罪の悔い改めによる祝福 ルカの福音書15:1~7

 今朝はルカの福音書15章にある、イエス・キリストがパリサイ人の質問に対して語られた貴重なたとえ話から学びます。

 イエス様のもとにはいつも取税人や罪人たちが沢山集まって来ました。彼らは皆、主イエスの話を聞こうとしてやって来たのです。それを見ていたパリサイ人や律法学者たちがイエス様のことを非難して、「この人は罪人を受け入れ、一緒に食事をしている」と文句を言いました。取税人は税金を集める人たちのことです。当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にあったので、ローマ帝国にユダや人は税金を払っていました。取税人はローマ帝国のために、ユダヤ人からお金を集めることが仕事でした。そのため、ユダヤ人からすごく嫌われていました。しかも、取税人の給料はローマ帝国から支給されるのでなく、彼らは税金と一緒に自分たちの給料も集めていました。税金と言って、不当にお金を沢山集めて、私腹を肥やす取税人も多くいました。それで、取税人は“罪びとのかしら”であると人々から非難されていたのです。 このような取税人たちや罪人たちがこぞって、イエス様の話を聞こうとして集まって来たので、パリサイ人たちや律法学者たちがイエス様に文句をつけたのです。そこで、イエス様は彼らに“百匹の羊を飼う羊飼いが、いなくなった一匹の羊を捜し歩くたとえ話”をされたのです。

 羊飼いは100匹の羊を所有していましたが、たとえ1匹あっても、彼はいなくなった羊を必死になって探しました。そして、見つかったら、大喜びで、羊をかついで家に帰ったとあります。この羊飼いは本当に羊を愛し、大切な存在として見ています。彼はいなくなった羊を見つけたことを友達や近所の人達に知らせ、共に喜んでもらいました。

 このたとえで、いなくなった羊は私たち人間を表わしています。私たちは自分の気持ちを大事にして、自分の好きなように生きて行きたいと願います。自己中心で、聖書の基準で見ると、人間はみな罪人です。 イエス・キリストは私たち人間を救うために、私たちの罪を贖うために、十字架にかかって死んでくださいました。それゆえ、主イエスを信じる者は罪が贖われ、永遠のいのちを持つことができるのです。本当に感謝なことです。

ひとりの罪人が悔い改めなら、悔い改める必要のない99人の正しい人たちのためよりも、大きな喜びが天にあるのです(ルカの福音書15章7節)。

 なお、7節に悔い改める必要がない人と表現されていますが、悔い改める必要のない人間は誰もいません。このように書かれているのは、人間の行いによる義を主張する律法学者たちの思いを暗示していると考える学者もいます。つまり、主イエスに文句をつけた律法学者99名より、彼らが馬鹿にてしている取税人や罪人たちが一人で悔い改めることの方が天国において大きな喜びがあることを主イエスが主張されたとの考えです。神は愛です。私たち人間がひとりでも多く救われることを望んでおられます。是非、あなたの友人や家族、職場の仲間に福音を伝えていきましょう。

 私たちは生きている限り、ことばにしろ、行いにしろ、罪を犯しやすいものです。それゆえ、日々悔い改め、主の愛と恵みによって罪赦されたこと、永遠のいのちが約束されていることを心から感謝し、神を賛美し、この素晴らしい福音を人々に伝えていきましょう。                           (牧師:北林行雄記)

2022年クリスマス集会のようす

1曲目は有名な、きよしこのよる。2曲目は、羊はねむれり。ハンドベルの、清らかな響きです。
当教会オリジナルの音楽劇です。最初の数分だけですが、ご覧ください♪

主があなたに求めておられる事 

 預言者ミカは紀元前8世紀頃、ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に生きた人です。この時期はイスラエル王国が滅び、その民は離散していたが、将来、この民が帰還することをミカは預言しました(ミカ2:12)。また、新しい指導者がベツレヘムから出ることも預言ました(5:1)。つまり、私たちの救い主イエス・キリストの誕生をここで預言しているのです。 

本日の聖書箇所は、神の御心に反して罪を犯し続けるイスラエルの民が被告で、主なる神が検事で、イスラエル民族を告発された法廷論争のかたちをとっています。しかも、裁判官として神ご自身が判決をくだされるのです。

 証人として山々や地の基が立てられたこと(2節)。その理由はそこにイスラエルの民によって偶像が一杯置かれていたからです。つまり、イスラエルの民は天地万物を創造された真の神を礼拝しないで、偶像崇拝をしていたのです。

 それでも、神はイスラエルの民を「わたしの民よ」と愛をこめて呼ばれました。「わたしがあなたに何をしたというのか。どのようにしてあなたを煩わせたというのか。」つまり、イスラエルが犯した罪に対して神がどのような責任があるのかを問われたのです。

さらに、神は奴隷であったイスラエルの民を出エジプトさせ、彼らを贖い出されました。そして、彼らを導くために、モーセやアロンという優れた指導者とミリヤムを送られました。

 出エジプトから約束の地カナンに向かうまでの間、イスラエル民族は神の恵みをたくさん受けてきました。そのことを思い起こすように言われたのです。たとえば、モアブの王バラクがイスラエルの民を呪わせようとした時、神がペオルの子バラムを導いて、イスラエルを祝福するようにされました(民数記22~23章)。神のこのような配慮はイスラエルの民が主の正しい業を知るためでありました。

 このような神の指摘に対するイスラエルの人々の対応は、全焼のささげ物や一歳の子牛や、幾千の雄羊や自分の長子を捧げようか等、形式的なものだけでした。いつの時代にも変わらないのは人間の形式主義です。たとえ重要な問題であっても、その場限りの形だけのもので終わらせようとする力が働きます。

 神が私たちに人間に本当に求めておられることは8節のみことばにあります。つまり、

主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。

 この聖句で、公正、誠実、へりくだりの3つを、特に主なる神が私たち人間に求めておられると断言しています。新改訳聖書では“公正を行い”を“公義を行い”と書いてあります。両方とも、その意味は自分の好みや流行によって行動するのでなく、常に神の判断、つまり、神の御ことば(聖書)に従って行動するという意味です。いつ、どこであっても、自分の我を通すのではなく、へりくだって神と共に歩むことが一番大切なことです.

 教会はキリストのからだであって、教会員ひとりひとりが各器官であります。顔や手や、脚など見える器官もあれば、大変重要な働きをする心臓や胃、腸は目に見えません。更に言うならば、身体全体に張り巡らされている血管や神経は見えません。それでも、大切な働きをしています。

 人間のからだにおいて、胃が腸に向かって腹を立てることはありません。しかし、残念なことに人間社会の中では、小さいことも含めて、問題のないというところはありません。キリストのからだと言われる教会も同様で、問題が全くないというところはありません。私はこれまでの牧会生活の中で研修会や牧師会、PBA(ラジオ放送世の光)牧師会などで、沢山の牧師と知り合いになり、苦労話を語り合い、共に祈り合う仲間が沢山与えられています。

実際のところ、キリストのからだである教会に生じた問題が教会成長を阻む要因になることが多いのです。教会に集う皆さんはお一人お一人、大切な方々であります。生まれも育ちも違う人々が集まる集団ですから、意見の違いがあるのは当然のことです。そこに重要な働きをするのが“主イエスの愛”です。教会員皆がお互いに尊重し合い、イエス・キリストにある立派なからだを形成していきましょう。(牧師:北林行雄記)

主があなたに求めておられること ミカ書6章1~8節

 

預言者ミカは紀元前8世紀頃、ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に生きた人です。この時期はイスラエル王国が滅び、その民は離散していたが、将来、この民が帰還することをミカは預言しました(ミカ2:12)。また、新しい指導者がベツレヘムから出ることも預言ました(5:1)。つまり、私たちの救い主イエス・キリストの誕生をここで預言しているのです。

 本日の聖書箇所は、神の御心に反して罪を犯し続けるイスラエルの民が被告で、主なる神が検事で、イスラエル民族を告発された法廷論争のかたちをとっています。しかも、裁判官として神ご自身が判決をくだされるのです。証人として山々や地の基が立てられたこと(2節)。その理由はそこにイスラエルの民によって偶像が一杯置かれていたからです。つまり、イスラエルの民は天地万物を創造された真の神を礼拝しないで、偶像崇拝をしていたのです。

 それでも、神はイスラエルの民を「わたしの民よ」と愛をこめて呼ばれました。「わたしがあなたに何をしたというのか。どのようにしてあなたを煩わせたというのか。」つまり、イスラエルが犯した罪に対して神がどのような責任があるのかを問われたのです。

さらに、神は奴隷であったイスラエルの民を出エジプトさせ、彼らを贖い出されました。そして、彼らを導くために、モーセやアロンという優れた指導者とミリヤムを送られました。 出エジプトから約束の地カナンに向かうまでの間、イスラエル民族は神の恵みをたくさん受けてきました。そのことを思い起こすように言われたのです。たとえば、モアブの王バラクがイスラエルの民を呪わせようとした時、神がペオルの子バラムを導いて、イスラエルを祝福するようにされました(民数記22~23章)。神のこのような配慮はイスラエルの民が主の正しい業を知るためでありました。 このような神の指摘に対するイスラエルの人々の対応は、全焼のささげ物や一歳の子牛や、幾千の雄羊や自分の長子を捧げようか等、形式的なものだけでした。いつの時代にも変わらないのは人間の形式主義です。たとえ重要な問題であっても、その場限りの形だけのもので終わらせようとする力が働きます。

 神が私たちに人間に本当に求めておられることは8節のみことばにあります。つまり、

主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。

 この聖句で、公正、誠実、へりくだりの3つを、特に主なる神が私たち人間に求めておられると断言しています。新改訳聖書では“公正を行い”を“公義を行い”と書いてあります。両方とも、その意味は自分の好みや流行によって行動するのでなく、常に神の判断、つまり、神の御ことば(聖書)に従って行動するという意味です。いつ、どこであっても、自分の我を通すのではなく、へりくだって神と共に歩むことが一番大切なことです.

 教会はキリストのからだであって、教会員ひとりひとりが各器官であります。顔や手や、脚など見える器官もあれば、大変重要な働きをする心臓や胃、腸は目に見えません。更に言うならば、身体全体に張り巡らされている血管や神経は見えません。それでも、大切な働きをしています。

 人間のからだにおいて、胃が腸に向かって腹を立てることはありません。しかし、残念なことに人間社会の中では、小さいことも含めて、問題のないというところはありません。キリストのからだと言われる教会も同様で、問題が全くないというところはありません。私はこれまでの牧会生活の中で、教団の研修会や宣教区牧師会、PBA(ラジオ放送世の光)牧師会などで、沢山の牧師と知り合いになり、苦労話を語り合い、共に祈り合う仲間が沢山与えられています。

実際のところ、キリストのからだである教会に生じた問題が教会成長を阻む要因になることが多いのです。教会に集う皆さんはお一人お一人、大切な方々であります。生まれも育ちも違う人々が集まる集団ですから、意見の違いがあるのは当然のことです。そこに重要な働きをするのが“主イエスの愛”です。教会員皆がお互いに尊重し合い、イエス・キリストにある立派なからだを形成していきましょう。(牧師:北林行雄記)

主にある教会成長 コロサイ人への手紙3:12~23

新年おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

本日のメッセージの聖書箇所コロサイの町は地理的に今のトルコの一部にあり、この手紙の作者パウロの時代は東西交通の要所で、繁栄した町でした。そのため、いろいろな人種や職業の人々が住んでいました。教会においては異邦人の会員や奴隷の身分の人もいました。そのため、教会内に複雑な問題も生じてきました。

 そこで、パウロはコロサイ教会の信者たちに、彼らの信仰がさらに成長するためにこの手紙を書きました。「あなたがたはキリストと共によみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。」つまり、今までの古い行いに死んで、今はキリストにある新しいいのちのうちに生きているのです。それゆえ、これまでの人間的な生き方、淫らな行いや汚れ、情欲、貪欲を止めなさいと勧めたのです。

 そして、イエス・キリストを信じた人は「新しい人を着た」とパウロは宣言しました(10節)。つまり、神によって御子イエスのかたちに造られていくと言うのです。この“かたち”とは外見のことを言っているのではありません。私たちの心がイエス・キリストに似たように変えられていくということです。人の話を聞かず、怒りっぽく、しかも、自分が高く見られたいと思う人が、他の人の話にも、しっかりと耳を傾け、相手の気持ちになって、その人が良くなるように祈り、支えてあげる人に変えられていくことなのです。

 そして、教会においてはギリシャ人もユダヤ人もない。割礼のある者も、ない者も、未開人もスキタイ人もなく、奴隷も自由人もない。キリストがすべてであり、すべての人のうちにおられる。この記述はコロサイ教会の実情を知っているパウロならではことばです。なお、スキタイ人とは北方の草原地帯から出た遊牧民で、文化的には最下層の人たちでした。

 

 12節から、クリスチャンはどういう者で、どのように歩むべきかについて記述されています。

1.クリスチャンは神に選ばれた者で、聖なる者、愛されている者である。

人間世界に生きている私たちはとかく他の人と比較されることが多くあります。あの人が上手にできるのに、この人は失敗ばかりしていると。

私はもっと若い時はこのようなことはあまり言われないように気をつけて生きてきました。しかし、高齢になった今、これまで簡単にできたことが、うまくできず、我ながら、呆れることがあります。毎日、謙遜の学びをしております。

 私が40歳ごろは或る会社に勤めておりました。部課長会に出席した時のことですが、頭がツルツルに禿げた企画室長が発表の番になったときでした。企画室長は立派なかつらをかぶって、若々しく颯爽と登場されました。その時、会場は驚きに包まれ、「あれは誰だ?」と疑いのことば、そして、暫くすると、会場全体が大笑いに包まれました。男性用かつらが、ほとんど普及していない時期でした。頭にかつらをかぶるだけで、若々しい姿に変えられたのでした。

これを私たちの信仰生活に例えて考えてみましょう。私たちはイエス・キリストを頭にかぶることによって、主イエスに似た姿に変えられます。私は外見のことを言っているのではありません。私たちの心のことを言っています。主イエスは謙遜な方です。神の子であるのに、私たち人間と同じ姿になり、痛みも苦しみも経験されました。さらに、私たち人間を救うために十字架にかかって死んでくださいました。なんと大きな愛でしょう。神は愛です。私たちも日々、神の愛に満たされて生きるなら、不平、不満はおきて来ません。

今の時代はロシアのウクライナ侵攻や中国、北朝鮮の動きを見たとき、終末の様相を示し始めています。しかし、このような状況にあっても、イエス・キリストにあって生きるならば、何も恐れることはありません。

  • 神に愛されている者として為すべきこと
    • 深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を身に着ける。
    • 互いに忍耐し、赦し合う。
    • 愛を着ける。愛は結びの帯として完全である。
    • 心がキリストの平和で支配されるようにする。
    • キリストのことばが心のうちに豊かに住むようにする。
    • ことばであれ行いであれ、何かするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名によって行う(17節)。

.すべてのクリスチャンが常に心掛けること
  「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」

    コロサイ人への手紙 3章23節)

まとめ

 今朝は、使徒パウロが、問題を抱えるコロサイの教会の人たちの信仰の成長を願って、書き送った手紙から大切な事柄を学びました。教会はイエス・キリストを信じる人たちや、救いを求める人たちの集まりです。また、教会にはいろいろな文化を持った人たちが集まっています。性格も職業も、育った背景もみな異なるので、摩擦が起きることは必然的なことです。しかし、教会はイエス・キリストにある信仰によって一致を保つことができます。

 私たちの教会は新会堂ができ、昨年4月30日に献堂式を行いました。素晴らしい会堂です。ここで毎週礼拝を持てることは主なる神様の恵みです。

 富山聖書教会は開拓からスタートし、27年経過しましたが、これからの発展が期待されています。人数的にも経済的にも成長するためには、先ず、教会員の信仰が成長することが大切です。このことは一朝一夕にはできないと思います。日頃の誠実な歩みが大切です。そのためには、「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」を忠実に実行することです。皆様の上に、全知全能の主なる神の恵みと祝福が益々豊かにありますようお祈りいたします。(牧師:北林行雄記)

処女降誕の御告げ ルカの福音書1章26~38節

 皆さん、クリスマスおめでとうございます。

今朝は、イエス・キリストの誕生に関する御告げを天使がマリアに知らせた所から学びます。ルカの福音書1章には、処女マリアの前に御使いガブリエルが突然現れて、「おめでとう。恵まれた方、主があなたとともにおられます。」と挨拶をし、「あなたは身ごもって男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」と伝えました。

 突然のことで、マリアは驚きます。マリアはヨセフと婚約はしていても、まだ結婚していないので、身ごもることはありません。彼らはユダヤの国に住んでいました。その国には昔から厳しい戒律がありました。仮に、マリアは婚約者ヨセフが知らない所で、身ごもった場合、姦淫の罪を犯したとして石打の刑で殺されるか、又は、婚約が解消されて、「罪の女」として、さらし者にされ、地域社会から追放されるのです。

本日の聖書箇所から以下の3つのポイントがあげられます。

  • マリアは聖霊によって身ごもる。

当惑するマリアに対して天使ガブリエルは「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。」と答えました。すなわち、マリアに神の力が働き、彼女は聖霊によって身ごもるということです。

これは特例中の特例です。自然界には人間の他に沢山の動物がおり、いろいろな植物があります。新たな生物は受精によって生まれ繁殖していくのです。

受精のために精子と卵子の結合が必要なのです。ところが、今回のケースは天地万物の創造者、主なる神の特別な介入によって、処女マリアが身ごもったのです。

なぜ処女誕生の出来事が必要だったのでしょうか?

先週バプテスマのヨハネがイエス様のことを「世の罪を取り除く神の子羊」と言った箇所を覚えておられると思います。旧約時代は伝統的に人が罪を犯したときはその罪の赦しのために傷のない子羊をほふり、犠牲として捧げました。

私たち人間の罪が赦されるためには罪のない方の犠牲が必要です。私たち人間は皆、「自己中心」という罪を生まれながら持っています。その罪を贖うためには罪のないお方であるイエス・キリストの犠牲は不可欠なことです。イエス・キリストは聖霊によってお生まれになり、罪のない方で「聖なる者、神の子と呼ばれるのです。」(35節)

  • 神にとって不可能なことはない。

天使から受胎告知を受けたマリアがまだ信じられない様子であったので、天使はマリアの親類のエリサベツの例を揚げて次のように言いました。「見なさい。あなたの親類エリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう6ヶ月です。神にとって不可能なことは何もありません。」(26節)神は全知全能の方で、天地万物の創造者です。無から有を造り出す方です。

マリアの応答「主の御心の通りになりますように」

当時ユダヤでは男性は18歳、女性は14歳になれば結婚適齢となり、親の決めた相手と婚約し、数年の期間をおいて結婚することが慣習になっていました。おそらくマリアは15歳頃であったと思われます。

マリアは信仰の篤い女性です。若くて経験の浅い人ですが、しっかりとした信仰を持っていました。自分のことを「主のはしため」つまり、主なる神のしもべであると自覚し、主の御心に従うことを即決して、「あなたのお言葉通りこの身になりますように。」と答えました。これはたとえ未婚の出産で人々の中傷に逢おうとも、主なる神に従って生きる覚悟を持った信仰者のことばです。

  (富山聖書教会牧師:北林行雄)

バプテスマのヨハネの証言 ヨハネの福音書1:29~34

 先週金曜日(12月9日)ある新聞の朝刊のコラムに、次のような記事がありました。

  動物園のパンダが「食べちゃ寝」ばかりなのは訳がある。腸が牛や鹿といった草食動物より短く、栄養を吸収する効率が悪い。主食の竹は養分が少なく、大量に取る必要がある。60キロの人が毎日9キロのサラダを食べるようなものという。だから、口を“むしゃむしゃ”しているか、エネルギーを使わないように寝ている。

 この記事から判ることは、動物といえども、パンダの持っている特徴をよく理解し、尊重することが大切であるということです。同じように、私たち人間、ひとりひとりが持っているオリジナリティを尊重することが大切です。

 先週の礼拝において、マルコの福音書1章から、バプテスマのヨハネが「この方(イエス・キリスト)は聖霊のバプテスマをお授けになる。」と人々に伝えた箇所を学びました。クリスチャンは皆、イエス・キリストにある救いの体験、聖書の理解等、日々の生活の中で、聖霊の働きを体験することができます。しかも、どのような人であっても、固有の特徴があり、各人に対する聖霊の働き方も異なります。それゆえ、私たちはお互いの特徴を理解し、尊重していくべきあります。

 

今朝はヨハネの福音書1章から、イエス・キリストに関するバプテスマのヨハネの証言について学びます。29~34節でバプテスマのヨハネが自分の方に歩いて来られるイエスを見て、語ったことを要約すると、以下の3つにまとめられます。すなわち、

(1).イエスは世の罪を取り除く神の小羊である。先にヨハネが「自分の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。」と言ったのはこの方のことである。

(2).御霊が鳩のように天から下って、この方の上に留まられるの見た。この人こそ聖霊のバプテスマを授ける方である。

(3).この方は神の子である。

  これら3つのことについて、今から説明します。

先ず、(1)から始めます。私たち人間は皆、生まれながら「自己中心」という罪を持っています。喜んで他人のために労苦しながら、他の人のために尽し、“聖人”と呼ばれる人であっても、いざ自分や家族の身に被害が及ぶようになったら、自分の身が哀れになって、他人の世話などできなくなるものです。

  しかし、イエスキリストは私たち人間の罪を贖うために、十字架にかかって死んでくださいました。すなわち、イエスは世(わたしたち人間)の罪を取り除く神の小羊です。

なお、旧約の時代は、人が罪を犯した場合、傷のない小羊を屠って、赦しを受けていました。イザヤ書53章7節に「彼は痛めつけられ、苦しんだ。口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように。」と書かれています。この羊は傷のないものでないと、ダメなのです。人間に言い換えれば、私たち人間の罪の贖いは、罪のない方であるイエス・キリストだけができる業でした。正しく、罪のないイエスキリストが罪ある私たち人間の身代わりに、父なる神から断罪されたのです。これは、神の愛から出たことです。

    次に、(2)について説明します。御霊が鳩のように天から下られた。鳩はおとなしくてやさしい、しかも、素直で平和なイメージを持った鳥です。創世記8章11節にくちばしにオリーブの葉をくわえた鳩が出て来ます。地の全面が水でおおわれ、罪深い人間が神の裁きを受けて死に絶えました。しかし、その状態からその水がひいて、オリーブの木が生える。オリーブの葉は生存したノアたちへの平和のメッセージでした。

御霊が鳩のように天からくだり、イエス・キリストの上に注がれたということは、イエス様は神から遣わされた方であり、聖霊のバプテスマを授けることのできる方であるとヨハネは確信したのです。

そして、(3)に移ります。バプテスマのヨハネはその光景を見て、イエスは正しく神の子であり、この方こそ、聖霊によってバプテスマを授けることのできる方であると確信しました。それで、ヨハネは二人の弟子に、イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言ったのです(36節)。その二人の弟子はペテロとアンデレです。ペテロはやがてイエス・キリストの一番弟子となりました。

今朝は、バプテスマのヨハネの証言について学びました。特に、印象的であったのは、彼はイエス様のことを弟子たちに、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と紹介したことです。神の御子であるイエス・キリストが私たち人間を救うために、私たちの罪を背負って身代わりに十字架にかかって死んでくださったのです。何と大きな、測り知れない愛でしょうか?心から父なる神と子なる神、すなわち、主イエス様に心から感謝をします。

私は23歳のとき、映画「塩狩峠」を見て、大きな感動を受けました。鉄道職員でクリスチャン青年の永野信夫(実名:長野政男)はこの峠を登坂していた列車で連結器が外れるという事故が発生し、下り車線で暴走する電車を止めるために、自分の身体を電車の下敷きにして止め、乗客のいのちを救った事件でした。人のためにいのちを捨てる、それ以上の大きな愛はありません。イエス・キリストは私たち罪深い人間のために、十字架にかかって死んでくださいました。主の絶大な愛に感謝します。

バプテスマのヨハネは聖霊に導かれて、イエス様のことを弟子たちに紹介しました。皆さんもこれに倣って、是非、大切な人、友人や知人にイエス様のことを紹介してください。12月24日(土)のクリスマス集会、25日のクリスマス礼拝にお友達を誘いましょう。     (牧師:北林行雄記)

クリスマスのご案内

12月になり、すっかり寒くなってきましたね!イエス様の誕生を祝うクリスマスが待ち遠しいです。今年のクリスマス集会・礼拝をご案内します。歌や演奏、聖書のお話をとおして、クリスマスの本当の喜びが伝わるようにお祈りしています。会堂は誰にでも開かれた場所です。予約や事前の連絡も必要ありません。もちろん無料です。駐車場もあります。ぜひおいでください😄

12/24(土)14:00~ クリスマス集会      

クリスマス音楽劇 聖書のお話 証し ハンドベル演奏 キャンドルサービス 

12/25(日)10:30~ クリスマス礼拝      

聖書のお話 特別賛美(ハンドベル)

主の道を整える者 マルコの福音書1:1~8

本日から5回にわたり、クリスマスにちなんだメッセージをします。本日、第一回は、「主の道を整える者」と題して、イエス・キリストのことを紹介したバプテスマのヨハネについてお話します。

バプテスマのヨハネの登場 マルコの福音書は4福音書の中で最初に書かれたものです。1章1節に「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」とありますが、これはこの書のタイトルのようなもので、この書全体を一言で表していると言えます。

 2~3節にはイザヤ書40章3節が引用されています。救い主の道を整える者が将来登場すること。彼は主の道を用意し、主の通られる道を真っ直ぐにする。その預言通りに現れた人がバプテスマのヨハネです。

悔い改めのバプテスマ  ヨハネは荒野に現れて、人々に罪の赦しのための、悔い改めのバプテスマを宣べ伝えました。彼は預言者エリヤに倣って、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野密を食べる質素な生活をしながら、精力的に伝道したのです。当時のユダヤ全国の人々と、エルサレムの全住民がヨハネのところにやって来て、自分の罪を告白して、ヨルダン川でバプテスマを受けたのです。ヨハネのバプテスマは水によるバプテスマでした。

 私たち人間は皆、生まれながら罪を持っています。自己中心の罪です。たとえば、子どもの友達が先生から大切に扱われ、褒められるのに、自分のこどもは厳しく叱られてばかりいたら、心の中からひがみが生じて、わが子の悪い面をそっちのけにして、先生に文句をつけたりする父兄がいるのも事実です。このように誰でもが持っている自己中心の罪を考えれば、バプテスマのヨハネのメッセージは、当時のユダヤの人々の心に強く迫ったのでしょう。そのため、沢山の人々が悔い改めのバプテスマを受けたのです。 

イエス・キリストに関する言及

・ヨハネよりさらに力のある方で、彼のあとに来られる。ヨハネはその方の靴のひもを解く値打ちもない。(7節)

・この方は聖霊のバプテスマを授けることのできる方である。(8節)

考察

 1.バプテスマのヨハネは立派な人物です。彼はイエス・キリストを紹介し、自分はこの方の靴の紐を解く値打ちもないと言いました。ヨハネより半年後に誕生する主イエスを心から尊敬し、自分は水による悔い改めのバプテスマを授けたが、この方は聖霊のバプテスマを授ける方であると説明しました。聖霊のバプテスマとは、私たち人間の救いに関係するものです。すなわち、主イエスを救い主として信じる信仰によるバプテスマであり、救いのしるしとしてのバプテスマです。

 2.聖霊の働きについて

  ①聖霊の働きがなければ、誰もイエスは私の救い主ですと告白できません。

  ②聖書をよく理解するためには聖霊の助けが必要です。全知全能の神を信じています。しかし、神は目に見えません。聖霊の働きによって、聖書のことばを理解し、神の愛や御心を知ることができるのです。それゆえ、聖書を学ぶ時は、最初に聖霊の導きがあるよう祈って読む必要があります。

  ③信仰生活におけるいろいろな試練を克服するためには聖霊の働きが必要です。たとえば、苦しみの中にあるとき、聖書のことばによって励まされることがよくあります。弱さの中にあるとき、神の力が最も強く働き、聖霊の導きによって最もふさわしい神のことばが与えられ、心の中に勇気がわいてくるからです。

結び

    救い主イエスの誕生は全人類にとって喜びの知らせです。主イエス・キリストの誕生、それに先立って、主の道を整えるバプテスマのヨハネの誕生は、それが実現する800年以上前から預言されていました。天地万物の創造者なる神の遠大な計画によるのです。

    待降節に当たって、主の御降誕を覚え、改めて計り知れない神の御愛に感謝しその思いを深め、この喜びを人々に伝えて行きましょう。そして、本当のクリスマスの素晴らしさを味わいながら、それを人々に証しましょう。 (牧師:北林行雄記)