三度主を否んだペテロ~ルカの福音書22:54~62

イエス・キリストは真実で罪のない方です。自分がどんなに疲れていても、病で苦しんでいる人々を癒し、多くの奇蹟を行い、人々から尊敬されていました。この方の人気が上がるにつれ、当時の支配階級から警戒され、妬まれて、最終的に十字架刑に処されました。
大祭司や民の長老たちから差し向けられた多くの群集によって、イエス・キリスト(以下、主イエスと記載)は逮捕されました。主イエスが、祭司長カヤパの家で尋問されている時、弟子の筆頭ペテロもその家の中庭に入り、事の成り行きを伺っていました(ルカ22:54~55)。その時、女中から「あなたは、イエスと一緒にいた」と問われると、即座に否定し、別の2人の質問も加えて三度否定しました。しかも、三度目はのろいをかけて誓ってまでも「イエスを知らない」と否定したのです(マタイ26:74)。何故ペテロは主イエスを三度までも否定したのでしょうか。彼は主イエスを愛し、心から尊敬し、主イエスの弟子であることを誇りとしていましたが、目に見えない恐れから否定してしまったのでしょう。
しかし、主イエスはペテロの否認を予め判っておられました。三度の否定の後直ぐに鶏が鳴くと、「主が振り向いてペテロを見つめられました」(ルカ22:41)。主の眼差しは叱責ではなく、ペテロへの憐れみの眼差でした。以前、主イエスはペテロに次のように言われました。「わたしは、あなたのために祈りました。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(同22:32)。確かに、三度の否定はペテロにとって非常にショックで、悲しいことでしたが、その後、復活された主に再会して、ペテロは大きく変えられ、忠実な使徒になりました。苦しみに会い、挫折を経験することは、その人の人生にとって非常に有意義なものです。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)。

ーーーざわつき

ー この出来事はすべての福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)に書かれていますから、事実として当時から広く伝えられていたことなのでしょうね。ところであなたはこのペテロさんをどう思われますか?

ー そりゃぁまぁ、男としてカッコ悪いわよね。ダラシないというか、みっともないというか。情けないというか・・・。

ー そうですね。しかしそれって男だからですかねぇ?男だけでしょうか?

ー いや、それはまぁ。女もあるでしょうけど。しかし、ここは男としてそうあって欲しくないと思うのは、当然でしょ?

ー そうですね。男としてだらしないのは事実ですね。しかし、お認めになられましたように、男であれ女であれ、関係なくあることですよね。であれば、人間の弱さとして普遍的に言えることではないでしょうか。自己保身という意味でも、周囲に流されるという意味でも・・・。ペテロさんはそういうところがあったらしく、実はこの後もこういう失敗をします(パウロから非難される、アンテオケの争いなどは有名です)。しかし、それはペテロさんが駄目な人間だと言うことではなく、人間の裡にあるそういう面を如実に表しているに過ぎない。だからイエス様はそういうペテロさんを責めてはおられません。それが人間に普遍的なことだからこそ、大事なのは、そういうことを責めるのではなく、自覚させることだと知っておられた。イエス様はだから、責めるのではなく、導くということをされたのではないでしょうか。(ま、こういうことは倦まず弛まずやり続けるしかないでしょうが。)

ー でも、人間はそういう弱いところがあるから仕方がないことでもあるわけでしょ?

ー そこが大事なところじゃないでしょうか?だからと言って弱さをそのままでいいと言っておられるのではないですね。そういう弱さ、不完全さを自覚して、自らのあるがままを、まずは素直に受け止めることから始めるということでしょうね。そこの自覚がないと始まらない。いつまでもイエス様の愛の意味は分からない。神の赦しは分からないことになります。

ー 悔い改めってこと?

ー お、鋭い。その通りです。そこが信仰の土台の土台とも言えますね。

ー 自分に素直になる。駄目な自分をあるがままに見るねぇ。でも、私自分のいいところも結構見えるんですけど。だってほら、今言われたこととかも私ちゃんと理解したでしょ。それって私の長所よね。ね?

ー あ、そうですね(^_^;)

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