天の御国が近づいたから

前回は、「悔い改め」とはそもそも自分とは何かをありのままに見つめることと言いましたが、今回はそれに続く言葉「天の御国が近づいたから」ということの意味についてお話したいと思います。

まず「近づいたから」という言葉に注目したいと思います。

なにかイチャモンをつけるようですが、「近づいた」とは、私たちが天国に近づいたのでしょうか?それとも天国が私たちに近づいたのでしょうか?

前者であれば、「悔い改めなさい」という言葉とつながりません。なぜなら、私たちが天国に向かって進んでいるのなら、私たちは神を目指す正しい方向を進んでいることになりますから、寧ろ別の励ましの言葉でなければならないでしょう。では、後者ということになりますが、これも私たちは天国に召されるとか、天国に行くとか言いますから、天国がこちらに向かって来るというイメージとは逆です。また正直、昨日の自分と今日の自分がそんなに違うとは思わないし、努力もした覚えがないので、天国が近づくことの嬉しい反面素直に頷けない自分もいます。

ではなぜ、「天国が近づいた」という事が言われたのでしょう?

もう一つ解釈することができます。私たちの今居るここが天国になるという意味です。しかし、どうしたらそうなるのでしょう。どうしてそんなことが確信をもって言えるのでしょうか?神の真実の言葉を、しかも直接聞かないでもしない限り、それは無理ではないでしょうか?まさにそれが「天の御国が近づいた」ということの意味ではないでしょうか?私たち信徒は、救い主(メシア、ギリシャ語ではキリスト)ということばを使いますが、救い主とは、私たちに神の真実の御言葉を確信をもって伝える方とも言えましょう。その方が来られる時が来たということだと思います。すなわち、その方の声が聴ける時が来たということだと。もっとも、その声を聞こうとしなければ虚しく響くだけでしょうが。

私たちは私たちなりにその歴史の中で努力はしてきたと思います。しかし、そのことで果たして天国に近づいたという確信が持てていますか?確かに人間が生活する上で便利になったり、豊かになったと思うものは増えたと思います。しかし、そのことで天国が近づいたと確信できますか?新たな不安が生まれただけと感じたことはないですか?

神の真実の言葉を、謙虚に真剣に聴き入ることが必要ではないですか?

 「悔い改めなさい。天の御国近づいたから」とは、自らの慮りを主張するのでなく、救い主(神)の声を聴きなさいということなのだと思います。

え?救い主なんて余計なお世話ですか?私は私と言いたいですか?ま、その気持ちは分かります。しかし、その私が私以外の人、つまり社会や私が生きている時代と無関係で生きていくことは出来ませんし、また、そのことで自分ひとりではどうしようもないことがあることを痛感し、無力感のようなものを感じたりもするのではないでしょうか?そんな時「だれか助けてくれないかなぁ」と思ったことはないですか?「神にすがる」と言いうことは恥ずかしいことではありません。「神に祈る」ということは自分の無力をさらけ出すことではありません。自分を誇張もせず、卑小にもならずに、あるがままをあるがままに神の前に出すということです。それが良いことであろうと悪いことであろうとです。

また、そうだろうけど、しかし毎日他にやることがいろいろあって、やりたくてやっているわけでもないが、ともかく忙しいんだ。それに心配なこともある。不安もないわけじゃない。神様に祈る何て悠長なことやってられないし、だいたい神様なんで、あてにもならんしね。と言われますか?

お忙しいことは分かります。そうですよね。しかし、あなたの言葉を借りれば、やりたくてやっているわけじゃないことを毎日やって、心配事があって、将来の不安もありながら、それをそのまま繰り返すだけさと開き直って見たところで、あなたの人生が輝くわけでもないし、楽になるわけでもない。ストレスが減るわけでもありませんよね。

どうぞ一度、神の前にこうべをたれるときを持ちませんか?

あなたのそばにいつも神がおられることを感じられると思います。神はいつもあなたに話かけておられるからだと思います。じっとあなたが耳を傾けるのを待っておられます。

まずは耳を傾けてみようではありませんか。

一度教会に足を運んでみませんか!

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