新潟の亀田キリスト教会を訪問しました

10月28日(土)に牧師夫妻と教会役員3名で亀田キリスト教会を訪問いたしました。亀田キリスト教会は今年5月に会堂を新しく建てたということで私たちの会堂建設の参考にできればという思いからです。

亀田キリスト教会の松下展久・紀美子牧師ご夫妻が温かく私達を迎えて下さり、とても親しくフレンドリーな交わりの時間を持つことができました。本当に感謝なことでした。

1.会堂の様子

会堂は木造で温かい印象を受けるものでした。また会堂の中は固定的に区切るのでなく、いろんな用途にも応用できるようにと可動式で開放的なものになっていました。また会堂の天井も高く、より広く感じられる会堂となっていました。

会堂正面
講壇正面
会堂内
玄関
会堂後ろ(調理場)
母子室
トイレ

2.会堂の目的

松下牧師は、教会単に教会員や信徒のためだけでなく、包括宣教として広く地域に根差したものにしたいと仰っておられました。そして現にそのように教会を開放し地域のために活動をしておられることが印象的でした。

a)子供達とその家族向けにこども食堂を教会を開放して月一回開設

b)喫茶場所として開放 主にシニア向けに気軽に寄って頂こうと開設

c)英語教室 子供たちの勉強に役立てようと開設

3.会堂建設の経緯

会堂を新しく建設するに当たっては、当初反対もあったそうです。新しい負担が増えるだろうと考えられるからです。また最初から目処があったわけではなく、牧師は真摯に一生懸命、主に願って祈っていきながら、その時々の状況を勘案しながら、資金面についてもできうる対応(例えば、前の教会の土地の売却など)を工夫していかれたそうです。

まずは願って祈り、現実にあたってはおかれた状況を判断して、できることを工夫していくということは我々にも大いに励みになることでした。

秋の夜長の徒然

秋の夜長の徒然(つれづれ)に、ふと見つけた学生時代のノートを開いてみた。

今見ると、随分硬いことを書いているなと思う。自分が書いたことながらどこかよそよそしく感じるのは、今の自分が良くなったからか、悪くなったからか・・・。言葉の節々に感じる気負いと自信、しかしそれは一方で不安の裏返しでもあったし、焦りでもあった。それは、そもそも自らの存在根拠は何か、生きる意味は何かを求めようとして得られぬジレンマから来ていた。それを求めようとすること自体に、自らの欺瞞のようなものを感じてもいた。ただ根拠がないということを認めたくない。そのことを素直に凝視する勇気がなかったのだ。おのれを空しくすることを頭では考えられても、実行はできなかったのだ。

だが、その時はその時代の、その社会の中で懸命にそれでも生き方を求めていたのだと想うと、今思えば歯痒くもあるが、どこかいとおしくも感じる。

ただ、今、人生の幾山河の中の喜怒哀楽を、それはそれで懐かしく素直に想い返せるというのは、やはり重ねた歳がそうさせるのか。あるいは秋の夜長の所為かしらん。

やさしさも ほどほどなれや 秋の風

祈りの支援 コロサイ4:2-4

コロサイは紀元前4~5世紀には東西貿易で栄え、小アジアの主要都市でしたが、後に衰退しました。

使徒パウロはエペソ伝道の折、コロサイ出身のエパフラスを導き、彼は主イエスを信じ、熱心なクリスチャンとなりました。彼が郷里コロサイで開拓伝道をし、コロサイ教会が生まれたのです。

この若い教会は異邦人会員で主に構成され、異教思想を背景に持った人々が集まっていました。そのため、異端による攻撃のターゲットになりました。
パウロは弟子のエパフラスからコロサイの状況を聞き、祈りを込めて、この手紙を送りました。

それは、コロサイ教会の人たちが福音の正しい知識で満たされ、主の御心にかな
った信仰生活を送り、喜びをもって主なる神に感謝をささげることができるようにと、絶えず祈り求めていたからです(コロサイ1:9-12)。

また、パウロからもコロサイ教会に対して以下の祈りの支援を要請しました(同4:2-4)。
1 目をさまして(マタイ26:38,40比較参照)、感謝をもって、たゆみなく(執拗に、勤勉に)祈りなさい。
2 パウロ自身が牢の中にあっても、神が御ことば(福音宣教)のために門を開いてくださり、キリストの奥義を語れるように!
3 当然語るべき語り方で、キリストの奥義をはっきりと語れるように!

使徒パウロは福音を語ることで、激しい迫害に遭い、死を覚悟することが何度もありました(Ⅱコリント11:23-30)。しかし、福音宣教の情熱は変わることがありませんでした。

大伝道者であるパウロでさえ、信徒たちによる祈りが必要でした。大きな働きをする人には、サタンも強力な攻撃を仕掛けてくるからです。宣教師や牧師、伝道師のために熱き祈りをささげましょう。


ーそうですねぇ。パウロさんてぶれないのよねぇ。私、よくわかる。それ頷けるのよね。

ーあなたもですか。すごいですねぇ。信徒の鏡ですなぁ。パウロさんはきっとイエスの御言葉の真理をきちんと理解されたのでしょうね。そして、その真理を知った以上、肉体の責め苦や他人の誤解や無理解などがあってもぶれようがなかったのですね。また真理を知るということは強くなるということではないのですよね。弱いあるがままの自分や人々をそのままに理解するということなんですよね!そして、弱くて罪あるということは、人というものの結論ではなく、人の生きる前提、出発点なのだ。つまり、人は何であるかではなく、何であろうとするかが大事なのですよね。だからこそ神を崇め、友として弱き者として、人への愛情が満ちてくるんですよね。なんか私そう思うんですよね。アハハッ。#なんか俺、いいこと言ったなぁ(;^_^A

ー・・・? わたしが言いたいのはね。この間もね。息子が勉強もしないでゲームばかりやっているもんだから、そんなものいくらやってても一人前の社会人にはなれないし、生活もしていけないのよってね。我慢できなくて怒鳴ったのよ!最近、変にわかったふりして子供にご機嫌とるようなことする親がいるじゃない?でも私は自分の信念まげなかったのよ!

ーえ?あ、そっち?あなたのムチはそれですか?あなたはムチ打つ方だったんですね(-_-;) ムチは無知に通ず?あ、いえ、なんでもありません(-_-;)

信徒はシンド―?

信徒の楽園ダジャレシリーズ

・信徒ぅ 滅却すれば 主もまた近し(なんのこっちゃ(;^_^A)

・みなさ~ん 信徒は信徒らしくぅ あぁシンド(信徒)(;^_^A

・みなさ~ん 教会では し~んと(信徒)(;^_^A

・このダジャレ 浸透(信徒ー)しましたかぁ(;^_^A

#ア、この楽園は信徒の楽園です。ダジャレの楽園ではありません!m(__)m

松原湖研修会から

 102日から4日間、日本同盟基督教団の研修会で、長野県の松原湖バイブルキャンプ場に行ってきました。聖書のメッセージ励まされ、尊敬する牧師や宣教師の方々との再会、美味しい食事を満喫、大変恵まれました。他にもう一つ、本当に素晴らしいものがありました。朝の散歩です。早朝5時に起きて、聖書を片手に、松原湖の湖畔を30分かけて散歩しました。美しい大自然の中で聖書を開き、創造主なる神の前で心を込めて祈るひとときは(心筋梗塞を病んだbodyには良くないそうですが・・・)、感激です!! 

 特に、富山聖書教会の会堂建設のことを覚えてひたすら祈りました。祈っていると、次のことばが心に響いてきました。聖書のことばです。

私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」詩篇121:12

 教会堂建設は大きな祝福があります。しかし小さな教会にとって経済的に多大な負担を負うことになります。たとえそうであっても、弱いにこそ、神の力、キリストの力が大きく働くことを、聖書は約束しています。“信仰をもってチャレンジせよ”と主が力強く励ましてくださった気がしました。どうか、皆様、お祈りください。主が素晴らしいことをなさって下さるよう願っています。

イエスを土台として

ーーー今日の説教

「主イエスを土台にして」 コリント人への手紙第一3:10~15

教会はイエス・キリストを信じた人々の群れです。使徒パウロは命を賭けて福音宣教と教会形成をしましたが、今朝、その働きの大切なポイントを考えてみましょう。

  • 賢い建築家のように土台を据えた。その土台はイエス・キリストである(Ⅰコリント3:10-11)。教会はイエス・キリストを土台にして建てあげられるべきもの。
  • 建て方はそれぞれ異なるが、やがて各人の働きが明瞭になる時が来る(同3:12-14)。
  • 建物が消失しても、その人は助かる(同3:15)。キリストを土台にしているから。

木、草、藁は焼けるが、金や銀、宝石は残る。

それでは、私たちが地上生涯で行った業で神の裁きの座で最終的に残るものは何でしょうか。「金、銀、宝石」は何を意味しているでしょうか。

一般社会でいう輝かしい業績でしょうか? そうでは、ありません。

そこで、教会は「キリストを土台として建てられている」ことに、着目してみましょう。

教会はクリスチャンの群れです。キリストの十字架の贖いによって救われた人たちの集まりです。教会の中で大切なことは、私たちを救ってくださった神の業です。

それゆえ、第一にすべきことは、神の業に感謝して、神を愛し、神を賛美することです。

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」(マタイ6:32)。

第二に、自分が神によって赦されたことを覚えて、兄弟姉妹がお互いに赦し合うことです。

続いて、使徒パウロの生き方に注目してみましょう。

第二テモテ4:7~8には

「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれでも授けてくださるのです。」

パウロは輝かしい経歴を持っていました。今で言えば、東大を卒業して国会議員になった人です。しかし、そのような経歴も「イエス・キリストを知っていることのすばらしさ」に較べたら、塵芥のようなものであると宣言し、ひたすら福音宣教のために人生を奉げた人です。私たちも、神様のために自らの賜物を用いて、奉仕することはすばらしいことです。

そして、パウロの偉大なところは、苦難にさらされても勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通したことです。

私たちも、パウロに習って神の御心に従った生き方をしたいものです。

皆さん、たといどんな環境の中に置かれても、主キリストに従って、忠実に信仰を全うしましょう。

ーーー今日のざわつき

ーイエス様を土台に?あらま、恐れ多い。

ーいや、別に踏み台にしているわけでは・・・。基本というか基準というか、そんな意味なんじゃないですか

ーあら、そうだわよね。びっくりした(^-^; あ、それからね、金銀宝石で家建てるって、本当ですか?そんな人います? 私思うんですけどね、あなた、そんなもので建てたら、第一泥棒が来て大変じゃないですか?!ま、余計なお世話ですけど・・・。

ーあ、なるほどぉ、そうですね。確かにそんな人はいないでしょうね。多分、言いたいのは、固いしっかりした信仰を持つということだと思いますよ。

ーそうなの? もっと分かり易くパウロさん喩えてくれないかしらねぇ。あなたどう思われます?

ーえ? あ、ハイ。いささか同感です。

ーいささか同感?

ーあ、いえ、若干同感?あ、いや、そうですね、そういう感想もないこともない、と・・・(-_-;)

おめでとうございまぁす!

当教会信徒の奥村夫妻のご長男が本日婚約をされました!

♥ お め で と う ♥

若いお二人が互いに相手を見つめ、そして一緒に主を見つめて、

新しいクリスチャンホームを築かれます様に!

 

信徒の楽園ページを設けました

これは当教会の信徒が、勝手気ままに信徒の信仰と不信仰のありのまま、そのままを書き連ねていきたいと思って設けました。なぜならシャッチコバッタ信徒告白ほど嘘っぽいものはないですから(;^_^A アセアセ・・・

不信仰だろうが、信徒らしくなかろうが、それの罪より、それを覆い隠す罪の方がよっぽど大きい罪ですから・・・。って、あまり自信ないですがね(;^_^A

信徒よ!自らの罪の無さを誇るな!誇るなら自らの罪の深さを誇れ!

ってか(-“-;A …アセアセ

わたしの目にはあなたは高価で尊い

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ書43:4f

これは、バビロン捕囚によって苦難と屈辱の中にあるイスラエル民族にその開放と自国の回復を予告し、慰めと勇気を与える箇所です。

「イスラエル民族か、自分には関係ない」と短絡的に思わないでくださいね。イスラエル民族をご自分と読み替えると、人生必ずしも順風満帆である時ばかりではないと思い当たりませんか?そんな逆風とも言えるとき、孤独を感じたり、ときに絶望したり、或いはしそうになったりすることもあるのは認めざると得ませんよね。自分にはどうしようもないときもありますよね。

今日、私たちは”何が起きるか分からない”時代に生きています。異常気象による天災もありますし、人間の尊厳を挫く戦争、そんなに大きくなくても様々な事件を毎日のニュースが伝えています。不安は尽きません。

そういう時私たちを落ち着かせ、不安の中、前に進ませる勇気をもつにはどうしたらいいでしょう。

そういうあなたをきちんと見ている方がおられると思うだけでも力が湧いてこないでしょうか?そういう方こそ信ずるに足る方だとは思われませんか?神とは、イエス・キリストとはそういう方なのです!

で、ここから教会のざわつき、

そうはいっても「高価」って、なんか値踏みされてるようで、ちょっとねぇ。そりゃあんた、わたしゃ安もんですよ。高価とはお世辞にも言えません。安いけど、それでも尊いと言われたら、私ちょっとホッとするんだけど・・・。これ、わしのわがままかねぇ。え?そう?(-“-;A …アセアセ

 

ある糖尿病患者と医者との対話から導き出される定理

ある糖尿病患者がちょっと気に入っている担当の女医に向かってこう言った。

「私は糖尿病を患い治療をこうしてしているわけですが、そもそもです、わたくしはもともと甘いものが大好きで、それをよく食べた。それでこの病気を患うことになったわけです。にも拘わらず、あなたは、私に以後甘いものは食べるなという。これはわたくしに、二重の責め苦を与えることになっています。精神的苦痛とそこから生まれる哲学的苦痛でです。これは治療していることになるのですか?」

女医「そうですか、その苦痛を具体的に」

患者「精神的苦痛とは、好きなものを我慢しなければならないというストレスです。」

女医「あ、精神的に苦痛ならば、精神科医を紹介しますが」

患者「そういうことを言っているのではない。精神科でストレスは治療できるかも知れんが、私の甘いもの好きを治療することはできんじゃないですか。つまり根本治療ができていないのだから精神科に通っても私の病は永久に治らんだろうということです。だから治療の意味があるのかということです。」

女医「根本治療ではなく、対症療法で十分だと思いますよ。ストレス治療で我慢できれば、それでいいわけですから」

患者はムカついた。

患者「それだけではない、そもそもそうまでして生きていく意味はわたくしに存するかという哲学的問題です。そうして食べたいものも食べずに、我慢して長生きすることにどれだけの意味があるのですかね?」

女医「そうですね、意味があるのかどうか私もわかりません。しかし、長生きしなければその意味の答えは見つかりませんよね。ですから長生きしてみましょうか。」

患者はまたムカッときた。内心、女医がたじろがずに答えたことに多少満足しながら・・・。

 

定理

「人間は、正論を言われるとムカつく動物である。」(屁理屈第一定理)

また、これから次の原理的予想が生じる。

「人間は、合理性をもって満足できない動物である。」(屁理屈第一予想)

「人間は、合理性か欲望かの選択を迫られるとき、欲望を選択する。」(屁理屈第二予想)

なお、第二予想は、

「人間は、合理性か信念かの選択を迫られるとき、信念を選択する。」に応用できる。

 

しかし、以下の場合は、その超越論的属性のゆえ、上記の定理を拡大できない。

「人間は、合理性か信仰かの選択を迫られるとき、誠実が真なるものとすれば、合理性、信仰のいずれをも選択しうる。」つまり、これは何れを選択しても互いの完全性を証明できない。

また、

「人間は、信仰か救いかの選択を迫られるとき、イエス・キリストの十字架がなんであったかを知る。即ち自らが救われたからこそ、信仰があることを知る。自らの信仰があったから、救われたのではないと。しかし、これの事実と重要性に気付く信者は稀である。」これを信者の不完全性定理という。

#アハッ、これ、全部ヘリクツですから(^^;)