本日はエゼキエル書からメッセージをさせていただきます。エゼキエルが預言者になった時、バビロニアの支配下にあり、捕囚の身でした。人々はバビロニアの支配から早く解かれて、エルサレムに帰りたいという希望を持ち、解放運動を起こそうとする動きがありました。エゼキエルは「この地に落ち着くことが、今の時点では神の御旨である」と人々に話しました。しかし、民衆は忠告を受け入れず、バビロニアに反乱を起こしました。その結果、紀元前587年にエルサレムは占領され、イスラエルは滅ぼされてしまいました。エルサレムの陥落は捕囚の身にあるイスラエルの人々にとって最後の望みの綱が切れてしまったことを意味します。絶望する民衆に、エゼキエルは再び語り始めました。それがエゼキエル書34章の「羊飼いの預言」です。
エゼキエルは主なる神から託された御ことばを民衆に伝えます。「わざわいだ。自分を養っているイスラエルの牧者たち。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊は養わない。弱った羊を強めず、病気のものを癒さず、傷ついたものを介抱せず、追いやられたものを連れ戻さず。失われたものを捜さず、かえって力ずくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配した。」(2~4節)。ここで言う“牧者”は当時のイスラエルの指導者で、国王のことです。イスラエルが滅んだのは、「自分を養う羊飼い」、つまり、国の指導者である王たちが民衆のことを考えず、自らの保身に走ったことが原因であると指摘されたのです。
このように牧者が本来の勤めを果たしていないので、羊は散らされ、あらゆる野の獣のえじきになり、散らされてしまいました。それで、神である主は、牧者たちに立ち向かい、彼らの手から主の羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせられたのです(8~10節参照)。そして、主は可哀そうな羊を放っておくことができないと思われ、「わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らを憩わせる。」と仰せられ(15節)、主自らが羊の牧者になると宣言されました。主の下に置かれた羊は幸いです。牧草が生い茂る良い牧場で養われ、イスラエルの高い山々が檻となって、安心して過ごすことができるのです。また、傷ついた羊は包まれ、病気の羊は力づけられます。なお、「肥えたものと強いものを根絶やしにする。」(16節)とあるのは、神は強いものを優遇するのでなく、いつも公平な裁判をされるという意味です。主によって養われるすべての羊は本当に幸せです。 この聖書の箇所から私たちは何を学ぶでしょうか?
今、皆さんもご存じのように世界はウクライナの悲惨な状況、そしてあちこちの国々において、テロや暴力で国民が被害者となり、今も悲しい争いや戦いが続いています。先週は世界を震撼とさせるような出来事が起きました。ポーランドに突然ミサイルが落ち市民の犠牲者が出ました。それぞれの国が自己主張すれば、第三次世界大戦に発展するような危機に直面しました。正に一触即発したら、核の脅威で人類はどうなるのでしょうか?このような時にこそ、人類の造り主なる神の前に静まって、冷静に御ことばの深い意味を考察すべき時ではないでしょうか。
ベトナム戦争で多くの若いアメリカ兵たちが戦争によって傷つき、心が蝕まれ、ロストジェネレーションと呼ばれるようになり、その結果、物を持つことによって飢えを満たすというマテリアリズムに陥りました。
真に私たちの心を満たしてくださる方は、今の時代も旧約の時代も同じで、本当の愛と赦しに満ちた牧者なる神ではないでしょうか。羊が100%牧者を信頼し、平安に“メ~~”と鳴いて羊飼いに従っているように、、私たちもどのような状況でも本来の牧者なる主を信頼し、御ことばを口ずさんで日々充足した生活ができますように祈ります。 (牧師:北林行雄記)