主のなだめのかおり (レビ記1章10節~2章2節)

レビ記はイスラエル民族の信仰生活に深いかかわりのある書です。イスラエルの人々が主にささげる主要なささげ物は5つあります。①全焼のいけにえ、②穀物のささげ物、③和解のいけにえ、④罪のためのいけにえ、⑤罪過のためのいけにえがあります。  神にいけにえを捧げるのは、自分が罪を犯したり(④)、神が定められた規則に違反した(⑤)時と考えがちですが、今朝はその反対であり、主なる神と信仰者がより信頼関係が深まる前向きのささげ物に関することを取り扱います。換言すると、健全な信仰生活をおくっておられる皆さんが神にもっと喜んでいただくためにおささげする霊的な“ささげ物”について学ぶわけです。

レビ記1章3節から13節に、“全焼のいけにえ”について書かれています。全焼のいけにえとは、すべてが火で燃え尽くされるいけにえのことです。10節には傷のない雄を捧げなければならない。その羊は屠られ、祭壇の側面にその羊の血を振りかけるとあります。この箇所から私たちの救い主イエス・キリストのことを連想します。ペテロの手紙第一1章18~19節をお読みします。「ご存知のように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちるものにはよらず、傷もなく汚れもないキリストの尊い血によったのです。」。イエス・キリストは地上生涯の中で一度も罪を犯すことなかった完全な方でした。その方が私たち人間を救うために、十字架にかかり、死んで、三日目に復活して下さったのです。イエス・キリストは真の救い主です。

全焼のいけにえは現代の私たちに何を教えているのでしょうか?全焼のいけにえはすべて焼き尽くされることですから、それが示すところは、自分のすべてを神にささげるということです。つまり、私たちが自我を捨てて、神の前に砕かれて、神の御こころに全面的に従うことを意味します。

換言すると、全焼のいけにえは、罪の贖いを成し遂げると同時に、礼拝者である私たちの全き献身を象徴しています。つまり、私たちの救いのために、大きな犠牲(痛み)を払われた神に感謝し、全幅の信頼をもって従い、異教社会の中にあっても、クリスチャンとして信仰の証の生活を続けていきますと決断することです。

ローマ人への手紙12章1節参照。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによってあなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物としてささげなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」

続くレビ記2章には「穀物のささげ物」について書いてあります。この場合は収穫した初物を神にささげ、神に感謝の思いを伝え、自分たちに与えられた「神のめぐみを告白」することです。しかも、ささげ物は小麦粉であって、その上に油をそそぎ、乳香を添えました。油や乳香の使用は、聖霊の働きや祈り、神との契約を恒久的に維持することを象徴しています。つまり、穀物のささげ物は「私たちは神との契約のもとに、常に祈り、聖霊に導かれながら信仰の歩みを今後もずっと続けていきたいと思います。豊かな信仰生活を歩めるように、いつも聖霊のお導きがありますよう今後とも宜しくお願いします。」という願いを込めた意思表明でもあるのです。

続いて、本日の説教題にしました「主のなだめのかおり」について説明します。“なだめの香り”は新改訳聖書で使用されていますが、新改訳2017では“香ばしい香り”と表現されています。“なだめのかおり”はヘブル語の言語では「覚えさせる」「思い出させる」という意味で、詩篇作者が自分たちのことを神に覚えていただけるようにとの願いをもって書いたものと推測されます。

<まとめ>

本日は全焼のいけにえと穀物のささげ物についてレビ記から学びました。

① 全焼のいけにえは全部を焼いて神にささげることで、全き献身を示しています。これは、キリストの犠牲の死を預言するものです。正に、御子イエスの父なる神に対する献身は完全無欠のものでした。主イエスは謙虚で柔和な方であり、父なる神の御心に従って、私たちのために十字架にかかり、わたしたちの罪の贖いをしてくださったのです。感謝!

② 穀物のささげ物は主イエスの全きご性格を物語るものです。小麦粉は全部が一様に細かく砕かれ、柔らかな感触のものでなければなりません。小麦粉に注がれる油や乳香の使用は聖霊の働きを表わすものです。私たちの信仰生活における聖霊の働きは本当に大切なものであり、その関係は永遠に続くのです。

③ 全焼のささげ物や穀物のささげ物は神へのなだめの香り(香ばしい香り)であり、その香りを通して、神とイスラエルの人々はつながることができたのです。現代の私たちクリスチャンにとっては、主イエスの御名による祈りと神への賛美のことです。

特に祈りにおいては、神の御心を求め、御心に沿った祈りをすれば、その祈りは必ず聞かれるのです。

  「何事でも神のみ心にしたがって願うなら、神は聞いて下さということ、

これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」       

                     ヨハネの手紙第一 5:14

                         (牧師:北林 行雄記)

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