御ことばの権威 サムエル記第一 3:10~18

 サムエルはイスラエルの最後の“士師”(さばきつかさ)で、最初の“預言者”と言われる人物です。サムエルは主なる神の特別な顧みにより敬虔なエルカナとハンナの長男として生まれ、生涯主にささげた人です。幼児のときから祭司エリのもとで主に仕えていました。彼はいつも神殿で寝ていましたが、ある日のこと、主はサムエルを呼ばれ(Ⅰサムエル3:10)、イスラエルの国、特に、エリの家の裁きを仰せられました(同3:11~14)。エリの二人の息子ホフニとピネハスは、イスラエルの民がいけにえを献げているとき、まだ肉を煮ている間にやって来て、大鍋に入っている肉を三叉の肉刺しで取り上げて食べていました(同2:12~17)。彼らは主なる神を侮り、主への奉げ物を横取りしていたのです。それゆえ、彼らの咎は「いけにえによっても、穀物の献げ物によっても、永遠に償うことができない」(サムエル3:14)重いものでした。

サムエルにとってエリは幼児のときから世話をしてくれた教師であり、親のような存在です。彼は“エリの家に対する神の裁きの仰せ”を語ることを恐れました。サムエルは朝まで寝て、それから主の家の扉を開けました。エリはサムエルを呼んで、主が告げられたことを正直に語るように言いました。そこで、サムエルは何も隠さず話すと、エリは「その方は主だ。御心にかなうことをなさいますように。」と言いました(同3:18)。エリは自分の息子たちの咎、また自分の咎を素直に認めて、神の裁きに委ねる決意をしたのです。その結果、主の御ことば通り、イスラエルはペリシテ人との戦いに敗れ、エリの二人の息子は死に、神の箱は奪われてしまいました。そのニュースを聞いて、エリは椅子から落ちて倒れ、首の骨を折って死んでしまいました。このように、神の仰せの通りエリの家は滅びました。神の御ことばは権威があり、必ず成就します。

 サムエルにとって、エリの家の裁きは非常に辛いことでした。しかし、このことを通して、彼は主の御ことばの権威を深く味わったと思われます。彼は生涯にわたり、主に忠実でした。私たちも人生においていろいろな苦難を体験しますが、主なる神に従って歩む人々にはすべてのことが益となるのです。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせる。」(ヘブル12:11)のです。アーメン。 (牧師:北林行雄記)

すべてが主なる神の導き   ガラテヤ人への手紙 1:1~5

ガラテヤ人への手紙は福音的な香りが高く、福音信仰のマグナカルタ(大憲章)と呼ばれています。マルテイン・ルターは「私はこの手紙と結婚した」というほど惚れこんだ書物です。彼が宗教改革の発端となった95箇条の提題を公にしたのは、ヴィテンベルグ大学でガラヤ人への手紙の第1回の講義を終了した直後でした。
この手紙が書かれた目的は、使徒パウロが第二回伝道旅行で開拓したガラテヤの諸教会が福音信仰から離れて“ほかの福音”に移動する事態が起こり,それを止めて真の信仰に踏み留まらせるためでありました。なお、“ほかの福音”と言っても、もう1つ別に福音があるわけではありませんが、これを説く人たちはガラテヤの信徒たちにパウロの使徒性への疑問を投げかけて、ユダヤ教の律法を遵守することと割礼を要求しました。
これに対して、パウロは、①自分が使徒として召されたのは人間を通してではなく、イエス・キリストと父なる神によること(ガラテヤ1:1、1:11-12)、②私たち人間が義とされるのは律法によってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によること(同2:16)、③キリストは私たちを救うために十字架にかかって私たちの罪を贖ってくださったことを断言しています。さらに、これらすべてのことは父なる神の御心であることを明らかにしています(同1:4)。
パウロは生粋のユダヤ人で、当時有名な律法学者ガマリエルのもとで律法について厳しく教育を受けました。それで、彼は神の義を得るために、ひたすら律法を守ろうと努力しました。しかし、どんなに良いことをしたいと願って頑張っても、それができない自分の弱さに気付き、その原因が自分の心の中に住む罪(原罪、自己中心の思い)であることを発見しました(ローマ7:17)。その結果、私たち人間が救われる道はイエス・キリスト以外ないことを確信したのです。         先週、教会員で施設に入院している高齢の夫妻を訪問しました。二人とも早稲田大学の卒業生です。ご主人は高校生のときに信仰を持ちましたが、奥さんはなかなか信仰を持つことができませんでした。もともと明るい性格でしたが、30代でスモン病にかかり、その後は不自由な身体を抱え、悩みと悲しみの中を、日々自問自答の中を過ごしました。78歳で信仰を持ちましたが、彼女はご主人と自分の信仰を比較して悩んでいました。彼女は有能な女性で、スモン病になる前までは自分の力で何でもやり抜いて来た人でした。高齢になった今も何とかしなければならないと焦り、心はいつも堂々巡りをしていました。私はじっと彼女のことばに耳を傾けて聴いているうちに、パウロの心境が浮かんで来ました。そして、彼女の心の問題を解決できるのはイエス・キリストにある信仰以外にないと判断に、主にすべてを委ねて彼女の気持になって、一緒に次のように祈りました。「主イエス様、私はいろんなことで悩み、堂々巡りをして、どうしたら良いかわかりません。私は罪深い者です。あなたは私の罪のために十字架にかかって死んでくださったことを信じています。私の心の重荷をあなたにお委ねして、平安な気持にしてください。主の御名によって祈ります。」
すると、彼女も「アーメン」と大きな声で言いました。彼女自身、「アーメン」と言えたことに驚いて、目に涙を浮かべて、明るい表情に変わりました。本当に感激のひと時でした。
たといどんな能力があり、意思が強くても、人には限界があります。それゆえ、いろいろなことで悩み、苦しみます。しかし、イエス・キリストがおられます。真の救いは神の恵みによって与えられるものです(エペソ2:8)。皆さんもイエス・キリストにあって心の平安を持ちませんか。      (牧師記)

悔い改めと救いの恵み~使徒の働き2:36~42

使徒ペテロはイスラエルの人々に向って、「神が、今や主ともキリストともされたイエスをあなたがたは十字架につけた」と断言しました(使徒2:36)。これを聞いた人々は心を刺され、「私たちはどうしたら良いでしょうか」と質問しました。そこでペテロは「悔い改めなさい。そして、罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」と答えると(同2:38)、その日に3000人ほどが信仰を持って、弟子に加えられました(同2:41)。
これだけ大勢の人たちの心の変化に着目してみましょう。イスラエル人は全知全能の神の選びの民と言われています。その神の御子であるイエス・キリストを彼らが十字架にかけて殺してしまったのです。厳罰に処せられて当然のことです。ところが、ペテロの答えは、神の赦しと信仰による救いのメッセージでした。
宣教師ジェイク・デイシェイザーは真珠湾報復の爆撃手としてドーリットル空襲に加わったが、乗っていた飛行機が不時着して、40ヶ月戦争捕虜となりました。独房に入れられて、ひどい扱いを受けていたとき、聖書を手にすることができました。3週間むさぼるようにして聖書を読み、キリストの十字架の贖いと復活を確信しました。ローマ人への手紙10章9節「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」
が心に響いて、ジェイクは「主よ、あなたはすべてをご存知です。私は自分の罪を悔いています。私は家から遠く離れ、囚われていますが、神の赦しが必要です。」と祈りました。この時、彼がイエス・キリストを受け入れた瞬間でした。
また、彼は牢の看守を憎んでいましたが、看守に虐待されて足に激痛を感じたとき、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)とのキリストのことばを思い出しました。そこで、彼は自分の心にある憎しみを愛で置き換えようとして、看守に「オハヨウゴザイマス」と言い、何日か好意的な対応をしたら、看守も心を開き、仲良くなったそうです。このようにジェイク・デイシェイザーは変えられ、その後日本人の魂の救いのために宣教師となりました。
神は愛です(Ⅰヨハネ4:8)。私たち人間の罪を贖うために、神の御子キリストが十字架にかかって死んでくださいました。それ故、罪を悔い改めてイエス・キリストを信じて告白する者は救われます(ローマ10:9)。そして、信仰の証しとしてバプテスマを受けます。すると、聖霊が与えられるのです。聖霊は助け主で(ヨハネ14:16)、信仰生活を健全に歩むために、私たちをいつも導いてくださる方です。また、弟子に加えられた人々は、使徒たちの教え(聖書)を堅く守り、交わりをし、パンを裂き(聖餐式)、祈りをしていました(同2:42)。このように教会生活を正しく守ることは大切なことで、豊かな神の祝福を受けることができます。皆さんもご一緒に救いの恵みに預かりましょう。

聖霊降臨の約束~使徒の働き1:3~8

イエス・キリストは十字架の苦しみの後、40日にわたって、復活されてご自分が生きていることを使徒たちに明らかにされました。そして、主イエスは彼らに、「エルサレムを離れないで、父なる神の約束を待ちなさい」と命じられました(使徒1:4、ルカ24:49)。その約束とは聖霊降臨のことで、彼らがまもなく『聖霊によるバプテスマ』(聖霊の満たし)を授けられて(使徒1:5)、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、キリストの証人となるということです(使徒1:8)。この聖書箇所は使徒の働きの中心聖句であり、事実、聖霊降臨により使徒たちは力を受けて、主イエスの復活の証人として世界各地で伝道しました。その事が使徒の働きに記載されています。
ところで、聖霊は弟子たちだけに授けられるのでなく、クリスチャン皆が受けることができます。なぜなら、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主(救い主、キリスト)です」と確信をもって言うことができないからです(Ⅰコリント12:3)。また、聖霊は私たち人間に、キリストを思い起こさせて(ヨハネ14:26)、神の愛で満たし、聖書の理解力も与えてくださいます。それによって、どのクリスチャンも力を得て、キリストの証人としての生活ができるのです。

ーーーざわつき

ー イエスが復活され、その後40日弟子たちの前に現れ、弟子たちに使徒としての働きをさせるため、聖霊の満たしのあることを彼らに教えられました。この箇所は信仰を持って読まないと理解が難しいかもしれませんね。皆さんは理解できますか?聖霊に満たされるということですが。

ー そうね、「満たされる」というのは実感としては分かりません、正直。ただ、聖霊の導きと感じることはあります。ま、後になってからそう思うのですが。心配していたことが不思議とすんなりと運んだり、逆に上手くいかなくて悔しく思ったり、残念に思ったりしたことでも、あとでそのことが返ってより良い結果を生んだり・・・。しかし、その時聖霊に満たされていたという意識はありません。それに正直そういうことって、信仰を持つ前でもあったような気がします。ですからこの箇所は分かりづらいです。

ー そうですね。心配していたことが上手く運んだり、ダメでもそのことが後で返ってよりよい結果となったりは、別に信徒でなくてもあるでしょうね。ただ、後で気付くと、それが聖霊の導きだったのかもと思われたことはあるのですね。そこが大事なことかも知れませんよ。信仰を持つまでなら、それを単にその時の運の良し悪しで片づけたり、深く思わずに過ごしたことが、信仰から聖霊ということを感じるようになった。ここは微妙なところでもありますが、ただ単に運で片づけるのではなく、そこに何か聖霊というものを感じること、またそれを想うことが、即ち聖霊の満たしを得ているということではないでしょうか?そして、聖霊の満たしを感じるということが主を感じるということでもありますから、そのことはこれからのあなたの生きるエネルギーと言いますか、力といいますか、あるいは勇気、さらに言えば確信になっていくのではないですか?

ー なるほどぉ、そう言われればそのような気もして来ますが・・・。あ、でもですよ、聖霊に満たされるから信仰するというふうになると、これまた主客転倒のような・・・。

ー おぉ、素晴らしい!そうですね。聖霊の満たしは神の専権事項です。あなたが満たしてくださいと願うことではありません。一心に神の御心を想って祈る。そのことが、聖霊の満たしにつながるのだと思いますね。いい信仰をお持ちですね!

ー あ、いや、言われるほどの信仰を持っているというわけでも(^^ゞ

三度主を否んだペテロ~ルカの福音書22:54~62

イエス・キリストは真実で罪のない方です。自分がどんなに疲れていても、病で苦しんでいる人々を癒し、多くの奇蹟を行い、人々から尊敬されていました。この方の人気が上がるにつれ、当時の支配階級から警戒され、妬まれて、最終的に十字架刑に処されました。
大祭司や民の長老たちから差し向けられた多くの群集によって、イエス・キリスト(以下、主イエスと記載)は逮捕されました。主イエスが、祭司長カヤパの家で尋問されている時、弟子の筆頭ペテロもその家の中庭に入り、事の成り行きを伺っていました(ルカ22:54~55)。その時、女中から「あなたは、イエスと一緒にいた」と問われると、即座に否定し、別の2人の質問も加えて三度否定しました。しかも、三度目はのろいをかけて誓ってまでも「イエスを知らない」と否定したのです(マタイ26:74)。何故ペテロは主イエスを三度までも否定したのでしょうか。彼は主イエスを愛し、心から尊敬し、主イエスの弟子であることを誇りとしていましたが、目に見えない恐れから否定してしまったのでしょう。
しかし、主イエスはペテロの否認を予め判っておられました。三度の否定の後直ぐに鶏が鳴くと、「主が振り向いてペテロを見つめられました」(ルカ22:41)。主の眼差しは叱責ではなく、ペテロへの憐れみの眼差でした。以前、主イエスはペテロに次のように言われました。「わたしは、あなたのために祈りました。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(同22:32)。確かに、三度の否定はペテロにとって非常にショックで、悲しいことでしたが、その後、復活された主に再会して、ペテロは大きく変えられ、忠実な使徒になりました。苦しみに会い、挫折を経験することは、その人の人生にとって非常に有意義なものです。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)。

ーーーざわつき

ー この出来事はすべての福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)に書かれていますから、事実として当時から広く伝えられていたことなのでしょうね。ところであなたはこのペテロさんをどう思われますか?

ー そりゃぁまぁ、男としてカッコ悪いわよね。ダラシないというか、みっともないというか。情けないというか・・・。

ー そうですね。しかしそれって男だからですかねぇ?男だけでしょうか?

ー いや、それはまぁ。女もあるでしょうけど。しかし、ここは男としてそうあって欲しくないと思うのは、当然でしょ?

ー そうですね。男としてだらしないのは事実ですね。しかし、お認めになられましたように、男であれ女であれ、関係なくあることですよね。であれば、人間の弱さとして普遍的に言えることではないでしょうか。自己保身という意味でも、周囲に流されるという意味でも・・・。ペテロさんはそういうところがあったらしく、実はこの後もこういう失敗をします(パウロから非難される、アンテオケの争いなどは有名です)。しかし、それはペテロさんが駄目な人間だと言うことではなく、人間の裡にあるそういう面を如実に表しているに過ぎない。だからイエス様はそういうペテロさんを責めてはおられません。それが人間に普遍的なことだからこそ、大事なのは、そういうことを責めるのではなく、自覚させることだと知っておられた。イエス様はだから、責めるのではなく、導くということをされたのではないでしょうか。(ま、こういうことは倦まず弛まずやり続けるしかないでしょうが。)

ー でも、人間はそういう弱いところがあるから仕方がないことでもあるわけでしょ?

ー そこが大事なところじゃないでしょうか?だからと言って弱さをそのままでいいと言っておられるのではないですね。そういう弱さ、不完全さを自覚して、自らのあるがままを、まずは素直に受け止めることから始めるということでしょうね。そこの自覚がないと始まらない。いつまでもイエス様の愛の意味は分からない。神の赦しは分からないことになります。

ー 悔い改めってこと?

ー お、鋭い。その通りです。そこが信仰の土台の土台とも言えますね。

ー 自分に素直になる。駄目な自分をあるがままに見るねぇ。でも、私自分のいいところも結構見えるんですけど。だってほら、今言われたこととかも私ちゃんと理解したでしょ。それって私の長所よね。ね?

ー あ、そうですね(^_^;)

元旦礼拝 「主が新しい事をされる」 イザヤ書43:18~21

新年おめでとうございます。

 年頭にあたり、先ず聖書のイザヤ書43章から学びたいと思います。

 この書は紀元前700年頃に預言者イザヤによって書かれたものですが、イスラエルの歴史やイエス・キリストの誕生、終末、新天新地の到来に至るまでを描く膨大な書です。 “元旦礼拝 「主が新しい事をされる」 イザヤ書43:18~21” の続きを読む

クリスマス会を開きました

12月24日、教会員k姉妹の営む喫茶店で今年はクリスマス会を開きました。

この喫茶店でのクリスマス会は5年ぶりでしたが、本当に多くの方々が集まってくださり、大変恵まれた会となりました。

会の内容も特別に参加してくださったK姉妹の知人による腹話術あり、日本昔話からイエスキリストの話をアレンジした読み聞かせ、牧師のはなし、演奏会、O兄弟の手品、オカリナ演奏と本当に盛りだくさん演目で、多くの人たちが楽しんでくれたと思います。

クリスチャンでない人々も多く集まりましたが、ただ集まって飲食して、おしゃべりして終わるだけではなく、教会の開くクリスマスというイベントを通じて、イエス・キリストの誕生の意味と神の愛ということについてなにか感じられることのでき、心に受け止められるものが生まれましたら幸いです。この中からひとりでも救われる方が現れますようにと祈ります。

集まった方お一人ひとりに神の祝福がありますように!

 

腹話術
Kenちゃんの腹話術

読み聞かせ
絵本読み聞かせ

説教
牧師のはなし

演奏
ピアノとフルートの演奏(歌とリコーダーもありました)

余興
O会員によるオカリナ演奏と手品

クリスマス会
集まった教会員とその友人知人の人たち

 

教会ブログ開設しました

この教会は設立して20年以上になりますが、まだよちよち歩きの教会です。富山県という地方の更にまたその山間に向かった郊外にある教会です。歴史もなく、まだ教会の会堂もなく(現在牧師の自宅のダイニングキッチンを会堂代わりにしています)、教会員の数も少ないですが、その分これからの希望に満ちた教会だとも思っています。不備不十分は承知しておりますが、これから充実させていくことを楽しみにしている教会です。それでブログも開設しました。ブログを通じて皆さんと一緒にこの教会を育てていけたら幸いです。どうぞよろしくお願いします。

Toyama Bible Church
富山聖書教会