ことばは神と共にあった ヨハネの福音書1:1~5

 本日からヨハネの福音書の学びを毎月開始します。この福音書はイエス・キリストの12弟子のひとりであるヨハネによって書かれたものです。ヨハネは“雷の子”と呼ばれるほど、気性の激しい人でした。彼はペテロと共にエルサレム教会の指導者のひとりとなりましたが、晩年は迫害により捕らえられ、パトモス島に島流しになりました。ヨハネの黙示録はそこで執筆されたものです。また、ヨハネの福音書は彼が90歳近くになったときに執筆されたと言われています。その頃はすでにマタイ、マルコ、ルカの三福音書は出来あがっていたと思われます。そこで、ヨハネは他の3つの福音書にはない出来事や主イエスのことばなどを多く記載しました。

 「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(1節)。

皆さん、この“ことば”は何を指しているか、直ぐに判られるでしょうか? この“ことば”はイエス・キリストを指しているのです。ヨハネの福音書にはイエス様の御降誕の記事はありません。この福音書においては、イエス様は初めから万物の創造主なる神と共におられた方であり、万物の創造の御業にも参画された方であると述べられています(3節)。 

原語の聖書では、この“ことば”とはギリシャ語のロゴスです。ロゴスは「知恵、英知」と訳され、重い“真理のことば”をさします。それゆえ、イエス・キリストのことばは真理であり、神のことばです。

 「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」(4節)。神の“ことば”によって人間のうちに注ぎ込まれたこの“いのち”は単に肉体的、動物的ないのちではなく、人間として生きる人格的、霊的な機能を生み出す(源泉となる)いのちを意味します。神を礼拝し、神と交わることのできるいのちです。何と素晴らしいことでしょう!

 人の光となるいのちとは何のことでしょうか?このいのちは「主イエスを信じる者に与えられる永遠のいのちのことであり、肉体が死んでも生きるいのちです。」つまり、ヨハネの福音書11章25節にある「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」に示された“いのち”、すなわち、イエス様が復活されたように、信じる者も肉体が滅んでも、霊的に、永遠に生かされるのです。

 “光”とは、詩篇36篇9節「いのちの泉はあなたとともにあり、あなたの光のうちに、わたしたちは光を見るからです。」とあります。つまり、イエス・キリストにある光のことです。私たち人間は皆、生まれながら原罪をもっています。罪ある世界は神の眼から見たら暗闇の世界です。罪ある人間は死後、裁かれなくてはなりません。真っ暗やみの中を夜、歩くと怖いですね。光が必要です。主イエスと共にあるなら、闇の中を歩まなくていいのです。

 ヨハネ福音書1章5節を見ましょう。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」。私たちがイエス・キリストを自らの救い主と信じ、主と共にあるならば、光のうちを歩むことができるのです。落ち込んだり、悲しんだり、嘆いたりしなくて、喜びの中を歩むことができるのです。そして、最終的な到達点は天の御国です。本当に素晴らしい恵みですね。

 皆さんもご存じのように、北海道の三橋萬利(みつはし みつとし)牧師のことが思い浮かびました。三橋牧師は生まれたときから身体に障害のある方でした。脳性麻痺に冒され、両足はまったく機能を失い、歩くのはもちろんのこと、立つことすらできません。右手は全然動かず、左手が少々きくだけの状態でした。そのため、三橋さんは小さい時から「自分は何の役にも立たない暗やみの人間だ」と思い込んで生きて来られたそうです。著書「北国に駆ける愛」の中で、「人間にとって自分の存在になんの価値も意義も見出せないことほど悲しく、辛いことはありません。この悲しさとつらさは、私がイエス・キリストに出会う時まで続きました。」と書かれています。三橋牧師は長い間まったく光のない、孤独で、暗やみの中にいる思いで過ごしてこられました。

 三橋牧師が友人の紹介で聖書を読むようになり、教会に集うようになりました。三橋さんは聖書から本当の神様がおられることを確信し、自分のような不自由な身体を持った人間でも、他の人々と何ら変わらない一人の人間であるという自己の尊厳を持つようになられました。

 以下、著書に、こう記しておられます。

世間一般では、人の値打ちをその人の能力、学歴、財力、社会的地位などによって判断するのが普通です。だからこそ私のような境遇にある者は、いつもセルフイメージを低くしてしまうのです。それまでは「私は何の役にも立たない者だと思っていました。しかし聖書には、「天と地を創造した」神が「人をご自身のかたちに創造され…‥神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」とあります。人間を差別せずに男と女とをお造り下さったのです。男と女とを同じ人間としてお造り下さった神の前に、私も一人の人間だということが判った時、私も他の人々とまったく同じ者であることを知ったのです。」

それから彼の人生は暗やみから光の中に移され、生きる喜びが与えられ、神様の恵みを伝える人に変えられたのです。 皆さん、どんな環境の中にあっても、三橋さんのように、いつも主イエス様を見上げ、与えられた人生を感謝しつつ、歩んでまいりましょう。(牧師:北林行雄記)

天地創造の第一日目 創世記1:1~5

私たち人間世界において、歴史上、世界最初の人はどのように誕生したのでしょうか?また、地球上にはいろいろな種類の動物が生息していますが、その最初の動物たち、たとえば、最初の象や猿、ウサギ、犬や猫はいつ、どのように誕生したのでしょうか?さらに、宇宙にある沢山の星や太陽や月はどのようにできたのでしょうか?

 この質問に対する聖書の回答は、「はじめに神は天と地を創造された。」(創世記1:1)です。最初の地の状態は茫漠として何もない。つまり、広くて、とりとめもない状態でした。しかも、闇が大水の上にあり、神の霊が水の面を動いていました。

 そこに、全知全能の神の一声、「光よ、あれが発せられました。すると、神の仰せの通り、光が現れた。この光は太陽や月の光ではありません。太陽や月は天地創造の第四日目に出来上がるもので、天地創造の初日にはありませんでした。

 4節を見ると、「神は光を良しと見られた」とあります。私たちは光と言うと、太陽の光や蛍光灯やライトを連想しますが、今日の聖書箇所から判ることは光そのものが神の創造の業であることです。全知全能の神で、創造主なる神にしかできないことです。

 コリント人への手紙第二4章6節の御ことばを開きましょう。

「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。

天地万物の創造主である神が私たち人間の心を照らされる知識の光とは何でしょうか? それは、私たち自身が “神を知り、キリストを知るため知識の光”です。

 私たちは夜、テレビを見ていると、突然、電気が切れてしまった。発電所の異常で地域全体が真っ暗になった時、どうしますか?そのとき、懐中電灯が役に立ちます。懐中電灯があれば、暗闇の夜道でも、真っ暗な洞窟の中で光を照らして、ものを見ることができます。

このことから、皆さんは何を連想しますか?本日の聖書箇所は、私たち人間が暗闇の世界の中に置かれても、しっかりと“もの”を見ることができるように、神は光を創造されたということです。この光は“神を知り、キリストを知るため知識の光”です。

今日の世界情勢はいつ核戦争が勃発するかわからない危機の中にあります。ロシアがウクライナ侵攻してからもうすぐ1年になります。早く戦争が終わって欲しいと願いますが、逆に拡大しています。そのほか、中国や北朝鮮の動きが心配です。

しかし、このような不安な社会の中にあっても、いつも、どこにいても主イエス・キリストと共にあるならば、皆さんは平安に生きることができます。

私たちが神を「天と地を造られた方」と憶えることは、神の被造物である私たちをへりくだらせるものです。使徒ヨハネが見た天国においても、24人の長老たちは御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。「主よ、わたしたちの神よ。あなたこそ、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたは万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」(黙示録4:10~11)。

皆さんの信仰が一層成長すれば、イエス・キリストに似た人格に変えられ、謙遜な人になり、神からも人からも愛される人になるのです。このことを目標に頑張っていきましょう。

 

最後に、皆さんに一冊の小冊子を紹介いたします。この冊子は私が日立にいたころからの知り合いで、50年間の親交がある宇佐神 正海先生です。耳鼻科のお医者さんです。聖書と科学社(genesis Japan)を設立され、各地で講演されている方です。

この先生は高校時代から進化論をしっかり学ばれ、進化論の塊のような方でした。ところが、双子の弟さん(元大学教授)がクリスチャンになられたことから、聖書の学びもされました。以下小冊子から抜粋。

医師になるために進学した東北大学でも進化論の資料を調べましたが、やはり、進化論が正しいという絶対的な証拠は、どこにも見つけることができませんでした。そこで、これまでは「すべてが進化した」というメガネで物事を見ていたが、今度は「すべてが創造主によって造られた」というメガネで見ると、聖書と科学的真理は矛盾しないが見えてきました。自分の罪に気づき、不安で三日三晩、眠ることもできませんでした。すると弟は「今まで創造主に背を向けていた罪を告白して、イエス・キリストが自分の罪の身代わりに罰を受けてくだったことを、感謝して受け入れればいいんだよ」と、言いました。そこで私は弟と一緒に祈り、イエス・キリストを自分の救い主と信じ受け入れたのです。」

素晴らしい小冊子です。この冊子に添えられていたレターに、「自分は90歳になりました。天国で会いましょう。」と書かれていました。

この冊子は敬愛する宇佐神正海先生から私への遺言と思っています。

皆さんが祈っておられるお母さんや御主人の救い、また、友人や知人の救いのためにこの小冊子を利用されることをお勧めします。

           (牧師:北林行雄記)

罪の悔い改めによる祝福 ルカの福音書15:1~7

 今朝はルカの福音書15章にある、イエス・キリストがパリサイ人の質問に対して語られた貴重なたとえ話から学びます。

 イエス様のもとにはいつも取税人や罪人たちが沢山集まって来ました。彼らは皆、主イエスの話を聞こうとしてやって来たのです。それを見ていたパリサイ人や律法学者たちがイエス様のことを非難して、「この人は罪人を受け入れ、一緒に食事をしている」と文句を言いました。取税人は税金を集める人たちのことです。当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にあったので、ローマ帝国にユダや人は税金を払っていました。取税人はローマ帝国のために、ユダヤ人からお金を集めることが仕事でした。そのため、ユダヤ人からすごく嫌われていました。しかも、取税人の給料はローマ帝国から支給されるのでなく、彼らは税金と一緒に自分たちの給料も集めていました。税金と言って、不当にお金を沢山集めて、私腹を肥やす取税人も多くいました。それで、取税人は“罪びとのかしら”であると人々から非難されていたのです。 このような取税人たちや罪人たちがこぞって、イエス様の話を聞こうとして集まって来たので、パリサイ人たちや律法学者たちがイエス様に文句をつけたのです。そこで、イエス様は彼らに“百匹の羊を飼う羊飼いが、いなくなった一匹の羊を捜し歩くたとえ話”をされたのです。

 羊飼いは100匹の羊を所有していましたが、たとえ1匹あっても、彼はいなくなった羊を必死になって探しました。そして、見つかったら、大喜びで、羊をかついで家に帰ったとあります。この羊飼いは本当に羊を愛し、大切な存在として見ています。彼はいなくなった羊を見つけたことを友達や近所の人達に知らせ、共に喜んでもらいました。

 このたとえで、いなくなった羊は私たち人間を表わしています。私たちは自分の気持ちを大事にして、自分の好きなように生きて行きたいと願います。自己中心で、聖書の基準で見ると、人間はみな罪人です。 イエス・キリストは私たち人間を救うために、私たちの罪を贖うために、十字架にかかって死んでくださいました。それゆえ、主イエスを信じる者は罪が贖われ、永遠のいのちを持つことができるのです。本当に感謝なことです。

ひとりの罪人が悔い改めなら、悔い改める必要のない99人の正しい人たちのためよりも、大きな喜びが天にあるのです(ルカの福音書15章7節)。

 なお、7節に悔い改める必要がない人と表現されていますが、悔い改める必要のない人間は誰もいません。このように書かれているのは、人間の行いによる義を主張する律法学者たちの思いを暗示していると考える学者もいます。つまり、主イエスに文句をつけた律法学者99名より、彼らが馬鹿にてしている取税人や罪人たちが一人で悔い改めることの方が天国において大きな喜びがあることを主イエスが主張されたとの考えです。神は愛です。私たち人間がひとりでも多く救われることを望んでおられます。是非、あなたの友人や家族、職場の仲間に福音を伝えていきましょう。

 私たちは生きている限り、ことばにしろ、行いにしろ、罪を犯しやすいものです。それゆえ、日々悔い改め、主の愛と恵みによって罪赦されたこと、永遠のいのちが約束されていることを心から感謝し、神を賛美し、この素晴らしい福音を人々に伝えていきましょう。                           (牧師:北林行雄記)

主があなたに求めておられる事 

 預言者ミカは紀元前8世紀頃、ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に生きた人です。この時期はイスラエル王国が滅び、その民は離散していたが、将来、この民が帰還することをミカは預言しました(ミカ2:12)。また、新しい指導者がベツレヘムから出ることも預言ました(5:1)。つまり、私たちの救い主イエス・キリストの誕生をここで預言しているのです。 

本日の聖書箇所は、神の御心に反して罪を犯し続けるイスラエルの民が被告で、主なる神が検事で、イスラエル民族を告発された法廷論争のかたちをとっています。しかも、裁判官として神ご自身が判決をくだされるのです。

 証人として山々や地の基が立てられたこと(2節)。その理由はそこにイスラエルの民によって偶像が一杯置かれていたからです。つまり、イスラエルの民は天地万物を創造された真の神を礼拝しないで、偶像崇拝をしていたのです。

 それでも、神はイスラエルの民を「わたしの民よ」と愛をこめて呼ばれました。「わたしがあなたに何をしたというのか。どのようにしてあなたを煩わせたというのか。」つまり、イスラエルが犯した罪に対して神がどのような責任があるのかを問われたのです。

さらに、神は奴隷であったイスラエルの民を出エジプトさせ、彼らを贖い出されました。そして、彼らを導くために、モーセやアロンという優れた指導者とミリヤムを送られました。

 出エジプトから約束の地カナンに向かうまでの間、イスラエル民族は神の恵みをたくさん受けてきました。そのことを思い起こすように言われたのです。たとえば、モアブの王バラクがイスラエルの民を呪わせようとした時、神がペオルの子バラムを導いて、イスラエルを祝福するようにされました(民数記22~23章)。神のこのような配慮はイスラエルの民が主の正しい業を知るためでありました。

 このような神の指摘に対するイスラエルの人々の対応は、全焼のささげ物や一歳の子牛や、幾千の雄羊や自分の長子を捧げようか等、形式的なものだけでした。いつの時代にも変わらないのは人間の形式主義です。たとえ重要な問題であっても、その場限りの形だけのもので終わらせようとする力が働きます。

 神が私たちに人間に本当に求めておられることは8節のみことばにあります。つまり、

主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。

 この聖句で、公正、誠実、へりくだりの3つを、特に主なる神が私たち人間に求めておられると断言しています。新改訳聖書では“公正を行い”を“公義を行い”と書いてあります。両方とも、その意味は自分の好みや流行によって行動するのでなく、常に神の判断、つまり、神の御ことば(聖書)に従って行動するという意味です。いつ、どこであっても、自分の我を通すのではなく、へりくだって神と共に歩むことが一番大切なことです.

 教会はキリストのからだであって、教会員ひとりひとりが各器官であります。顔や手や、脚など見える器官もあれば、大変重要な働きをする心臓や胃、腸は目に見えません。更に言うならば、身体全体に張り巡らされている血管や神経は見えません。それでも、大切な働きをしています。

 人間のからだにおいて、胃が腸に向かって腹を立てることはありません。しかし、残念なことに人間社会の中では、小さいことも含めて、問題のないというところはありません。キリストのからだと言われる教会も同様で、問題が全くないというところはありません。私はこれまでの牧会生活の中で研修会や牧師会、PBA(ラジオ放送世の光)牧師会などで、沢山の牧師と知り合いになり、苦労話を語り合い、共に祈り合う仲間が沢山与えられています。

実際のところ、キリストのからだである教会に生じた問題が教会成長を阻む要因になることが多いのです。教会に集う皆さんはお一人お一人、大切な方々であります。生まれも育ちも違う人々が集まる集団ですから、意見の違いがあるのは当然のことです。そこに重要な働きをするのが“主イエスの愛”です。教会員皆がお互いに尊重し合い、イエス・キリストにある立派なからだを形成していきましょう。(牧師:北林行雄記)

バプテスマのヨハネの証言 ヨハネの福音書1:29~34

 先週金曜日(12月9日)ある新聞の朝刊のコラムに、次のような記事がありました。

  動物園のパンダが「食べちゃ寝」ばかりなのは訳がある。腸が牛や鹿といった草食動物より短く、栄養を吸収する効率が悪い。主食の竹は養分が少なく、大量に取る必要がある。60キロの人が毎日9キロのサラダを食べるようなものという。だから、口を“むしゃむしゃ”しているか、エネルギーを使わないように寝ている。

 この記事から判ることは、動物といえども、パンダの持っている特徴をよく理解し、尊重することが大切であるということです。同じように、私たち人間、ひとりひとりが持っているオリジナリティを尊重することが大切です。

 先週の礼拝において、マルコの福音書1章から、バプテスマのヨハネが「この方(イエス・キリスト)は聖霊のバプテスマをお授けになる。」と人々に伝えた箇所を学びました。クリスチャンは皆、イエス・キリストにある救いの体験、聖書の理解等、日々の生活の中で、聖霊の働きを体験することができます。しかも、どのような人であっても、固有の特徴があり、各人に対する聖霊の働き方も異なります。それゆえ、私たちはお互いの特徴を理解し、尊重していくべきあります。

 

今朝はヨハネの福音書1章から、イエス・キリストに関するバプテスマのヨハネの証言について学びます。29~34節でバプテスマのヨハネが自分の方に歩いて来られるイエスを見て、語ったことを要約すると、以下の3つにまとめられます。すなわち、

(1).イエスは世の罪を取り除く神の小羊である。先にヨハネが「自分の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。」と言ったのはこの方のことである。

(2).御霊が鳩のように天から下って、この方の上に留まられるの見た。この人こそ聖霊のバプテスマを授ける方である。

(3).この方は神の子である。

  これら3つのことについて、今から説明します。

先ず、(1)から始めます。私たち人間は皆、生まれながら「自己中心」という罪を持っています。喜んで他人のために労苦しながら、他の人のために尽し、“聖人”と呼ばれる人であっても、いざ自分や家族の身に被害が及ぶようになったら、自分の身が哀れになって、他人の世話などできなくなるものです。

  しかし、イエスキリストは私たち人間の罪を贖うために、十字架にかかって死んでくださいました。すなわち、イエスは世(わたしたち人間)の罪を取り除く神の小羊です。

なお、旧約の時代は、人が罪を犯した場合、傷のない小羊を屠って、赦しを受けていました。イザヤ書53章7節に「彼は痛めつけられ、苦しんだ。口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように。」と書かれています。この羊は傷のないものでないと、ダメなのです。人間に言い換えれば、私たち人間の罪の贖いは、罪のない方であるイエス・キリストだけができる業でした。正しく、罪のないイエスキリストが罪ある私たち人間の身代わりに、父なる神から断罪されたのです。これは、神の愛から出たことです。

    次に、(2)について説明します。御霊が鳩のように天から下られた。鳩はおとなしくてやさしい、しかも、素直で平和なイメージを持った鳥です。創世記8章11節にくちばしにオリーブの葉をくわえた鳩が出て来ます。地の全面が水でおおわれ、罪深い人間が神の裁きを受けて死に絶えました。しかし、その状態からその水がひいて、オリーブの木が生える。オリーブの葉は生存したノアたちへの平和のメッセージでした。

御霊が鳩のように天からくだり、イエス・キリストの上に注がれたということは、イエス様は神から遣わされた方であり、聖霊のバプテスマを授けることのできる方であるとヨハネは確信したのです。

そして、(3)に移ります。バプテスマのヨハネはその光景を見て、イエスは正しく神の子であり、この方こそ、聖霊によってバプテスマを授けることのできる方であると確信しました。それで、ヨハネは二人の弟子に、イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言ったのです(36節)。その二人の弟子はペテロとアンデレです。ペテロはやがてイエス・キリストの一番弟子となりました。

今朝は、バプテスマのヨハネの証言について学びました。特に、印象的であったのは、彼はイエス様のことを弟子たちに、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と紹介したことです。神の御子であるイエス・キリストが私たち人間を救うために、私たちの罪を背負って身代わりに十字架にかかって死んでくださったのです。何と大きな、測り知れない愛でしょうか?心から父なる神と子なる神、すなわち、主イエス様に心から感謝をします。

私は23歳のとき、映画「塩狩峠」を見て、大きな感動を受けました。鉄道職員でクリスチャン青年の永野信夫(実名:長野政男)はこの峠を登坂していた列車で連結器が外れるという事故が発生し、下り車線で暴走する電車を止めるために、自分の身体を電車の下敷きにして止め、乗客のいのちを救った事件でした。人のためにいのちを捨てる、それ以上の大きな愛はありません。イエス・キリストは私たち罪深い人間のために、十字架にかかって死んでくださいました。主の絶大な愛に感謝します。

バプテスマのヨハネは聖霊に導かれて、イエス様のことを弟子たちに紹介しました。皆さんもこれに倣って、是非、大切な人、友人や知人にイエス様のことを紹介してください。12月24日(土)のクリスマス集会、25日のクリスマス礼拝にお友達を誘いましょう。     (牧師:北林行雄記)

主の道を整える者 マルコの福音書1:1~8

本日から5回にわたり、クリスマスにちなんだメッセージをします。本日、第一回は、「主の道を整える者」と題して、イエス・キリストのことを紹介したバプテスマのヨハネについてお話します。

バプテスマのヨハネの登場 マルコの福音書は4福音書の中で最初に書かれたものです。1章1節に「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」とありますが、これはこの書のタイトルのようなもので、この書全体を一言で表していると言えます。

 2~3節にはイザヤ書40章3節が引用されています。救い主の道を整える者が将来登場すること。彼は主の道を用意し、主の通られる道を真っ直ぐにする。その預言通りに現れた人がバプテスマのヨハネです。

悔い改めのバプテスマ  ヨハネは荒野に現れて、人々に罪の赦しのための、悔い改めのバプテスマを宣べ伝えました。彼は預言者エリヤに倣って、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野密を食べる質素な生活をしながら、精力的に伝道したのです。当時のユダヤ全国の人々と、エルサレムの全住民がヨハネのところにやって来て、自分の罪を告白して、ヨルダン川でバプテスマを受けたのです。ヨハネのバプテスマは水によるバプテスマでした。

 私たち人間は皆、生まれながら罪を持っています。自己中心の罪です。たとえば、子どもの友達が先生から大切に扱われ、褒められるのに、自分のこどもは厳しく叱られてばかりいたら、心の中からひがみが生じて、わが子の悪い面をそっちのけにして、先生に文句をつけたりする父兄がいるのも事実です。このように誰でもが持っている自己中心の罪を考えれば、バプテスマのヨハネのメッセージは、当時のユダヤの人々の心に強く迫ったのでしょう。そのため、沢山の人々が悔い改めのバプテスマを受けたのです。 

イエス・キリストに関する言及

・ヨハネよりさらに力のある方で、彼のあとに来られる。ヨハネはその方の靴のひもを解く値打ちもない。(7節)

・この方は聖霊のバプテスマを授けることのできる方である。(8節)

考察

 1.バプテスマのヨハネは立派な人物です。彼はイエス・キリストを紹介し、自分はこの方の靴の紐を解く値打ちもないと言いました。ヨハネより半年後に誕生する主イエスを心から尊敬し、自分は水による悔い改めのバプテスマを授けたが、この方は聖霊のバプテスマを授ける方であると説明しました。聖霊のバプテスマとは、私たち人間の救いに関係するものです。すなわち、主イエスを救い主として信じる信仰によるバプテスマであり、救いのしるしとしてのバプテスマです。

 2.聖霊の働きについて

  ①聖霊の働きがなければ、誰もイエスは私の救い主ですと告白できません。

  ②聖書をよく理解するためには聖霊の助けが必要です。全知全能の神を信じています。しかし、神は目に見えません。聖霊の働きによって、聖書のことばを理解し、神の愛や御心を知ることができるのです。それゆえ、聖書を学ぶ時は、最初に聖霊の導きがあるよう祈って読む必要があります。

  ③信仰生活におけるいろいろな試練を克服するためには聖霊の働きが必要です。たとえば、苦しみの中にあるとき、聖書のことばによって励まされることがよくあります。弱さの中にあるとき、神の力が最も強く働き、聖霊の導きによって最もふさわしい神のことばが与えられ、心の中に勇気がわいてくるからです。

結び

    救い主イエスの誕生は全人類にとって喜びの知らせです。主イエス・キリストの誕生、それに先立って、主の道を整えるバプテスマのヨハネの誕生は、それが実現する800年以上前から預言されていました。天地万物の創造者なる神の遠大な計画によるのです。

    待降節に当たって、主の御降誕を覚え、改めて計り知れない神の御愛に感謝しその思いを深め、この喜びを人々に伝えて行きましょう。そして、本当のクリスマスの素晴らしさを味わいながら、それを人々に証しましょう。 (牧師:北林行雄記)

主はわが牧者なり エゼキエル書34:1~16

本日はエゼキエル書からメッセージをさせていただきます。エゼキエルが預言者になった時、バビロニアの支配下にあり、捕囚の身でした。人々はバビロニアの支配から早く解かれて、エルサレムに帰りたいという希望を持ち、解放運動を起こそうとする動きがありました。エゼキエルは「この地に落ち着くことが、今の時点では神の御旨である」と人々に話しました。しかし、民衆は忠告を受け入れず、バビロニアに反乱を起こしました。その結果、紀元前587年にエルサレムは占領され、イスラエルは滅ぼされてしまいました。エルサレムの陥落は捕囚の身にあるイスラエルの人々にとって最後の望みの綱が切れてしまったことを意味します。絶望する民衆に、エゼキエルは再び語り始めました。それがエゼキエル書34章の「羊飼いの預言」です。

エゼキエルは主なる神から託された御ことばを民衆に伝えます。「わざわいだ。自分を養っているイスラエルの牧者たち。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊は養わない。弱った羊を強めず、病気のものを癒さず、傷ついたものを介抱せず、追いやられたものを連れ戻さず。失われたものを捜さず、かえって力ずくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配した。」(2~4節)。ここで言う“牧者”は当時のイスラエルの指導者で、国王のことです。イスラエルが滅んだのは、「自分を養う羊飼い」、つまり、国の指導者である王たちが民衆のことを考えず、自らの保身に走ったことが原因であると指摘されたのです。

このように牧者が本来の勤めを果たしていないので、羊は散らされ、あらゆる野の獣のえじきになり、散らされてしまいました。それで、神である主は、牧者たちに立ち向かい、彼らの手から主の羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせられたのです(8~10節参照)。そして、主は可哀そうな羊を放っておくことができないと思われ、「わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らを憩わせる。」と仰せられ(15節)、主自らが羊の牧者になると宣言されました。主の下に置かれた羊は幸いです。牧草が生い茂る良い牧場で養われ、イスラエルの高い山々が檻となって、安心して過ごすことができるのです。また、傷ついた羊は包まれ、病気の羊は力づけられます。なお、「肥えたものと強いものを根絶やしにする。」(16節)とあるのは、神は強いものを優遇するのでなく、いつも公平な裁判をされるという意味です。主によって養われるすべての羊は本当に幸せです。 この聖書の箇所から私たちは何を学ぶでしょうか?

今、皆さんもご存じのように世界はウクライナの悲惨な状況、そしてあちこちの国々において、テロや暴力で国民が被害者となり、今も悲しい争いや戦いが続いています。先週は世界を震撼とさせるような出来事が起きました。ポーランドに突然ミサイルが落ち市民の犠牲者が出ました。それぞれの国が自己主張すれば、第三次世界大戦に発展するような危機に直面しました。正に一触即発したら、核の脅威で人類はどうなるのでしょうか?このような時にこそ、人類の造り主なる神の前に静まって、冷静に御ことばの深い意味を考察すべき時ではないでしょうか。

ベトナム戦争で多くの若いアメリカ兵たちが戦争によって傷つき、心が蝕まれ、ロストジェネレーションと呼ばれるようになり、その結果、物を持つことによって飢えを満たすというマテリアリズムに陥りました。

真に私たちの心を満たしてくださる方は、今の時代も旧約の時代も同じで、本当の愛と赦しに満ちた牧者なる神ではないでしょうか。羊が100%牧者を信頼し、平安に“メ~~”と鳴いて羊飼いに従っているように、、私たちもどのような状況でも本来の牧者なる主を信頼し、御ことばを口ずさんで日々充足した生活ができますように祈ります。               (牧師:北林行雄記)

信仰者の願い 詩篇27:1~8

 詩篇27篇はイスラエルのダビデ王が詠んだ詩である。ダビデは一介の羊飼い出身ながら、王となり、イスラエル王国の礎を築き、エルサレムに都をおいて、40年間、王位についた人物である。彼はサウル王に仕えていた頃、いわれなきことで命を狙われ、都を逃れて、荒野で逃亡生活を送らざるを得ず、苦しい体験をした。また、王についた後も、息子のアブサロムが反逆し、都落ちをする苦悩を味わった。今朝はダビデが詠んだ詩篇27篇から「信仰者の願い」について学びたい。

 先ず、1~3節において、戦場におけるダビデの生き方が語られている。敵が彼の命を狙って襲い掛かっても、ダビデは主なる神に信頼し、邪悪な敵に対しても勇敢に戦う決意が現れている。その決意の根本になるのが、「主は私の光、私の救い、だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦、だれを私は怖がろう。」(1節)。つまり、主なる神は信仰者を救いに導く光であり、救い主である。また、“主は私のいのちの砦”であると語る。砦は本城から離れた要所に築く小規模な城であり、信仰者をサタンの攻撃から守る前線基地である。このように主が信仰者を守ってくださるから、野獣が餌食を狙うように、敵(サタン)が私たち信仰者を襲うことがあっても心配がない。仮に敵が襲って来ても、主の御業によって敵は打ち負かされ、崩れ落ちる。また、敵が陣営を張って、押しかけて来ても、恐れることはない。さらに、戦闘が実際に開始されても、動じることはないとダビデは確信していました。同様に、私たち信仰者も何も心配することはありません。なぜなら、私たちが如何なる状況に置かれても、必ず主なる神が守ってくださるからです。

 4節「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ(仰ぎ見る)、その宮で思いを巡らすために。」主の家に住むことによって、主と生活を共にできる。つまり、主と親しく交わりを持つことができるので、主の麗しさ(主の恵み深さ)を体感できる。

 また、敵の攻撃に苦しめられる日に、主は私を隠れ場(安全地帯)にかくまって、守ってくださる。そして、私を岩の上(敵の手の届かない安全な所)に置いてくださる。このように主が守ってくださるので、詩人は主の幕屋で喜びのいけにえをささげ、心から賛美することができた。 

 その結果、ダビデは主の家に住み、主の麗しさを仰ぎ見ることを第一に祈り求めるようになった。このことは私たち信仰者にとっても最も大切な教えである。さらに、ダビデは8節で「主よ。あなたの御顔を慕い求めます。」と祈った。信仰者にとって主なる神の御顔を仰ぎ見ることは最高の喜びで、最も平安が与えられる境地である。

 現代に生きる私たちは、主なる神、救い主イエス・キリストを肉眼で見ることはできません。しかし、心の眼、信仰の眼で見ることができます。聖書の御ことばを熟読・吟味すると、私たちのために十字架にかかり、いのちを捨てられたイエス・キリストの姿が目に浮かんできます。そして、神の愛の深さに感動します。ぜひ皆さん、充実した信仰生活を歩むために、日々のデボーションをしっかりと守りましょう。                        (牧師:北林行雄記)

心の眼が開かれる ヨハネの福音書 9:24~34

 現代医学の著しい進歩によって、これまで難病と言われ続けてきた病気も癒されるようになってきました。しかし、生まれながら目の見えない人が即座に見えるようになって、普通に生活ができるようなることは、今の医学でも非常に難しいことです。

 本日の聖書箇所には、生まれつき目が見えない男の人がイエス・キリストによって癒された話が紹介されています。この人は癒された経過を説明しますが、癒された日が安息日であったために、律法学者たちはこの事実を断固として認めようとしませんでした。しかし、彼の前に再び現れて下さったイエス様に出会い、この方が真の救い主であることが判り、彼の心の眼が開かれたのです。 

それでは、ヨハネの福音書9章からもう少し詳しく説明いたします。イエス・キリストがエルサレム神殿の帰り、通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった(1節)。そして、地面に唾をして、その唾で泥を作り、それを彼の眼に塗ってから、「行って、シロアムの池で洗いなさい。」と彼に言われた(6節)。彼は言われた通りシロアムの池で眼を洗うと、眼が見えるようになった。イエス様の素晴らしい御業が行われたのである。

 人々が癒された人をパリサイ人のところに連れて行った。パリサイ人たちは「どのようにして見えるようになったか?」と質問すると、この人は事実をそのまま説明した。しかし、癒された日が安息日であったので、「この人(イエス)は安息日を守らないから神のもとから来た人ではない。」というパリサイ人がいて、パリサイ人の中で分裂が起きた。そのような背景もあり、ユダヤ人たちは生まれながら目の見えない人の癒しを信じようとしなかった。

 ユダヤ人たちは癒された人を再び呼び出して、「イエスは神に栄光をきさないので、罪人である。」と言うと、彼は次のように答えた。「あの方が罪人であるかどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(25節)。さらに、「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたは知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。私たちは知っています。神は罪びとたちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神の御心を行う者がいれば、その人の言うことをお聞きくださいます。盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」(30~33節)。このように、癒された人は「イエス様は神から出られた方であるから、盲目で生まれた者の眼を開けられた。」と信じて、ユダヤ人たちの前で告白したのである。

 そのため、彼はユダヤ人たちから外に追い出された。しかし、このことを聞かれたイエス様は彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」(35節)。彼は信じることができるように教えて欲しいと言うと、イエス様は「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」(37節)。イエス様ご自身が人の子(神から遣わされた救い主)であると宣言されたのである。彼は即座に、「主よ。信じます。」と言って、イエス様を礼拝した。彼の心の眼が開かれ、自分を癒してくださった方が真の救い主イエス・キリストであることを信じたのです。この人はその後どのように歩んだか聖書には書かれていませんが、彼の心は癒された恵みを感謝し、喜びに満たされて、いつもイエス様と共に歩んでいたことでしょう。このことはクリスチャン一人一人にとって大切なことです。

 先日、金沢中央教会で開催された星野富弘絵画展を見に行ってきた。星野富弘さんの書かれた花の絵とその絵に載せて書かれた詩、そして作品の題名を見ながら、沢山の作品を一つ一つ味わいながら鑑賞した。星野さんがそれぞれの絵に込めて描かれた心情が伝わって来て、感銘を受けた。たとえば、題名が春蘭という絵に記載された詩は、「どんな時にも神さまに愛されている。そう思っている。 手を伸ばせば届くところ、叫べば聞こえるところ、眠れない夜は枕の中にあなたがいる。」。星野さんは温かい表情でインタビューされている録画が流れていた。しかし、星野さんが大怪我をして身体を動かせなくなったとき、お母さんにひどい言葉でののしっていた様子の画面もあった。本当に気持ちを出せるのはやはり親なんだ。辛い気持ちが一層伝わった。もし、私が星野富弘さんと同じ境遇になったら、やはり同じことをしていただろう。所詮、私たち人間は不完全で、罪深い者である。このような人間を救うために、イエス・キリストは十字架にかかって死んでくださった。神は愛なり。このイエス様を知っていること、そして心を降り注いで祈ることのできる特権は本当に素晴らしい恵みである。それゆえ、日々感謝して、イエス様のことを人々に宣べ伝えよう。

 既にイエス様を自らの救い主と信じて救われている皆さん、日々の信仰生活において、いつも喜びと感謝に満たされていますか?落ち込んだり、不平を言ったり、高ぶったりしていませんか?何があっても、絶対に大丈夫な人はいないと思います。人生には波があり、調子の良い時も、悪い時もあります。特に、クリスチャンにとって、一番危険なことは高ぶりの罪を犯すことです。なぜなら、高ぶっているとき、サタンが一番強く攻撃を仕掛けてくるからです。私の尊敬する立派なクリスチャンの方が次のように言っておられました。「私のクリスチャンとしての歩みは、日々、謙遜を学ぶことでした。」。この方は既に天に召されましたが、大変優秀で、神学校の学長をされた方です。

 まだ、信仰を持っておられない方にお伝えします。本日お話しした生まれつき目の見えない人がイエス様に出会い、眼が見えるようになり、しかも、心の眼が開かれたこと、これは大変素晴らしいことです。心の眼が開かれると、イエス様の十字架の意味や、神様の愛の深さがわかり、心の内から喜びがあふれてきます。皆さんも心砕かれ、この恵みを味わうことができますように!主なる神の祝福が皆さんの上に豊かに注がれますようお祈りいたします。    (牧師:北林行雄記)

主イエスに従うことを第一に ルカの福音書9:57~62

主イエス・キリストはガリラヤ伝道を終えられ、いよいよ“イエスの後期伝道旅行”がスタートする段階に来た。主イエスは天に上げられる日が近づいて来たことを認識され、エルサレムに向けて毅然として進んで行かれた(ルカの福音書9:51)。なお、“天に上げられる”はイエス・キリストの十字架の死と復活、そして昇天を意味する。

主イエスはご自身の死(十字架刑)を覚悟して進んでおられた。このことを知ったサマリヤ人は主イエスを受け入れなかった。これを見たヤコブとヨハネは「天から火を呼び下して、彼らを焼き滅すことを提言するが、主はこのことについて彼らを戒められた。

今朝の説教において、主イエスと弟子たちの一行が道を進んでいるとき、主イエスと出逢って対話した3名の人たちとイエスとの会話について、内容を掘り下げて説明する。

最初の人との対話

マタイの福音書8章19節によれば、最初の人は律法学者であった。彼は主イエスに「私はあなたのお出でになる所なら、どこでもついて行きます。」と言った。これは彼の真実な心の思いで言ったことだろうが、主イエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子(主イエス)には枕する所もありません。」と返答された。すなわち、住む家もなく、落ち着いて休むところがないので、不自由な生活を強いられる。それでも良いのか?と返答されたわけである。確かに、その後しばらくして、主イエスは捕えられて、裁判にかけられ、十字架の死を遂げられた。

2番目の人との対話

 主イエスはこの人に「わたしに従って来なさい。」と声をかけられた。しかし、彼は「まず行って、父を葬ることをお許しください。」と言った。ユダヤ人の社会において丁寧な埋葬を行うことは大切なことであった。特に、自分の親の葬儀は重要であった。日本においても親の葬儀を正しく行うことはその親の子として当然のことであって、そうしなかったら非難される。

しかし、主イエスは「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」と言われた。つまり、親の葬儀をきちっと行うことより、神の御国のことを伝える方がより重要度が高く、緊急性が高いことを明確に示された。  

3番目の人との対話

 61節;また、別の人が言った。「主よ、あなたに従います。ただ、まず自分の家の者たちに、別れを告げることをお許しください。」 自分の家の者に別れの挨拶をするのは、一般社会おいては当たり前のことで、むしろ挨拶しない方が不自然である。しかし、主イエスは彼に言われた。「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません。」。イエスの弟子になるということは、鋤で畑に畝を作るのに似ている。つまり、前方をしっかり見ていないと曲がってしまう。私の母は野菜作りの名人であった。よく耕した土できれいに畝を作って、その畝に一定間隔に種や苗を植えていった。いくつも畝が整然と並んでいる姿を今もしっかりと記憶している。

 主イエスが語られたこのたとえは、弟子たる者は主イエスに従うことを最優先にしなければ、神の国にふさわしくない。ただし、イエスをキリスト(救い主)と信じる者はだれでも救われるので、神の国に入れないわけではない。

結論

  • 3名の人たちとイエス・キリストの会話に主イエスの緊張感が表れている。それは、伝道旅行後半を迎え、主イエスが今後、自らの身に起きる十字架の受難を考えておられるからである。このイエスのことばを通して、弟子たちにも緊張感をもって従って欲しいことを願っておられる。
  • 昨今は、ロシアのウクライナ侵攻や中国の台湾政策にも、力による制圧の断行、核兵器使用の危険性等不安が漂っている。このような情勢だからこそクリスチャンとして真価が問われる。私たちも緊張感をもって信仰の証や伝道に励むことが大切である。  
  • 具体的には、感謝と喜びをもって心からささげる礼拝、個人的な日々のデボーション、日常の生活の中で友人や同僚に対する信仰の証や教会への招き等である。

「ですから、私の愛する兄弟たち。 堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。 あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」    コリント人への手紙第一15:58

                        文責:北林行雄(牧師)