ルツの信仰~ルツ記1:1~18

ルツは異邦人(ユダヤ人以外)でありながら、イエス・キリストの系図に登場し、ダビデの曾祖母に当たる女性(マタイ1:5)です。

彼女の姑ナオミはユダのベツレヘムに夫と二人の息子と住んでいましたが、飢饉のために異邦人の地モアブに引っ越しました。夫の死後、二人の息子はモアブ人の娘ルツとオルパとそれぞれ結婚しました。

約10年間結婚生活を送りましたが、二人の息子も死んで、ナオミとルツ、オルパが残され(ルツ1:4-5)、深い悲しみの中に置かれました。そのときナオミは郷里ユダが神の憐れみによって飢饉がおさまり、パンを食することができるという情報を得ました。

そこで、彼女は嫁たちと連れ立ってユダの地に戻るため帰途につきましたが、ナオミはふたりの嫁に、自分達の幸せを求めて実家に帰ることを強く勧めました。なぜなら、ふたりの嫁はまだ若く、再婚のチャンスがあると考えたからです。その勧めに従ってオルパはナオミに別れを告げてモアブの実家に帰りましたが、長男の嫁ルツは「あなたの行かれる所へ私も行き、住まれる所に住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」と言って、ナオミと一緒に行くと堅く決心し、離れようとしませんでした(ルツ1:16-18)。

苦難が予想されるにも拘わらず、ルツは何故そのような行動を取ったのでしょうか。その理由は、

①ルツはナオミとの人間関係を大切にし、年老いたナオミを助けたいとの思いがあり、

②ナオミを通して主なる神の話しを聞いて、信仰を持っていたからです。だから、「主は私の神」と言いきったのです。

ルツはナオミと一緒に、大麦の刈り入れが始まった頃にベツレヘムに到着しました。そこでの二人の生活を賄うために、ルツは落穂拾いに出かけました。当時のユダヤ社会において、社会的救済として、畑に落穂を残し、それを貧しい人や在留異国人が拾う権利を与えていたからです。ルツが落穂を集めに行った畑は図らずも親戚のボアズの土地でした。

ボアズは買い戻しの権利を持った有力な親戚でした。ルツはボアズと再婚し、男子を出産しました。この子はオベデで、ダビデの祖父に当たります。オベデの誕生はナオミを喜ばせました。しかも、ダビデの子孫であるヨセフの妻マリヤから救い主イエス・キリストが誕生されました。

この事からわかることは、たとい悲惨な体験をしても、私たちが神を信じて従い続けると、大きな祝福を主なる神から受けるということです。希望を持って前進しましょう。

ーーーざわつき

ー あらまぁ、殿方には喜ばれる人よねぇ。ルツさんは。賢くて思いよりがあって、やさしい女って感じの人ですもんねぇ。だからって、こういう女性像ばかり求められてもねぇ・・・。私とはちょっと違うタイプだわね。ん?何か!

ー あ、いや。ただ、聖書の中には書かれていませんけれども、当然、ルツさんにも不安はあったでしょうね。義母さんと行動を共にするのは、勿論自分の意思には違いありませんが、その方が自分にとって明るい未来と希望があったからしたわけではないでしょうからね。むしろそういう不安を押しのけても、もっとこうしたいという思いが強かったのだと思いますね。単なる義理からだけではないと思うのです。

ー ま、それはそうですわね。今私たちは結果を知っているから、ルツさんを嫁の鑑みたいに思いますけど、本人の思いはそんな軽い動機ではなかったとは想像できますよ、私にも・・・。でもねぇ、なんかうまく出来すぎてる気がするんですよねぇ。動機が立派だからって、結果が必ず報われるなんてことあるかしら。

ー なるほどぉ、たまたまルツさんが上手く行っただけということですか?確かにたまたま上手くいったと言えるかも知れません。が、うまくいかなかったとしてもルツさんは止めたでしょううか?ルツさんは、こうすればうまく行くと計算してした訳ではないですよね。ただ自分がそうしたいという思いが、そういう行動をさせたのではないでしょうか?

ー まぁ、それはそうでしょうけど・・・。

ー そうしたいという思いはどこから来たのだと思われます。あなたがおっしゃる通り、そうしたから必ずハッピーエンドが待っているとは言えないですもんね。

ー そうよねぇ。

ー でも、義母さんと一緒に暮らすと強く心に決めていた。義母さんの面倒を見るのは私だと。これからこうして生きていくんだと決めさせたものは何だと思われますか?・・・それが主の御心に適うことだという、主を信じる思い(信仰)があったと思われませんか?この思い、行動の強さは、人間だけの思いで果たして実行できるでしょうか?先ほどあなたが、なんかうまく出来すぎてると思うとおっしゃいましたが、ルツさんは自分の思いでうまくやろうとかは全く思っていなかった。ただ、主の御心に添うことをしようとしただけ。だから、主がそれに応えられたのだとは思われないでしょうか?

ー う~ん、私、そこまでなかなかなり切れないのよねぇ。現実問題として。大体うちの旦那なんか、私がしてくれて当たり前だと思ってるんですから。せめて感謝の言葉ぐらいかけてくれていいと思いません?それって、報酬を求めてることになります?それぐらいいいんじゃありません?

ー あ、まぁ、お互い感謝の気持ちは大事ですね。

ー でしょ、私これから感謝の気持ちがなかったら、なんでもしてやるのやめようかしら。

ー あ、いや、だからと言ってですね。あれ、話が・・・(^_^;)

主を待ち望む~詩篇130:1-8

詩篇130篇は都上りの歌、つまり、エルサレム神殿へ礼拝に行くために巡礼者が心を整えるときの歌です。

彼らは自分を見つめ、自らの犯した不義を悔い改め、主なる神に救いを求めて呼びかけています(1~3節)。「深い淵」(2節)は詩篇69:2の「大水の底」と同じ言葉が使用され、自分の力ではどうしても抜け出せない状態を指しています。

続いて、作者は「私は主を待ち望みます。私の魂は待ち望みます。私は主の御ことばを待ちます」(5節)と言い、罪深い自分は、恵み深い主の赦しにすがるしかない心情を語っています。そして、明確な主の御ことばを期待して待ち、「夜回りが夜明けを待つ」(6節)のに勝る希望を持って、主を待つと宣言しています。
最終的に、作者は「主には恵みがあり、豊かな贖いがある」(7節)ことを発見し、深い淵の中にある人々を主が救済してくださると確信して、「主は、すべての不義から、イスラエル(主なる神を信じる人々)を贖い出される」(8節)と歌い、この詩を結んでいます。

主なる神は憐れみ深く、恵み豊かな方です。そのことを明確に表しているのは、イエス・キリストの十字架の贖いです。神の御子キリストは罪のない方であるにも拘わらず、生まれながら罪を持った私たち人間を救うために、自ら進んで十字架にかかって死んでくださいました。それにより、イエスを主と信じ、告白する人々は救われるのです(ローマ10:9)。なんと素晴らしいことでしょう。言い尽くすことのできない神の愛と恵みに心から感謝しようではありませんか。

ーーーざわつき

ー 詩篇て云うんだから詩よね。詩はいいわよねぇ。詩を語られたら女は弱いわよね。

ー そうですか。詩は美しい言葉を並べ、韻を含んだりリズムがあったりしますから人の耳に心地良い響きを与えますよね。ただ、この詩篇というのは、祈りの言葉でもあるんですね。神に対する魂の叫びでもあるんですね。そのような言葉として詩篇を聴いてくださるとまた、詩篇の意味の深さも理解できると思いますね。

ー そう?「私は主を待ち望みます。私の魂は待ち望みます。私は主の御ことばを待ちます」ですか。私そういえば、主にお願いごとはすることはありますけど、主を待ち望むとか主のみことばを待つとかはあんまりなかったかも・・・。お願いしたら、それで満足しちゃって(^^;

ー 確かにそういう方は多いかも知れませんね。でも先ほど、詩篇の言葉は、祈りの言葉でもあると言いましたけれども、祈るということは神の言葉を待つという事でもあると思いますね。神の声を聴くと言いますかね。単に自分の思いを伝えるということだけではなくてですね。多分そこが、お願いをするということと、祈るということの違いではないでしょうか。

ー なるほどねぇ。でも神様はいつ返事を下さるんでしょうねぇ。私ほら、せっかちでしょ。だから早くくれないと、お願いしたことまで忘れちゃうのよね。

ー あ、なるほど(-_-;) それは私にはなんとも・・・。ただ、耳を澄ますとしか・・・。心静かに耳を澄ましてくださいと。そしてよくても悪くてもその声に従う素直さが必要だと思いますね。

ー あら、悪いのは厭です。どうぞ、いい返事を下さいますように!

ー (-_-;)

 

 

 

いつも主にあって喜んでいなさい~ピリピ人への手紙4:4-7

“喜びの手紙”と言われる通り、ピリピ人への手紙に17回も喜びという言葉が使われています。この手紙の中で使徒パウロは、「いつも主にあって喜んでいなさい」と勧めていますが(4:4)、手紙を受け取る人達が良い条件が揃っているからではありません。むしろピリピ教会は誕生から迫害があり、常に厳しい環境の中に置かれていました。苦しい中でどうして喜ぶことができるのでしょうか。

喜びの秘訣は“主にあって”、つまり「主イエス・キリストと共にある」ことにかかっています。主イエスは私達のために十字架にかかって罪を贖ってくださった愛の方で、私たちを決して見捨てることはなさいません。その方が私たちといつも共におられて、私たちを励まし、支えてくださるからです。それゆえ、苦しみの中にあっても、いつも主にあって喜ぶことができるのです。

続いて、パウロは「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい」と勧めました(4:5)。つまり、主にあっていつも喜びに満たされていれば、キリストに習って、すべての人に対して寛容な心で接することができるようになるのです(4:5)。

また、私たちが日々喜んで生きるために強力な手段が与えられています。それは、あらゆる場合に“感謝をもって主に捧げる祈りと願い”です(4:6)。主があなたの祈りと願いを聞いてくださり、あなたに平安を与え、心と思いを主イエスにあって守ってくださるのです(4:7)。

皆さん、感謝して、いつも主にあって喜んでいきましょう!

— ざわつき

ー 迫害や苦しい目に遭っているときに喜びですか?正直なかなかそういう気にはねぇ。寧ろそこから逃げ出したいと思うのが普通じゃありません?私だけ?皆さんは?正直なところ・・・。

ー ・・・。まぁねぇ。あたしも、喜ぶ気にはならないわねぇ。でもここで言っているのは、そういう中でもイエス様が一緒にいてくださっていることを感謝するという気持ちで喜ぶということかしらねぇ。ま、それって単なる自己満足じゃない?と言われそうな気もするけどね。正直言えばね。

ー みなさぁん、幸せですかぁ? 私たちは不思議なもので幸せなときは、それを当たり前のことと思って、あらためて我が身を振り返って、それを幸せと感じることさえ思わなかったりしますよね。逆に不幸なことや辛いことがあると、却って幸せの意味を考えたりするんですよね。世の中は自分の思うようにいかないことばかりです。別に悪事を働いているわけでもないのに、辛いこと、苦しいことは、まぁこれでもかというぐらいよくやってきます。正直言いますとね、別に信仰を持ったからと言って辛いこと、苦しいことがなくなるわけじゃぁありません。減るということもないでしょう。信仰を持つとそれがなくなると思っているなら、それこそ手前勝手な望みというものです。大事なことは、辛いことや苦しいことがなくなることではなく、それから逃げずに立ち向かう力を持つことです。しかし立ち向かったからと言って、それを誰もが認めてくれるわけではありません。分かってくれるどころか誤解して陰口を叩く人さえいますよね。人というのは度し難いものです。勿論自分も含めてですよ。でもです。でもですよ。人間はそうでも、イエス様はそうでしょうか?神様はそうでしょうか?主は、ものを正しく見ていて下さると私は思うのです。それを信じるのです。そしてそれが私が正しく生きようとする勇気になっているのです。その思いがあれば、自分のことを棚に上げ、人のことをとやかく言いたがる人にも心を落ち着けて対応することもできます。「そういう人は、自分がその人より落ちた人間だとは認めたくないのだ。だからそういう人を悪く言うことで今の自分を正当化してるんだ」とね。要は人は罪びとなんだと。そして我が身を振り返ることもできるわけです。主はそういう私たちをわかって、そのあるがままの私たちをそのままで受け入れてくださっているのだと。それが主の私たちへの愛なのだと。それこそ喜びではありませんか、みなさん!

ー あら、今日は随分長い演説だったわね。割といいこと言ってたんじゃない?でも何言ってたんだっけ?

ー (-_-;)

ある信徒の断片的な詩から

なんかなぁ、

終わりがあるって、悲しいものですね

終わりがあるって、儚いものですね

終わりがあるって、切ないものですね

終わりがあるって、哀れなものですね

生きるって、だから物悲しいのだろうか

だって、どう頑張ったって、どうしようもないことだから

でも、だから人間て素直になれるのかな

素直になればこそ、見えたりするものもあるものね

感じたりすることもあるものね

素直に神様に向き合うこともできるだろうな きっと

自分を素直にするということは

神様が見えるってことかも知れないね きっと

 

主の恵みと導き:ヨナの回心から~ヨナ書2:1-10

旧約聖書に登場するヨナはユニークな預言者です。彼は、主なる神が「ニネベの町に行き、主のことばを語りなさい」と言われたのに、その仰せに従わないで、船に乗って反対方向のタルシシュに逃げようとしました(ヨナ1:1-3)。

その理由は、ニネベは敵国アッシリヤの主要都市であり、もしそこで主のことばを告げたら、人々は悔い改め、神の裁きを免れることになる。そうすると強敵が滅ぼされる絶好の機会を逃して、自国イスラエルにとって不利になると思ったからです(同4:1-2)。これは自国優先で、自己中心の考えですが、ヨナのみならず、どの人間の心にも潜む思いではないでしょうか?

彼の乗った船は大嵐に遭って難破しそうになり、その原因がヨナであることが判ると、海に投げ込んでもらって死のうとしました。海に投げ込まれたヨナは正しく死ぬほどの苦しみをしました。「水は私の喉を締め付け、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつき、地のかんぬきがいつまでも私の上にあった」(ヨナ2:5-6)と告白しています。その苦しみの中から彼は主なる神にお願いすると、主は答えてくださいました。主がヨナを助け、大魚の腹の中で生き延びるようにされました。主の命令を拒絶し、自死しようとした二重の反逆者ヨナを主なる神は赦してくださったのです。主は本当に憐れみ深く、情け深い方です。

主の恵みと憐れみに触れたヨナは回心して、その後、主の仰せに従って敵国の主要都市ニネベに行って、主のことばを伝えました。

注)神は天地万物の創造者であり、人間にいのちを与えてくださった。それゆえ、自死は神に罪を犯すことになる

—ざわつき

ー  この話知ってますよ。クジラのお腹の中に居たって話でしょ?これ書いた人面白いこと考えたわよね。それでなんか覚えてます。

ー  そうですか。確かにユニークですよね。で、このヨナさんの行動をどう思われますか?

ー  そうねぇ。でもなんか気持ちわかりますよ。私だって敵は滅ぼしたいと思いますもの。そしてそれが上手くいったら、国ではわたしは英雄として迎えられないかしらとかまで想像しちゃいます。ま、でも溺れて、あんな苦しみに合うのはいやですけどね。

ー でもヨナさんは預言者ですから、神がどのような方か分かっていた筈ですよね。それでも神の命令とは違った行動をとったということですよね。

ー そうね。止むを得ずね。

ー そうですね。ヨナさんのやったことは人間の社会では特に非難されることではないですよね。あなたもおっしゃった様に寧ろ英雄扱いされるかも知れません。しかし罰せられましたね。なぜでしょう?ここが考えどころじゃないですかね。

ー むずかしいわねぇ。

ー 自分の国では英雄かも知れませんが、敵国からは仇ですよね。恨みは残りませんか?恨みが残れば解決したことにはならないんじゃないですか?

ー でも皆殺しにして滅ぼしてしまえばいいんじゃないですか?

ー 敵とは言え、そこには子供も女性も老人もいるはずですよね。そのような弱い人たちが抵抗できたでしょうか?皆殺しとはそういう人も無差別に殺すということですよね。そうしなければ禍根を残すことになりますから。皆殺しにして証人はいなくなったとしても、天は知っていますよね。あなたは知っていますよね。

ー ・・・。

ー ここで大事なのは敵をやっつけたところで実は解決はしないということ!恕(ゆる)すこと!違いをなくすことではなく、違いを互いに認め合うこと!そういうことを学ぶべきではないでしょうか?そしてそれをするのは人間の思いではなく、神の思いを知り、神のみ教えに従っていこうとする心じゃないかと思うのですが、如何ですか?

ー あら、そんなことまで書いてありましたっけ?

ー あ、いや、ちょっと広げすぎましたが・・・。

ー そうよね。それよりこの話で私は、クジラのお腹の中に私も入ってみたいと思いましたよ。案外居心地いい気がしません?

ー あ、そこ?(-_-;)

悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。

これは、マタイの福音書の4章17節に出てくる言葉です。この言葉の前は、「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。」とありますから、マタイの福音書においては、イエスの最初の説教の言葉ということになります。(注:「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」という言葉はバプテスマのヨハネも言っていますから、この言葉自体はイエスが最初に言われたということではありません。ただ、「天の御国が近づいたから」の意味はバプテスマのヨハネとイエスとでは若干ニュアンスが異なると思います。しかしそれは、細かい文意の話になりますから、ここでは省こうと思います。)

さて、ふつう、「悔い改める」と言うのは、何かの失敗を反省してそれを改めるという意味で理解しますよね。だからそういう心当たりがなければ、「悔い改めなさい」といきなり言われても反発したくなりますよね。 “悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。” の続きを読む

恐れないで、語り続けよ~使徒の働き18:5~11

使徒パウロはイエス・キリストに出会って人生が180度変り、今まで強力に反対していたキリストの福音を命がけで宣教するようになった人です。(使徒:1-2,20- 21)

彼はコリントに来た当初は天幕(テント)作りをしながら宣教していていましたが、シラスとテモテが来てからは宣教に専念しました。その結果、会堂管理者クリスポ一家をはじめ多くのコリント人が信仰に導かれました(同18:5-8)。このような成功を収めている中で、パウロの心の中に大きな恐れがありました。どうしてそうなったのでしょうか。

その理由は、ユダヤ人たちの激しい迫害のためであり、自分が以前行っていたようにクリスチャンたちをどこまでも追いかけて徹底的に抹殺しようとする試みでした。そのためパウロは本当に弱さの中にあって、「恐れ、おののいていたのです」(Ⅰコリント2:3)。
落ち込んでいるパウロに主イエスは次のように言われました。

①「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。」(使徒18:9)。福音を宣べ伝えることを中止してはならない。

②「わたしはあなたと共にいる。誰もあなたを襲って、危害を加える者はいない
。」(同18:10)。このことばによって、信仰者は本当の平安が与えられて、いつも励まされます(マタイ28:20)、ヨシュア1:9)。

③「この町には、わたしの民がたくさんいるから。」(同)。すなわち、この土地で救われる人々が沢山起こされるとの約束です。本当に嬉しく、希望を与えることばです。福音宣教には涙と労苦があっても、必ずすばらしい喜びが待っているのです(詩篇126:5-6)。

ーーーつぶやき

ー パウロさんて、確か迫害者から転向して、イエスをキリストと認め宣教した人でしたよね。それはダマスカスで主の声を聞いたことがキッカケでしたよね。

ー 聖書ではダマスカスではなく、ダマスコとなっていますが、場所はたぶん同じですから、ま、いいでしょ。それはそれとしてパウロさんのことをよくご存じですね。

ー えぇ、まぁ。でも知っているのはそれくらいですね。あの人、ある時は強い人に感じるし、あるときは弱い人のようでもあるし、強い人なのか弱い人なのか、今いちよくわからないのよねぇ。

ー そうですね。弱く見えるときもあるし、強く感じるときもありますね。おそらくどちらでもあるし、どちらもパウロの本当の姿なのでしょうね。今日の箇所は弱いところの場面になるでしょうか。パウロはどちらにしても、いつも主に祈り、主を求めておられたことは、彼の手紙や、この「使徒の働き」の中でもよく分かりますが、その態度はいつも変わらなかったと思うのですね。そう考えますと、イエスをキリストと信じ、そこを出発点とする信仰を持ち、それが真実と分かっているから、いかなる困難や迫害にあっても曲げなかったということでしょうね。そこは強かったといえるでしょうか。どう思われます?

ー そこなのよねぇ。真実と分かる強さを、私たちは持つことができるのでしょうかねぇ。何しろあなた、そう思おうすると決まって邪魔が入るわけですよ。こっちは集中してそうなろうと努力しているのに、「おい、明日仕事で出かける所あるから、弁当作っといてくれ」とか「おかぁさん、明日友達と一緒に外で食べるから夕食いらない」とか、「おかぁさん、明日までにこのユニホームきれいに洗濯してアイロンかけといて」とか、まぁ、私をなんだと思ってるんでしょ。世の中雑音多すぎません?!

ー はぁ、それは大変ですね。お察しします。しかし、それはそれとしてですね。なるべく静かに祈りの時間をもって主に向き合うようにですね。そのぉ。

ー はい、わかりますよ。でも同情していただけます?大変なんですから。パウロさん、よく辛抱されましたよね。私は祈る前に、怒鳴ってしまいますよ。ホントに!

ー あ、そうですか。コ、困りこまりましたね(;^_^A

人とのふれあいの大切さ

今年も160枚以上の年賀状を頂きました。日頃なかなか会えない遠方に住む友人や先輩、恩師、教え子たちの情報がわかり、懐かしく味わいながら1枚1枚を丁寧に読みました。

若い世代は本人の顔写真入りで夢のあるものですが、高齢の方々のものは孫の写真が中心で、正に可愛くて、目の中に入れても痛く無いほどだという愛の思いが伝わってきました。

私の住む地域は高齢化が進んでいるところですが、最近団地ができて、若い核家族も徐々に増えてきています。また、3世代、4世代が同居している世帯も見られます。私は民生委員として、一人暮らしの高齢者の方を毎週訪問しております。彼らは会話を求めておられます。人間はひとりでは生きられません。人と人とが支え合って生きていくものです。

この観点から、若い世代と高齢者がお互いできることで支え合って生きていくことが望ましい姿かもしれません。 聖書の中に次の御ことばがあります。

「しらが(白髪)は光栄の冠、それは正義の道に見いだされる。」(箴言16:31)
「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、御馳走と争いに満ちた家にまさる。」(箴言17:1)

元旦礼拝 「主が新しい事をされる」 イザヤ書43:18~21

新年おめでとうございます。

 年頭にあたり、先ず聖書のイザヤ書43章から学びたいと思います。

 この書は紀元前700年頃に預言者イザヤによって書かれたものですが、イスラエルの歴史やイエス・キリストの誕生、終末、新天新地の到来に至るまでを描く膨大な書です。 “元旦礼拝 「主が新しい事をされる」 イザヤ書43:18~21” の続きを読む