主を待ち望む~詩篇130:1-8

詩篇130篇は都上りの歌、つまり、エルサレム神殿へ礼拝に行くために巡礼者が心を整えるときの歌です。

彼らは自分を見つめ、自らの犯した不義を悔い改め、主なる神に救いを求めて呼びかけています(1~3節)。「深い淵」(2節)は詩篇69:2の「大水の底」と同じ言葉が使用され、自分の力ではどうしても抜け出せない状態を指しています。

続いて、作者は「私は主を待ち望みます。私の魂は待ち望みます。私は主の御ことばを待ちます」(5節)と言い、罪深い自分は、恵み深い主の赦しにすがるしかない心情を語っています。そして、明確な主の御ことばを期待して待ち、「夜回りが夜明けを待つ」(6節)のに勝る希望を持って、主を待つと宣言しています。
最終的に、作者は「主には恵みがあり、豊かな贖いがある」(7節)ことを発見し、深い淵の中にある人々を主が救済してくださると確信して、「主は、すべての不義から、イスラエル(主なる神を信じる人々)を贖い出される」(8節)と歌い、この詩を結んでいます。

主なる神は憐れみ深く、恵み豊かな方です。そのことを明確に表しているのは、イエス・キリストの十字架の贖いです。神の御子キリストは罪のない方であるにも拘わらず、生まれながら罪を持った私たち人間を救うために、自ら進んで十字架にかかって死んでくださいました。それにより、イエスを主と信じ、告白する人々は救われるのです(ローマ10:9)。なんと素晴らしいことでしょう。言い尽くすことのできない神の愛と恵みに心から感謝しようではありませんか。

ーーーざわつき

ー 詩篇て云うんだから詩よね。詩はいいわよねぇ。詩を語られたら女は弱いわよね。

ー そうですか。詩は美しい言葉を並べ、韻を含んだりリズムがあったりしますから人の耳に心地良い響きを与えますよね。ただ、この詩篇というのは、祈りの言葉でもあるんですね。神に対する魂の叫びでもあるんですね。そのような言葉として詩篇を聴いてくださるとまた、詩篇の意味の深さも理解できると思いますね。

ー そう?「私は主を待ち望みます。私の魂は待ち望みます。私は主の御ことばを待ちます」ですか。私そういえば、主にお願いごとはすることはありますけど、主を待ち望むとか主のみことばを待つとかはあんまりなかったかも・・・。お願いしたら、それで満足しちゃって(^^;

ー 確かにそういう方は多いかも知れませんね。でも先ほど、詩篇の言葉は、祈りの言葉でもあると言いましたけれども、祈るということは神の言葉を待つという事でもあると思いますね。神の声を聴くと言いますかね。単に自分の思いを伝えるということだけではなくてですね。多分そこが、お願いをするということと、祈るということの違いではないでしょうか。

ー なるほどねぇ。でも神様はいつ返事を下さるんでしょうねぇ。私ほら、せっかちでしょ。だから早くくれないと、お願いしたことまで忘れちゃうのよね。

ー あ、なるほど(-_-;) それは私にはなんとも・・・。ただ、耳を澄ますとしか・・・。心静かに耳を澄ましてくださいと。そしてよくても悪くてもその声に従う素直さが必要だと思いますね。

ー あら、悪いのは厭です。どうぞ、いい返事を下さいますように!

ー (-_-;)

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください