救い主イエスの十字架刑 マタイの福音書27:33~54

今週は受難週で、金曜日にイエス・キリストは十字架にかかられました。十字架刑は両手、両足を十字架に釘で打ち付けられ、激しい痛みで苦しみながら、体力も気力も衰えて、疲れ果てて死んでいく、恐ろしい刑罰です。

 ゴルゴダの丘に3本の十字架が立てられました。中央に主イエスの十字架が立てられ、両サイドに二人の強盗の十字架が立てられました。さらに、兵士たちは「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれ罪状書きを主イエスの頭の上に掲げました。 十字架に磔(はりつけ)にされた主イエスの姿を見た人達は主イエスを罵(ののし)りました。39節から44節に三種類の人たちの罵りのことばが記載されています。先ず、通り過がりの人たちは、頭をふりながら主イエスを罵り、「神殿を壊して三日で建てる人よ。もしお前が神の子なら、自分を救って見ろ。そして、十字架から降りて来い」と言いました。主イエスは神の子で、罪のない方です。それゆえ、自分を救う必要がありません。それなのに、十字架にかかられるということは別の目的があるからです。

 また、祭司長や律法学者、長老たちは次のように嘲(あざけ)りました。「他人は救ったが自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。彼は神に拠り頼んでいる。神のお気にいりなら、今、救い出してもらえ、「わたしは神の子だ」と言っているのだから。」

主イエスが十字架にかかられたのは何のためですか?

私たち人間を救うためです。主イエスは罪のない正しい方であるのに、私たち人間を罪の裁きから救うために十字架にかかられたのです。それゆえ、もし、主イエスが十字架から降りて来られたら、私たち人間の救済の道が全く閉ざされてしまう結果になるのです。

一緒に十字架につけられた強盗たちも同じように主イエスをののしりました。 正午、12時から午後3時ごろまで、闇が全地をおおい、暗くなりました。3時ごろ、主イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。エリはヘブル語で「わが神」という意味で、サバクタニはアラム語で「どうして、私をお見捨てになったのですか?」の意味です。 実は、イエス・キリストの十字架刑は紀元前約700年前に預言者イザヤを通して預言されていたのです。それではイザヤ書53章10節を開いてみましょう。そこにこのように書かれています。「彼を砕いて病を負わせることは、主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償の捧げものとするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころが彼によって成し遂げられる。」とあります。“自分のいのちを代償とする”は十字架刑を示しています。また、”末長く子孫を見る“の子孫は信仰者たちのことです。

父なる神は、我が子イエスを十字架にかけることまでして、私たち人間が救われる道を備えてくださったのです。神は愛です私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、ささげ物としての御子(イエス・キリスト)を遣わされました。ここに愛があるのです。(ヨハネの手紙第一 4:10) 父なる神が大きな犠牲を払ってまで、人間を救おうとされたこと。これが、キリスト教は神の痛みの神学といわれる所以です。

主イエスが「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた声を聞いていた人たちの何人かが預言者エリヤを呼んでいるものと思い、待っていてもエリヤは現れません。主イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると、エルサレム神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地が動き、岩が裂け、墓が開いたのです。このことは大変重要な意味があるのです。

エルサレム神殿はイスラエル国民にとって大変重要で、象徴的な神殿です。この神殿はユダヤ人の霊的生活の中心でした。この神殿において動物がいけにえとして奉げられ、モーセの律法に従って礼拝がされていました。神殿では至聖所(地上での神様の臨在があった場所)と他の神殿の部分を幕が隔てていました(ヘブル書9章1-9節)。大祭司のみが一年に一回この幕を通り(出エジプト30章10節;ヘブル9章7節)、神様の御前にでて全イスラエルの罪のためにとりなしをする事ができたのです(レビ16章)。

主イエスの十字架での死の瞬間に神殿の幕が裂けたこの出来事は次のことを意味しています。私たちの罪の贖いのためになされた主イエスの犠牲と流された血により、動物のいけにえは必要なくなったのです。私たちはいつでもイエス・キリストの御名を通して、父なる神に祈りを捧げることができるようになったのです。

これらの一部始終を見ていた百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは非常に恐れて、「この方(イエス)は本当に神の子であった。」と言ったのです。彼らは、今ここで、主イエスは神の子であると信じたのです。なんと素晴らしいことではありませんか。

それにしても、神の御子である方が、私たち罪を持った人間を救うために、いのちを捨ててくださった。しかも、十字架刑という恐ろしい処刑にあって死なれたのです。このことは父なる神も承諾された上のことです。私は一人の息子の父です。彼が学校において、激しいいじめに会い、殺されそうになったとき、私も何とか彼を助けたいと涙して祈りました。この苦しみを見るこの時の気持ちを考えると、父なる神の苦しみと私たち人間への測り知れない愛の大きさに本当に驚きます。ことばに言い尽くせぬ感謝で一杯であります。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 (ヨハネの福音書3章16節) 

 皆さん、受難週そして来主日のイースター、あらためて、私たちの救いのために払われた主イエスの十字架、父なる神の愛の大きさを深く味わい、いつも喜んで信仰生活をしっかりと歩みましょう。私は信仰の証とは、聖書の教理をとくとくと語ることではなく、皆さんが毎日喜んで信仰生活を歩んでいる姿が周りの人々の眼に映ることです。楽しいことばかりでなく、悩むこと、苦しいこともあるのは当然です。そのときは祈り、また、聖書の御ことばから力を受けて解決を得ることです。もし、それも難しい時は牧師に相談してください。ふさわしい聖書の箇所を共に学び、共にお祈りしましよう。皆様の上に、全知全能の主なる神の恵みと導きが豊かにありますようお祈りいたします。(牧師:北林行雄記)             

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