悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。

これは、マタイの福音書の4章17節に出てくる言葉です。この言葉の前は、「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。」とありますから、マタイの福音書においては、イエスの最初の説教の言葉ということになります。(注:「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」という言葉はバプテスマのヨハネも言っていますから、この言葉自体はイエスが最初に言われたということではありません。ただ、「天の御国が近づいたから」の意味はバプテスマのヨハネとイエスとでは若干ニュアンスが異なると思います。しかしそれは、細かい文意の話になりますから、ここでは省こうと思います。)

さて、ふつう、「悔い改める」と言うのは、何かの失敗を反省してそれを改めるという意味で理解しますよね。だからそういう心当たりがなければ、「悔い改めなさい」といきなり言われても反発したくなりますよね。

イエスは群衆を前にして、この言葉を発しています。そもそも悔い改めるということは努めて個人的な行為ですよね。だから群衆に対して言う言葉としては少し的外れに想われます。ではなぜ群衆に向かってこう言われたのでしょうか?そこには、個々人の具体的な悔い改めではなく、人が人として持っている根本的或いは普遍的なこととして発せられているからだと想われます。

では、人として何を悔い改めることがあるのでしょうか?所謂(いわゆる)根本的な「悔い改め」とは何を指しているのでしょうか?想い起せば、過去にした悪いことの一つや二つは思い浮かぶかも知れませんね。寧ろ思い浮かんでこその人間と言えるかもしれません。しかし、ここでいう悔い改めは前にも書きましたが、一人ひとりが個人として持っているそのような過去の過ちに対する悔い改めのことではなく、自分自身が自分自身に向ける向き合い方というか、姿勢とか態度のようなものを指して言っていると解釈できないでしょうか?

つまり、悔い改めるということは自分自身をありのままに見つめるということ。不都合なことを覆い隠したり、取り繕ったりすることなく、或いは悔しがったり、恥ずかしがったりもせず、また、そんなことして何の得があるなどと思いもせず、自らのありのままをありのままにまずは見るところから始める。それが悔い改めるということだとは言えないでしょうか。

次回は、その次の言葉、「天国の御国が近づいたから」についてを、続きとしてお話できればと思います。

注:ここでの「悔い改め」の本来の解釈は、「自らの心を砕いて或いは虚しくして、主(神)に立ち返る」という意味なのですが、主(神)ということを理解するには、信仰ということが土台にないと直ぐには理解は難しいと思うので、別の解釈を試みてみました。必ずしも信仰者として忠実な理解をしなければならないと、解釈を一つにするのではなく、信仰そのものの入り口としての理解の仕方として、キリスト教或いはそもそも宗教に関心がない人でも、理解の助けになれば幸いです。

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