ書4章から学びたいと思います。

イザヤは旧約聖書を代表する預言者です。彼は紀元前740年、今から2770年前に預言者として召命を受け、ユダヤのウジヤ王からヒゼキヤ王までの50年間活躍した人物です。私たちがイザヤ書を学ぶのは過去の出来事を知るだけでなく、私たちがまだ経験したことがない世の終わりの時、つまり、終末に起きる出来事もイザヤ書に預言されているからです。以下、この箇所から3つのポイントを揚げてお話をいたします。

  • 新しい主の若枝と地の実

それでは、イザヤ書4章を見てください。2節にある“その日”とは終末の時のことです。“若枝“は木が育って実を結ぶ過程における最初の段階であり、”生命力“の象徴でもあります。それで、”主の若枝“は、やがて主なる神によって遣わされて来る”メシヤ“を表しているのです。

また、“地の果実はイスラエルの逃れの者にとって、誇りとなり、輝きになる”とは、長く厳しい奴隷生活から解放されたイスラエルに、“主の若枝”である方、メシヤ(救い主)によって救われた人々による新しい共同体が誕生し、豊かな生活が訪れることを期待し、展望しているのです。

  • 聖なる残った者

“シオンに残された者”、つまり、エルサレムに残った者とは捕囚としてバビロンに連れて行かれないでエルサレムに残った人のことではありません。むしろ、捕囚後の新しいエルサレムに住むようになる人々のことで、新しい共同体のことです。
 なぜ新しい共同体が作られる救いの地が依然としてエルサレムなのでしょうか。その理由は、エルサレムは天地万物の創造者なる神がこの地に,神ご自身の名を置くために選ばれた町だからです(列王記第一11章32、36節)。また、選ばれた民の系図に属した人たちは “みなエルサレムに生きる者として書き記されている。」のです(ネヘミヤ記7章5節参照)。

  • シオンの浄化と主の栄光に輝く臨在

シオン(エルサレム)の浄化は、人間の手によるのでなく、聖なる神がくだされた裁きによって達成されました。具体的に神は汚れた民を火で焼き尽くすことによってエルサレムを清められたのです。神は聖なる方ですから、汚物を残すことはなさいません。

 汚れた民を清められた聖なる神はイスラエルの民と共に住まわれます。一例を言いますと、出エジプトしたイスラエルの民と共におられました。出エジプト記13章21~22節をお読みします。「主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすための火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱が、夜はこの日の柱が、民の前から離れることはなかった。」

また、神が伴ってくださるイスラエル人の仮庵は昼に暑さを避ける影となり、嵐と雨から逃げる避け所、また隠れ家となりました。

このようにイスラエルの人々と共に主なる神が歩んでくださる所はいつも平安と喜びで満たされていました。同様に現代に生きるクリスチャンの皆さんと、主なる神、主イエス・キリストがいつも共にいてくださるので、どんな厳しい環境に置かれようと、常に平安と喜びで満たされるのです。

また、イエス・キリストの御名によって心を注ぎだして祈るなら、主は必ず最善の回答を持ってあなたを導いてくださいます。皆様の上に主なる神の祝福がますます豊かにありますようお祈り申し上げます。 (牧師:北林行雄記)

主のなだめのかおり (レビ記1章10節~2章2節)

レビ記はイスラエル民族の信仰生活に深いかかわりのある書です。イスラエルの人々が主にささげる主要なささげ物は5つあります。①全焼のいけにえ、②穀物のささげ物、③和解のいけにえ、④罪のためのいけにえ、⑤罪過のためのいけにえがあります。  神にいけにえを捧げるのは、自分が罪を犯したり(④)、神が定められた規則に違反した(⑤)時と考えがちですが、今朝はその反対であり、主なる神と信仰者がより信頼関係が深まる前向きのささげ物に関することを取り扱います。換言すると、健全な信仰生活をおくっておられる皆さんが神にもっと喜んでいただくためにおささげする霊的な“ささげ物”について学ぶわけです。

レビ記1章3節から13節に、“全焼のいけにえ”について書かれています。全焼のいけにえとは、すべてが火で燃え尽くされるいけにえのことです。10節には傷のない雄を捧げなければならない。その羊は屠られ、祭壇の側面にその羊の血を振りかけるとあります。この箇所から私たちの救い主イエス・キリストのことを連想します。ペテロの手紙第一1章18~19節をお読みします。「ご存知のように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちるものにはよらず、傷もなく汚れもないキリストの尊い血によったのです。」。イエス・キリストは地上生涯の中で一度も罪を犯すことなかった完全な方でした。その方が私たち人間を救うために、十字架にかかり、死んで、三日目に復活して下さったのです。イエス・キリストは真の救い主です。

全焼のいけにえは現代の私たちに何を教えているのでしょうか?全焼のいけにえはすべて焼き尽くされることですから、それが示すところは、自分のすべてを神にささげるということです。つまり、私たちが自我を捨てて、神の前に砕かれて、神の御こころに全面的に従うことを意味します。

換言すると、全焼のいけにえは、罪の贖いを成し遂げると同時に、礼拝者である私たちの全き献身を象徴しています。つまり、私たちの救いのために、大きな犠牲(痛み)を払われた神に感謝し、全幅の信頼をもって従い、異教社会の中にあっても、クリスチャンとして信仰の証の生活を続けていきますと決断することです。

ローマ人への手紙12章1節参照。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによってあなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物としてささげなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」

続くレビ記2章には「穀物のささげ物」について書いてあります。この場合は収穫した初物を神にささげ、神に感謝の思いを伝え、自分たちに与えられた「神のめぐみを告白」することです。しかも、ささげ物は小麦粉であって、その上に油をそそぎ、乳香を添えました。油や乳香の使用は、聖霊の働きや祈り、神との契約を恒久的に維持することを象徴しています。つまり、穀物のささげ物は「私たちは神との契約のもとに、常に祈り、聖霊に導かれながら信仰の歩みを今後もずっと続けていきたいと思います。豊かな信仰生活を歩めるように、いつも聖霊のお導きがありますよう今後とも宜しくお願いします。」という願いを込めた意思表明でもあるのです。

続いて、本日の説教題にしました「主のなだめのかおり」について説明します。“なだめの香り”は新改訳聖書で使用されていますが、新改訳2017では“香ばしい香り”と表現されています。“なだめのかおり”はヘブル語の言語では「覚えさせる」「思い出させる」という意味で、詩篇作者が自分たちのことを神に覚えていただけるようにとの願いをもって書いたものと推測されます。

<まとめ>

本日は全焼のいけにえと穀物のささげ物についてレビ記から学びました。

① 全焼のいけにえは全部を焼いて神にささげることで、全き献身を示しています。これは、キリストの犠牲の死を預言するものです。正に、御子イエスの父なる神に対する献身は完全無欠のものでした。主イエスは謙虚で柔和な方であり、父なる神の御心に従って、私たちのために十字架にかかり、わたしたちの罪の贖いをしてくださったのです。感謝!

② 穀物のささげ物は主イエスの全きご性格を物語るものです。小麦粉は全部が一様に細かく砕かれ、柔らかな感触のものでなければなりません。小麦粉に注がれる油や乳香の使用は聖霊の働きを表わすものです。私たちの信仰生活における聖霊の働きは本当に大切なものであり、その関係は永遠に続くのです。

③ 全焼のささげ物や穀物のささげ物は神へのなだめの香り(香ばしい香り)であり、その香りを通して、神とイスラエルの人々はつながることができたのです。現代の私たちクリスチャンにとっては、主イエスの御名による祈りと神への賛美のことです。

特に祈りにおいては、神の御心を求め、御心に沿った祈りをすれば、その祈りは必ず聞かれるのです。

  「何事でも神のみ心にしたがって願うなら、神は聞いて下さということ、

これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」       

                     ヨハネの手紙第一 5:14

                         (牧師:北林 行雄記)

キリスト復活の証人として(使徒の働き3章1~19節)

 使徒の働き3章には最初からイエス・キリストのいやしの奇跡が登場します。生まれつき足の不自由な人がエルサレムにある“美しの門”に運ばれて来ました。この人はペテロとヨハネがその宮に入ろうとするのを見て、施しを求めました。そのとき、ペテロは次のように明言しました。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」。そして、施しを求めた人の手を取って立たせると、彼のくるぶしが強くなって、躍り上がって立ち、歩き出したのです。しかも、神を賛美しつつペテロとヨハネと一緒に宮に入って行きました。確かに、信仰を持ってイエス・キリストの御名によって祈ると、その祈りは聞かれるのです。

 この癒しの奇跡を見ていた群衆が驚いているのを見て、ペテロはこの癒しの業について説明を加えます。ナザレのイエスは十字架にかけられて死に、三日目に復活された。そのイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、生まれつき足の不自由な人を強くしたのです。「イエスによって与えられる信仰が、皆さんの前で、このとおり完全な身体にしたのです。」(使徒の働き3章16節後)と伝えました。

 更にペテロは群衆に対して次の呼びかけをしました。「あなたがたは、いのちの君を殺したのです。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。わたしはそのことの証人です。悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪は拭い去られます。」(使徒の働き3章15節、19節)。

 このようにペテロはイエス・キリストの福音を人々の前で大胆に証しました。以前の彼はおくびょう者で、イエスが捕らえられたとき、「イエスのことを知らない」と3度まで否定した人です。しかし、復活された主イエスに出逢って、しかも大宣教命令を与えられ、そして、先週学んだように、ペンテコステの日に聖霊降臨がありました。その後、弟子たちは聖霊に満たされてイエス・キリストの復活の証人として、大活躍しました。その典型的な例が弟子の筆頭であるペテロです。彼はイエス・キリストにある信仰に生き抜き、イエスの福音宣教に命を懸けた人物です。

 

 皆さんは日常生活の中でどのように信仰の証をされていますか?人前でも恥ずかしがらずに堂々と証できる人もあれば、思っていてもなかなか証ができないという人、証しそのものが苦手という人もいらっしゃると思います。人それぞれ賜物が違うので、自分のできるところから証をスタートしてください。なお、私自身は証をするときは、先ず聖霊の導きがあるように祈ってから行うようにしています。すると、不思議に平安が与えられ、相手の目線に立って自然体で話すことができます。

ところで、福音宣教のために一番必要なもの何だと思いますか? 

資金でしょうか?そうではありません。大切な人たちの救いのための切なる祈りです。そのためには、愛と忍耐が必要です。時として疲れ果てて、あきらめムードになることもあるでしょう。

その時こそ大切な祈りは使徒の働き4章29~31節に書かれてある祈りです。

 

主よ。今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたの御ことばを大胆に語らせてください。また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒しとしるしと不思議を行わせてください。彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。

皆さんの中で自分はどんな賜物があるのか分からないと思っている方もいらっしゃると思います。そこで、今朝は日々の信仰生活の中で大切な“聖霊の賜物”についてお話したいと思います。

聖霊の賜物の種類について聖書の中に5か所に書かれています。そのうち、エペソ人への手紙4章7~13節、コリント人への手紙第一12章28~31節には、牧師、伝道師、宣教師など教職者の賜物のことです。ローマ人への手紙12章3~8節は仕事の内容で7種類(預言、奉仕、教える、勧める、分け与える、指導する、慈善を行う)に分けています。

私はペテロの手紙第一4章10~11節が奉仕者全般に対する心得が示されていると思います。以下、その箇所を抜粋して紹介します。

「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々の恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」

その他、あなたの周りにいる人々でまだ信仰を持っていない人に、あなた自身の救いの証しをし、教会に誘いましょう。これは信徒伝道であり、神からの賜物です。

また、教会員の中で病気の人や、悩んでいる人、その他、助けを必要としている人のために、とりなしの祈りをしましょう。喜んでとりなしの祈りができること、これも聖霊の賜物です。その他、賛美の賜物や喜んで兄弟姉妹や求道者の送迎ができることも、聖霊の賜物です。

既に信仰をもって毎週欠かさずに礼拝してくださっているすべての皆さんの上に、聖霊の導きがあることを確信しております。聖霊の導きがあったからこそ、信仰が与えられ、イエス・キリストを救い主として信じることができたのです。また、信仰の決心に至っていない方も、聖書に関心を持ち、聖書の話を聞こうとされるのは、聖霊の働きがあるからです。このような方々にお伝えします。聖書を読むとき、また、礼拝説教を聞くとき、神の導きを求めて祈ってください。そうすれば、不思議に今まで理解できなかったことも、確信をもって理解し、喜びに満たされるのです。

私は福音を恥としません。福音はユダヤ人をはじめギリシャ人にも、

信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。

          ローマ人への手紙1:16

皆様の主なる神の恵みが益々豊かにふりそそがれますようお祈り申し上げます。

          (牧師:北林行雄記)

聖霊降臨 (使徒の働き2章1~13節)

本日はペンテコステ記念礼拝です。ペンテコステはギリシャ語で50番目という意味です。ユダヤ人社会ではこの日を「五旬節」または「7週目の祭り」として祝われています。一方、キリスト教会では「聖霊降臨節」として、記念礼拝が行われます。

 

イエス・キリストの弟子たちや関係者が皆、集まって、心を合わせて祈っておりました。使徒の働き1章14節を見ると、そこには婦人たちやイエスの母マリヤ、それにイエスの兄弟たちも一緒に集まって祈っていたことが判ります。そこに120名ほどの人が集まっていました。

 すると、突然、天から激しい風が吹いてきたような響きが起こって、彼らがいる家全体に響き渡りました。すると、炎のような舌が分かれて現われ、その場にいる一人一人の上に留まった。本当に不思議な現象ですが、人間の舌というと、人が話すことばを連想しますね。しかも、そこに集まっていた人たちが突然、外国のことばで話し始めました。

その日、エルサレムに集まって人たちはユダヤ人だけでなく、地中海沿岸の国々やメソポタミア、アフリカ、ヨーロッパから来て滞在している人たちでした。ですから、彼らは弟子たちやその関係者が、自分の国の言語を話していることがよく判り、びっくりしました。

 どうして、弟子たちやその関係者が一度も習ったこともない外国のことばを話すことができたのでしょうか?それは聖霊の導きによってできたことなのです。彼らは聖霊に満たされて、御霊が語らせてくださるままに話し出したのです。聖霊の御業は人知をはるかに超えた力があります。そして、この出来事はキリスト教の歴史において画期的で、記念すべき出来事でした。

 人々は驚き、当惑しましたが、その中に「彼らは酒に酔っているのだ」と弟子たちを嘲る人もいました。そこで、ペテロは声を張り上げて群衆に語り掛けました。その内容を要約しますと、

  • 今、朝の9時だから酒に酔っているのではない。この出来事は預言者ヨエルが語った預言の成就である。その内容は、「終わりの日に、人々に神の霊が注がれるので、その人の息子や娘は預言し、青年は幻を見、神のしもべやはしためも預言するにようになる。」ということである。
  • イエスは力ある業と不思議としるしを行って神から遣わされた者として証された。神の御計画によって来られたこのイエスを、あなたがたは異邦人(ポンテオ:ピラト)の手によって、十字架にかけて殺してしまった。
  • 神はこのイエスを死から蘇らせられた。私たちはそのことの証人である。そして、このイエスが、今あなたがたが見聞きしている聖霊を注がれた。私たちはそのことの証人である。
  • 「だから、イスラエルの皆さんはこのことをはっきりと知らなければならない。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。大変のことをあなたがたはしてしまったのだ。」

とペテロは宣言しました。

 すると、人々はこれを聞いて心をさされ、「兄弟たち、私たちはどうしたら良いでしょうか?」と言った。

 そこでペテロはすかさず、次のように彼らに宣告しました。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」

 その結果、ペテロのことばを受け入れた人々は信仰をもって、バプテスマを受けました。実に、その日、3000人の人々が自らの罪を悔い改め、主イエス・キリストを信じて、バプテスマを受けたのです。画期的な出来事でした。

 このようにして、世界最初のキリスト教会が誕生したのです。それゆえ、ペンテコステはキリスト教会誕生の歴史的な記念日なのです。

私たちの教会も1995年に開拓伝道を開始して、小さいながらも教会としての群れができあがり、2021年末に新会堂が完成し、翌2022年4月30日に日本同盟基督教団の朝岡勝理事長を招いて献堂式を行うことができました。

 1日に3000人のバプテスマとはいかなくても、地道に伝道しながら、教会員が増やされ、成長する教会でありたいと願います。富山聖書教会は開拓当初から音楽会などイベントを毎年実施しておりました。若い人が沢山集い、信仰をもちましたが、就職や結婚で他県に移動しました。しかし、いつも活気に満ちていました。

 コロナも収まりつつある今日、いろいろなイベントを実施していきましょう。お互いの意見の違いがあっても、主キリストにある兄弟姉妹です。共に協力して頑張っていきましょう。そのことを通して主イエス・キリストの栄光が益々豊かに表されますように!

 最後に、ペンテコステにちなんで、私のささやかな体験を紹介して説教を終わります。 私は大企業の研究者を辞して、カナダのバンクーバーの神学校で学びました。日本人は私ひとりでしたが、クラスメートにはカナダやアメリカばかりでなく、海外からいろいろな国の留学生が来ておりました。ナイジェリアの神学校の校長や、インドの有名な牧師、中国や韓国、マレーシアなどです。

授業中に教授から課題が出され、デイベイトの時間がよくありました。私や韓国の学生はおとなしいのですが、毎回激しい議論が交わされました。特に、アフリカの学生は自己主張が強く、激論が続き、なかなか話がまとまりませんでした。そのとき、皆で聖書の御ことばに注目すると、直ぐに一致してまとまりました。そのとき、私はどんなにバック・グランドが違う人たちであっても、主イエス・キリストにある信仰の一致ができることを。身を持って確信しました。

  ペンテコステの出来事は世界最初の教会誕生として重要ですが、教会の成長のためにも、聖霊の働きは大変重要です。クリスチャン人口の少ない日本において、教会に集う信徒の皆さんが実社会で証するには、妨害もあることは御承知だと思います。その妨害の中にあってもクリスチャンとして為すべきことを行いつつ、教会の諸集会に参加し、証をするには勇気が必要です。そのとき、主イエスに切にお祈りしていると、聖霊があなたを助けてくださいます。例えば、上司や先輩にどのように話すか、聖霊がふさわしい言葉をあなたの心に浮かばせてくださり、勇気を与えてくださいます。

 また、会社で忙しく、疲れて教会を休みたくなる誘惑に会われることがあります。そのときこそ、主の前に出て行って、真実の自分の気持ちを訴えて祈ってください。そうすると、聖霊があなたを励まし、勇気を与え、話す言葉を与え、会話を導いてくださいます。

 友人や知人に福音を伝えるときも、病気の中も、試練の中も、常に主に祈って、導きを求めるなら、あなたは安心して日々の仕事や証を全うさせてくださいます。

 また、自分のことばかりでなく、教会のため、主にある兄弟姉妹のため、求道者のために祈ってください。

 皆さんの日々の信仰生活が初代教会のようにいつも聖霊に満たされ、豊かで味わいのある素晴らしいものとなりますように、心からお祈り申し上げます。

  在主 (富山聖書教会牧師:北林行雄記)

愛と成熟の祈り (エペソ人への手紙3章14~21節)

 今朝は皆さんが健全なクリスチャン・ライフを歩むための大切な提言について、エペソ人への手紙からメッセージをさせていただきます。この手紙の著者パウロは初期キリスト教の使徒として活躍しました。彼は信仰に導かれる前はクリスチャンたちを激しく迫害していましたが、回心してイエス・キリストを信じる者となり、ヘレニズム世界に熱心に宣教を行った人物です。 パウロは膝をかがめて、エペソの教会の人たちのために、父なる神の前に祈りました。ユダヤ人は一般的に立って祈ります。“膝をかがめて祈る”とは、深い感情と熱烈な願望を表す場合の姿勢で、パウロはエペソ教会の人々のために心を込めて切に祈ったことを表しています。 パウロが祈った内容が16節から19節にあります。その祈りを要約すると以下の3点に絞られます。

内なる人に働く御霊により、力をもって、あなたがたを強くしてくださるように

つまり、内なる人(私たちの心)が御霊の働きによる霊的な力を受けて強められることです。人は罪を犯すと、霊的にダウンして、前に進めなくなります。そのときこそ、イエス・キリストの御名を通して罪を赦されて、新たな力を受けることが必要です。あなたがこの苦しい状況から解放していただきたいと必死に祈ることでしょう。そのとき、あなたを背後から応援してくださるのが聖霊なのです。それによってあなたは大いに励まされるでしょう。

  • 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができるように。

生まれながら罪人である私たち人間を救うために、身代わりとなって、罪のない方であるイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださった。そして、3日目に死より復活されました。それゆえ、イエス様を自らの救い主と信じる者は、誰でも、救われて、永遠のいのちを持つことができます。この素晴らしい道を主が準備してくださったのです。本当に感謝なことです。人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることは私たち人類にとって一番大切なことです。

  • 神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされるように

イエス・キリストを信じたすべてのクリスチャンが神の愛と恵みを、より一層、より深く味わうことができるように、それによって、ひとりひとりのクリスチャンの心が神の恵みで満ち溢れるように!とパウロはクリスチャンひとりひとりの信仰がさらに成長し、成熟することを祈ったのです。

もちろん、信仰生活の中でスランプに陥ってしまうことがあります。でも、安心してください。じっと時を待っていると、スランプから抜け出す時がやってきます。そして、神の満ち溢れる豊かさに強く励まされ、新たな道が開かれてくるのです。さらに、試練を通してもっと大きな働きができるように成長していくのです。このことが、偉大な使徒であり、伝道者であるパウロの真の願いでした。

 教会はクリスチャンたちや求道者の群れです。また、聖書は語ります。教会はキリストのからだであると。身体には多くの器官があります。心臓や胃、腸や、頭や手足など、ひとつも無駄なものはありません。すべての器官は必須不可欠で、非常に大切なものです。それゆえ、小さな器官であるからといって、馬鹿にされることはありません。

 それゆえ、弱さをおぼえている人には心から尊敬の念を持って、助けてあげてください。弱い人も強い人もイエス・キリストにあって大変貴重な人たちです。

 

とは言っても、教会は生まれも、育ちも異なる人々の集まりですから、やはり意見の食い違いが生じることがあります。私はこの教会を開拓する前はいくつかの教会に集って信仰生活をしてきました。ある教会はこれから成長し、50名、100名となる教会だと誰しもが認める教会でした。ところが、若い学生たちが牧師の意見に反発し、自分の仲間同士で集まり、神学校を卒業したばかりの教師をたてて別の群れを作り、教会が分裂しました。その群れは、最初は勢いがありましたが、やがて更に分裂を繰り返し、消滅状態に近い集まりになってしまいました。一方、前からの指導者(元の牧師)の教会は存続し続けました。

    私はこの経験を踏まえ、教会が建てられ、豊かに成長する秘訣は、どんなに厳しい環境に置かれても、それが神の御心であれば、成功するということだと、はっきり判りました。それゆえに、社会の変動によっても、富山聖書教会は、いつも神の御心を求めて、皆が心を合わせて祈っていくことを第一にしたいと思います。

    

次に、大切なことは教会員の一人一人の賜物を生かし、皆が喜んで奉仕する教会にしていきたいと思います。ただし、奉仕は義務ではありません。自分から喜んで行なうものです。     一番大切なことですが、教会員皆がキリストの愛に満たされて、奉仕することが大事です。言い換えると、イエス様が私のために十字架にかかって死んでくださった。その素晴らしい愛に感動し、心から奉仕を喜んでするものです。そのことを見ておられる神は教会を豊かに祝福し、成長させて下さるのです。皆様の上に三位一体の主なる神から益々豊かな祝福がありますようお祈りいたします。(牧師:北林行雄記)

主があなたに求めておられること ミカ書6章1~8節

 

預言者ミカは紀元前8世紀頃、ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に生きた人です。この時期はイスラエル王国が滅び、その民は離散していたが、将来、この民が帰還することをミカは預言しました(ミカ2:12)。また、新しい指導者がベツレヘムから出ることも預言ました(5:1)。つまり、私たちの救い主イエス・キリストの誕生をここで預言しているのです。

 本日の聖書箇所は、神の御心に反して罪を犯し続けるイスラエルの民が被告で、主なる神が検事で、イスラエル民族を告発された法廷論争のかたちをとっています。しかも、裁判官として神ご自身が判決をくだされるのです。証人として山々や地の基が立てられたこと(2節)。その理由はそこにイスラエルの民によって偶像が一杯置かれていたからです。つまり、イスラエルの民は天地万物を創造された真の神を礼拝しないで、偶像崇拝をしていたのです。

 それでも、神はイスラエルの民を「わたしの民よ」と愛をこめて呼ばれました。「わたしがあなたに何をしたというのか。どのようにしてあなたを煩わせたというのか。」つまり、イスラエルが犯した罪に対して神がどのような責任があるのかを問われたのです。

さらに、神は奴隷であったイスラエルの民を出エジプトさせ、彼らを贖い出されました。そして、彼らを導くために、モーセやアロンという優れた指導者とミリヤムを送られました。 出エジプトから約束の地カナンに向かうまでの間、イスラエル民族は神の恵みをたくさん受けてきました。そのことを思い起こすように言われたのです。たとえば、モアブの王バラクがイスラエルの民を呪わせようとした時、神がペオルの子バラムを導いて、イスラエルを祝福するようにされました(民数記22~23章)。神のこのような配慮はイスラエルの民が主の正しい業を知るためでありました。 このような神の指摘に対するイスラエルの人々の対応は、全焼のささげ物や一歳の子牛や、幾千の雄羊や自分の長子を捧げようか等、形式的なものだけでした。いつの時代にも変わらないのは人間の形式主義です。たとえ重要な問題であっても、その場限りの形だけのもので終わらせようとする力が働きます。

 神が私たちに人間に本当に求めておられることは8節のみことばにあります。つまり、

主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。

 この聖句で、公正、誠実、へりくだりの3つを、特に主なる神が私たち人間に求めておられると断言しています。新改訳聖書では“公正を行い”を“公義を行い”と書いてあります。両方とも、その意味は自分の好みや流行によって行動するのでなく、常に神の判断、つまり、神の御ことば(聖書)に従って行動するという意味です。いつ、どこであっても、自分の我を通すのではなく、へりくだって神と共に歩むことが一番大切なことです.

 教会はキリストのからだであって、教会員ひとりひとりが各器官であります。顔や手や、脚など見える器官もあれば、大変重要な働きをする心臓や胃、腸は目に見えません。更に言うならば、身体全体に張り巡らされている血管や神経は見えません。それでも、大切な働きをしています。

 人間のからだにおいて、胃が腸に向かって腹を立てることはありません。しかし、残念なことに人間社会の中では、小さいことも含めて、問題のないというところはありません。キリストのからだと言われる教会も同様で、問題が全くないというところはありません。私はこれまでの牧会生活の中で、教団の研修会や宣教区牧師会、PBA(ラジオ放送世の光)牧師会などで、沢山の牧師と知り合いになり、苦労話を語り合い、共に祈り合う仲間が沢山与えられています。

実際のところ、キリストのからだである教会に生じた問題が教会成長を阻む要因になることが多いのです。教会に集う皆さんはお一人お一人、大切な方々であります。生まれも育ちも違う人々が集まる集団ですから、意見の違いがあるのは当然のことです。そこに重要な働きをするのが“主イエスの愛”です。教会員皆がお互いに尊重し合い、イエス・キリストにある立派なからだを形成していきましょう。(牧師:北林行雄記)

主にある教会成長 コロサイ人への手紙3:12~23

新年おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

本日のメッセージの聖書箇所コロサイの町は地理的に今のトルコの一部にあり、この手紙の作者パウロの時代は東西交通の要所で、繁栄した町でした。そのため、いろいろな人種や職業の人々が住んでいました。教会においては異邦人の会員や奴隷の身分の人もいました。そのため、教会内に複雑な問題も生じてきました。

 そこで、パウロはコロサイ教会の信者たちに、彼らの信仰がさらに成長するためにこの手紙を書きました。「あなたがたはキリストと共によみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。」つまり、今までの古い行いに死んで、今はキリストにある新しいいのちのうちに生きているのです。それゆえ、これまでの人間的な生き方、淫らな行いや汚れ、情欲、貪欲を止めなさいと勧めたのです。

 そして、イエス・キリストを信じた人は「新しい人を着た」とパウロは宣言しました(10節)。つまり、神によって御子イエスのかたちに造られていくと言うのです。この“かたち”とは外見のことを言っているのではありません。私たちの心がイエス・キリストに似たように変えられていくということです。人の話を聞かず、怒りっぽく、しかも、自分が高く見られたいと思う人が、他の人の話にも、しっかりと耳を傾け、相手の気持ちになって、その人が良くなるように祈り、支えてあげる人に変えられていくことなのです。

 そして、教会においてはギリシャ人もユダヤ人もない。割礼のある者も、ない者も、未開人もスキタイ人もなく、奴隷も自由人もない。キリストがすべてであり、すべての人のうちにおられる。この記述はコロサイ教会の実情を知っているパウロならではことばです。なお、スキタイ人とは北方の草原地帯から出た遊牧民で、文化的には最下層の人たちでした。

 

 12節から、クリスチャンはどういう者で、どのように歩むべきかについて記述されています。

1.クリスチャンは神に選ばれた者で、聖なる者、愛されている者である。

人間世界に生きている私たちはとかく他の人と比較されることが多くあります。あの人が上手にできるのに、この人は失敗ばかりしていると。

私はもっと若い時はこのようなことはあまり言われないように気をつけて生きてきました。しかし、高齢になった今、これまで簡単にできたことが、うまくできず、我ながら、呆れることがあります。毎日、謙遜の学びをしております。

 私が40歳ごろは或る会社に勤めておりました。部課長会に出席した時のことですが、頭がツルツルに禿げた企画室長が発表の番になったときでした。企画室長は立派なかつらをかぶって、若々しく颯爽と登場されました。その時、会場は驚きに包まれ、「あれは誰だ?」と疑いのことば、そして、暫くすると、会場全体が大笑いに包まれました。男性用かつらが、ほとんど普及していない時期でした。頭にかつらをかぶるだけで、若々しい姿に変えられたのでした。

これを私たちの信仰生活に例えて考えてみましょう。私たちはイエス・キリストを頭にかぶることによって、主イエスに似た姿に変えられます。私は外見のことを言っているのではありません。私たちの心のことを言っています。主イエスは謙遜な方です。神の子であるのに、私たち人間と同じ姿になり、痛みも苦しみも経験されました。さらに、私たち人間を救うために十字架にかかって死んでくださいました。なんと大きな愛でしょう。神は愛です。私たちも日々、神の愛に満たされて生きるなら、不平、不満はおきて来ません。

今の時代はロシアのウクライナ侵攻や中国、北朝鮮の動きを見たとき、終末の様相を示し始めています。しかし、このような状況にあっても、イエス・キリストにあって生きるならば、何も恐れることはありません。

  • 神に愛されている者として為すべきこと
    • 深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を身に着ける。
    • 互いに忍耐し、赦し合う。
    • 愛を着ける。愛は結びの帯として完全である。
    • 心がキリストの平和で支配されるようにする。
    • キリストのことばが心のうちに豊かに住むようにする。
    • ことばであれ行いであれ、何かするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名によって行う(17節)。

.すべてのクリスチャンが常に心掛けること
  「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」

    コロサイ人への手紙 3章23節)

まとめ

 今朝は、使徒パウロが、問題を抱えるコロサイの教会の人たちの信仰の成長を願って、書き送った手紙から大切な事柄を学びました。教会はイエス・キリストを信じる人たちや、救いを求める人たちの集まりです。また、教会にはいろいろな文化を持った人たちが集まっています。性格も職業も、育った背景もみな異なるので、摩擦が起きることは必然的なことです。しかし、教会はイエス・キリストにある信仰によって一致を保つことができます。

 私たちの教会は新会堂ができ、昨年4月30日に献堂式を行いました。素晴らしい会堂です。ここで毎週礼拝を持てることは主なる神様の恵みです。

 富山聖書教会は開拓からスタートし、27年経過しましたが、これからの発展が期待されています。人数的にも経済的にも成長するためには、先ず、教会員の信仰が成長することが大切です。このことは一朝一夕にはできないと思います。日頃の誠実な歩みが大切です。そのためには、「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」を忠実に実行することです。皆様の上に、全知全能の主なる神の恵みと祝福が益々豊かにありますようお祈りいたします。(牧師:北林行雄記)

処女降誕の御告げ ルカの福音書1章26~38節

 皆さん、クリスマスおめでとうございます。

今朝は、イエス・キリストの誕生に関する御告げを天使がマリアに知らせた所から学びます。ルカの福音書1章には、処女マリアの前に御使いガブリエルが突然現れて、「おめでとう。恵まれた方、主があなたとともにおられます。」と挨拶をし、「あなたは身ごもって男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」と伝えました。

 突然のことで、マリアは驚きます。マリアはヨセフと婚約はしていても、まだ結婚していないので、身ごもることはありません。彼らはユダヤの国に住んでいました。その国には昔から厳しい戒律がありました。仮に、マリアは婚約者ヨセフが知らない所で、身ごもった場合、姦淫の罪を犯したとして石打の刑で殺されるか、又は、婚約が解消されて、「罪の女」として、さらし者にされ、地域社会から追放されるのです。

本日の聖書箇所から以下の3つのポイントがあげられます。

  • マリアは聖霊によって身ごもる。

当惑するマリアに対して天使ガブリエルは「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。」と答えました。すなわち、マリアに神の力が働き、彼女は聖霊によって身ごもるということです。

これは特例中の特例です。自然界には人間の他に沢山の動物がおり、いろいろな植物があります。新たな生物は受精によって生まれ繁殖していくのです。

受精のために精子と卵子の結合が必要なのです。ところが、今回のケースは天地万物の創造者、主なる神の特別な介入によって、処女マリアが身ごもったのです。

なぜ処女誕生の出来事が必要だったのでしょうか?

先週バプテスマのヨハネがイエス様のことを「世の罪を取り除く神の子羊」と言った箇所を覚えておられると思います。旧約時代は伝統的に人が罪を犯したときはその罪の赦しのために傷のない子羊をほふり、犠牲として捧げました。

私たち人間の罪が赦されるためには罪のない方の犠牲が必要です。私たち人間は皆、「自己中心」という罪を生まれながら持っています。その罪を贖うためには罪のないお方であるイエス・キリストの犠牲は不可欠なことです。イエス・キリストは聖霊によってお生まれになり、罪のない方で「聖なる者、神の子と呼ばれるのです。」(35節)

  • 神にとって不可能なことはない。

天使から受胎告知を受けたマリアがまだ信じられない様子であったので、天使はマリアの親類のエリサベツの例を揚げて次のように言いました。「見なさい。あなたの親類エリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう6ヶ月です。神にとって不可能なことは何もありません。」(26節)神は全知全能の方で、天地万物の創造者です。無から有を造り出す方です。

マリアの応答「主の御心の通りになりますように」

当時ユダヤでは男性は18歳、女性は14歳になれば結婚適齢となり、親の決めた相手と婚約し、数年の期間をおいて結婚することが慣習になっていました。おそらくマリアは15歳頃であったと思われます。

マリアは信仰の篤い女性です。若くて経験の浅い人ですが、しっかりとした信仰を持っていました。自分のことを「主のはしため」つまり、主なる神のしもべであると自覚し、主の御心に従うことを即決して、「あなたのお言葉通りこの身になりますように。」と答えました。これはたとえ未婚の出産で人々の中傷に逢おうとも、主なる神に従って生きる覚悟を持った信仰者のことばです。

  (富山聖書教会牧師:北林行雄)

ちいさなものから大きな祝福へ ルカの福音書9:10~17

 今朝はイエス・キリストがガリラヤ地方のベッサイダで行われた「5つのパンと2匹の魚で男だけで5000人ほどの人々に給食された奇跡」から学ぶ。この奇跡は4福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)すべてに記載されている有名なものである。

 主イエスは多忙な日を過ごされているので、休息のために弟子たちを連れて、ベッサイダと言う町にひそかに退かれた。ところが、多くの群衆がこれを知って、ついて来たがイエスは迷惑な顔もされずに、喜んで彼らを迎え、神の国のことを話された。しかも、癒しの必要な人たちには、いやしの業をなさった。

 そのうち日が暮れ始めたので、弟子たちがイエスに群衆を解散させてくださいと進言した。しかし、イエスは弟子たち自身で彼らに何か食べ物を上げなさいと言われた。彼らは5つのパンと2匹の魚しかないことを告げると、イエスは弟子たちに言われた。「人々を50人ぐらいずつ組にして座らせなさい。」(14節)。

 主イエスは5つのパンと2匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福して裂き、群衆に配るように弟子たちに与えられた。弟子たちはそれらを受け取り、パンを裂き、魚を分けながら、50人ほどの群れを一つ一つ廻った。人々は食べて満腹した。余ったパン切れを取り集めると12かごがあった。この出来事はパンと魚を配っている間にそれらが大きく増え広がったことを意味している。僅か5つのパンと2匹の魚で、男だけで5000人ほど、女性も含めると恐らく10,000人は超えるであろう。主イエスは正しく“小さなものから大きな祝福に変える”ことのできるお方である。

 続いて、この奇跡についてもう少し深く考察してみる。ルカは医者で、理数系であるから、パンと魚が現実に増えたことと、群衆の概数を把握して記録し、より現実的な視点からこの出来事を伝えている。以下に3つのポイントについて述べる

イエスは真実に求めて来る人々を決して見捨てることなく、適切なケアをして下さる方で、親切なかたである。つまり、人々が日々必要な物(食料など)を必ず与えて下さる。だから、私たちも、主イエスに習って兄弟姉妹、互いに親切にもてなし合うべきである。(Iペテロ4:9)特に、主に仕える者に対してそうすべきである。

イエスは僅かな物(5つのパン、2匹の魚)で大群衆に必要な食べ物を供給された。小さなものから大きな祝福を与えられた。主イエスが働かれる所に大きな祝福がある。これは霊的な面で強く現れる。私たち自身は小さな者でも、イエス・キリストにある信仰に基づいて、困っている人を助け、必要な物を与えることを通して霊的な面で神様から豊かなものを受ける。「受けるよりも与えるほうが幸いである。」(使徒の働き20:35)。これが、私たちが教会で奉仕する原点である。見えないところで喜んでする奉仕は、より一層神が祝福して下さる。

③イエス・キリストは私たちの身体だけでなく魂もいやしてくいださる方である。私たち人間が生まれながら持っている自己中心の罪を贖うために、十字架にかかって死んで下さった。それは、私たちを救い、永遠のいのちを与えるためである(ヨハネ3:16)。

ぜひ、皆さん、主イエスにあって豊かな信仰生活を歩んでください。何をするにしても、主イエスを見上げ、喜んで奉仕をしていただきたいと思います。そのためには、いつもキリストの愛に満たされていることです。「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが、満くぉたされますように。」(エペソ3:19) (牧師:北林行雄記)