放蕩息子のたとえ ルカの福音書15:11~32

 今朝の聖書箇所は私がイエス・キリストを自らの救い主として信じる決断に導かれた記念すべき箇所です。21歳のころ、私は仲の良い友だち4~5人と下宿で、毎日夜遅くまで、たわいもないことを語りながら、楽しく日々を過ごしておりました。その会話はもちろん、勉強の話ではありません。工学部で、仲間全員が男ですから、皆の話題は、各自の人生観や女性の話題などでした。楽しく、遊び惚けていた時代でした。(このように彼らは何でも話し合える良い仲間で、いつまでも親しく、今も交流があります。)

 ある時、友達の一人が、皆の前で「北林は真面目だし、これから大学院に進むかもしれない。自分らと遊んでばかりいたらダメだ。」と言い、皆が賛同して、私だけ戦列をはずれるようになりました。

 そこで、私は勉強に集中することにしました。先ず、英会話を学ぼうと考え、先日、皆さんにお話したようにカナダの宣教師宅を訪問しました。そこで、宣教師が奉仕されるキリスト教会を紹介され、毎週、礼拝に出席するようになりました。それで、勉強ではなく、今度は聖書を学ぶことに熱中するようになってしまいました。毎日、時間があれば、ひたすら、聖書を読んでいました。

 春の特別伝道集会でルカの福音書から「放蕩息子のたとえ」の説教を聞きました。この箇所から示されて、私は自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主として信じる決心をいたしました。

ルカの福音書15章に“放蕩息子のたとえ”があります。弟息子は父親の財産の分け前をもらって遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を使い果たし、食べるにも困ってしまった。そして、豚の食べるイナゴマメで腹を満たしたいほどになった。これを聞いた時、私の心に次の質問が浮かんできました。もしこれが財産でなく、自分のいのちであったらどうだろうか?若いと言って何でもやりたい放題に、自己中心の生き方をし、与えられた大切ないのちを台無しにしてしまったらどうなるか。最終的に裁きを受けるだけだ。仏教で言う地獄行きである。すべての人間は放蕩息子のように父なる神から離れ、失われた存在であると聖書に書かれてあります。

何故そのような状態になったのでしょうか?それは人類の最初の人、アダムとエバが、サタンに誘惑されて、神から禁じられたことをしてしまったためです。それで、神との正しい関係が崩れ、人間の自由意志に従って行動するようになったのです。だから、私たち人間は、程度の差はあっても、皆、罪人です。

放蕩息子は落ちぶれてしまったとき、我に返って父のところに帰ろうと決心しました。そして、立ち上がって自分の父のもとに向かいました。正しく人生の方向転換です。

まだ、家まで遠かったのに、父は彼を見つけ、可愛そうに思い、駆け寄って彼を抱き、口付けし、彼を喜んで迎え入れてくれました。放蕩をして、財産を使い果たした哀れな息子を怒鳴り散らすのではなく、駆け寄って彼の首を抱き、口づけし、大歓迎したとあります。この父親が父なる神のことです。神は愛です。心から罪を悔い改めたら真の救いに導かれるのです。

 それでは、聖であり義である父なる神が、悔い改めたからと言って、放蕩息子のような罪ある人間を受け入れてくださったのでしょうか?その答えは、特別な神の愛の業から判ります。それは、イエス・キリストの十字架の贖いです。

 ヨハネの福音書3章16節をお読みします。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 

父なる神は、私たち人間を救うために、御子イエス・キリストを十字架におかけになって、殺されたのです。なぜそのようなむごいことをされたのでしょうか?その理由は、人間の罪を贖う、つまり、“罪のつぐないをする”ことができるのは、罪の全くない方、イエス・キリスト以外に誰もできないことだからです。 イエス・キリストは私たち人間の代わりに罪の裁きを受けて下さり、十字架にかかって死んで3日目によみがえられました。それによって私たち人間の罪の問題を解決する道が準備されたのです。

 それゆえ誰でも心から罪を悔い改め、イエス。キリストを自らの救い主として信じるなら、救われて、永遠のいのちを得ることができるのです。 罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリストにある永遠のいのちです。                     (ローマ人への手紙6:23)

 それにしても、父が最愛の長男を十字架にかけることは本当につらい、苦渋の選択であったと思います。子供が苦しむ姿を見ることは耐え難いものです。

 しかし、このような痛みがあるにもかかわらず、父なる神はキリストの十字架刑を承認なさったのです。それはひとえに、私たち人間を救うためでした。神はご自分が犠牲を払ってまで、罪人を救おうとされた愛の方です。

 神は愛です。生まれながら、罪を持った人間を救うために、イエス・キリストの十字架という大きな犠牲を払ってまで、皆さん一人ひとりを愛して下さる方です。その神が望んでおられるのは皆さんが、罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じて永遠のいのちを持つようになることです。是非、神の深い、大きな愛に応答してください。(牧師:北林行雄記)

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