すべてが主なる神の導き   ガラテヤ人への手紙 1:1~5

ガラテヤ人への手紙は福音的な香りが高く、福音信仰のマグナカルタ(大憲章)と呼ばれています。マルテイン・ルターは「私はこの手紙と結婚した」というほど惚れこんだ書物です。彼が宗教改革の発端となった95箇条の提題を公にしたのは、ヴィテンベルグ大学でガラヤ人への手紙の第1回の講義を終了した直後でした。
この手紙が書かれた目的は、使徒パウロが第二回伝道旅行で開拓したガラテヤの諸教会が福音信仰から離れて“ほかの福音”に移動する事態が起こり,それを止めて真の信仰に踏み留まらせるためでありました。なお、“ほかの福音”と言っても、もう1つ別に福音があるわけではありませんが、これを説く人たちはガラテヤの信徒たちにパウロの使徒性への疑問を投げかけて、ユダヤ教の律法を遵守することと割礼を要求しました。
これに対して、パウロは、①自分が使徒として召されたのは人間を通してではなく、イエス・キリストと父なる神によること(ガラテヤ1:1、1:11-12)、②私たち人間が義とされるのは律法によってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によること(同2:16)、③キリストは私たちを救うために十字架にかかって私たちの罪を贖ってくださったことを断言しています。さらに、これらすべてのことは父なる神の御心であることを明らかにしています(同1:4)。
パウロは生粋のユダヤ人で、当時有名な律法学者ガマリエルのもとで律法について厳しく教育を受けました。それで、彼は神の義を得るために、ひたすら律法を守ろうと努力しました。しかし、どんなに良いことをしたいと願って頑張っても、それができない自分の弱さに気付き、その原因が自分の心の中に住む罪(原罪、自己中心の思い)であることを発見しました(ローマ7:17)。その結果、私たち人間が救われる道はイエス・キリスト以外ないことを確信したのです。         先週、教会員で施設に入院している高齢の夫妻を訪問しました。二人とも早稲田大学の卒業生です。ご主人は高校生のときに信仰を持ちましたが、奥さんはなかなか信仰を持つことができませんでした。もともと明るい性格でしたが、30代でスモン病にかかり、その後は不自由な身体を抱え、悩みと悲しみの中を、日々自問自答の中を過ごしました。78歳で信仰を持ちましたが、彼女はご主人と自分の信仰を比較して悩んでいました。彼女は有能な女性で、スモン病になる前までは自分の力で何でもやり抜いて来た人でした。高齢になった今も何とかしなければならないと焦り、心はいつも堂々巡りをしていました。私はじっと彼女のことばに耳を傾けて聴いているうちに、パウロの心境が浮かんで来ました。そして、彼女の心の問題を解決できるのはイエス・キリストにある信仰以外にないと判断に、主にすべてを委ねて彼女の気持になって、一緒に次のように祈りました。「主イエス様、私はいろんなことで悩み、堂々巡りをして、どうしたら良いかわかりません。私は罪深い者です。あなたは私の罪のために十字架にかかって死んでくださったことを信じています。私の心の重荷をあなたにお委ねして、平安な気持にしてください。主の御名によって祈ります。」
すると、彼女も「アーメン」と大きな声で言いました。彼女自身、「アーメン」と言えたことに驚いて、目に涙を浮かべて、明るい表情に変わりました。本当に感激のひと時でした。
たといどんな能力があり、意思が強くても、人には限界があります。それゆえ、いろいろなことで悩み、苦しみます。しかし、イエス・キリストがおられます。真の救いは神の恵みによって与えられるものです(エペソ2:8)。皆さんもイエス・キリストにあって心の平安を持ちませんか。      (牧師記)

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