主があなたに求めておられる事 

 預言者ミカは紀元前8世紀頃、ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に生きた人です。この時期はイスラエル王国が滅び、その民は離散していたが、将来、この民が帰還することをミカは預言しました(ミカ2:12)。また、新しい指導者がベツレヘムから出ることも預言ました(5:1)。つまり、私たちの救い主イエス・キリストの誕生をここで預言しているのです。 

本日の聖書箇所は、神の御心に反して罪を犯し続けるイスラエルの民が被告で、主なる神が検事で、イスラエル民族を告発された法廷論争のかたちをとっています。しかも、裁判官として神ご自身が判決をくだされるのです。

 証人として山々や地の基が立てられたこと(2節)。その理由はそこにイスラエルの民によって偶像が一杯置かれていたからです。つまり、イスラエルの民は天地万物を創造された真の神を礼拝しないで、偶像崇拝をしていたのです。

 それでも、神はイスラエルの民を「わたしの民よ」と愛をこめて呼ばれました。「わたしがあなたに何をしたというのか。どのようにしてあなたを煩わせたというのか。」つまり、イスラエルが犯した罪に対して神がどのような責任があるのかを問われたのです。

さらに、神は奴隷であったイスラエルの民を出エジプトさせ、彼らを贖い出されました。そして、彼らを導くために、モーセやアロンという優れた指導者とミリヤムを送られました。

 出エジプトから約束の地カナンに向かうまでの間、イスラエル民族は神の恵みをたくさん受けてきました。そのことを思い起こすように言われたのです。たとえば、モアブの王バラクがイスラエルの民を呪わせようとした時、神がペオルの子バラムを導いて、イスラエルを祝福するようにされました(民数記22~23章)。神のこのような配慮はイスラエルの民が主の正しい業を知るためでありました。

 このような神の指摘に対するイスラエルの人々の対応は、全焼のささげ物や一歳の子牛や、幾千の雄羊や自分の長子を捧げようか等、形式的なものだけでした。いつの時代にも変わらないのは人間の形式主義です。たとえ重要な問題であっても、その場限りの形だけのもので終わらせようとする力が働きます。

 神が私たちに人間に本当に求めておられることは8節のみことばにあります。つまり、

主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。

 この聖句で、公正、誠実、へりくだりの3つを、特に主なる神が私たち人間に求めておられると断言しています。新改訳聖書では“公正を行い”を“公義を行い”と書いてあります。両方とも、その意味は自分の好みや流行によって行動するのでなく、常に神の判断、つまり、神の御ことば(聖書)に従って行動するという意味です。いつ、どこであっても、自分の我を通すのではなく、へりくだって神と共に歩むことが一番大切なことです.

 教会はキリストのからだであって、教会員ひとりひとりが各器官であります。顔や手や、脚など見える器官もあれば、大変重要な働きをする心臓や胃、腸は目に見えません。更に言うならば、身体全体に張り巡らされている血管や神経は見えません。それでも、大切な働きをしています。

 人間のからだにおいて、胃が腸に向かって腹を立てることはありません。しかし、残念なことに人間社会の中では、小さいことも含めて、問題のないというところはありません。キリストのからだと言われる教会も同様で、問題が全くないというところはありません。私はこれまでの牧会生活の中で研修会や牧師会、PBA(ラジオ放送世の光)牧師会などで、沢山の牧師と知り合いになり、苦労話を語り合い、共に祈り合う仲間が沢山与えられています。

実際のところ、キリストのからだである教会に生じた問題が教会成長を阻む要因になることが多いのです。教会に集う皆さんはお一人お一人、大切な方々であります。生まれも育ちも違う人々が集まる集団ですから、意見の違いがあるのは当然のことです。そこに重要な働きをするのが“主イエスの愛”です。教会員皆がお互いに尊重し合い、イエス・キリストにある立派なからだを形成していきましょう。(牧師:北林行雄記)

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