奴隷でなく愛する兄弟として ピレモンへの手紙8~16節

ピレモンはかなり裕福な人で、何人かの奴隷を持っていました。その奴隷のひとりがオネシモでした。彼は主人ピレモンの家の物を盗んで、逃亡し、捕らえられて、パウロのいる監獄に入れられたのです。その獄中でオネシモはパウロによって伝道され、罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主として信じました。

 使徒パウロはピレモンの恩人であり、彼を信仰に導いた良き師(先生)でした。パウロがピレモン一家に福音宣教した後、ピレモンは家庭を開放して、家族やピレモンの使用人たちを集めて家の教会を建て上げて、そこで礼拝をしていたと思われます。 パウロはそのオネシモの件でピレモンに懇願したのです。しかも、実は愛ゆえの懇願でした(9節)。

愛ゆえの懇願第一:ピレモンに対して、回心したオネシモ引き取りの依頼

彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、彼はあなたにとっても私にとっても役に立つ者になっています。」(11節)。オネシモという名前は「役に立つ者」という意味なのですが、以前の彼は、主人であるピレモンに不義を働き、全く役に立たない人物だったのです。しかし、その後、オネシモは悔い改めて信仰を持つことによって大きく変えられ、今は本当に役に立つ者となったとパウロは証言しています。

 

このオネシモをパウロは自分の下に留めておき、獄中にいる間、福音のために仕えてもらいたいと思いました。しかし、パウロはオネシモの主人であったピレモンが自分の弟子であっても、ピレモンの同意なしでは何も行いたくなかったのです。その理由はピレモンの親切はあくまでも自発的なものでなければならないと考えたからです。パウロの温かい愛の配慮であり、パウロ自身もピレモンの愛の応答(すなわち、オネシモを受け入れること)を期待しました。

親切は強いられてするものではありません。喜んで、積極的にするものでなければ、親切にしていただいても、あまり嬉しくありません。皆さんはどうですか?また、自分が誉められたいから他人に親切をするのでもありません。親切は心から相手の人のことを思って行うものなのです。いやいやながら、強いられてするものではないのです。

私は12年間、民生委員・児童委員をしてきました。その間、助けを必要としている人々の家を訪問し、その人たちが必要としているケアをさせてもらいました。例えば、社会福祉協議会から費用の援助をいただいて、ひとり暮らしの高齢者や障害者の方々、高齢者夫婦には、定期的にお弁当を届けました。この事業は事前に、地域のコミュニテイ・センター事務局から連絡してありました。それゆえ、連絡を受けた人々は心待ちにしていたお弁当が届き、大変喜んで受け取ってくれました。そのとき、この方々と会話をしながら、生活の状況や健康状況を確認しました。このときの高齢者の方々の嬉しそうな顔は今も心に残っています。自分が覚えられ愛されていると思うとそれが本当に表情に表れるのです。

高齢の皆さんの笑顔によって私も大いに励まされました。民生委員はあくまでもボランテイア活動で、仕事のように給料を一切もらいません。しかし、このような高齢者の方々の笑顔によって多忙な日々の疲れも癒され、新たな力が心の内から湧いてきました。本当に感謝なことでした。これは喜んで親切をすることによって与えられる神の恵みでした。

愛ゆえの懇願第二 愛する兄弟としてのオネシモ受け入れ

もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟としてです。特に私にとって愛する兄弟ですが、あなたにとっては、肉においても主にあっても、なおのことそうではありませんか。」(16節)

このときのピレモンの気持ちを考えてみましょう。パウロ先生が言われることを尊重しなければなりませんが、これまで自分の奴隷であり、しかも、自分の持ち物を盗んで逃亡して牢獄にいたオネシモを単に迎え入れるだけでなく、愛する兄弟として受け入れる?「ええっ?」っとピレモンさんは大きな戸惑いを感じたのではないでしょうか。「ダメ、ダメ、いくらパウロ先生でもダメ。」ではないでしょうか? 私だったら、きっと戸惑うだろうと思います。

しかし、落ち着いて考えてみると、あの放蕩息子を迎え入れた父親の姿が浮かんできました。父親の財産の分け前をもらって、遠方にでかけ、そこで放蕩し、その財産を湯水のように使ってしまい落ちぶれてしまった。八方ふさがりのその時、われに返り、父親のことが想い出され、父の身元に帰ってきました。その放蕩息子を喜んで迎え入れた父の姿は慈悲深い神だからです。私たち生まれながら罪を持った者を救うために、主イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださった愛、最高の愛、神の愛です。この愛があれば、人間的に見て、不可能と思えることも可能になってくるのです。最終的にピレモンはオネシモを愛する兄弟として喜んで受け入れたものと思います。21節を見てください。「私はあなたの従順を確信して書いています。私が言う以上のことまであなたはして下さると分かっています。」とあります。

まとめ 今日の学びの中から、私たちは何を学ぶでしょうか?

クリスチャンの交わりは素晴らしいものです。主人の物を盗んで逃亡し、逮捕されて監獄に入れられたオネシモでさえも使徒パウロの導きでイエス・キリストにある信仰を持ちました。そのオネシモをもと主人であったピレモンが信仰により今度は兄弟として受け入れました。

皆さん!私たちも日々回心し、喜んで信仰の証をして、身の回りにいる大切な人を是非、教会に導き、その方々の救いのために祈りましょう。新会堂に満ち溢れるほど多くの方々があつまり、リバイバルが起きて、救われる人が沢山与えられるように日々の信仰の証と主イエスにあって、人々の救いのために祈りに一層励みましょう。皆様の上に主の豊かな祝福がありますように!                (牧師:北林行雄記)

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