詩篇126篇は「都上りの歌」という表題がついており、バビロン捕囚からのイスラエルの民の解放が告げられた人々の喜びの歌と考えられる。「主がシオン(エルサレム)を復興してくださったとき、私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。」(詩篇126:1~2)。イスラエルの民は主の恵みを大いに喜び、諸国の人々は主がイスラエル人のために大いなることをなさったと言った。
さらに、彼ら(イスラエルの人々)は祈った。「主よ。ネゲブの流れのように、私たちを元どおりにしてください。」(4節)。ネゲブはシオン(エルサレム)の南に広がる乾燥地帯で、その南部地域は砂漠とほぼ等しい荒涼とした土地であった。しかし、年に一度だけ想像できないほどの大変な大雨が降る。その結果、赤茶けたネゲブの土地が瞬く間に緑の大地に変えられる。正しく天地万物の創造者なる神の御業である。それゆえ、彼らは捕囚の期間に荒れ果てたイスラエルの土地を主の御業により豊かなものに回復して頂きたいと祈った。
「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。種入れを抱え、泣きながら出て行く者は、束を抱え、喜び叫びながら帰って来る。」(5~6節)。苦しくて、涙を流さずにおれないほど辛い時であっても種を蒔き続けるなら、主なる神はその人を祝福し、喜び叫びながら刈り取り、その束を抱えて喜んで帰って来るほどに豊かな実を与えてくださる。なんと素晴らしいことであるか。主にあって労する者は必ず祝福される。
このような祝福は福音宣教の働きにも通じることである。人間は誰しも生まれながら自己中心という罪を持っている。その罪を持ったままでは、死後の裁きを免れることはできない。その罪を贖うために、罪のない正しい方であるイエス・キリストが十字架にかかって身代わりの死を遂げられた。三浦綾子の代表作である「塩狩峠」の話をご存じの方が多いと思う。主人公永野信夫は鉄道会社の運転手であった。婚約者吉川ふじ子との結納の日、運転中に塩狩峠の斜面を下る客車は止まらず、このままカーブに入れば客車は転落し、乗客は助からない。そこで、信夫は自分の命と引き換えに客車を止めて、乗客を守った話である。永野信夫は十字架にかかって死なれたイエス・キリストのように、乗客のいのちを救うために自分のいのちを引き換えにした。塩狩峠は実話を基にしてできた作品である。殉職した鉄道員の長野正雄の関係者の中からも、また、塩狩峠を読んだ人々の中から信仰を持つ人が沢山起こされた。イエス様を信じないで死を迎えたら、永遠の裁きを待つだけになる。あなたの家族や親友の救いのために先ず祈ろう。そして、あなた自身の信仰の証をして、イエス様の深い愛を伝えよう。そのことによって、あなたがたの関係する多くの方が永遠のいのちという素晴らしい恩恵に預かり、共に喜ぶことができる。皆様の上に主の豊かな祝福がありますように! (牧師:北林行雄)