クリスマス会を開きました

12月24日、教会員k姉妹の営む喫茶店で今年はクリスマス会を開きました。

この喫茶店でのクリスマス会は5年ぶりでしたが、本当に多くの方々が集まってくださり、大変恵まれた会となりました。

会の内容も特別に参加してくださったK姉妹の知人による腹話術あり、日本昔話からイエスキリストの話をアレンジした読み聞かせ、牧師のはなし、演奏会、O兄弟の手品、オカリナ演奏と本当に盛りだくさん演目で、多くの人たちが楽しんでくれたと思います。

クリスチャンでない人々も多く集まりましたが、ただ集まって飲食して、おしゃべりして終わるだけではなく、教会の開くクリスマスというイベントを通じて、イエス・キリストの誕生の意味と神の愛ということについてなにか感じられることのでき、心に受け止められるものが生まれましたら幸いです。この中からひとりでも救われる方が現れますようにと祈ります。

集まった方お一人ひとりに神の祝福がありますように!

 

腹話術
Kenちゃんの腹話術
読み聞かせ
絵本読み聞かせ
説教
牧師のはなし
演奏
ピアノとフルートの演奏(歌とリコーダーもありました)
余興
O会員によるオカリナ演奏と手品
クリスマス会
集まった教会員とその友人知人の人たち

 

クリスマスの準備で

毎年クリスマスが近づくと繰り返すのですが、バタバタするんですよねぇ。いい加減学習しなさいと言われそうですが、どうしてこうも毎年同じようにバタつくんでしょうねぇ(-_-;)

しかし、これを傍から見ると結構面白いかもですね。なぜって、人は切羽詰まらないと真剣にならない習性を持っているのかもと思ってしまうからですが(;^_^A

まぁ、焦るのを楽しむしかないか?!まぁ、忙しないことです(;^_^A

あ、クリスマスツリー忘れないようにしなくちゃ。あとなんだっけ?えっと。

救い主、その名はイエス~マタイの福音書1:18~23

クリスマス商戦で、大型ショッピングセンターやスーパーは大変にぎわっています。しかし、どんなに高価なプレゼントやおいしいケーキよりも、もっと素晴らしい贈り物を神がくださいました。それは、イエス・キリストのことです。この方は約2000年前に誕生されましたが、既にこの方の誕生の情報が約2700年前に預言されていました(イザヤ書7:14)。

1 処女が身ごもり、男の子が生まれる。処女マリヤはヨセフと婚約をしていました。その時にマリヤが妊娠したことを知ったヨセフは大変悩みました。婚約前に男女の交渉があれば、死罪になるほど、厳格な社会でした。ヨセフはマリヤを深く愛していましたので、彼女をさらし者にするより内密に去らせようと決断しました。(マタイ1:19)。その時、主の使いが、マリヤは男女の関係でなく、「聖霊によって身ごもったこと」を伝えました。ヨセフは安心して1年間の待機期間を終えて妻マリヤを迎えました。
2 その子の名前はイエスとつけられた。イエスは“インマヌエル”というヘブル語から由来し、「神が私たちと共におられる」という意味です。つまり、神の子が私たち人間の歴史の中に入り、私たちと同じように人生における痛みと苦しみを経験されました(ヘブル書4:15)。それゆえ、キリストは私たちの弱さや苦しみを本当によく理解することができる方です。
3 この方はご自分の民をその罪から救ってくださる。つまり、このイエス様が私たち人間の救い主であり、私たちを罪から救うために十字架にかかって死んでくださいました。

クリスマスの出来事、処女降誕は私たち人間を救済するための創造主なる神の特別な御業です。神の御子キリストを十字架にかけ、いのちを捨てるほどまで、罪深く、沢山の弱さを抱えている私たち人間を愛してくださったのです(Ⅰヨハネ4:10-11)。神の愛と恵みに心から感謝しましよう。

ーーーつぶやき

ークリスマスはいまでは宗教を離れて世界的なイベントだと思うんですよね。だけど、それだけにその原点を想い起すことは多くの人はしていないとも思うんですよね。

ーそうですね。これだけいろんな人が受け入れているとすれば、それだけ宗教色は薄まるでしょうね。しかし、だからそれがだめだと短絡的に言うことも、如何がかと思います。早急に結論づけることではなく、ただ、クリスマスという言葉の意味をなくさないように、私たちはしなければならないと思います。クリスマスが多くの人の喜びの祭典となればそれを素直に喜びたいと思うのですが。

ークリスマスの意味と言われますけど、処女受胎の奇跡は多くの人がすんなり受け入れるでしょうか?荒唐無稽な話で終わっていきませんか?

ーそうですね。ここは信仰ということに関わることでもありますから、クリスチャンとそうではない人の違いはあるでしょうね。ただ、ほかの人に無理やり理解して貰う必要もないのではないでしょうか?逆にそのような奇跡がないと信者はキリストを信仰できないのか?と言われそうですからね。私たちに大事なのはそれを証明すること(証明は不可能ですが)ではなく、信仰の目でそれを受け入れることだからです。私たちがただその信仰を得たことで、救われている喜びを素直に他の人に開示していくことなのではないでしょうか。

ーそれだけでいいですかねぇ

ー信仰を持つ人の間にあっては、互いにその信仰を深めるということは大事だと思います。信仰は単なる気持ちの問題ではないのですから。しかし、まだ信仰にいたっていない人々の中にあっては、信仰の深さよりも信仰の素直さをまず伝わる様にできればいいのかなぁと。ま、言うは易しと言われそうですが(;^_^A

今年を振り返って

2017年12月9日   信徒A

今、大河ドラマのヒロインを務めた柴咲コウさんの振り返りインタビューをテレビで見ながら、この原稿をしたためています。12月はいろいろ一年を振り返る機会となる月ですが、今年は私にとってもいろんなことを経験した年となりました。

今年は教会としても願い、祈っていた会堂建設に向け、1月にその一歩となる土地の登記をすることから始まった年でした。わたくしもこの一年は聖書読書会、ホームページの作成など新たな試みを始めた年でした。

読書会は、聖書を何気なく読むのではなく、考えながら、思いを致しながら読むということ。聖書を漫然とではなく味わって読む。そして感じ、考えるということを信徒として他の信徒と共有したいと思ったからでした。その思いがすべての信徒に伝わったかどうかは分かりませんが、聖書を読むにあたって疑問を持つことをタブーとしないということ、時にはなぜかを考えることによって、聖書の何たるかを理解しないまま過ごすことがなくなり、信仰の深みも、主への思いも、新たにできればという願いからでした。これを機に聖書を改めて精読することを始めた人がいたとしたら、提案し、始めた私には望外の喜びです。

また、HPの作成は、当教会の雰囲気や活動などを広く知っていただき、そして今この教会が会堂建設をしようとしていることを通知して、賛同を得て献金を募ることを目的とすることでした。なぜならこの教会は組織がまだ小さく資金的に厳しいものがあるからでした。しかし、だからと言ってそれを理由に会堂の建設を諦めるのではなく、できることをしていこうと考えたからでした。努力もなにもしないことではなく、努力することが主の御心に適うことだと思ったからです。だからと言ってすぐに何かの効果が表れるとは思ってはいません。ただ倦まず弛まず、この努力はこれからも続けて行こうと思います。願わくば、多くの人にこのホームページに参加して貰えればと思います。

何かを始めることは、すべての人と共に進めるということには必ずしもなりません(たとえそう願うとしても)。否定から始める人、参加を面倒と思う人、人ごとのように思って関わらない人、そういう人は必ずいます。確かに意に反することもあるでしょうし、面倒臭くなることもあるし、自分の利害に関係ないことに首を突っ込みたくないという気持ちはあるでしょう。私も同じです(残された日々を晴耕雨読で過ごすのがわたくしの理想です)。もし、この世に誰の力も借りず一人で仙人の様に生きていけるというのであればそれは可能でしょう。しかし残念ながら、人との交わりが社会である以上、その様にしたところで何かが解決するわけでもありません。ただ目の前にあることをなかったようにして事なかれで過ごしているにすぎないのです。日々を新たに生きるということはそういうことではないでしょう。目の前にあることを少しでも良くしていこうと、一人ひとりが努力することが前に進むということだし、生きることだと思います。

イエス様が集まった群集に対して、宣教を開始して最初に発せられた言葉は、「悔い改めなさい」(マタイ4:17)でした。また「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネ3:3)とも言われました。人は罪びとです。しかしだから「しょうがない」ではなく、たとえ罪びとであったにしても、改め続け、生まれ変わり続けなければならないということをわたくしたちに諭しておられるのではないでしょうか。人は「今なんであるか」ではなく、「今何になろうとするか」が肝要なのであると。この年は改めてそのことを示された思いでした。それが私のこれからの希望となるでしょう。

人類の希望の光 ~ イザヤ書9:2,ヤコブの手紙1:1-8

イスラエル人は苦難と闇の中を何度もくぐって来た民族です。何故彼らはそのような目に逢ったのでしょうか。彼らは信仰の父アブラハムを先祖とし、神の選びの民でしたが、プライドが高く、心が頑なで、主なる神の教えに背いてきたからです。しかし、主は愛の神であり、その恵みは変わることがありません。イザヤ書9章2節には「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」と書かれています。

イスラエルは紀元前722年にアッシリヤ軍によって占領され、住民はアッシリヤに強制移住させられ、非常な苦しみを受けますが、預言者イザヤは「闇の中に輝く大きな光」の出現を確信していました。歴史的に見れば、イスラエル人の苦難からの解放で、国の再興のことでした。さらに、この箇所は「全人類のための救い主イエス・キリストの誕生」を預言しています。その預言の約700年後に、イエス・キリストは誕生されました。

私たちの生涯において、幾つもの試練がやって来ます。しかし、どんな苦しみの中にあっても、希望があるのです。私たちのために十字架にかかって死んでくださった救い主イエス・キリストがいつも支えてくださり、励ましてくださるからです。それゆえ、堅く信仰に立ち、少しも疑わずに、試練をも喜びとして、忍耐して歩みましょう(ヤコブ1:2-8)。

ーーーつぶやき

ー 私、このイスラエル人の話を聞いて、誰かに似てるて思ったのよね。誰だろうって考えてたら、なんと私の連れ合いと一緒と思ってしまって・・・。あ、思い出すと腹立ってきた。あの頑固オヤジ!

ー (^^;) でも、あなたがやさしくなさると、きっとご主人もやさしくなられますよ。「大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」と書いてあるではありませんか。そのように思われたら如何でしょう。

ー そうでしょうか?つけあがりませんかねぇ。もっともあの人の頭は最初から光が照ってますけどね(笑)ま、クリスマスも近いですから、少しやさしくしますかね。つけあがらない程度に。

ー (;^_^A ぜひそのように!

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます。

(手前右端が高橋牧師)

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)

11月26日の主日礼拝は、いつもの北林牧師が、神奈川県にある兄弟教会、青葉キリスト教会に出向かれているため、代わりに福井から高橋牧師が当教会で説教奉仕をしてくださいました。

マタイ11章28節の御言葉を中心に説教をしてくださいました。当初は牧師自身は一生懸命信徒を牧することが自らの使命として、教会で牧していたがそれが自らをどんどん追い込むことになり、本来喜びであるはずの「牧する」ということが苦しくなっていったと自らの体験を話しながら、この御言葉の意味を話してくださいました。人を癒すためにはある意味自らが癒されていないといけないということでもありましょうか。

大きな声ではありませんでしたが、落ち着いたゆったりとした説教でした。文字通り癒しの説教であったといえましょう。ありがとうございました。

ーーー

実はこのホームページのtop menuにもこの御言葉をあげています。あわせてご覧いただければ幸いです。

預言者イザヤの召命

(イザヤ書6:1~13)

イザヤは旧約聖書を代表する預言者で、南王国ユダのウジヤ王からヒゼキヤ王に至る約50年間活躍した人物です。ユダのウジヤ王が死亡した年、彼は特別な体験、すなわち、天地万物の創造者である神を見たのです(イザヤ6章)。
イザヤは神の聖さと栄光に圧倒され、自分が唇の汚れた、罪ある者であることを痛感して「ああ、私はもうだめだ」と死を覚悟しました(同6:5)。
そのとき、主は御使いを遣わして、祭壇から取った燃えさかる炭をイザヤの唇に触れさせ、彼の不義を取り去り、罪を贖ってくださいました(同6:6-7)。彼は、主なる神に命を救っていただいたのです。
「誰を遣わそうか」と言われる主のことばを聞いたとき、イザヤは、「ここに私がおります。私を遣わしてください」と自発的に応答しました(同6:8)。実は、その後彼に託される任務は簡単なものではありませんでした。すなわち、同胞イスラエル人が受け入れ難い厳しい「主のことば」を、たとえ迫害があったとしても、伝えなければならなかったのです(同6:9-13)。

<私たちの信仰生活への適用>
1 イザヤが主なる神に会うという体験をしたように、私たちも、日々の信仰生活の中で主と出会って心砕かれ、主の前に真実に生きることが大切です。確かに肉眼では見えませんが、信仰により心の内で主の教えを吟味し、主の臨在を体験することができます。

2 イザヤの応答は救いの喜びと神の恵みに対して自発的なものでした。私たちも自発的に主に対する感謝の気持ちを表し、心から喜んで奉仕をしたいものです。

ざわつきーーーー

ー イザヤさんという人は主に対して非常に素直に自らをへりくだることのできる方ですね。私たちも主の前に自らの心を砕いて、主の御心を感じるようにしなければなりませんね。

ー あら、私だって神様は恐れておりますし、神様を信じておりますとも。でも耳をすましても、神様の声ってよく聞こえないんですよね。

ー そうですか。多分、耳をすますというより、心をすますと良く聞こえるかもしれませんね。その心をすますという状態が大事なのでしょうね。つまり、聞こうとするのではなくて、なんと申しますかただじっと心を静めて待つと申しますか。なんかそのような感じでいるということでしょうか?

ー はぁ、「心を静めて、ただじっと待つ」ですね・・・あら大変、鍋を火にかけっぱなし!

ー (;^_^A

93歳の一人暮らしのおばあちゃんを訪問して

 

私は民生委員・児童委員を7年間しております。地域の子供たちの登校時見守りや、高齢者訪問、配食サービスを行っております。私が担当する一人暮らしの高齢者の中に、93歳のおばあちゃんがおられます。その方は元気で、毎日畑仕事をして沢山の野菜を育て「ています。自分で食べるよりは何十倍も多い量です。そんなに作ってどうするのでしょうか。彼女は新鮮な野菜を郵便局などいろいろな所に配っています。それが、彼女の“生きがい”であり、健康法です。それで、私が訪問すると、いつも新鮮な野菜が準備してあって、手土産を渡されます。私は4年前に急性心筋梗塞をしました。減塩食を医者から勧められて、毎日沢山の野菜を食べるので、おばあちゃんから頂く野菜は私にとってすばらしい恵みでされます。嬉しい顔をして話されることを無下に中断はできませんし、頑張って生きておられる彼女の姿は私も大変嬉しいからです。

ふと、イエス・キリストのことを思い浮かべました。私たちは祈りを通して救い主イエス様にす。

その代わりと言っては何ですが、じっと耐え忍ばなければならないことがあります。彼女は話好きで、最低30分は、時々1時間以上、玄関先で立ったまま話を聴いてあげることが要求自分の気持ちを打ち明けます。どんなチッポケなことでも、イエス様は辛抱して聴いてくださいます。93歳のおばあちゃんとの会話で、しみじみと主イエスの忍耐と愛の深さを実感しました。主よ、感謝します。

ひとりの罪人を救うために~ルカの福音書15:4~10

イエス・キリストのもとには、いつも取税人や罪人たちが話を聞こうとして集まっていました。その人たちを受け入れ、一緒に食事をされるキリストの姿を見たパリサイ人たちは心の中で批判していました。

人の心を理解されるキリストは彼らに二つのたとえ話をされました。一つは百匹の羊のうち一匹がいなくなったので、その羊を一所懸命探し歩く持ち主で、もう一つは十枚の銀貨のうち無くなった一枚を徹底的に捜す女の話です。このたとえから何をあなたは学び取るでしょうか?

1 いなくなった羊や無くなった銀貨は、罪人(失われた人)を象徴しているのです。罪人とは生まれながら罪(自己中心の心)を持っている私たち人間のことです。それは、神との本来の関係を失った者という意味です。
2 羊の所有者や女の人に表わされるように、神は犠牲を払って、失われた人を捜し当てられます。
3 失われたものを捜し当てた喜びは非常に大きいということです。

事実、神の御子キリストは十字架にかかり、いのちを捨てて、私たち人間のすべての罪を贖ってくださいました。このことにより、“イエス・キリストを自らの救い主と信じる人”は神との本来の関係を回復できるのです。神は私たち人間を救うために、大きな犠牲を払ってくださいました。あなたも神を信じ、船が港に着くように、心の港にたどり着けますように!聖書にこう書かれています。

「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない99人の正しい人に勝る喜びが天にあるのです」(同15:7)。

ーーー

ーごめんなさい、私いつも思うのですけどね。1匹の羊を探すのは分かりますよ。でもね、99匹はきちんと従っているわけですよね。おとなしく従っている99匹をないがしろにすることになりませんか?なんか真面目にやっているものが割を食っている気がするんですよね。

ーそうですか、そのようにお考えですか。一つお訊ねしますが、もしあなたがその99匹の中の羊だとして、迷子になった羊を心配して、あなたは一緒になって探そうとはなさいませんか?

ーえっ?あ、まぁ言われれば探さないこともないですけど・・・。

ーですよね。大事なのはあなたがどう扱われたかではなく、あなたがどうしたいかが大事なことなのではないですかねぇ。ときには99匹の中の一匹になって自分を考えてみるとわかることもあるのではないですかねぇ。あ、出過ぎたことを云いましたm(__)m。