ナアマン将軍の癒し (列王記第二5章1~27節)

 ゴールデンウイークが始まりました。今年は沢山の人たちが海外や国内各地へ旅行されると報道されています。皆さんはどこかにお出掛けでしょうか?それでは、司会者にお読みいただいた聖書の箇所からメッセージをさせていただきます。 

 ナアマン将軍はかってアラムの国との戦いで大勝利をおさめた功績により、主君から重んじられ、尊敬されておりました。ただし、彼は偉大な勇士でしたが、ツアラアト(らい病)に冒されておりました。 ナアマンの家において、彼のツアラアトが何とか癒されて欲しいということが最大の願いであったと思われます。その証拠がナアマンの妻に仕える若い娘が「サマリヤにいるエリシャという預言者がきっとナアマン将軍のツアラアトを治してくださるだろう。」と伝えると、直ぐに、ナアマン将軍は自分の主君の許可を得て、出発しました。しかも、彼は銀10タラント(340キログラム)、金6000シェケル(68.4キログラム)と晴れ着2枚を持って出かけました。非常に高価なお土産を持参して出かけたのです。 早く治りたいと大きな期待と豪華な手土産を持って、ナアマン将軍はイスラエルの預言者エリシャの家の入り口に立つと、エリシャは彼の使者を遣わして言った。「ヨルダン川へ行って、7回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元通りなって、清くなります。」。

ナアマンはこれを聞いて激怒し、一度帰途につきますが、彼のしもべの忠告を受け入れ、ヨルダン川へ行って、7回身を浸しました。すると、彼のからだは元通りに癒されて、幼子のからだのようにきよくなったのです。

 さて、現代の科学技術が進んだ社会にいて、皆さんはこの奇跡をすんなりと受け入れ、理解することができるでしょうか?この出来事は信仰に拠らなければ理解できません。15節と16節のナアマン将軍と神の人(エリシャ)の会話に注目してください。「私は今、イスラエルのほか、全世界どこにも神はおられないことを知りました。」(ナアマン)、「私が仕えているは生きておられます。」(エリシャ)。
 ナアマン将軍は本当の神を知ったこと、その神は生きている方であるということです。皆さん、私たちが信じているお方は全地全能の神であり、今も生きている方です。そのことを、あらためて私たちも固く信じ、しっかりと理解することが必要です。

「神が生きておられる」ということは、

第一に、神は本当に力のある方です。神は無から有を作り出すことのできる方であり、どんな困難な問題も必ず解決できる方であるということです。

第二に、神は私たち人間の本当の気持ちを理解し、私たちの必要をすべて判って下さる方です。

第三に、神は私たちの真剣な祈り、心からの祈りを真にお答えくださるお方です。

 20節から27節までに、エリシャの従者ゲハジのことが書かれています。ゲハジはエリシャがナアマン将軍が彼に渡そうとした感謝の贈り物を一切受け取らなったのを見て、それがもったいなく思い、それを自分の手に入れようとしました。彼はナアマン将軍から銀2タラントと晴れ着着を受け取って、家の中にしまい込んでしまいました。

家に帰って、主人エリシャの前に立つと、エリシャから「どこに行って来たか?」と聞かれると、彼はどこにも行かなかったようにうそぶいても、エリシャの眼にはすべてがお見通しでありました。その結果として、ナアマンのツアラアトがゲハジに乗り移ってしまったのです。ゲハジは自分の貪欲の心に支配されて、大きな罪を犯して、裁かれたのです。

 程度の差があれ、私たち人間はゲハジのような罪を犯してしまうかもしれません。皆さんはどうですか?このような誘惑が襲ったときは、立ち止まって神様の導きを求めて、主イエスの御名を通して祈るべきです。そうすれば、正しい判断が与えられ、間違った道に進むことがありません。

 以上をまとめますと、

  • 私たちが信じているお方は全地全能の神であり、今も生きている方です。そのことを、あらためて私たちも固く信じ、しっかりと理解することが必要です。
  • 私たち人間はゲハジのような罪を犯す誘惑に直面することがあります。そのときは、立ち止まって神様の導きを求めて、主イエスの御名をよって、祈るべきです。そうすれば、正しい判断が与えられ、間違った道に進むことがありません。 

                    (牧師:北林行雄記)

放蕩息子のたとえ ルカの福音書15:11~32

 今朝の聖書箇所は私がイエス・キリストを自らの救い主として信じる決断に導かれた記念すべき箇所です。21歳のころ、私は仲の良い友だち4~5人と下宿で、毎日夜遅くまで、たわいもないことを語りながら、楽しく日々を過ごしておりました。その会話はもちろん、勉強の話ではありません。工学部で、仲間全員が男ですから、皆の話題は、各自の人生観や女性の話題などでした。楽しく、遊び惚けていた時代でした。(このように彼らは何でも話し合える良い仲間で、いつまでも親しく、今も交流があります。)

 ある時、友達の一人が、皆の前で「北林は真面目だし、これから大学院に進むかもしれない。自分らと遊んでばかりいたらダメだ。」と言い、皆が賛同して、私だけ戦列をはずれるようになりました。

 そこで、私は勉強に集中することにしました。先ず、英会話を学ぼうと考え、先日、皆さんにお話したようにカナダの宣教師宅を訪問しました。そこで、宣教師が奉仕されるキリスト教会を紹介され、毎週、礼拝に出席するようになりました。それで、勉強ではなく、今度は聖書を学ぶことに熱中するようになってしまいました。毎日、時間があれば、ひたすら、聖書を読んでいました。

 春の特別伝道集会でルカの福音書から「放蕩息子のたとえ」の説教を聞きました。この箇所から示されて、私は自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主として信じる決心をいたしました。

ルカの福音書15章に“放蕩息子のたとえ”があります。弟息子は父親の財産の分け前をもらって遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を使い果たし、食べるにも困ってしまった。そして、豚の食べるイナゴマメで腹を満たしたいほどになった。これを聞いた時、私の心に次の質問が浮かんできました。もしこれが財産でなく、自分のいのちであったらどうだろうか?若いと言って何でもやりたい放題に、自己中心の生き方をし、与えられた大切ないのちを台無しにしてしまったらどうなるか。最終的に裁きを受けるだけだ。仏教で言う地獄行きである。すべての人間は放蕩息子のように父なる神から離れ、失われた存在であると聖書に書かれてあります。

何故そのような状態になったのでしょうか?それは人類の最初の人、アダムとエバが、サタンに誘惑されて、神から禁じられたことをしてしまったためです。それで、神との正しい関係が崩れ、人間の自由意志に従って行動するようになったのです。だから、私たち人間は、程度の差はあっても、皆、罪人です。

放蕩息子は落ちぶれてしまったとき、我に返って父のところに帰ろうと決心しました。そして、立ち上がって自分の父のもとに向かいました。正しく人生の方向転換です。

まだ、家まで遠かったのに、父は彼を見つけ、可愛そうに思い、駆け寄って彼を抱き、口付けし、彼を喜んで迎え入れてくれました。放蕩をして、財産を使い果たした哀れな息子を怒鳴り散らすのではなく、駆け寄って彼の首を抱き、口づけし、大歓迎したとあります。この父親が父なる神のことです。神は愛です。心から罪を悔い改めたら真の救いに導かれるのです。

 それでは、聖であり義である父なる神が、悔い改めたからと言って、放蕩息子のような罪ある人間を受け入れてくださったのでしょうか?その答えは、特別な神の愛の業から判ります。それは、イエス・キリストの十字架の贖いです。

 ヨハネの福音書3章16節をお読みします。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 

父なる神は、私たち人間を救うために、御子イエス・キリストを十字架におかけになって、殺されたのです。なぜそのようなむごいことをされたのでしょうか?その理由は、人間の罪を贖う、つまり、“罪のつぐないをする”ことができるのは、罪の全くない方、イエス・キリスト以外に誰もできないことだからです。 イエス・キリストは私たち人間の代わりに罪の裁きを受けて下さり、十字架にかかって死んで3日目によみがえられました。それによって私たち人間の罪の問題を解決する道が準備されたのです。

 それゆえ誰でも心から罪を悔い改め、イエス。キリストを自らの救い主として信じるなら、救われて、永遠のいのちを得ることができるのです。 罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリストにある永遠のいのちです。                     (ローマ人への手紙6:23)

 それにしても、父が最愛の長男を十字架にかけることは本当につらい、苦渋の選択であったと思います。子供が苦しむ姿を見ることは耐え難いものです。

 しかし、このような痛みがあるにもかかわらず、父なる神はキリストの十字架刑を承認なさったのです。それはひとえに、私たち人間を救うためでした。神はご自分が犠牲を払ってまで、罪人を救おうとされた愛の方です。

 神は愛です。生まれながら、罪を持った人間を救うために、イエス・キリストの十字架という大きな犠牲を払ってまで、皆さん一人ひとりを愛して下さる方です。その神が望んでおられるのは皆さんが、罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じて永遠のいのちを持つようになることです。是非、神の深い、大きな愛に応答してください。(牧師:北林行雄記)

この岩の上に マタイの福音書16:15~18

  本日は富山聖書教会の創立記念礼拝です。今から28年前の1995年4月16日(日)に最初の礼拝を私の自宅で持ちました。私たち夫婦と仲井さん親子だけの参加でしたが、喜びと感謝に満たされて、教会の開拓をスタートしました。

私たちの教会は全国的に見ると非常に福音宣教の難しい所と言われるこの地で、ただひたすら主なる神様の召命に従うことによって始まった教会です。

私はカナダのバンクーバーにあるNorthwest Baptist theological Seminary (神学校)の神学修士課程を卒業しましたので、ここ富山県に帰っても、幸いにカナダの宣教師とのパイプがありました。それを通じて福井県にその時おられたダビデ・マーチン宣教師と知り合いになることができました。マーチン宣教師にお会いすると、早速、日本同盟基督教団を紹介されました。その後、教団主催の松原湖研修会などに参加させてもらい、教団に関する学びや日本における教会の実情等をリサーチし、1996年3月の日本同盟基督教団総会に出席して、教団の新任教師たちの就任式が行われ、同時に富山聖書教会と北林行雄牧師の日本同盟基督教団への加入も承認されて今日に至っています。

 私が教会をスタートするにあたり、教会形成の理念として「未伝地域に福音を伝える」をモットーにし、聖書に根差した「キリストのからだを形成する」を目標に掲げて、伝道、牧会を進めてまいりました。

 本日は創立記念礼拝に当たり、「この岩の上に」と題して聖書のマタイの福音書からメッセージをさせていただきます。

イエス様はピリポ・カイザリヤ地方に行かれ、弟子たちに「人々は私のことを誰だと言っているか」と尋ねられました。彼らは「バプテスマのヨハネ、エリヤ、またエレミヤだと言っています」と答えると、弟子たちに向かってイエス様は「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか。」と質問されました。すると、弟子の筆頭であるペテロが「あなたは生ける神の子キリストです。」と答えました。この地ピリポ・カイザリヤには沢山の偶像があったのを見て、それと比較して、ペテロがイエス様は本当に生きておられる神の御子キリストであると確信をもってこのように答えたのです。するとイエス様から非常に重要な意味を持った次のような御ことばが返ってきました。

あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、私の教会を建てます。」と言われました。これはどういう意味でしょうか。皆さん判りますか?エペソ人の手紙2章20~21節の御ことばをお読みします。「使徒たちや預言者たちと言う土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。このキリストにあって、建物の全体が組合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。」

イエス様はペテロを筆頭として、弟子たちの信仰が豊かに成長し、彼らの信仰を土台として開拓中の教会の基礎が築きあげられ、それが全世界に波及していくのを切望されたのではないでしょうか。

 私たちの富山聖書教会も、しっかりとした堅い岩(イエス・キリスト)の上に建てられ、イエスは父なる神の御子であり、私たちの救い主であると言う信仰に立って歩んでいる教会であることを再確認しましょう

特に、私たちの教会の建物はしっかりした岩盤の土地に立っているのです。建築会社の社長さんがそうコメントしておられました。感謝です。皆さんの信仰もますます堅固なものとなりますようお祈りいたします。

 また聖書にはこう書かれています。「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」(Iコリント12:27)

 身体には多くの器官がありますが、それぞれが大切な働きをしています。どれも欠かすことのできないものです。同様に、教会員の皆さんひとりひとりも大切なメンバーです。各自が主から与えられた賜物を用いて、全体の調和を保ちながら、教会の奉仕を自分でできるところから積極的に進めていただきたいと思います。

これからも、皆さんが一層信仰の一致を保ち、互いに仕え合って、主イエス様の身体なる教会を建て上げてまいりましょう。

 私たちの教会は2年後の2025年には教会創立30周年を迎えます。

昨年、新会堂が与えられ、自由に教会活動が行えるようになりました。このような整った環境の下で福音宣教の働きに励んでまいりたいと思います。

教会員皆さんの霊的な理解力が増し加えられ、グループ研究や更なる祈り会が増し加えられ、大きな成長につながりますようにお祈りしております。   教会創立記念日を覚えて———-(牧師:北林行雄記)

救い主イエスの十字架刑 マタイの福音書27:33~54

今週は受難週で、金曜日にイエス・キリストは十字架にかかられました。十字架刑は両手、両足を十字架に釘で打ち付けられ、激しい痛みで苦しみながら、体力も気力も衰えて、疲れ果てて死んでいく、恐ろしい刑罰です。

 ゴルゴダの丘に3本の十字架が立てられました。中央に主イエスの十字架が立てられ、両サイドに二人の強盗の十字架が立てられました。さらに、兵士たちは「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれ罪状書きを主イエスの頭の上に掲げました。 十字架に磔(はりつけ)にされた主イエスの姿を見た人達は主イエスを罵(ののし)りました。39節から44節に三種類の人たちの罵りのことばが記載されています。先ず、通り過がりの人たちは、頭をふりながら主イエスを罵り、「神殿を壊して三日で建てる人よ。もしお前が神の子なら、自分を救って見ろ。そして、十字架から降りて来い」と言いました。主イエスは神の子で、罪のない方です。それゆえ、自分を救う必要がありません。それなのに、十字架にかかられるということは別の目的があるからです。

 また、祭司長や律法学者、長老たちは次のように嘲(あざけ)りました。「他人は救ったが自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。彼は神に拠り頼んでいる。神のお気にいりなら、今、救い出してもらえ、「わたしは神の子だ」と言っているのだから。」

主イエスが十字架にかかられたのは何のためですか?

私たち人間を救うためです。主イエスは罪のない正しい方であるのに、私たち人間を罪の裁きから救うために十字架にかかられたのです。それゆえ、もし、主イエスが十字架から降りて来られたら、私たち人間の救済の道が全く閉ざされてしまう結果になるのです。

一緒に十字架につけられた強盗たちも同じように主イエスをののしりました。 正午、12時から午後3時ごろまで、闇が全地をおおい、暗くなりました。3時ごろ、主イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。エリはヘブル語で「わが神」という意味で、サバクタニはアラム語で「どうして、私をお見捨てになったのですか?」の意味です。 実は、イエス・キリストの十字架刑は紀元前約700年前に預言者イザヤを通して預言されていたのです。それではイザヤ書53章10節を開いてみましょう。そこにこのように書かれています。「彼を砕いて病を負わせることは、主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償の捧げものとするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころが彼によって成し遂げられる。」とあります。“自分のいのちを代償とする”は十字架刑を示しています。また、”末長く子孫を見る“の子孫は信仰者たちのことです。

父なる神は、我が子イエスを十字架にかけることまでして、私たち人間が救われる道を備えてくださったのです。神は愛です私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、ささげ物としての御子(イエス・キリスト)を遣わされました。ここに愛があるのです。(ヨハネの手紙第一 4:10) 父なる神が大きな犠牲を払ってまで、人間を救おうとされたこと。これが、キリスト教は神の痛みの神学といわれる所以です。

主イエスが「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた声を聞いていた人たちの何人かが預言者エリヤを呼んでいるものと思い、待っていてもエリヤは現れません。主イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると、エルサレム神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地が動き、岩が裂け、墓が開いたのです。このことは大変重要な意味があるのです。

エルサレム神殿はイスラエル国民にとって大変重要で、象徴的な神殿です。この神殿はユダヤ人の霊的生活の中心でした。この神殿において動物がいけにえとして奉げられ、モーセの律法に従って礼拝がされていました。神殿では至聖所(地上での神様の臨在があった場所)と他の神殿の部分を幕が隔てていました(ヘブル書9章1-9節)。大祭司のみが一年に一回この幕を通り(出エジプト30章10節;ヘブル9章7節)、神様の御前にでて全イスラエルの罪のためにとりなしをする事ができたのです(レビ16章)。

主イエスの十字架での死の瞬間に神殿の幕が裂けたこの出来事は次のことを意味しています。私たちの罪の贖いのためになされた主イエスの犠牲と流された血により、動物のいけにえは必要なくなったのです。私たちはいつでもイエス・キリストの御名を通して、父なる神に祈りを捧げることができるようになったのです。

これらの一部始終を見ていた百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは非常に恐れて、「この方(イエス)は本当に神の子であった。」と言ったのです。彼らは、今ここで、主イエスは神の子であると信じたのです。なんと素晴らしいことではありませんか。

それにしても、神の御子である方が、私たち罪を持った人間を救うために、いのちを捨ててくださった。しかも、十字架刑という恐ろしい処刑にあって死なれたのです。このことは父なる神も承諾された上のことです。私は一人の息子の父です。彼が学校において、激しいいじめに会い、殺されそうになったとき、私も何とか彼を助けたいと涙して祈りました。この苦しみを見るこの時の気持ちを考えると、父なる神の苦しみと私たち人間への測り知れない愛の大きさに本当に驚きます。ことばに言い尽くせぬ感謝で一杯であります。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 (ヨハネの福音書3章16節) 

 皆さん、受難週そして来主日のイースター、あらためて、私たちの救いのために払われた主イエスの十字架、父なる神の愛の大きさを深く味わい、いつも喜んで信仰生活をしっかりと歩みましょう。私は信仰の証とは、聖書の教理をとくとくと語ることではなく、皆さんが毎日喜んで信仰生活を歩んでいる姿が周りの人々の眼に映ることです。楽しいことばかりでなく、悩むこと、苦しいこともあるのは当然です。そのときは祈り、また、聖書の御ことばから力を受けて解決を得ることです。もし、それも難しい時は牧師に相談してください。ふさわしい聖書の箇所を共に学び、共にお祈りしましよう。皆様の上に、全知全能の主なる神の恵みと導きが豊かにありますようお祈りいたします。(牧師:北林行雄記)             

あなたに働かれた神の御わざ マルコの福音書5:26~34

 本日の聖書箇所は12年間も長血を患う女性に対するイエス・キリストの癒しの御業についてのものです。

 長血は婦人特有の、血が流れ出る病気です。旧約聖書のレビ記15章によれば、この病気にかかった女性は、人々から“汚れた者”として見なされることになっておりました。長血の病気にかかった状態で、この女性は12年間も苦しみ、大変な思いをしていたと思います。

 さらに、彼女は多くの医者からひどい目にあわされていました。医者に治療してもらっても、良くなるどころか、病気が悪くなる一方でした。彼女は医療費を払うために、持ち物をすべて使い果たしてしまったのです。このような厳しい状況であったとき、主イエスがこの近くを通られることを耳にしました。そこで、彼女は群衆とともにやって来て、うしろから主イエスの衣に触れました。

 なぜ彼女はこのようなことをしたのでしょうか?彼女は「主イエスの衣にでも触れれば、私は救われる。」と思っていたからです。なお、この考えは当時の民衆の間に出回っていました。マルコの福音書3章10節に次のような記載があります。イエスが多くの人を癒されたので、病気に悩む人たちがみな、イエスに触ろうとして、身元に押し寄せてきたとあります。

また、彼女は自分の病、すなわち、長血を患う女性の気持ちとして、人目につかないように、そっと主のイエスのうしろから主の衣に触れたように思います。

彼女が主イエスの衣に触れた瞬間、彼女の血の源がかれて、ひどい痛みが治ったことを、彼女は身体に感じました。つまり、彼女の身体から出ている血の源、血を発生するところで血が止まり、もうこれ以上出血しなくなったのです。そのため、ひどい痛みも全くしなくなったのです。正しく、主イエスによって完全な癒しの業をこの女性は実体験したのです。

主イエスはこの時、自分の内から力が抜けていくことを感じて、「誰が私の衣に触ったか」と知ろうとされました。大群衆の中、誰が触ったかわかるはずがないと弟子たちが否定的なことを言っても、主イエスは誰が触ったか知ろうとされたのです。

なぜ、主イエスはそこまでして、誰が触ったかを知ろうとされたのでしょうか?

その答えは長血をいやされた女性が恐れおののきながら進み出て、主の前にひれ伏して真実をのべたことに対する主イエスの発言から判ります。主イエスは彼女の肉体的な治療をする医者だけでなく、むしろ、人間の心、魂の医者であります。

イエス様のお言葉

  • あなたの信仰があなたをなおしたのです。

イエスは彼女に向って、「娘よ。」と親しみをもって呼びかけられたのです。主イエスの力が働いて、この女性が癒されたのに、主は「わたしがあなたを癒したのだ。」とは言われなかったのです。それは、主イエスが彼女の信仰に目をとめておられた   からです。

確かに、主イエスの力が働いたのは、彼女が主を心から信頼して、主が必ず自分を癒して下さる方であると信じる心、すなわち、主イエスを信じる信仰があったからです。

  • 安心して行きなさい。

このことばは“シャローム”に基づくものでありますが、単なる別れの挨拶ではなく、主イエスはもっと親身を込めて、「神から与えられる平安を持って生活ができるように!」との彼女に対する祝福のことばです。

  • 病気にかからず、すこやかでいなさい。

これは彼女の身体は完全に癒されたことの保証であり、これから病気のことを心配せずに、前向きに生きるのだよという医者であり、魂の救い主である大牧者、主イエスの願いであったと思います。

 皆さん、この素晴らしいイエス様がいつも共にいてくださることを確信し、感謝をもって、共に日々の生活や仕事を進めてまいりましょう。(牧師:北林行雄記)

愛と信仰による証 テサロニケ第一1:1~8

 テサロニケはギリシャ北部の大都市です。パウロの生きた紀元1世紀には、東西のローマ帝国を結ぶ重要な街道がこの都市を貫通しており、さらに良好な港もあり、重要な商業都市として栄えました。

 使徒パウロがこのテサロニケで伝道を開始しました。ユダヤ人の会堂であるシナゴーグで旧約聖書を開いて福音を語ると、わずか3週間で沢山の人々がイエス・キリストを信じました。 すると、妬みに駆られたユダヤ人たちが教会に集うクリスチャンたちを激しく迫害するようになりました。そのため、パウロはテサロニケ教会の信徒たちを激励訪問したいと思っても、全く不可能のことでした。

 そこで、パウロは弟子のテモテに託して、テサロニケ教会の人達に手紙を書いたのです。そのテサロニケ人への手紙第1章から今朝、学びたいと思います。 先ず、差出人と宛先が書かれ、手紙の本題が始まります。その内容は、パウロがテモテから聞いたテサロニケ教会の人達の様子について彼の心の内を語ったものです。それは以下の3つの点に要約できます。

 

  • 神への感謝

パウロはテサロニケ教会の信徒たちが厳しい迫害を経験し、疲れと苦しみで信仰が弱っているのでないかと心配していたようでした。しかし、弟子のテモテから報告を受けて、彼は安心して励まされ、主なる神に心から感謝を捧げました。テサロニケ教会の信徒たちは迫害の中にあっても信仰が弱ることなく、信仰の働きとそれに伴う愛の労苦、そして彼らが抱いている主イエス・キリストへの望みと忍耐をパウロは思い起こして(3節)、改めて、父なる神の御前に感謝の祈りを捧げたのです。

  • 神に選ばれた民であるとの確信

 パウロはテサロニケ教会の信徒たちは全知全能の神から選ばれた民であると確信しました。その根拠は二つあります。一つは彼らに伝えられた福音は力と聖霊と強い確信によったものであるからです(5節)。単なることばだけのものではないのです。

 実際にテサロニケ教会の人たちは多くの苦難の中でも、聖霊による喜びをもって、神の御ことばを受け入れ、パウロたちと主イエスに習う者となったのです。そして、マケドニアやアカヤとのすべての信者の模範となりました(7節)。

  • 福音宣教の広がりと教会成長

主のことばがテサロニケ教会から出て、マケドニアとアカヤにも響き渡ったことが8節に書かれています。“主のことば”とはここでは、イエス・キリストの福音のことを言っています。この福音がテサロニケ教会からマケドニア地方全体と隣のアカヤ地方にも伝えられて、そこで福音が響き渡るほどに人々に知られるようになっていました。それは教会に集う人たちが恐れることなく、大胆に信仰の証をして、福音を宣べ伝え続けて来た結果です。すごいことですね。また、このことによりテサロニケ教会はますます豊かに成長していきました。

 私たちの富山聖書教会は昨年4月に新会堂の献堂式を行いました。この新会堂一杯に人々が集まるために、信徒の皆さんの“生きた信仰の証し”が重要なのです。牧師の私もこのことを念頭において、教会の皆さんと一緒に前進したいと思っております。宜しくお願いします。

 

 さて、ここでクリスチャン各人の生きた信仰の証が教会成長のキーポイントであることについて、私の体験をから紹介させていただきます。

 私は農家の次男坊です。農家においては、長男は家を継ぐので大事されるけれども、次男はそれほどではなく、教育にしても次男にはお金をかけません。そのため私は小さい時から「自分のことは自分でする」という考えで生きてきました。

 成人式を迎えた頃、まだ学生でしたが、真剣に自分の将来のことを考え、英語の必要性を感じていました。約50年前のことですが、富山県にはあまり外国人がいませんでした。その時、北日本新聞にカナダ人宣教師のことが掲載されていました。父がそれを直ぐに見つけて教えてくれました。気の良い温かい父でした。いつかその外人を訪問したいと思っていましたが、そのまま時が流れていきました。

 大学3年の時、男子生徒4~5人で下宿において深夜まで、連日たわいもないことを話し合っておりました。その時期、私は将来のことを考えているうちに、海外の人との交流の必要が出てくると思って、英会話を習おうと決心しました。そして、20歳のときの新聞記事を思い出し、カナダ人宣教師F.L.ピカリン先生のお宅を訪問しました。

 ピカリン宣教師は喜んで迎えてくださり、家族を紹介され、美味しいカナダ料理を振る舞ってくださいました。緊張しながら、自分流の英語ですが、なんとか通じていました。その後、教会に毎週通って礼拝に出席していましたが、まだ信仰には至っていませんでした。なお、その時紹介されたお子さんは下の二人だけで、あとの二人の娘さんはカナダの大学で学んでいました。

 その1年後、次女のジョイスがカナダから日本に来たので、私に富山を案内して欲しいと依頼されました。外国人は一般に日本の伝統文化に関心があるので、八尾町の“おわら踊り”や曳山、神通峡を紹介し、良い交わりの時を持ちました。そのとき、両親も一緒でした。素晴らしいクリスチャン・ファミリーに出会って、両親はキリスト教に良い印象をもちました。私も同様に、ピカリン先生家族との真実で温かい交わり、主イエス様にある信仰の交わりの素晴らしを実感し、真剣に聖書を学び、教会の主日礼拝を忠実に守りました。そして、信仰に導かれて、洗礼を受けました。 ピカリン宣教師一家は日本語があまり上手ではありませんでしたが、真実で温かい生き方、彼等の信仰の証に私は感動しました。それが私のクリスチャンに対する見方(イメージ)となりました。

テサロニケ教会が成長したのはどこに秘訣があったのでしょうか。それはユダヤ人による激しい迫害の中も、彼らは喜んで人々に信仰の証しをする姿が周りの人々の共感を呼んだのです。

日本語がうまく話せなくとも、ピカリン宣教師は力と聖霊と強い確信をもって活動されていたからだと思います。

また、私は“話べた”で、うまく証できないという方にお伝えします。皆さんが日々イエス・キリストにあって喜んで生きている姿は立派な証であり、伝道なのです。無言の伝道といいましょうか。うそ、偽りのない、真実な歩みを共にしていきましょう。皆様の上に全知全能の主なる神様から豊かな祝福がありますようお祈りしております。

いつも主にあって喜びなさい。(ピリピ人への手紙4:4)(牧師:北林行雄)

すべての人を照らすまことの光 ヨハネの福音書1:6~13

いつまでも止まないロシアのウクライナ侵攻や、強国の核兵器増産計画など、最近の世界情勢は不穏な空気が流れています。このような時こそ、聖書に目をとめ、本当の生きる希望と喜びに満たされたいものです。

 今朝は、私たち人間を照らす真の光、希望の光についてヨハネの福音書1章から学びたいと思います。

 神から遣わされたヨハネとはバプテスマのヨハネのことです。彼はイエス様より半年早く生まれた人ですが、彼は生まれながら特別な使命を神から授かっていました。その使命とはイエス・キリストのことを人々に証する。つまり、イエス様のことを紹介することでした。

イエス・キリストのことをヨハネの福音書1章9節では、「すべての人を照らすまことの光」と紹介しています。暗やみの中に輝く光は本当に貴重です。私たち人間は生まれながら罪人で、最終的に裁かれて、暗い地獄に送られ、そこで、大変な苦しみを味わう身でした。しかし、イエス・キリストは私たちを救いに導き、希望をあたえてくださる真の光です。この方は天地万物の創造者なる神の子で、もとから世におられ、世はこの方によって造られました。

 イエス・キリストは神の約束の民であるユダヤ人の子孫としてお生まれになりました。しかし、ユダヤ人の指導者たちに受け入れられず、十字架にかけられ、処刑されました。そして、3日目に死からよみがえられて、婦人たちや弟子たちの前に姿を現されました。  

 このイエス様を自らの救い主として信じ、受け入れた人々(クリスチャン)は神の子どもとなる特権を与えられるのです。この特権は万物の創造者、主なる神からのプレゼントであり、信仰者に与えられる特別な権利なのです。この権利を得るために、高額なお金も支払うこともなく、労苦して働くことも、必要ないのです。ただ、自らの罪を悔い改めて、イエス・キリストを私の救い主ですと真心から信じ、受け入れることです。

クリスチャンは神の愛と恵みによって新しく生まれた者なのです。

人間は全知全能の神によって造られた者です。創造主なる神が、はじめから人間を神のかたちに創造されたのです。それゆえ、人間は自由意志を持っており、自分で決断して、事を行うことができます。

残念ながら、私たち人間が自分で判断して行ったことが必ずしも正しいとは限りません。最初の人アダムはサタンに誘惑されて罪を犯しました。彼はサタンの誘惑があったとき、神の教えに耳を傾けず、自分の思いを優先して、勝手に行動してしまったからです。

人間は皆、自己中心という罪を持っています。自分が良ければよい。また、他人より少しでも自分が優れたものと思われたい。一方、事業に成功して、豊かな生活をしている人を羨ましく思ったり、人々から人気がある人を妬んだりする性質があります。

小学生の子どもに、「君は友達を羨ましく思って、意地悪したことない?」と聞くと、「あるよ。」と正直に答えます。しかし大人になると、このことがあったとしても、隠して言いません。どうしてでしょうか?彼等のプライドが邪魔するからです。

このような罪深い人間であっても、神の前に悔い改めて、主イエスを信じるなら、罪が赦されるのです。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(コリント人への手紙第二5章17節)

罪を犯したら、小さいうちに解決することです。プライドが邪魔して、隠していると、罪もだんだんと大きくなって、悔い改めが難しくなります。

以上まとめますと、

  • 私たち人間は生まれながら罪を持っているが、罪を悔い改めて、イエスを救い主と信じた者は神の子どもとなる特権が与えられる。
  • この特権を与えられた人たち(クリスチャン)は神によって新しく生まれた者である。
  • 救われた人間であっても、些細なことで罪を犯しやすい性質を持っている。それゆえ、日々悔い改めて、イエス・キリストの内にあって新しくされる必要がある。

      (牧師:北林行雄記)

天地創造の第二日目 創世記1:6~8

天地創造の第一日目に、神のことばによって光が造られたことを先月第一主日に学びました。今朝は、創世記から天地創造の第二日目の出来事について学びます。

天地創造の最初は、ただ大水があって、闇がその上をおおっているだけでした(1章2節)。神は仰せられた。「大空よ。水の真っただ中にあれ、水と水の間を分けるものとなれ。」(6節)

すると、神の仰せによって、大空が水の真っただ中に造られ、大空の下にある水と大空の上にある水に分けられました。その大空を神は天と名づけられました(8節)。

この大空は大きな料理用のボールのように半円状の形をしたものであったと推測されます。天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる (詩篇19篇1節)。そして、大空を天と名づけられて、天地創造の第二日目が終了しました。

続く第3日目には大空の下の水が集められて乾いた所が造られ、神はそれを地と名づけられました。そこに植物が成長するようになり、後に創造される人間や動物が生きていける環境が造られたのです。神の創造の御業は、やり直しや後悔がなく、初めからしっかり計画が立てられて、その通り実施されたものです。全知全能の神の完璧な御業は本当に素晴らしものです。

そこで、今朝は私たち人間や動物たちが住んでいる地球について考えてみたいと思います。地球は太陽系の惑星の一つであり、人類を含む多種多様な生命体が生存する天体です。地球の表面には水を、空気中には酸素を大量に蓄え、多様な生物が生存しています。

地球は太陽の周りを廻り(公転)ながら、地球自身が毎日自転しているのです。地球の直系は1万2700Kmで、円周は約4万Kmですから、それが1日に1回転しています。その回転速度は毎秒462メートル、時速1663キロメートルになり、超、猛スピードです。

それなのに、私たちは地球が廻っていることを全く感じないのは何故でしょうか?それは、私たちの周りにある日常の風景や家の中にあるもの等すべて、空気なども私たちと一緒に動いているからです。これも全知全能の神の御業です。確かに、自然界はすべて神の御わざによるものです。私は自宅の書斎から雪をかぶった立山連峰を眺め、その美しさに感動しながら、創造主なる神の御名をほめ称えています。 

 私たちは職場や日常生活の中で、いろいろな悩みを体験します。私も大企業に勤めて研究の仕事をしていた時、壁にぶち当たったことがあります。そのような時に、気分転換を図るために、休み時間に屋上に上がって眼下に見える自然を鑑賞していました。すると、心も頭もリフレッシュして、新しいアイデアが浮かんできました。

皆さん、行き詰まり、悩みを抱えたときは、是非、神の作品である自然界に眼をとめてください。 そして、自然界を創造された神の愛と恵みに包まれ、新たな勇気を頂いて、前進していただきたいと思います。どんなに厳しい環境に置かれても、主にあって生きるなら、必ず道が開かれます。

  いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願い事を神に知ってもらいなさい。     (ピリピ人への手紙4章4節、6節)

皆様の上に主の恵みと導きがますます豊かにありますようにお祈りします。                        (牧師:北林行雄記)

罪の悔い改めと救い マルコの福音書1:14~15

皆さんの中で、わたしは全く罪のない人間だと言える方、いらっしゃいますか?

この罪は犯罪のことを言っているのではありません。聖書の中で、すべての人は生まれながら罪があると言っています。また、浄土真宗を開いた親鸞聖人は「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」と言いました。この意味は「善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる」です。これは、善を行おうと努力しても、それをしっかりと行うことができない自分がある。たとえば、人に親切にしようとしても、いやなことを相手から言われたら、その人には親切はできない。心の中のこの思いは、すべての人が生まれながら持っている“自己中心”のことです。だれでも、自分が可愛い、ひどい目に会いたくないし、辛い思いもしたくないと、自分のことを中心に考えてしまいますよね。これこそが人間が生まれながら持っている“罪”のことです。

 主イエスはバプテスマのヨハネが捕らえられた後、ガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて、言われました。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。

 ここで、悔い改めるとは、単に、今までの生き方を悔いて、改めるというだけでなく、自分の生き方の方向転換をはかることを意味しています。つまり、ただ自分の思いや考え方に従って生きてきた自分が、神の御心、すなわち、神が私たちに求めておられることを第一に求め、それに忠実に従って生きる生き方に大転換することです。

 今からヤクザであった人が回心して、イエス・キリストを信じ、神学校に行くことになった証を紹介します。

元ヤクザで、神学校に入学することになった兼光伸一さんという方を皆さんは御存じでしょうか?兼光さんは山口組直系暴力団のナンバー3の地位にありました。兼光さんの父親は元ヤクザのとび職であった関係で、彼は将来はヤクザになると決めていました。暴力などトラブルを繰り返しながら18歳で本格的なヤクザになりました。そして、少年鑑別所に3回、少年院に1回、拘置所に7回、刑務所に5回も収容されたそうです。

ところが、そんな彼が韓国ソウル生まれの奥さんと出会ったことから、聖書を手にするようになりました。彼女は小さい時から教会に通っていて、心の中にいつも神様への思いがあったそうです。兼光さんが暴力団抗争における乱闘事件で逮捕され、留置所に入れられたとき、奥さんが弁護士を通じて兼光さんに聖書を差し入れました。しかし、その時、彼は「聖書と無縁」と拒否しました。2度目の差し入れもすぐに宅下げしました。その戻された聖書を受け取った奥さんは残念で、泣き続けました。

しかし、その後、新しい展開が訪れました。兼光さんが別の事件により関西で再逮捕された時、奥さんは1歳の娘を連れて毎日面会に訪れ、「これが最後だから、とりあえず読んでみて」と3回目となる聖書の差し入れをしました。そこで、兼光さんは半信半疑でページを開いた聖書だったが、「最初の1節で本物の神様だと思った」そうです。

進化論を含め、人間がどこから来たのかはっきり分からないのが現状であるのに、聖書は最初から「はじめに、神が天と地を創造された。」(創世記1:1)。と宣言している。もうここに答えが出ていると、鳥肌が立ったそうです。それからは、“真に悔い改めれば、罪が赦される”ことを心に刻み、聖書を真剣に読むようになり、イエス・キリストを自らの救い主と信じ、洗礼を受けられました。

実は、富山聖書教会にも元ヤクザの家族が出席されていたことがあるのです。関東地方の教会の或る牧師から電話があり、「自分の教会員が富山に仕事で引っ越すことになり、教会を探している。男性はヤクザであったけれど、富山聖書教会の礼拝に出席していいでしょうか?」と言われました。

私は即答をさけて、教会の皆さんに話し、十分祈りました。そして、「慎重に対処すれば、主が守ってくださる」と確信が与えられ、その家族を受け入れることになりました。この家族が礼拝に出席されている期間はすごい緊張感がありましたが、元ヤクザの人も静かに礼拝を守ってくださり、何のトラブルもなく、良い交わりを持つことができました。

どんな人であっても、罪を悔い改めて、福音を信じるなら救われるのです。“福音”とは“喜ばしい良い知らせ”の意味で、その内容は、あなたがイエス・キリストを救い主と信じれば、あなたの罪は赦され、永遠のいのちをもつことができるのです。なぜなら、イエス・キリストは私たち人間の罪を負って、十字架にかかって死んでくださいました。この方は神の子で正しいかたであるので、3日目に死から復活されました。キリストの十字架の死は私たち人間の罪を贖うためのものであったのです(贖罪)。それゆえ、イエス・キリストを信じる人は天の御国にて永遠のいのちが約束されているのです。本当に感謝なことです。

あなたの心の中に醜いものはありませんか?

今、世界は混沌としています。そんな中で、ウクライナの戦争犠牲者の方に“今何を望みますか?”とインタビューすると“あなたの国の今の平和を大切にしてください。絶対戦争にならないように祈ります”と言う声が届きました。重く我々の心に届きます。

罪赦され、神を信じている人々は、自らの不幸よりも他者の幸せを願うよう変えられているのです。

あなたも罪を悔い改め、主イエスを信じて100%変えられる人生を歩みましょう。

ぜひ皆さん、イエス・キリストを信じて、永遠のいのちを受けてください。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3:16) (牧師:北林行雄記)

奴隷でなく愛する兄弟として ピレモンへの手紙8~16節

ピレモンはかなり裕福な人で、何人かの奴隷を持っていました。その奴隷のひとりがオネシモでした。彼は主人ピレモンの家の物を盗んで、逃亡し、捕らえられて、パウロのいる監獄に入れられたのです。その獄中でオネシモはパウロによって伝道され、罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主として信じました。

 使徒パウロはピレモンの恩人であり、彼を信仰に導いた良き師(先生)でした。パウロがピレモン一家に福音宣教した後、ピレモンは家庭を開放して、家族やピレモンの使用人たちを集めて家の教会を建て上げて、そこで礼拝をしていたと思われます。 パウロはそのオネシモの件でピレモンに懇願したのです。しかも、実は愛ゆえの懇願でした(9節)。

愛ゆえの懇願第一:ピレモンに対して、回心したオネシモ引き取りの依頼

彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、彼はあなたにとっても私にとっても役に立つ者になっています。」(11節)。オネシモという名前は「役に立つ者」という意味なのですが、以前の彼は、主人であるピレモンに不義を働き、全く役に立たない人物だったのです。しかし、その後、オネシモは悔い改めて信仰を持つことによって大きく変えられ、今は本当に役に立つ者となったとパウロは証言しています。

 

このオネシモをパウロは自分の下に留めておき、獄中にいる間、福音のために仕えてもらいたいと思いました。しかし、パウロはオネシモの主人であったピレモンが自分の弟子であっても、ピレモンの同意なしでは何も行いたくなかったのです。その理由はピレモンの親切はあくまでも自発的なものでなければならないと考えたからです。パウロの温かい愛の配慮であり、パウロ自身もピレモンの愛の応答(すなわち、オネシモを受け入れること)を期待しました。

親切は強いられてするものではありません。喜んで、積極的にするものでなければ、親切にしていただいても、あまり嬉しくありません。皆さんはどうですか?また、自分が誉められたいから他人に親切をするのでもありません。親切は心から相手の人のことを思って行うものなのです。いやいやながら、強いられてするものではないのです。

私は12年間、民生委員・児童委員をしてきました。その間、助けを必要としている人々の家を訪問し、その人たちが必要としているケアをさせてもらいました。例えば、社会福祉協議会から費用の援助をいただいて、ひとり暮らしの高齢者や障害者の方々、高齢者夫婦には、定期的にお弁当を届けました。この事業は事前に、地域のコミュニテイ・センター事務局から連絡してありました。それゆえ、連絡を受けた人々は心待ちにしていたお弁当が届き、大変喜んで受け取ってくれました。そのとき、この方々と会話をしながら、生活の状況や健康状況を確認しました。このときの高齢者の方々の嬉しそうな顔は今も心に残っています。自分が覚えられ愛されていると思うとそれが本当に表情に表れるのです。

高齢の皆さんの笑顔によって私も大いに励まされました。民生委員はあくまでもボランテイア活動で、仕事のように給料を一切もらいません。しかし、このような高齢者の方々の笑顔によって多忙な日々の疲れも癒され、新たな力が心の内から湧いてきました。本当に感謝なことでした。これは喜んで親切をすることによって与えられる神の恵みでした。

愛ゆえの懇願第二 愛する兄弟としてのオネシモ受け入れ

もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟としてです。特に私にとって愛する兄弟ですが、あなたにとっては、肉においても主にあっても、なおのことそうではありませんか。」(16節)

このときのピレモンの気持ちを考えてみましょう。パウロ先生が言われることを尊重しなければなりませんが、これまで自分の奴隷であり、しかも、自分の持ち物を盗んで逃亡して牢獄にいたオネシモを単に迎え入れるだけでなく、愛する兄弟として受け入れる?「ええっ?」っとピレモンさんは大きな戸惑いを感じたのではないでしょうか。「ダメ、ダメ、いくらパウロ先生でもダメ。」ではないでしょうか? 私だったら、きっと戸惑うだろうと思います。

しかし、落ち着いて考えてみると、あの放蕩息子を迎え入れた父親の姿が浮かんできました。父親の財産の分け前をもらって、遠方にでかけ、そこで放蕩し、その財産を湯水のように使ってしまい落ちぶれてしまった。八方ふさがりのその時、われに返り、父親のことが想い出され、父の身元に帰ってきました。その放蕩息子を喜んで迎え入れた父の姿は慈悲深い神だからです。私たち生まれながら罪を持った者を救うために、主イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださった愛、最高の愛、神の愛です。この愛があれば、人間的に見て、不可能と思えることも可能になってくるのです。最終的にピレモンはオネシモを愛する兄弟として喜んで受け入れたものと思います。21節を見てください。「私はあなたの従順を確信して書いています。私が言う以上のことまであなたはして下さると分かっています。」とあります。

まとめ 今日の学びの中から、私たちは何を学ぶでしょうか?

クリスチャンの交わりは素晴らしいものです。主人の物を盗んで逃亡し、逮捕されて監獄に入れられたオネシモでさえも使徒パウロの導きでイエス・キリストにある信仰を持ちました。そのオネシモをもと主人であったピレモンが信仰により今度は兄弟として受け入れました。

皆さん!私たちも日々回心し、喜んで信仰の証をして、身の回りにいる大切な人を是非、教会に導き、その方々の救いのために祈りましょう。新会堂に満ち溢れるほど多くの方々があつまり、リバイバルが起きて、救われる人が沢山与えられるように日々の信仰の証と主イエスにあって、人々の救いのために祈りに一層励みましょう。皆様の上に主の豊かな祝福がありますように!                (牧師:北林行雄記)