処女降誕の御告げ ルカの福音書1章26~38節

 皆さん、クリスマスおめでとうございます。

今朝は、イエス・キリストの誕生に関する御告げを天使がマリアに知らせた所から学びます。ルカの福音書1章には、処女マリアの前に御使いガブリエルが突然現れて、「おめでとう。恵まれた方、主があなたとともにおられます。」と挨拶をし、「あなたは身ごもって男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」と伝えました。

 突然のことで、マリアは驚きます。マリアはヨセフと婚約はしていても、まだ結婚していないので、身ごもることはありません。彼らはユダヤの国に住んでいました。その国には昔から厳しい戒律がありました。仮に、マリアは婚約者ヨセフが知らない所で、身ごもった場合、姦淫の罪を犯したとして石打の刑で殺されるか、又は、婚約が解消されて、「罪の女」として、さらし者にされ、地域社会から追放されるのです。

本日の聖書箇所から以下の3つのポイントがあげられます。

  • マリアは聖霊によって身ごもる。

当惑するマリアに対して天使ガブリエルは「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。」と答えました。すなわち、マリアに神の力が働き、彼女は聖霊によって身ごもるということです。

これは特例中の特例です。自然界には人間の他に沢山の動物がおり、いろいろな植物があります。新たな生物は受精によって生まれ繁殖していくのです。

受精のために精子と卵子の結合が必要なのです。ところが、今回のケースは天地万物の創造者、主なる神の特別な介入によって、処女マリアが身ごもったのです。

なぜ処女誕生の出来事が必要だったのでしょうか?

先週バプテスマのヨハネがイエス様のことを「世の罪を取り除く神の子羊」と言った箇所を覚えておられると思います。旧約時代は伝統的に人が罪を犯したときはその罪の赦しのために傷のない子羊をほふり、犠牲として捧げました。

私たち人間の罪が赦されるためには罪のない方の犠牲が必要です。私たち人間は皆、「自己中心」という罪を生まれながら持っています。その罪を贖うためには罪のないお方であるイエス・キリストの犠牲は不可欠なことです。イエス・キリストは聖霊によってお生まれになり、罪のない方で「聖なる者、神の子と呼ばれるのです。」(35節)

  • 神にとって不可能なことはない。

天使から受胎告知を受けたマリアがまだ信じられない様子であったので、天使はマリアの親類のエリサベツの例を揚げて次のように言いました。「見なさい。あなたの親類エリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう6ヶ月です。神にとって不可能なことは何もありません。」(26節)神は全知全能の方で、天地万物の創造者です。無から有を造り出す方です。

マリアの応答「主の御心の通りになりますように」

当時ユダヤでは男性は18歳、女性は14歳になれば結婚適齢となり、親の決めた相手と婚約し、数年の期間をおいて結婚することが慣習になっていました。おそらくマリアは15歳頃であったと思われます。

マリアは信仰の篤い女性です。若くて経験の浅い人ですが、しっかりとした信仰を持っていました。自分のことを「主のはしため」つまり、主なる神のしもべであると自覚し、主の御心に従うことを即決して、「あなたのお言葉通りこの身になりますように。」と答えました。これはたとえ未婚の出産で人々の中傷に逢おうとも、主なる神に従って生きる覚悟を持った信仰者のことばです。

  (富山聖書教会牧師:北林行雄)

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