福音宣教の恵み 詩篇126:1~6 

詩篇126篇は「都上りの歌」という表題がついており、バビロン捕囚からのイスラエルの民の解放が告げられた人々の喜びの歌と考えられる。「主がシオン(エルサレム)を復興してくださったとき、私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。」(詩篇126:1~2)。イスラエルの民は主の恵みを大いに喜び、諸国の人々はがイスラエル人のために大いなることをなさったと言った。

 さらに、彼ら(イスラエルの人々)は祈った。「主よ。ネゲブの流れのように、私たちを元どおりにしてください。」(4節)。ネゲブはシオン(エルサレム)の南に広がる乾燥地帯で、その南部地域は砂漠とほぼ等しい荒涼とした土地であった。しかし、年に一度だけ想像できないほどの大変な大雨が降る。その結果、赤茶けたネゲブの土地が瞬く間に緑の大地に変えられる。正しく天地万物の創造者なる神の御業である。それゆえ、彼らは捕囚の期間に荒れ果てたイスラエルの土地を主の御業により豊かなものに回復して頂きたいと祈った。

 「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。種入れを抱え、泣きながら出て行く者は、束を抱え、喜び叫びながら帰って来る。」(5~6節)。苦しくて、涙を流さずにおれないほど辛い時であっても種を蒔き続けるなら、主なる神はその人を祝福し、喜び叫びながら刈り取り、その束を抱えて喜んで帰って来るほどに豊かな実を与えてくださる。なんと素晴らしいことであるか。にあって労する者は必ず祝福される。

このような祝福は福音宣教の働きにも通じることである。人間は誰しも生まれながら自己中心という罪を持っている。その罪を持ったままでは、死後の裁きを免れることはできない。その罪を贖うために、罪のない正しい方であるイエス・キリストが十字架にかかって身代わりの死を遂げられた。三浦綾子の代表作である「塩狩峠」の話をご存じの方が多いと思う。主人公永野信夫は鉄道会社の運転手であった。婚約者吉川ふじ子との結納の日、運転中に塩狩峠の斜面を下る客車は止まらず、このままカーブに入れば客車は転落し、乗客は助からない。そこで、信夫は自分の命と引き換えに客車を止めて、乗客を守った話である。永野信夫は十字架にかかって死なれたイエス・キリストのように、乗客のいのちを救うために自分のいのちを引き換えにした。塩狩峠は実話を基にしてできた作品である。殉職した鉄道員の長野正雄の関係者の中からも、また、塩狩峠を読んだ人々の中から信仰を持つ人が沢山起こされた。イエス様を信じないで死を迎えたら、永遠の裁きを待つだけになる。あなたの家族や親友の救いのために先ず祈ろう。そして、あなた自身の信仰の証をして、イエス様の深い愛を伝えよう。そのことによって、あなたがたの関係する多くの方が永遠のいのちという素晴らしい恩恵に預かり、共に喜ぶことができる。皆様の上に主の豊かな祝福がありますように! (牧師:北林行雄)

救い主の誕生 ルカの福音書2:1~20

ローマ皇帝アウグストから全世界の住民登録の勅令が出たので、ヨセフはいいなづけのマリアを連れてユダヤのベツレヘムに上って行くことになった。そこにいる間にマリアは月が満ちて男子の初子を産んだ。この時がまさに、私たち人間の歴史の中に神の御子イエスが入って下さった瞬間である。

 住民登録という特別な事態で、どこの宿屋も一杯なので、マリアは初子を布にくるんで飼い葉おけに寝かせた。飼い葉おけは馬などの食料を入れる桶である。全知全能の神の御子である方が、誕生されたのに、みすぼらしい対応しか受けられなかった。

 ところが、野宿で夜番をする羊飼いたちに御使いが現れて、みどり子イエスの所に訪問するよう促された。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです。あなたがたは布に包まって飼い葉おけに寝ておられるみどり子を見つけます。これがあなたがたのしるしです。」(ルカ2章10~12節)。

 すると、天の軍勢が現れて、神を賛美した。救い主イエスの誕生は天においても地においても素晴らしい喜びの知らせである。「いと高き所に栄光が神にあるように、地の上に平和が、御心にかなう人にあるように。」(14節

 そこで羊飼いたちは直ちにベツレヘムに急いで行って、マリアとヨセフと飼い葉おけに寝ておられるみどり子を捜し当てた。彼らはこの幼子に告げられたことを人々に伝えた。これを聞いた人たちは驚いたが、マリアはこれらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。彼女は自分の身に起きた神の御業を考え、生まれた幼子が将来どのように成長していくのか、母親としての思いを巡らしていたのであろう。一方羊飼いたちは、見聞きしたことが全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ讃美しながら帰って行った。

 ここで、もう一度14節の御使いたちが賛美した歌詞について洞察する。「地の上に平和が、御心にかなう人々にあるように。」ここで使われている“平和”は、戦争のない社会のような単なる平和ではなく、もっと深い意味がある。どんな環境におかれても、心と魂に長く宿り続ける平安、すなわち神との和解によって与えられ、永遠に続く平和のことである。生まれながら自己中心という罪を持った私たち人間は、救い主イエス・キリストを信じることによってのみ、神との和解が与えられる。それゆえ「平和が御心にかなう人々にあるように。」と御使いたちが賛美したのである。

 クリスマスのとき、改めて、救い主イエスが誕生されたことの大きな恵みを心から神に感謝し、神を賛美しよう。(牧師:北林行雄記)

処女降誕の御告げ ルカの福音書1:26~38

 御使いガブリエルが神から遣わされて処女マリアの所に来て、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と言った。マリアは戸惑って、いったい何の挨拶かと考えこんだ。すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさいあなたは身ごもって男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」(ルカ1:30~31)マリアはヨセフと婚約をしているが、まだ結婚していないので、「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」と言った。御使いは彼女に答えて言った。「聖霊があなたの上に臨みいと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」(35節)。さらに親類のエリサベツがあの年になって男の子を宿し、不妊の女と言われていたのに今はもう6ヶ月である。「神にとって不可能なことは一つもありません。」(37節)。これらのことを聞いてマリアは神の導きを信じて次のように言った。「本当に私は主のはしためです。どうぞ、あなたのお言葉どおりこの身になりますように。」と答えた。

 なお、婚約者ヨセフにも神の計らいがあった。ヨセフはマリアと一緒にならないうちに彼女が身ごもっていることを知り、さらし者にしたくないので、密かに離縁しようと思い巡らしていた。その時、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1:20~21)。

 マリアは最初ひどく戸惑ったが、自分のすべてを神に委ねて歩もうと決断した。その結果彼女は聖霊によって身ごもり、神の子イエスを出産することになる。このことにより神の子が人類の歴史の中に入って、神の国について語り、山上の垂訓のような人間の守るべき基準を示された。そして、私たち人間を救うために、人間のいっさいの罪を背負って十字架にかかり、死んで三日目によみがえり、昇天された。その御業によってイエスを救い主と信じる者が永遠のいのちを持つ道を開かれた。本当に感謝なことである。「ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。」(コリント人への手紙第二9:15

 私たちの教会は今年、念願の会堂を建設することができた。クリスマスにちょうど、間に合って完成の運びとなった。新会堂で第一回目のクリスマス礼拝と集会を持つ予定である。25年前に牧師の自宅を開放して以来、ずっとリビングルームで礼拝してきたことを思うと、独立した場所の礼拝堂で礼拝をささげることのできる特権が与えられたことを、ワクワクしながら、深く主に感謝している。

地域に光を与える教会となりたいと願っている。そして何よりも、静まって、感謝と共に、第二降誕節の週を過ごしたいものである。皆様の上に祝福を祈ります。(牧師:北林行雄記)

罪の悔い改めと神の祝福 ルカの福音書15:11~24

 有名な放蕩息子のたとえである。弟息子が父に財産の分け前を要求し、それをもって遠い国に旅立ち、そこで、財産を湯水のように使い果たしてしまった。何もかも使い果たした後に、その地方に激しい飢饉が起こり、食べることに困り始め、豚の食べるイナゴ豆で腹を満たしたいと思ったが、誰も彼を助ける人はいなかった。そこで彼は我に返り、父の所に行って「お父さん私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にしてください。」(ルカの福音書15:18~19)と言おうと決心して父のもとに向かった。家までまだ遠かったが、父が彼を見つけかわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけをした。父は彼を喜んで迎え入れ、彼が帰ってきたことを祝って宴会を始めた。

 世の中の一般的な見方をすれば、兄息子が思うように親からもらった財産を湯水のように使い果たし、落ちぶれた息子を喜んで迎え入れ祝宴をする親はあり得ない。しかし、このたとえに登場する父は天地万物の創造者である神で、弟息子は私たち人間のことである。 私は、このたとえ話から神の愛を知り、自らの罪を悔い改めてイエス・キリストを信じることができた。

私たち人間は皆自己中心という罪がある。どんなに犠牲を払って人を助けようと思っても、自分自身が窮地に立って身動きが取れなくなったら、自分を哀れに思い、自分のことを優先し他の人のことなど考えられない。しかし、父なる神は、このたとえのように、私たち人間が罪を悔い改めて父なる神のもとに帰ってくることを望んでおられる。つまり、どんな人でも罪を悔い改め、救われて祝福を受けることを神は望んでおられる。「一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」(ルカの福音書15:10)

さらに、父なる神は、私たち人間が救われるために、御子イエス・キリストを遣わされた。イエス・キリストは罪のない方であるが、私たち人間の身代わりとなって、十字架にかかって死んで、三日目によみがえられた。

このことのよって、私たち人間が罪を悔い改めて、イエス・キリストを自らの救い主として信じ受け入れるならば、私たちは救われ、神の祝福に預かることができる。神は愛である。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3:16)

 皆さんは今日の聖書の箇所から何を教えられ、何を為すべきか示されましたか? あなたの周りには、まだ救われていない家族や友人がいるなら、是非その人の救いのために祈り、あなた自身の信仰のあかしと神の愛について勇気をもって伝えよう。

 また、あなた自身も含めて、救われた人であってもちょっとしたことで罪を犯してしまうものである。それゆえ、あなた自身も日々罪を悔い改めて、信仰がより一層向上するように祈ろう。 皆さんの上に主なる神様の豊かな祝福がありますようお祈り致します。

         (牧師:北林行雄記)

すばらしい神の啓示 詩篇19:1~14

 詩篇19篇1~6節で万物の創造者なる神の御業を誉め称えている。

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」(1節)。[その光芒は全知に、そのことばは世界の果てまで届いた。神は天に太陽のために幕屋を設けられた。」(4節)。「天の果てから、それは昇り、天の果てまで、それは巡る。その熱から免れるものは何もない。」(6節)。 壮大な宇宙、天体の規則正しい運行、自然界の循環など、すべてが素晴らしい神の御業である。

 詩篇19:7~11節は、人間が神の前に整えられて正しく生きるために、主なる神がユダヤ人に与えてくださった神の教えと証、戒め、いわゆる十戒について言及している。「主のおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで浅はかな者を賢くする。主の戒めはまっすぐで人の目を明るくする。」(7~8節)ユダヤ人たちはモーセを通して告げられた十戒を毎日口ずさみ、それを守るように努め、何を為すにしても、神を第一に考えて行動するように勧められた。

 私は50年前に聖書を手にし、毎日読みふけった。何をするにも神を第一にすることを教えられ学んできた。就職、結婚、研究者を辞して神学校に入学する時等など、祈り続け、聖書の御言が示されてから、行動するようにした。その結果、後悔することがほとんどなかった。それでも、困難が生じた時は、自分のありのままの気持ちを神の前にすべて告白して涙ながら祈ったことがある。そうすると心に平安があり、不思議に問題が解決され、新たな力が湧き出たことを経験した。

神の御ことばは真実で、力がある。」(ヘブル4:12)。皆さんも「神の大能の力の働きによって、私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを知ることができますように。」(エペソ1:19)。

詩篇12~14節で詩篇記者は自分が気付かないでいる「隠れた罪」からの解放と「傲慢の罪」の赦しを求めて、主の御前にこのような者をも受け入れてくれるように祈っている。 ここで、「隠れた罪」とは、隠れて悪いことをするという意味ではなく、私たち人間の モラル意識に関することである。私たちの先入観や思い違いによって、無意識のうちに相手を傷つけて争いを引き起こす罪のことを言っている。

 また、「傲慢の罪」は、私たち人間、誰でも犯しやすい罪である。非常に謙遜な人でも、本人のプライドがある。それを傷つけられたら、立腹する。傲慢の罪はプライドの高い人に多い。些細なことでも相手が気に入らなかったら、不機嫌になり、ちょっとしたことで腹を立てて、怒り出す。

 それゆえ、詩人は「私の口のことばと、私の心の思いとが、御前に受け入れられますように。主よ、わが岩、わが贖い主よ。」と祈願した。

 同様に私たちも、主なる神の御前で、自らが犯す罪を毎日悔い改め、赦しを求めて祈ろう。そのことにより、更に充実した信仰生活を志し、人々にイエス・キリストのすばらしさを宣べ伝え、信仰のあかしをしよう。(牧師:北林行雄記)

御子イエスによるいのち ヨハネの福音書5:19~29

38年も病気を患い、回廊で伏せっていた男が自分を癒された人がイエスであることをユダヤ人たちに伝えた。このためユダヤ人たちはイエスを迫害した。イエスは彼らに「私の父は今に至るまで働いておられます。それで私も働いているのです。」(ヨハネ5:17)と答えられた。主イエスが安息日を破るだけでなく、神を自分の父と呼んでおられるので、ユダヤ人たちはいきり立って、イエスを殺そうとするようになった。

 神は天地万物を創造された全知全能の神である。その方がモーセを通してユダヤ民族に十戒を与え、それを遵守するように命じられた。(出エジプト20:1~17)。「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。」は第4戒であり、「あなたはわたし以外に、ほかの神があってはならない。」は第一戒である。これらの戒めを破っていると思ったユダヤ人たちにはイエスの行為は絶対に許せない事であった。

 ヨハネの福音書5章19~47節に主イエスとユダヤ人たちとの論争が記載されてある。17節の主イエスの弁明を聞いてユダヤ人たちは、イエスが「ご自分を神と等しくされた。」(18節)と思った。彼らはそのことをイエスご自身が神から離れて行動することと解釈した。それを察知されたイエスは「子は父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことが出来ません。」(19節)と明言し、その理由を4つ述べられた。

① すべて父がなさることを、子も同様に行う。②父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになる。③父のように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えることが出来る。④父はだれをも裁かず、すべてのさばきを子にゆだねられた。それは、すべての者が父を敬うように子を敬うためである。

 続いて、主イエスは永遠のいのちについて言及された。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(24節) 私たち人間は生まれながら自己中心という罪を持っている。そのため、直接神と会見することができない。なぜなら、「人は神を見て、なお生きていることが出来ないからである。」(出エジプト33:20)。よって、御子イエスの御ことばを聴いて、父なる神を信じる者だけが永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っている(24節)なお、“移っている”という言葉は動作の完了形であり、神を信じている者は直ぐに霊的な死からから永遠のいのちへと移されることを示している。

 英語にAll men are mortal. (人はすべて死すべきもの)ということわざがある。どんなに長く生きたとしても必ず人は肉体の死を迎える。聖書に死後に裁きがあることが明記されている。例えば、ヘブル人の手紙9章27節「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっているように」。イエスを自らの救い主と信じ、受け入れていた者は罪赦されて死後の裁きがない。一方、不信仰で自己中心のまま、罪の赦しがない状態で死を迎えた人は裁かれる。

 以上の通り、御子イエスにあるいのちとはクリスチャンに約束された永遠のいのちのことである。「神はそのひとり子(イエス・キリスト)を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。」(ヨハネの手紙第一4:9)。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント人への手紙第二5:17)

 イエス・キリストを信じた人びと(クリスチャン)の歩みはキリストにあって、日々新たにされて、キリストの似姿へと成長していくものである。皆さんはどのように変化しましたか?  (牧師:北林行雄記)

主の教えを喜びとするもの 詩篇1:1~6

人の生き方によって人生はいろいろである日本は経済大国として国民は豊かになったかと言えば、そうではない。格差が拡大し、生活保護に頼らなければならない人々もいる。また、物質的に豊かに見える人でも、その心は満たされず、悲しい歩みをしている人だっている。

詩篇1篇に、主の教えを喜びとする者と悪しき者との二種類の生き方を紹介してある。

悪しき者とは、主なる神に逆らうもので、主の教えに従わず、罪人の道に立ち、そこに留まり続ける者のことであり、しかも嘲る者の座に着く人のことである。「嘲る者」とは、叱責を聞かず(箴言13:1)、町を騒がす人(箴言29:8)のことである。

一方、主の教えを喜びとする者とは、悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座の着かない人のことである。(詩篇に:1)

その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、その成すことはすべて栄える。」(3節)。充分な水分を吸収して豊かに育つ木のように、主の教えを喜びする者は、神の御ことばによって、心に十分ないのちの水を与えられて、豊かな信仰の実を結ぶことができる。その人の信仰は衰えることがなく、その人自身の生活をすべて主が祝福して下さる。 これに対して、悪しき者は風が吹き飛ばす籾殻のようなもので、実が無く、捨て去られるだけである。そのため、彼は神の裁きの場に立つことができない。また、罪人は正しい者の集いに立ち得ない。「まことに、正しい者の道は主が知っておられ、悪しき者の道は滅び去る。」(6節)

 ここで使われている「正しい人」という言葉は、旧約聖書の原語(ヘブル語)の「ツァツデイーク」であって、ノアだけにしか使われていない。ノアはすべて神が命じられた通りに行った。多くの月日を費やして三階建ての巨大な箱舟を建造した。人々の中傷にひるむことなく神の命令に忠実に従った。ノアは主の心にかなっており、「ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」(創世記6:9)。

 この基準から考えれば、生まれながら罪人である私たちは、神の祝福を受けることが出来ない。しかし神は愛なる方である。私たち人間を救うために御子イエス・キリストが十字架にかかって死に三日目に復活されたことによって、イエスを救い主と信じるクリスチャンには、永遠のいのちが約束されている。何と素晴らしいことだろうか。

 それ故に、私たちは主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさみ、神を賛美し、信仰の証に励まなければならない。ただし、これは強制ではない。測り知ることのできない神の愛と、自らが救われた喜びに満たされれば、自然に行えることである。 どんなに忙しくても日々聖書を読み、その素晴らしさを是非味わって頂きたい。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる。」(マタイの福音書4:4)            (牧師:北林行雄記)

床を取り上げて歩け ヨハネの福音書5:1~14

イエス・キリストはユダヤ人の祭りがあってエルサレムに上られた。ベテスダ池の回廊には大勢の病人たちが伏せっていた。この池の水が一定時間をおいて、かき回される(恐らく間欠泉)時に最初にその池に入った者は、どんな病気であっても癒されると言われていたからである。その中に38年もの間、病気にかかっている人がいた。

イエスが彼に「よくなりたいか」と聞かれると、彼は「水がかき回されたときに他の人が先に降りて行って、誰も助けてくれないので自分が癒しを受けるチャンスが全くない。」と苦情を述べた。主イエスは彼が良くなりたいとの気持ちがあることを察知して、「起きて床を取り上げて歩きなさい。」と言われた(ヨハネ5:8)。その病人はイエスのことばに直ぐに従うと、38年間も動かなかった足が治って、床を取り上げて歩き出した。主イエスを信頼して従う者に、主の素晴らしい御業を体験することが出来る。

 この人が癒された情報を聞いたユダヤ人たちは『床を取り上げて歩け』と言った人は誰かと訪ねたが、彼はイエスのことは知らなかった。その後、イエスはエルサレム神殿の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」(14節)。

 彼は何らかの罪で病気になり38年間苦しんだので、再び罪を犯さないように主が戒められたという学者も多い。しかし、私は主イエスが言われたことは、もっと深いことで、永遠のいのちに関することを言及しておられると思う。すなわち、病人は癒されて、肉体的に健康になったけれども、信仰による魂の救いを得なければ “もっと悪いこと”、つまり、永遠の裁き、死が待っていることを暗示されたと思う。

 私たち人間は皆、罪を犯しやすい性質を持っている。クリスチャンも例外ではない。自らの罪を悔い改め、イエスをキリスト(救い主)と信じて、毎日、聖書から励ましを受けて歩んでいる時は喜んで、神に感謝をささげ、奉仕に励むことが出来る。しかし、自分の体調が悪くなり、自由が効かなくなり、事業もうまくいかず、赤字になってしまった。そうすると順調に進んでいる兄弟姉妹が妬ましくなり、『自分だけが何故?こんな目に逢わなければならないか』と不満が生じ、喜びが失せてしまう。このため、イエス様の恵みが判らなくなり、自己中心的になり、罪を犯してしまう。このような落とし穴に陥らないために、常にキリストを見上げ、一切の問題を主に打ち明けて、最善をなして下さる主にゆだねることが大切である。

あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる。」(詩篇37:5)

 皆さん、信仰生活の中においても、いろいろな試練に逢います。常に主イエスに信頼し、思い煩わないで、あなたの道を主に委ねて歩みましょう。皆さんの上に豊かな祝福がありますように!  (牧師:北林行雄記)

物質的な豊かさよりも霊的な富を ルカの福音書12:16~21

群衆の一人が自分と兄弟との間で遺産を分けるように話して欲しいと主イエスに頼んだ。イエスは人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(ルカ12:15)。

 もし、皆さんがこの金持ちと同じ状態だったら、どのように考えますか?富山聖書教会の周りには沢山の田んぼがある。農繁期には農家の人は朝早くから夜遅くまで働き続けるので、この金持ちのような気持になる人がいると思う。しかし、神は金持ちに言われた。「愚か者、おまえの魂は今夜おまえから取り去られる。お前が用意したものは一体誰のものになるのか。」

 このたとえで主イエスが意図されたことは、ルカの福音書12章21節にある。「自分のために蓄えても、神に対して富まないものはこのとおりです。」人のいのちは財産にあるのではない(15節)。 ここで使われている“いのち”という言葉はギリシャ語聖書(原典)では「ゾーエー」である。この意味は神から与えられる霊的ないのちで、私たち人間の霊を生かし、私たちが生きていくための根源的ないのちで、永遠のいのちのことである。

 一方、同じルカの福音書12章22節「何を食べようかといのちのことで心配したり、何を着ようかと、からだのことで心配したりするのはやめなさい。」の“いのち”は、「プシュケー」であり、「魂」や「生命」とも訳され、肉体的身体的な生命を生かし、精神的な力も与えるものである。それゆえ、このいのちを維持するためには日々の食べ物が必要である。 従って、神から与えられるいのち「ゾーエー」、永遠のいのちはお金や財産で買うことが出来ない。どうしたらこのいのちは得られるか。このいのちは信仰によって、神から与えられるものである。イエス・キリストが私たち人間の罪(原罪)を贖うために十字架にかかって死んで葬られ、三日目によみがえって下さった。このことを固く信じて、イエス・キリストを自らの救い主として受け入れることによって、永遠のいのちを得ることが出来る。

 続いて、信仰により永遠のいのちを約束された人々、クリスチャンが更に豊かないのちを得るために何をしたら良いかについて、お話をする。マタイの福音書6章20節に「自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。」と言われた。天に宝を積む(蓄える)とは全財産を福音のため、人々への施しのために用いよと言っているわけではない。もし、全財産をささげ、貧乏したら、周りに心配をかけて証にならない。 主イエスが言われたのは、不安定な地上の宝ではなく、永遠に残るものを一番大切にして、神の愛に満たされ、自分が救われた喜びをもって、神の前に富む者になるよう努力して生きること。具体的に言うと、天に宝を積む生活とは、福音のため、主イエスのため、兄弟姉妹のため、困難の中にある人々のために生きることである。

 私たち夫婦はアメリカに滞在した時、まさに天に宝を積む生活をしている夫妻に出会った。その方のことを簡単に紹介する。Sam & Ruth Squireさん夫妻である。ご夫妻とはシアトルにある日本人教会のキャンプで出逢った。お二人は日本人の留学生のホームステイや駐在員のために世話を喜んでしておられた。カナダから引っ越したばかりだったので、私たちが新聞でシアトル郊外のベルビューにアパートを見つけた時、ちょうどその近くに住んでおられ、家具など一式任せてくださいと準備して下さった。毎日顔を出して見に来て下さり、とても親切な方であった。Samは以前、高校の教師であったが、その当時はボーイング社に勤務しておられたが熱心なクリスチャンで、留学生や駐在員たちに福音を伝えることを喜びとされていた。日本からの来客があると、私たちも招かれて、そこで、救いの証をして、聖書について説明をさせて頂いた。食事の時は、聖書に関するクイズをし、互いに大好きな聖書のことばや救いの証などを分かち合った。そして開拓伝道をする教会も紹介して下さった。今に至る道であった。ご夫妻は日本人の魂の救いのために祈り、日常生活そのものが信仰の証であった。お二人は天に宝を積む生活の見本であった。

帰国後、厳しい現実に出会うと、私たちはいつもご夫妻のことを思う時に励まされ、力を得て牧会の働きを続けさせていただいている。 皆さんの信仰生活が隣人への良き証となるよう祈ります。(牧師:北林行雄記)

王室の役人の息子の癒し ヨハネの福音書4:43~54

イエスがエルサレムを去ってガリラヤへ行かれた時、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも過越しの祭りでエルサレムに行っており、その間にイエスがそこでなされたすべての事を見ていたからである。

 イエスのニュースを聞いた王室の役人が、自宅のあるカペナウムから約10kmの道のりを急いでやって来た。息子が病気で死にかかっているので、主イエスにカペナウムまで下って来て、息子を癒して下さるようにと願った。これに対するイエスの返答は、「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」(ヨハネ4:48)と厳しいものであった。

しかし、王室の役人はひるまず、「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」と切なる思いで訴え続けた。すると、イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」(50節)。“治ります”は原語のギリシャ語は「生きます」(lives)である。王室の役人は主イエスのことばを信じて帰って行った。彼が下って行く途中、しもべたちが彼を迎えに来て、彼の息子が治ったことを告げた。王室の役人の息子が良くなった時間は丁度、主イエスが「あなたの息子は治る」と言われた時刻だった。そのことが判った王室の役人は彼自身も家の者たちもみなイエスを救い主と信じるようになった(53節)。

今の日本はコロナ禍の影響で、自殺する人の増加や凶悪事件が多発している。そのため、将来に不安を感じている人が多い。不安を持ったままでは私たちは安心して生きられない。私たち人間が生きていくには信仰が必要である。

一方、“まがいもの”の宗教もあり、人は宗教に対して警戒心がある。明確な証拠を見ないかぎり、信仰を求めようとしないのが一般的である。主イエスが48節で指摘された通りである。しかし、王室の役人は“息子が治る”と言われたイエスのことばをただ、信じて従った。その結果息子の病の癒しを体験することが出来た。

復活された主イエスが弟子たちに姿を現された。その時、弟子のトマスだけがその場にいなかった。彼は「復活されたイエスの手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。」と言った。その八日後にイエスは姿を現され、トマスに言われた。「あなたの指をここにあてて、私の手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者でなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)。そして、「あなたはわたしを見たから信じのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハネ20:29)と言われた。

  私はイエス・キリストを信じてから50年経つ。最初は聖書を読んでよく判らなかった。しかし、毎日聖書を読みその教えに従って歩んでいるうちに私たち人間を救うためにキリストが十字架にかかって死んで下さった神の大きな愛に感動し、救われた喜びでいっぱいになった。その経験を今も鮮明に覚えている。イエス・キリストを信じて生きる時、たとえ苦難の中を通ることがあっても、必ず脱出の道がある。信仰の歩みは神の愛と恵に満ちた人生航路である。しかもその先は、永遠の御国につながっている。素晴らしい恵みである。主の恵みと導きが皆様の上に豊かに注がれ、充実した証の生活ができますように!

                (牧師:北林行雄記)