救い主イエスの十字架刑 マタイの福音書27:33~54

今週は受難週で、金曜日にイエス・キリストは十字架にかかられました。十字架刑は両手、両足を十字架に釘で打ち付けられ、激しい痛みで苦しみながら、体力も気力も衰えて、疲れ果てて死んでいく、恐ろしい刑罰です。

 ゴルゴダの丘に3本の十字架が立てられました。中央に主イエスの十字架が立てられ、両サイドに二人の強盗の十字架が立てられました。さらに、兵士たちは「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれ罪状書きを主イエスの頭の上に掲げました。 十字架に磔(はりつけ)にされた主イエスの姿を見た人達は主イエスを罵(ののし)りました。39節から44節に三種類の人たちの罵りのことばが記載されています。先ず、通り過がりの人たちは、頭をふりながら主イエスを罵り、「神殿を壊して三日で建てる人よ。もしお前が神の子なら、自分を救って見ろ。そして、十字架から降りて来い」と言いました。主イエスは神の子で、罪のない方です。それゆえ、自分を救う必要がありません。それなのに、十字架にかかられるということは別の目的があるからです。

 また、祭司長や律法学者、長老たちは次のように嘲(あざけ)りました。「他人は救ったが自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。彼は神に拠り頼んでいる。神のお気にいりなら、今、救い出してもらえ、「わたしは神の子だ」と言っているのだから。」

主イエスが十字架にかかられたのは何のためですか?

私たち人間を救うためです。主イエスは罪のない正しい方であるのに、私たち人間を罪の裁きから救うために十字架にかかられたのです。それゆえ、もし、主イエスが十字架から降りて来られたら、私たち人間の救済の道が全く閉ざされてしまう結果になるのです。

一緒に十字架につけられた強盗たちも同じように主イエスをののしりました。 正午、12時から午後3時ごろまで、闇が全地をおおい、暗くなりました。3時ごろ、主イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。エリはヘブル語で「わが神」という意味で、サバクタニはアラム語で「どうして、私をお見捨てになったのですか?」の意味です。 実は、イエス・キリストの十字架刑は紀元前約700年前に預言者イザヤを通して預言されていたのです。それではイザヤ書53章10節を開いてみましょう。そこにこのように書かれています。「彼を砕いて病を負わせることは、主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償の捧げものとするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころが彼によって成し遂げられる。」とあります。“自分のいのちを代償とする”は十字架刑を示しています。また、”末長く子孫を見る“の子孫は信仰者たちのことです。

父なる神は、我が子イエスを十字架にかけることまでして、私たち人間が救われる道を備えてくださったのです。神は愛です私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、ささげ物としての御子(イエス・キリスト)を遣わされました。ここに愛があるのです。(ヨハネの手紙第一 4:10) 父なる神が大きな犠牲を払ってまで、人間を救おうとされたこと。これが、キリスト教は神の痛みの神学といわれる所以です。

主イエスが「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた声を聞いていた人たちの何人かが預言者エリヤを呼んでいるものと思い、待っていてもエリヤは現れません。主イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると、エルサレム神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地が動き、岩が裂け、墓が開いたのです。このことは大変重要な意味があるのです。

エルサレム神殿はイスラエル国民にとって大変重要で、象徴的な神殿です。この神殿はユダヤ人の霊的生活の中心でした。この神殿において動物がいけにえとして奉げられ、モーセの律法に従って礼拝がされていました。神殿では至聖所(地上での神様の臨在があった場所)と他の神殿の部分を幕が隔てていました(ヘブル書9章1-9節)。大祭司のみが一年に一回この幕を通り(出エジプト30章10節;ヘブル9章7節)、神様の御前にでて全イスラエルの罪のためにとりなしをする事ができたのです(レビ16章)。

主イエスの十字架での死の瞬間に神殿の幕が裂けたこの出来事は次のことを意味しています。私たちの罪の贖いのためになされた主イエスの犠牲と流された血により、動物のいけにえは必要なくなったのです。私たちはいつでもイエス・キリストの御名を通して、父なる神に祈りを捧げることができるようになったのです。

これらの一部始終を見ていた百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは非常に恐れて、「この方(イエス)は本当に神の子であった。」と言ったのです。彼らは、今ここで、主イエスは神の子であると信じたのです。なんと素晴らしいことではありませんか。

それにしても、神の御子である方が、私たち罪を持った人間を救うために、いのちを捨ててくださった。しかも、十字架刑という恐ろしい処刑にあって死なれたのです。このことは父なる神も承諾された上のことです。私は一人の息子の父です。彼が学校において、激しいいじめに会い、殺されそうになったとき、私も何とか彼を助けたいと涙して祈りました。この苦しみを見るこの時の気持ちを考えると、父なる神の苦しみと私たち人間への測り知れない愛の大きさに本当に驚きます。ことばに言い尽くせぬ感謝で一杯であります。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 (ヨハネの福音書3章16節) 

 皆さん、受難週そして来主日のイースター、あらためて、私たちの救いのために払われた主イエスの十字架、父なる神の愛の大きさを深く味わい、いつも喜んで信仰生活をしっかりと歩みましょう。私は信仰の証とは、聖書の教理をとくとくと語ることではなく、皆さんが毎日喜んで信仰生活を歩んでいる姿が周りの人々の眼に映ることです。楽しいことばかりでなく、悩むこと、苦しいこともあるのは当然です。そのときは祈り、また、聖書の御ことばから力を受けて解決を得ることです。もし、それも難しい時は牧師に相談してください。ふさわしい聖書の箇所を共に学び、共にお祈りしましよう。皆様の上に、全知全能の主なる神の恵みと導きが豊かにありますようお祈りいたします。(牧師:北林行雄記)             

あなたに働かれた神の御わざ マルコの福音書5:26~34

 本日の聖書箇所は12年間も長血を患う女性に対するイエス・キリストの癒しの御業についてのものです。

 長血は婦人特有の、血が流れ出る病気です。旧約聖書のレビ記15章によれば、この病気にかかった女性は、人々から“汚れた者”として見なされることになっておりました。長血の病気にかかった状態で、この女性は12年間も苦しみ、大変な思いをしていたと思います。

 さらに、彼女は多くの医者からひどい目にあわされていました。医者に治療してもらっても、良くなるどころか、病気が悪くなる一方でした。彼女は医療費を払うために、持ち物をすべて使い果たしてしまったのです。このような厳しい状況であったとき、主イエスがこの近くを通られることを耳にしました。そこで、彼女は群衆とともにやって来て、うしろから主イエスの衣に触れました。

 なぜ彼女はこのようなことをしたのでしょうか?彼女は「主イエスの衣にでも触れれば、私は救われる。」と思っていたからです。なお、この考えは当時の民衆の間に出回っていました。マルコの福音書3章10節に次のような記載があります。イエスが多くの人を癒されたので、病気に悩む人たちがみな、イエスに触ろうとして、身元に押し寄せてきたとあります。

また、彼女は自分の病、すなわち、長血を患う女性の気持ちとして、人目につかないように、そっと主のイエスのうしろから主の衣に触れたように思います。

彼女が主イエスの衣に触れた瞬間、彼女の血の源がかれて、ひどい痛みが治ったことを、彼女は身体に感じました。つまり、彼女の身体から出ている血の源、血を発生するところで血が止まり、もうこれ以上出血しなくなったのです。そのため、ひどい痛みも全くしなくなったのです。正しく、主イエスによって完全な癒しの業をこの女性は実体験したのです。

主イエスはこの時、自分の内から力が抜けていくことを感じて、「誰が私の衣に触ったか」と知ろうとされました。大群衆の中、誰が触ったかわかるはずがないと弟子たちが否定的なことを言っても、主イエスは誰が触ったか知ろうとされたのです。

なぜ、主イエスはそこまでして、誰が触ったかを知ろうとされたのでしょうか?

その答えは長血をいやされた女性が恐れおののきながら進み出て、主の前にひれ伏して真実をのべたことに対する主イエスの発言から判ります。主イエスは彼女の肉体的な治療をする医者だけでなく、むしろ、人間の心、魂の医者であります。

イエス様のお言葉

  • あなたの信仰があなたをなおしたのです。

イエスは彼女に向って、「娘よ。」と親しみをもって呼びかけられたのです。主イエスの力が働いて、この女性が癒されたのに、主は「わたしがあなたを癒したのだ。」とは言われなかったのです。それは、主イエスが彼女の信仰に目をとめておられた   からです。

確かに、主イエスの力が働いたのは、彼女が主を心から信頼して、主が必ず自分を癒して下さる方であると信じる心、すなわち、主イエスを信じる信仰があったからです。

  • 安心して行きなさい。

このことばは“シャローム”に基づくものでありますが、単なる別れの挨拶ではなく、主イエスはもっと親身を込めて、「神から与えられる平安を持って生活ができるように!」との彼女に対する祝福のことばです。

  • 病気にかからず、すこやかでいなさい。

これは彼女の身体は完全に癒されたことの保証であり、これから病気のことを心配せずに、前向きに生きるのだよという医者であり、魂の救い主である大牧者、主イエスの願いであったと思います。

 皆さん、この素晴らしいイエス様がいつも共にいてくださることを確信し、感謝をもって、共に日々の生活や仕事を進めてまいりましょう。(牧師:北林行雄記)

愛と信仰による証 テサロニケ第一1:1~8

 テサロニケはギリシャ北部の大都市です。パウロの生きた紀元1世紀には、東西のローマ帝国を結ぶ重要な街道がこの都市を貫通しており、さらに良好な港もあり、重要な商業都市として栄えました。

 使徒パウロがこのテサロニケで伝道を開始しました。ユダヤ人の会堂であるシナゴーグで旧約聖書を開いて福音を語ると、わずか3週間で沢山の人々がイエス・キリストを信じました。 すると、妬みに駆られたユダヤ人たちが教会に集うクリスチャンたちを激しく迫害するようになりました。そのため、パウロはテサロニケ教会の信徒たちを激励訪問したいと思っても、全く不可能のことでした。

 そこで、パウロは弟子のテモテに託して、テサロニケ教会の人達に手紙を書いたのです。そのテサロニケ人への手紙第1章から今朝、学びたいと思います。 先ず、差出人と宛先が書かれ、手紙の本題が始まります。その内容は、パウロがテモテから聞いたテサロニケ教会の人達の様子について彼の心の内を語ったものです。それは以下の3つの点に要約できます。

 

  • 神への感謝

パウロはテサロニケ教会の信徒たちが厳しい迫害を経験し、疲れと苦しみで信仰が弱っているのでないかと心配していたようでした。しかし、弟子のテモテから報告を受けて、彼は安心して励まされ、主なる神に心から感謝を捧げました。テサロニケ教会の信徒たちは迫害の中にあっても信仰が弱ることなく、信仰の働きとそれに伴う愛の労苦、そして彼らが抱いている主イエス・キリストへの望みと忍耐をパウロは思い起こして(3節)、改めて、父なる神の御前に感謝の祈りを捧げたのです。

  • 神に選ばれた民であるとの確信

 パウロはテサロニケ教会の信徒たちは全知全能の神から選ばれた民であると確信しました。その根拠は二つあります。一つは彼らに伝えられた福音は力と聖霊と強い確信によったものであるからです(5節)。単なることばだけのものではないのです。

 実際にテサロニケ教会の人たちは多くの苦難の中でも、聖霊による喜びをもって、神の御ことばを受け入れ、パウロたちと主イエスに習う者となったのです。そして、マケドニアやアカヤとのすべての信者の模範となりました(7節)。

  • 福音宣教の広がりと教会成長

主のことばがテサロニケ教会から出て、マケドニアとアカヤにも響き渡ったことが8節に書かれています。“主のことば”とはここでは、イエス・キリストの福音のことを言っています。この福音がテサロニケ教会からマケドニア地方全体と隣のアカヤ地方にも伝えられて、そこで福音が響き渡るほどに人々に知られるようになっていました。それは教会に集う人たちが恐れることなく、大胆に信仰の証をして、福音を宣べ伝え続けて来た結果です。すごいことですね。また、このことによりテサロニケ教会はますます豊かに成長していきました。

 私たちの富山聖書教会は昨年4月に新会堂の献堂式を行いました。この新会堂一杯に人々が集まるために、信徒の皆さんの“生きた信仰の証し”が重要なのです。牧師の私もこのことを念頭において、教会の皆さんと一緒に前進したいと思っております。宜しくお願いします。

 

 さて、ここでクリスチャン各人の生きた信仰の証が教会成長のキーポイントであることについて、私の体験をから紹介させていただきます。

 私は農家の次男坊です。農家においては、長男は家を継ぐので大事されるけれども、次男はそれほどではなく、教育にしても次男にはお金をかけません。そのため私は小さい時から「自分のことは自分でする」という考えで生きてきました。

 成人式を迎えた頃、まだ学生でしたが、真剣に自分の将来のことを考え、英語の必要性を感じていました。約50年前のことですが、富山県にはあまり外国人がいませんでした。その時、北日本新聞にカナダ人宣教師のことが掲載されていました。父がそれを直ぐに見つけて教えてくれました。気の良い温かい父でした。いつかその外人を訪問したいと思っていましたが、そのまま時が流れていきました。

 大学3年の時、男子生徒4~5人で下宿において深夜まで、連日たわいもないことを話し合っておりました。その時期、私は将来のことを考えているうちに、海外の人との交流の必要が出てくると思って、英会話を習おうと決心しました。そして、20歳のときの新聞記事を思い出し、カナダ人宣教師F.L.ピカリン先生のお宅を訪問しました。

 ピカリン宣教師は喜んで迎えてくださり、家族を紹介され、美味しいカナダ料理を振る舞ってくださいました。緊張しながら、自分流の英語ですが、なんとか通じていました。その後、教会に毎週通って礼拝に出席していましたが、まだ信仰には至っていませんでした。なお、その時紹介されたお子さんは下の二人だけで、あとの二人の娘さんはカナダの大学で学んでいました。

 その1年後、次女のジョイスがカナダから日本に来たので、私に富山を案内して欲しいと依頼されました。外国人は一般に日本の伝統文化に関心があるので、八尾町の“おわら踊り”や曳山、神通峡を紹介し、良い交わりの時を持ちました。そのとき、両親も一緒でした。素晴らしいクリスチャン・ファミリーに出会って、両親はキリスト教に良い印象をもちました。私も同様に、ピカリン先生家族との真実で温かい交わり、主イエス様にある信仰の交わりの素晴らしを実感し、真剣に聖書を学び、教会の主日礼拝を忠実に守りました。そして、信仰に導かれて、洗礼を受けました。 ピカリン宣教師一家は日本語があまり上手ではありませんでしたが、真実で温かい生き方、彼等の信仰の証に私は感動しました。それが私のクリスチャンに対する見方(イメージ)となりました。

テサロニケ教会が成長したのはどこに秘訣があったのでしょうか。それはユダヤ人による激しい迫害の中も、彼らは喜んで人々に信仰の証しをする姿が周りの人々の共感を呼んだのです。

日本語がうまく話せなくとも、ピカリン宣教師は力と聖霊と強い確信をもって活動されていたからだと思います。

また、私は“話べた”で、うまく証できないという方にお伝えします。皆さんが日々イエス・キリストにあって喜んで生きている姿は立派な証であり、伝道なのです。無言の伝道といいましょうか。うそ、偽りのない、真実な歩みを共にしていきましょう。皆様の上に全知全能の主なる神様から豊かな祝福がありますようお祈りしております。

いつも主にあって喜びなさい。(ピリピ人への手紙4:4)(牧師:北林行雄)

すべての人を照らすまことの光 ヨハネの福音書1:6~13

いつまでも止まないロシアのウクライナ侵攻や、強国の核兵器増産計画など、最近の世界情勢は不穏な空気が流れています。このような時こそ、聖書に目をとめ、本当の生きる希望と喜びに満たされたいものです。

 今朝は、私たち人間を照らす真の光、希望の光についてヨハネの福音書1章から学びたいと思います。

 神から遣わされたヨハネとはバプテスマのヨハネのことです。彼はイエス様より半年早く生まれた人ですが、彼は生まれながら特別な使命を神から授かっていました。その使命とはイエス・キリストのことを人々に証する。つまり、イエス様のことを紹介することでした。

イエス・キリストのことをヨハネの福音書1章9節では、「すべての人を照らすまことの光」と紹介しています。暗やみの中に輝く光は本当に貴重です。私たち人間は生まれながら罪人で、最終的に裁かれて、暗い地獄に送られ、そこで、大変な苦しみを味わう身でした。しかし、イエス・キリストは私たちを救いに導き、希望をあたえてくださる真の光です。この方は天地万物の創造者なる神の子で、もとから世におられ、世はこの方によって造られました。

 イエス・キリストは神の約束の民であるユダヤ人の子孫としてお生まれになりました。しかし、ユダヤ人の指導者たちに受け入れられず、十字架にかけられ、処刑されました。そして、3日目に死からよみがえられて、婦人たちや弟子たちの前に姿を現されました。  

 このイエス様を自らの救い主として信じ、受け入れた人々(クリスチャン)は神の子どもとなる特権を与えられるのです。この特権は万物の創造者、主なる神からのプレゼントであり、信仰者に与えられる特別な権利なのです。この権利を得るために、高額なお金も支払うこともなく、労苦して働くことも、必要ないのです。ただ、自らの罪を悔い改めて、イエス・キリストを私の救い主ですと真心から信じ、受け入れることです。

クリスチャンは神の愛と恵みによって新しく生まれた者なのです。

人間は全知全能の神によって造られた者です。創造主なる神が、はじめから人間を神のかたちに創造されたのです。それゆえ、人間は自由意志を持っており、自分で決断して、事を行うことができます。

残念ながら、私たち人間が自分で判断して行ったことが必ずしも正しいとは限りません。最初の人アダムはサタンに誘惑されて罪を犯しました。彼はサタンの誘惑があったとき、神の教えに耳を傾けず、自分の思いを優先して、勝手に行動してしまったからです。

人間は皆、自己中心という罪を持っています。自分が良ければよい。また、他人より少しでも自分が優れたものと思われたい。一方、事業に成功して、豊かな生活をしている人を羨ましく思ったり、人々から人気がある人を妬んだりする性質があります。

小学生の子どもに、「君は友達を羨ましく思って、意地悪したことない?」と聞くと、「あるよ。」と正直に答えます。しかし大人になると、このことがあったとしても、隠して言いません。どうしてでしょうか?彼等のプライドが邪魔するからです。

このような罪深い人間であっても、神の前に悔い改めて、主イエスを信じるなら、罪が赦されるのです。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(コリント人への手紙第二5章17節)

罪を犯したら、小さいうちに解決することです。プライドが邪魔して、隠していると、罪もだんだんと大きくなって、悔い改めが難しくなります。

以上まとめますと、

  • 私たち人間は生まれながら罪を持っているが、罪を悔い改めて、イエスを救い主と信じた者は神の子どもとなる特権が与えられる。
  • この特権を与えられた人たち(クリスチャン)は神によって新しく生まれた者である。
  • 救われた人間であっても、些細なことで罪を犯しやすい性質を持っている。それゆえ、日々悔い改めて、イエス・キリストの内にあって新しくされる必要がある。

      (牧師:北林行雄記)

天地創造の第二日目 創世記1:6~8

天地創造の第一日目に、神のことばによって光が造られたことを先月第一主日に学びました。今朝は、創世記から天地創造の第二日目の出来事について学びます。

天地創造の最初は、ただ大水があって、闇がその上をおおっているだけでした(1章2節)。神は仰せられた。「大空よ。水の真っただ中にあれ、水と水の間を分けるものとなれ。」(6節)

すると、神の仰せによって、大空が水の真っただ中に造られ、大空の下にある水と大空の上にある水に分けられました。その大空を神は天と名づけられました(8節)。

この大空は大きな料理用のボールのように半円状の形をしたものであったと推測されます。天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる (詩篇19篇1節)。そして、大空を天と名づけられて、天地創造の第二日目が終了しました。

続く第3日目には大空の下の水が集められて乾いた所が造られ、神はそれを地と名づけられました。そこに植物が成長するようになり、後に創造される人間や動物が生きていける環境が造られたのです。神の創造の御業は、やり直しや後悔がなく、初めからしっかり計画が立てられて、その通り実施されたものです。全知全能の神の完璧な御業は本当に素晴らしものです。

そこで、今朝は私たち人間や動物たちが住んでいる地球について考えてみたいと思います。地球は太陽系の惑星の一つであり、人類を含む多種多様な生命体が生存する天体です。地球の表面には水を、空気中には酸素を大量に蓄え、多様な生物が生存しています。

地球は太陽の周りを廻り(公転)ながら、地球自身が毎日自転しているのです。地球の直系は1万2700Kmで、円周は約4万Kmですから、それが1日に1回転しています。その回転速度は毎秒462メートル、時速1663キロメートルになり、超、猛スピードです。

それなのに、私たちは地球が廻っていることを全く感じないのは何故でしょうか?それは、私たちの周りにある日常の風景や家の中にあるもの等すべて、空気なども私たちと一緒に動いているからです。これも全知全能の神の御業です。確かに、自然界はすべて神の御わざによるものです。私は自宅の書斎から雪をかぶった立山連峰を眺め、その美しさに感動しながら、創造主なる神の御名をほめ称えています。 

 私たちは職場や日常生活の中で、いろいろな悩みを体験します。私も大企業に勤めて研究の仕事をしていた時、壁にぶち当たったことがあります。そのような時に、気分転換を図るために、休み時間に屋上に上がって眼下に見える自然を鑑賞していました。すると、心も頭もリフレッシュして、新しいアイデアが浮かんできました。

皆さん、行き詰まり、悩みを抱えたときは、是非、神の作品である自然界に眼をとめてください。 そして、自然界を創造された神の愛と恵みに包まれ、新たな勇気を頂いて、前進していただきたいと思います。どんなに厳しい環境に置かれても、主にあって生きるなら、必ず道が開かれます。

  いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願い事を神に知ってもらいなさい。     (ピリピ人への手紙4章4節、6節)

皆様の上に主の恵みと導きがますます豊かにありますようにお祈りします。                        (牧師:北林行雄記)

罪の悔い改めと救い マルコの福音書1:14~15

皆さんの中で、わたしは全く罪のない人間だと言える方、いらっしゃいますか?

この罪は犯罪のことを言っているのではありません。聖書の中で、すべての人は生まれながら罪があると言っています。また、浄土真宗を開いた親鸞聖人は「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」と言いました。この意味は「善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる」です。これは、善を行おうと努力しても、それをしっかりと行うことができない自分がある。たとえば、人に親切にしようとしても、いやなことを相手から言われたら、その人には親切はできない。心の中のこの思いは、すべての人が生まれながら持っている“自己中心”のことです。だれでも、自分が可愛い、ひどい目に会いたくないし、辛い思いもしたくないと、自分のことを中心に考えてしまいますよね。これこそが人間が生まれながら持っている“罪”のことです。

 主イエスはバプテスマのヨハネが捕らえられた後、ガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて、言われました。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。

 ここで、悔い改めるとは、単に、今までの生き方を悔いて、改めるというだけでなく、自分の生き方の方向転換をはかることを意味しています。つまり、ただ自分の思いや考え方に従って生きてきた自分が、神の御心、すなわち、神が私たちに求めておられることを第一に求め、それに忠実に従って生きる生き方に大転換することです。

 今からヤクザであった人が回心して、イエス・キリストを信じ、神学校に行くことになった証を紹介します。

元ヤクザで、神学校に入学することになった兼光伸一さんという方を皆さんは御存じでしょうか?兼光さんは山口組直系暴力団のナンバー3の地位にありました。兼光さんの父親は元ヤクザのとび職であった関係で、彼は将来はヤクザになると決めていました。暴力などトラブルを繰り返しながら18歳で本格的なヤクザになりました。そして、少年鑑別所に3回、少年院に1回、拘置所に7回、刑務所に5回も収容されたそうです。

ところが、そんな彼が韓国ソウル生まれの奥さんと出会ったことから、聖書を手にするようになりました。彼女は小さい時から教会に通っていて、心の中にいつも神様への思いがあったそうです。兼光さんが暴力団抗争における乱闘事件で逮捕され、留置所に入れられたとき、奥さんが弁護士を通じて兼光さんに聖書を差し入れました。しかし、その時、彼は「聖書と無縁」と拒否しました。2度目の差し入れもすぐに宅下げしました。その戻された聖書を受け取った奥さんは残念で、泣き続けました。

しかし、その後、新しい展開が訪れました。兼光さんが別の事件により関西で再逮捕された時、奥さんは1歳の娘を連れて毎日面会に訪れ、「これが最後だから、とりあえず読んでみて」と3回目となる聖書の差し入れをしました。そこで、兼光さんは半信半疑でページを開いた聖書だったが、「最初の1節で本物の神様だと思った」そうです。

進化論を含め、人間がどこから来たのかはっきり分からないのが現状であるのに、聖書は最初から「はじめに、神が天と地を創造された。」(創世記1:1)。と宣言している。もうここに答えが出ていると、鳥肌が立ったそうです。それからは、“真に悔い改めれば、罪が赦される”ことを心に刻み、聖書を真剣に読むようになり、イエス・キリストを自らの救い主と信じ、洗礼を受けられました。

実は、富山聖書教会にも元ヤクザの家族が出席されていたことがあるのです。関東地方の教会の或る牧師から電話があり、「自分の教会員が富山に仕事で引っ越すことになり、教会を探している。男性はヤクザであったけれど、富山聖書教会の礼拝に出席していいでしょうか?」と言われました。

私は即答をさけて、教会の皆さんに話し、十分祈りました。そして、「慎重に対処すれば、主が守ってくださる」と確信が与えられ、その家族を受け入れることになりました。この家族が礼拝に出席されている期間はすごい緊張感がありましたが、元ヤクザの人も静かに礼拝を守ってくださり、何のトラブルもなく、良い交わりを持つことができました。

どんな人であっても、罪を悔い改めて、福音を信じるなら救われるのです。“福音”とは“喜ばしい良い知らせ”の意味で、その内容は、あなたがイエス・キリストを救い主と信じれば、あなたの罪は赦され、永遠のいのちをもつことができるのです。なぜなら、イエス・キリストは私たち人間の罪を負って、十字架にかかって死んでくださいました。この方は神の子で正しいかたであるので、3日目に死から復活されました。キリストの十字架の死は私たち人間の罪を贖うためのものであったのです(贖罪)。それゆえ、イエス・キリストを信じる人は天の御国にて永遠のいのちが約束されているのです。本当に感謝なことです。

あなたの心の中に醜いものはありませんか?

今、世界は混沌としています。そんな中で、ウクライナの戦争犠牲者の方に“今何を望みますか?”とインタビューすると“あなたの国の今の平和を大切にしてください。絶対戦争にならないように祈ります”と言う声が届きました。重く我々の心に届きます。

罪赦され、神を信じている人々は、自らの不幸よりも他者の幸せを願うよう変えられているのです。

あなたも罪を悔い改め、主イエスを信じて100%変えられる人生を歩みましょう。

ぜひ皆さん、イエス・キリストを信じて、永遠のいのちを受けてください。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3:16) (牧師:北林行雄記)

奴隷でなく愛する兄弟として ピレモンへの手紙8~16節

ピレモンはかなり裕福な人で、何人かの奴隷を持っていました。その奴隷のひとりがオネシモでした。彼は主人ピレモンの家の物を盗んで、逃亡し、捕らえられて、パウロのいる監獄に入れられたのです。その獄中でオネシモはパウロによって伝道され、罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主として信じました。

 使徒パウロはピレモンの恩人であり、彼を信仰に導いた良き師(先生)でした。パウロがピレモン一家に福音宣教した後、ピレモンは家庭を開放して、家族やピレモンの使用人たちを集めて家の教会を建て上げて、そこで礼拝をしていたと思われます。 パウロはそのオネシモの件でピレモンに懇願したのです。しかも、実は愛ゆえの懇願でした(9節)。

愛ゆえの懇願第一:ピレモンに対して、回心したオネシモ引き取りの依頼

彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、彼はあなたにとっても私にとっても役に立つ者になっています。」(11節)。オネシモという名前は「役に立つ者」という意味なのですが、以前の彼は、主人であるピレモンに不義を働き、全く役に立たない人物だったのです。しかし、その後、オネシモは悔い改めて信仰を持つことによって大きく変えられ、今は本当に役に立つ者となったとパウロは証言しています。

 

このオネシモをパウロは自分の下に留めておき、獄中にいる間、福音のために仕えてもらいたいと思いました。しかし、パウロはオネシモの主人であったピレモンが自分の弟子であっても、ピレモンの同意なしでは何も行いたくなかったのです。その理由はピレモンの親切はあくまでも自発的なものでなければならないと考えたからです。パウロの温かい愛の配慮であり、パウロ自身もピレモンの愛の応答(すなわち、オネシモを受け入れること)を期待しました。

親切は強いられてするものではありません。喜んで、積極的にするものでなければ、親切にしていただいても、あまり嬉しくありません。皆さんはどうですか?また、自分が誉められたいから他人に親切をするのでもありません。親切は心から相手の人のことを思って行うものなのです。いやいやながら、強いられてするものではないのです。

私は12年間、民生委員・児童委員をしてきました。その間、助けを必要としている人々の家を訪問し、その人たちが必要としているケアをさせてもらいました。例えば、社会福祉協議会から費用の援助をいただいて、ひとり暮らしの高齢者や障害者の方々、高齢者夫婦には、定期的にお弁当を届けました。この事業は事前に、地域のコミュニテイ・センター事務局から連絡してありました。それゆえ、連絡を受けた人々は心待ちにしていたお弁当が届き、大変喜んで受け取ってくれました。そのとき、この方々と会話をしながら、生活の状況や健康状況を確認しました。このときの高齢者の方々の嬉しそうな顔は今も心に残っています。自分が覚えられ愛されていると思うとそれが本当に表情に表れるのです。

高齢の皆さんの笑顔によって私も大いに励まされました。民生委員はあくまでもボランテイア活動で、仕事のように給料を一切もらいません。しかし、このような高齢者の方々の笑顔によって多忙な日々の疲れも癒され、新たな力が心の内から湧いてきました。本当に感謝なことでした。これは喜んで親切をすることによって与えられる神の恵みでした。

愛ゆえの懇願第二 愛する兄弟としてのオネシモ受け入れ

もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟としてです。特に私にとって愛する兄弟ですが、あなたにとっては、肉においても主にあっても、なおのことそうではありませんか。」(16節)

このときのピレモンの気持ちを考えてみましょう。パウロ先生が言われることを尊重しなければなりませんが、これまで自分の奴隷であり、しかも、自分の持ち物を盗んで逃亡して牢獄にいたオネシモを単に迎え入れるだけでなく、愛する兄弟として受け入れる?「ええっ?」っとピレモンさんは大きな戸惑いを感じたのではないでしょうか。「ダメ、ダメ、いくらパウロ先生でもダメ。」ではないでしょうか? 私だったら、きっと戸惑うだろうと思います。

しかし、落ち着いて考えてみると、あの放蕩息子を迎え入れた父親の姿が浮かんできました。父親の財産の分け前をもらって、遠方にでかけ、そこで放蕩し、その財産を湯水のように使ってしまい落ちぶれてしまった。八方ふさがりのその時、われに返り、父親のことが想い出され、父の身元に帰ってきました。その放蕩息子を喜んで迎え入れた父の姿は慈悲深い神だからです。私たち生まれながら罪を持った者を救うために、主イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださった愛、最高の愛、神の愛です。この愛があれば、人間的に見て、不可能と思えることも可能になってくるのです。最終的にピレモンはオネシモを愛する兄弟として喜んで受け入れたものと思います。21節を見てください。「私はあなたの従順を確信して書いています。私が言う以上のことまであなたはして下さると分かっています。」とあります。

まとめ 今日の学びの中から、私たちは何を学ぶでしょうか?

クリスチャンの交わりは素晴らしいものです。主人の物を盗んで逃亡し、逮捕されて監獄に入れられたオネシモでさえも使徒パウロの導きでイエス・キリストにある信仰を持ちました。そのオネシモをもと主人であったピレモンが信仰により今度は兄弟として受け入れました。

皆さん!私たちも日々回心し、喜んで信仰の証をして、身の回りにいる大切な人を是非、教会に導き、その方々の救いのために祈りましょう。新会堂に満ち溢れるほど多くの方々があつまり、リバイバルが起きて、救われる人が沢山与えられるように日々の信仰の証と主イエスにあって、人々の救いのために祈りに一層励みましょう。皆様の上に主の豊かな祝福がありますように!                (牧師:北林行雄記)

ことばは神と共にあった ヨハネの福音書1:1~5

 本日からヨハネの福音書の学びを毎月開始します。この福音書はイエス・キリストの12弟子のひとりであるヨハネによって書かれたものです。ヨハネは“雷の子”と呼ばれるほど、気性の激しい人でした。彼はペテロと共にエルサレム教会の指導者のひとりとなりましたが、晩年は迫害により捕らえられ、パトモス島に島流しになりました。ヨハネの黙示録はそこで執筆されたものです。また、ヨハネの福音書は彼が90歳近くになったときに執筆されたと言われています。その頃はすでにマタイ、マルコ、ルカの三福音書は出来あがっていたと思われます。そこで、ヨハネは他の3つの福音書にはない出来事や主イエスのことばなどを多く記載しました。

 「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(1節)。

皆さん、この“ことば”は何を指しているか、直ぐに判られるでしょうか? この“ことば”はイエス・キリストを指しているのです。ヨハネの福音書にはイエス様の御降誕の記事はありません。この福音書においては、イエス様は初めから万物の創造主なる神と共におられた方であり、万物の創造の御業にも参画された方であると述べられています(3節)。 

原語の聖書では、この“ことば”とはギリシャ語のロゴスです。ロゴスは「知恵、英知」と訳され、重い“真理のことば”をさします。それゆえ、イエス・キリストのことばは真理であり、神のことばです。

 「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」(4節)。神の“ことば”によって人間のうちに注ぎ込まれたこの“いのち”は単に肉体的、動物的ないのちではなく、人間として生きる人格的、霊的な機能を生み出す(源泉となる)いのちを意味します。神を礼拝し、神と交わることのできるいのちです。何と素晴らしいことでしょう!

 人の光となるいのちとは何のことでしょうか?このいのちは「主イエスを信じる者に与えられる永遠のいのちのことであり、肉体が死んでも生きるいのちです。」つまり、ヨハネの福音書11章25節にある「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」に示された“いのち”、すなわち、イエス様が復活されたように、信じる者も肉体が滅んでも、霊的に、永遠に生かされるのです。

 “光”とは、詩篇36篇9節「いのちの泉はあなたとともにあり、あなたの光のうちに、わたしたちは光を見るからです。」とあります。つまり、イエス・キリストにある光のことです。私たち人間は皆、生まれながら原罪をもっています。罪ある世界は神の眼から見たら暗闇の世界です。罪ある人間は死後、裁かれなくてはなりません。真っ暗やみの中を夜、歩くと怖いですね。光が必要です。主イエスと共にあるなら、闇の中を歩まなくていいのです。

 ヨハネ福音書1章5節を見ましょう。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」。私たちがイエス・キリストを自らの救い主と信じ、主と共にあるならば、光のうちを歩むことができるのです。落ち込んだり、悲しんだり、嘆いたりしなくて、喜びの中を歩むことができるのです。そして、最終的な到達点は天の御国です。本当に素晴らしい恵みですね。

 皆さんもご存じのように、北海道の三橋萬利(みつはし みつとし)牧師のことが思い浮かびました。三橋牧師は生まれたときから身体に障害のある方でした。脳性麻痺に冒され、両足はまったく機能を失い、歩くのはもちろんのこと、立つことすらできません。右手は全然動かず、左手が少々きくだけの状態でした。そのため、三橋さんは小さい時から「自分は何の役にも立たない暗やみの人間だ」と思い込んで生きて来られたそうです。著書「北国に駆ける愛」の中で、「人間にとって自分の存在になんの価値も意義も見出せないことほど悲しく、辛いことはありません。この悲しさとつらさは、私がイエス・キリストに出会う時まで続きました。」と書かれています。三橋牧師は長い間まったく光のない、孤独で、暗やみの中にいる思いで過ごしてこられました。

 三橋牧師が友人の紹介で聖書を読むようになり、教会に集うようになりました。三橋さんは聖書から本当の神様がおられることを確信し、自分のような不自由な身体を持った人間でも、他の人々と何ら変わらない一人の人間であるという自己の尊厳を持つようになられました。

 以下、著書に、こう記しておられます。

世間一般では、人の値打ちをその人の能力、学歴、財力、社会的地位などによって判断するのが普通です。だからこそ私のような境遇にある者は、いつもセルフイメージを低くしてしまうのです。それまでは「私は何の役にも立たない者だと思っていました。しかし聖書には、「天と地を創造した」神が「人をご自身のかたちに創造され…‥神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」とあります。人間を差別せずに男と女とをお造り下さったのです。男と女とを同じ人間としてお造り下さった神の前に、私も一人の人間だということが判った時、私も他の人々とまったく同じ者であることを知ったのです。」

それから彼の人生は暗やみから光の中に移され、生きる喜びが与えられ、神様の恵みを伝える人に変えられたのです。 皆さん、どんな環境の中にあっても、三橋さんのように、いつも主イエス様を見上げ、与えられた人生を感謝しつつ、歩んでまいりましょう。(牧師:北林行雄記)

天地創造の第一日目 創世記1:1~5

私たち人間世界において、歴史上、世界最初の人はどのように誕生したのでしょうか?また、地球上にはいろいろな種類の動物が生息していますが、その最初の動物たち、たとえば、最初の象や猿、ウサギ、犬や猫はいつ、どのように誕生したのでしょうか?さらに、宇宙にある沢山の星や太陽や月はどのようにできたのでしょうか?

 この質問に対する聖書の回答は、「はじめに神は天と地を創造された。」(創世記1:1)です。最初の地の状態は茫漠として何もない。つまり、広くて、とりとめもない状態でした。しかも、闇が大水の上にあり、神の霊が水の面を動いていました。

 そこに、全知全能の神の一声、「光よ、あれが発せられました。すると、神の仰せの通り、光が現れた。この光は太陽や月の光ではありません。太陽や月は天地創造の第四日目に出来上がるもので、天地創造の初日にはありませんでした。

 4節を見ると、「神は光を良しと見られた」とあります。私たちは光と言うと、太陽の光や蛍光灯やライトを連想しますが、今日の聖書箇所から判ることは光そのものが神の創造の業であることです。全知全能の神で、創造主なる神にしかできないことです。

 コリント人への手紙第二4章6節の御ことばを開きましょう。

「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。

天地万物の創造主である神が私たち人間の心を照らされる知識の光とは何でしょうか? それは、私たち自身が “神を知り、キリストを知るため知識の光”です。

 私たちは夜、テレビを見ていると、突然、電気が切れてしまった。発電所の異常で地域全体が真っ暗になった時、どうしますか?そのとき、懐中電灯が役に立ちます。懐中電灯があれば、暗闇の夜道でも、真っ暗な洞窟の中で光を照らして、ものを見ることができます。

このことから、皆さんは何を連想しますか?本日の聖書箇所は、私たち人間が暗闇の世界の中に置かれても、しっかりと“もの”を見ることができるように、神は光を創造されたということです。この光は“神を知り、キリストを知るため知識の光”です。

今日の世界情勢はいつ核戦争が勃発するかわからない危機の中にあります。ロシアがウクライナ侵攻してからもうすぐ1年になります。早く戦争が終わって欲しいと願いますが、逆に拡大しています。そのほか、中国や北朝鮮の動きが心配です。

しかし、このような不安な社会の中にあっても、いつも、どこにいても主イエス・キリストと共にあるならば、皆さんは平安に生きることができます。

私たちが神を「天と地を造られた方」と憶えることは、神の被造物である私たちをへりくだらせるものです。使徒ヨハネが見た天国においても、24人の長老たちは御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。「主よ、わたしたちの神よ。あなたこそ、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたは万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」(黙示録4:10~11)。

皆さんの信仰が一層成長すれば、イエス・キリストに似た人格に変えられ、謙遜な人になり、神からも人からも愛される人になるのです。このことを目標に頑張っていきましょう。

 

最後に、皆さんに一冊の小冊子を紹介いたします。この冊子は私が日立にいたころからの知り合いで、50年間の親交がある宇佐神 正海先生です。耳鼻科のお医者さんです。聖書と科学社(genesis Japan)を設立され、各地で講演されている方です。

この先生は高校時代から進化論をしっかり学ばれ、進化論の塊のような方でした。ところが、双子の弟さん(元大学教授)がクリスチャンになられたことから、聖書の学びもされました。以下小冊子から抜粋。

医師になるために進学した東北大学でも進化論の資料を調べましたが、やはり、進化論が正しいという絶対的な証拠は、どこにも見つけることができませんでした。そこで、これまでは「すべてが進化した」というメガネで物事を見ていたが、今度は「すべてが創造主によって造られた」というメガネで見ると、聖書と科学的真理は矛盾しないが見えてきました。自分の罪に気づき、不安で三日三晩、眠ることもできませんでした。すると弟は「今まで創造主に背を向けていた罪を告白して、イエス・キリストが自分の罪の身代わりに罰を受けてくだったことを、感謝して受け入れればいいんだよ」と、言いました。そこで私は弟と一緒に祈り、イエス・キリストを自分の救い主と信じ受け入れたのです。」

素晴らしい小冊子です。この冊子に添えられていたレターに、「自分は90歳になりました。天国で会いましょう。」と書かれていました。

この冊子は敬愛する宇佐神正海先生から私への遺言と思っています。

皆さんが祈っておられるお母さんや御主人の救い、また、友人や知人の救いのためにこの小冊子を利用されることをお勧めします。

           (牧師:北林行雄記)