会堂用地の草刈り

今年の初め漸く取得できた会堂用地の草刈りです。主日礼拝が終わった後、すっきり晴れ渡った秋空の下で汗をかきました。

実は、当教会の教会員の方ではないのですが、「草刈り大好きです。草刈りが趣味のようなものです。」と仰言って下さる方がおられまして、その方が既に草刈りをしていて下さっていて、私たちはお蔭でこの日一日であらかた草刈りを終えることができました。本当に感謝です。また、皆も今日はまだ残暑の残る中ではありましたが、快い汗を流してくれたと思います。
どんなことも感謝の気持ちですることは清々しいものです。疲れました

がね(^-^;

あらためまして

皆さん、はじめまして。
私は、富山聖書教会の牧師、北林行雄です。よろしくお願いいたします。
私は21歳のとき、初めて聖書に出逢い、イエス・キリストを自らの救い主として信じ
ました。その時から現在まで46年間、聖書のことばに導かれて生きてきました。聖書は
私の日々の糧です。毎朝、聖書を読み、そこから心の内に力を得て、一日が始まります。
あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。 聖書(詩篇
119:105)
聖書で描かれている神は、天地万物の創造者で全知全能の方です。しかも、愛の方です

私は聖書のすばらしさに打たれ、皆様に聖書の恵みを是非分かち合いたいと願い、45歳
からフルタイムの牧師となって富山聖書教会を開拓いたしました。それまで、大企業の研
究者や管理職をしておりました。キリスト教のことを学ぶために、カナダのバンクーバー
にあるキリスト教の大学院に留学を致しました。
皆さん、ご承知のように、富山は美しい自然に恵まれ、立山連峰と黒部峡谷があります
。また、富山湾の深海魚“しろえび”や“ほたるいか”は有名で、海外からも多くの観光客が訪
れます。海外ではキリスト教はポピュラーですが、日本、特に富山県は教会の数が非常に
少ないのです。
この“牧師の書斎”から、聖書のことばの解説や、富山の生活の中で味わうクリスチャンと
しての体験をお話させていただきます。よろしくお願いいたします。

教会ブログ開設しました

この教会は設立して20年以上になりますが、まだよちよち歩きの教会です。富山県という地方の更にまたその山間に向かった郊外にある教会です。歴史もなく、まだ教会の会堂もなく(現在牧師の自宅のダイニングキッチンを会堂代わりにしています)、教会員の数も少ないですが、その分これからの希望に満ちた教会だとも思っています。不備不十分は承知しておりますが、これから充実させていくことを楽しみにしている教会です。それでブログも開設しました。ブログを通じて皆さんと一緒にこの教会を育てていけたら幸いです。どうぞよろしくお願いします。

Toyama Bible Church
富山聖書教会

なぜ聖書を読む?

そもそも、なぜ聖書を読む?

「山路を登りながら、かう考へた、智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい。」
夏目漱石「草枕」冒頭の、とても有名な言葉です。

人は誰でも自分に対してネガティブな言葉を発せられることを好みません。友人からの忠告や諭しがあって、「良薬は口に苦し」という言葉を憶(おも)って、友人に感謝すれば、それはとても美しい友情物語ではありますが、しかし、それは結果論として後で思うことであって、その時はなかなかそうは思うことができず、意地を張って口論になったり、逆に彼奴(あいつ)は俺のことを誤解している、丸で分かっていないと仲違いをしてしまうことさえあるのではないでしょうか?だから、角が立たない様に、流されないように、窮屈な思いをしないように生きようとすると、結果住みにくいなぁと思う。
さすが夏目漱石、現実の人と人の間にある生き方の難しさを端的に表した名文だと思います。

しかし、だれしも誰かと争いたくて日々を過ごしているわけではありません。また、自分をないがしろにされたり疎外されたりすることを望んだりもしません。にも拘わらず、「争い」は人間の歴史とともに、イエイエ考古学的遺跡を見れば有史以前からも存在したことは容易に推測できます。

そう考えると、これは人類というものの宿命なのだろうか?と疑いたくもなります。だとすれば、自分達の努力ではどうしようもないことなのだと諦めるしかないのでしょうか?そうなのでしょうか?そこが問題だと思うのです。

確かに難しいことなのでしょうが、だからと言って、「仕方がない、何も出来ないのだから」と無為に生きるしかないのでしょうか?むしろ、「だからこそ」真剣に考えるべきことであるとは言えないでしょうか?「住みにくい人の世」を作っているのは、他ならぬ私たち自身なのですから。

多くの人々の中でよく見かけることですが、何かやろうとするとき、先にやらない理由を考える人がいます。結局、問題を先送りするわけです。
面倒なことはしたくない、誰かがやるだろう。誰かがやってそれの賛同者が増えれば、その時自分も乗っかればいいという人々です。結果、そういうことが世の中をつまらなく駄目にしていくのではないでしょうか?つまり、自分が自分で世界を駄目にしているということに気が付かないのです。

聖書の言葉にこういうのがあります。(マタイ4.3-8)
「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」(マタイ4-20)
と。

「良い地に蒔かれる」とは、「実を結ぶ人たち」に掛かっています。前に踏み出そうとせず、踏み出さない理由を考えることは罪であると、イエスは教えておられるのではないでしょうか?

聖書は、このように私たちにメッセージを送っているのだと考えられないでしょうか?
聖書をよく読んで、その御言葉に耳を傾けてみませんか。

聖書の言葉から

そもそも、なぜ聖書を読む?

「山路を登りながら、かう考へた、智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい。」
夏目漱石「草枕」冒頭の、とても有名な言葉です。

人は誰でも自分に対してネガティブな言葉を発せられることを好みません。友人からの忠告や諭しがあって、「良薬は口に苦し」という言葉を憶(おも)って、友人に感謝すれば、それはとても美しい友情物語ではありますが、しかし、それは結果論として後で思うことであって、その時はなかなかそうは思うことができず、意地を張って口論になったり、逆に彼奴(あいつ)は俺のことを誤解している、丸で分かっていないと仲違いをしてしまうことさえあるのではないでしょうか?だから、角が立たない様に、流されないように、窮屈な思いをしないように生きようとすると、結果住みにくいなぁと思う。
さすが夏目漱石、現実の人と人の間にある生き方の難しさを端的に表した名文だと思います。

しかし、だれしも誰かと争いたくて日々を過ごしているわけではありません。また、自分をないがしろにされたり疎外されたりすることを望んだりもしません。にも拘わらず、「争い」は人間の歴史とともに、イエイエ考古学的遺跡を見れば有史以前からも存在したことは容易に推測できます。

そう考えると、これは人類というものの宿命なのだろうか?と疑いたくもなります。だとすれば、自分達の努力ではどうしようもないことなのだと諦めるしかないのでしょうか?そうなのでしょうか?そこが問題だと思うのです。

確かに難しいことなのでしょうが、だからと言って、「仕方がない、何も出来ないのだから」と無為に生きるしかないのでしょうか?むしろ、「だからこそ」真剣に考えるべきことであるとは言えないでしょうか?「住みにくい人の世」を作っているのは、他ならぬ私たち自身なのですから。

多くの人々の中でよく見かけることですが、何かやろうとするとき、先にやらない理由を考える人がいます。結局、問題を先送りするわけです。
面倒なことはしたくない、誰かがやるだろう。誰かがやってそれの賛同者が増えれば、その時自分も乗っかればいいという人々です。結果、そういうことが世の中をつまらなく駄目にしていくのではないでしょうか?つまり、自分が自分で世界を駄目にしているということに気が付かないのです。

聖書の言葉にこういうのがあります。
「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」(マルコ4:20)
と。

「良い地に蒔かれる」とは、「実を結ぶ人たち」に掛かっています。前に踏み出そうとせず、踏み出さない理由を考えることは罪であると、イエスは教えておられるのではないでしょうか?

聖書は、このように私たちにメッセージを送っているのだと考えられないでしょうか?
聖書をよく読んで、その御言葉に耳を傾けてみませんか。

 

会堂建設物語

いよいよ会堂建設に向け活動がスタート!

会堂建設は当教会の長年の希望でありました。今年(2017年)の1月にようやく会堂用地を購入することができました。

それは多くの方々の支援があって初めてできたことです。ここに改めてこれまでのご支援を衷心より感謝申し上げます。

ただ、会堂建設はこれからです。更に主に祈ってまいります。

なるべく費用をかけないで—つまり、自分達の手でできるところはできるだけ自分達の手と知恵を使って—やろうと思っているのですが、それでも応分の資金は必要です。

主への祈りと感謝と恵みの中で、その資金を貯めてまいります。

これまで用地取得のご支援を頂きながら、重ねてのお願いはまことに恐縮ですが、今後とも変わらぬご支援を賜れば誠に幸いです。

これからは、会堂建設のご支援に感謝のご報告も兼ねまして、建設に向けての経緯を逐一このページの中でご紹介していきたいと思っています。ご支援をいただいている皆様に今どこまで行っているのかなどをご報告してまいります。どうぞよろしくお願い申し上げます。

牧師の書斎

このページは当教会の牧師が、自らのこと、教会のこと、聖書のこと、説教のことあるいは牧師生活のことなどなどを折につけ、思うところ、感じていることなどを、飾ることなくエッセイ風に書き連ねて行く(予定(;^_^A)のページです。

このページを通じて、ありのままの牧師を知って、身近に感じていただければ幸いです(^-^;

ことばは神と共にあった ヨハネの福音書1:1~5

 本日からヨハネの福音書の学びを毎月開始します。この福音書はイエス・キリストの12弟子のひとりであるヨハネによって書かれたものです。ヨハネは“雷の子”と呼ばれるほど、気性の激しい人でした。彼はペテロと共にエルサレム教会の指導者のひとりとなりましたが、晩年は迫害により捕らえられ、パトモス島に島流しになりました。ヨハネの黙示録はそこで執筆されたものです。また、ヨハネの福音書は彼が90歳近くになったときに執筆されたと言われています。その頃はすでにマタイ、マルコ、ルカの三福音書は出来あがっていたと思われます。そこで、ヨハネは他の3つの福音書にはない出来事や主イエスのことばなどを多く記載しました。

 「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(1節)。

皆さん、この“ことば”は何を指しているか、直ぐに判られるでしょうか? この“ことば”はイエス・キリストを指しているのです。ヨハネの福音書にはイエス様の御降誕の記事はありません。この福音書においては、イエス様は初めから万物の創造主なる神と共におられた方であり、万物の創造の御業にも参画された方であると述べられています(3節)。 

原語の聖書では、この“ことば”とはギリシャ語のロゴスです。ロゴスは「知恵、英知」と訳され、重い“真理のことば”をさします。それゆえ、イエス・キリストのことばは真理であり、神のことばです。

 「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」(4節)。神の“ことば”によって人間のうちに注ぎ込まれたこの“いのち”は単に肉体的、動物的ないのちではなく、人間として生きる人格的、霊的な機能を生み出す(源泉となる)いのちを意味します。神を礼拝し、神と交わることのできるいのちです。何と素晴らしいことでしょう!

 

 人の光となるいのちとは何のことでしょうか?このいのちは「主イエスを信じる者に与えられる永遠のいのちのことであり、肉体が死んでも生きるいのちです。」つまり、ヨハネの福音書11章25節にある「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」に示された“いのち”、すなわち、イエス様が復活されたように、信じる者も肉体が滅んでも、霊的に、永遠に生かされるのです。

 “光”とは、詩篇36篇9節「いのちの泉はあなたとともにあり、あなたの光のうちに、わたしたちは光を見るからです。」とあります。つまり、イエス・キリストにある光のことです。私たち人間は皆、生まれながら原罪をもっています。罪ある世界は神の眼から見たら暗闇の世界です。罪ある人間は死後、裁かれなくてはなりません。真っ暗やみの中を夜、歩くと怖いですね。光が必要です。主イエスと共にあるなら、闇の中を歩まなくていいのです。

 ヨハネ福音書1章5節を見ましょう。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」。私たちがイエス・キリストを自らの救い主と信じ、主と共にあるならば、光のうちを歩むことができるのです。落ち込んだり、悲しんだり、嘆いたりしなくて、喜びの中を歩むことができるのです。そして、最終的な到達点は天の御国です。本当に素晴らしい恵みですね。

 

 皆さんもご存じのように、北海道の三橋萬利(みつはし みつとし)牧師のことが思い浮かびました。三橋牧師は生まれたときから身体に障害のある方でした。脳性麻痺に冒され、両足はまったく機能を失い、歩くのはもちろんのこと、立つことすらできません。右手は全然動かず、左手が少々きくだけの状態でした。そのため、三橋さんは小さい時から「自分は何の役にも立たない暗やみの人間だ」と思い込んで生きて来られたそうです。著書「北国に駆ける愛」の中で、「人間にとって自分の存在になんの価値も意義も見出せないことほど悲しく、辛いことはありません。この悲しさとつらさは、私がイエス・キリストに出会う時まで続きました。」と書かれています。三橋牧師は長い間まったく光のない、孤独で、暗やみの中にいる思いで過ごしてこられました。

 三橋牧師が友人の紹介で聖書を読むようになり、教会に集うようになりました。三橋さんは聖書から本当の神様がおられることを確信し、自分のような不自由な身体を持った人間でも、他の人々と何ら変わらない一人の人間であるという自己の尊厳を持つようになられました。

 以下、著書に、こう記しておられます。

世間一般では、人の値打ちをその人の能力、学歴、財力、社会的地位などによって判断するのが普通です。だからこそ私のような境遇にある者は、いつもセルフイメージを低くしてしまうのです。それまでは「私は何の役にも立たない者だと思っていました。しかし聖書には、「天と地を創造した」神が「人をご自身のかたちに創造され…‥神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」とあります。人間を差別せずに男と女とをお造り下さったのです。男と女とを同じ人間としてお造り下さった神の前に、私も一人の人間だということが判った時、私も他の人々とまったく同じ者であることを知ったのです。」

それから彼の人生は暗やみから光の中に移され、生きる喜びが与えられ、神様の恵みを伝える人に変えられたのです。

皆さん、どんな環境の中にあっても、三橋さんのように、いつも主イエス様を見上げ、与えられた人生を感謝しつつ、歩んでまいりましょう。(牧師:北林行雄記)

教会こぼれ話

教会は現在、牧師の自宅のリビング兼ダイニングキッチンの部屋を利用しています。愛餐会の準備も月一回ここで行います。
従いまして、説教の最中においしい匂いがしてくることがあるわけです。牧師は真面目ですから、聴衆には説教に集中してきちんと聞いて貰いたいと思う。一方聴衆は早く説教が終わらないかと思い始め、腹の虫がならないようにそっちが気になり、説教が頭に入らない。
つまり、心の満腹か、肉体の満腹かの究極の選択を、聴衆が心ならずもすることになりわけです。大抵は後者の方が勝ってしまうのですが(少なくともわたくしは(;^_^A)。
これは困ったことです。ですから早く会堂を建てたい。しかし、建ったらきっと、お腹をグーグー言わせながら早く説教が終わらないかと思ったことが、懐かしく想い出されることになるんだろうな。早くそうなりたい(^^ゞ
教訓、「不都合は、修行の恰好の機会である。」(^^;)