種まきのたとえ マタイの福音書13:1~9

本日はイエス・キリストを信じるようになることと、その信仰の成長についてマタイの福音書13章の「種まきのたとえ」から学ぶ。イエスは次のように語られた。

「種をまく人が種まきに出かけた。蒔いていると、種のいくつかが道端に落ち、別の種は土の薄い岩地に落ちた。また、別の種は茨の間に落ち、さらに別の種は良い地に落ちた。」(3~8節)。これら4つの中でまともに育ったのは、最後の“良い地に落ちた種”だけであった。道端に落ちた種は鳥に食べられ、岩地に落ちた種は日に焼けて枯れてしまい、茨の間に落ちた種は茨が伸びてふさがれてしまった。

私は小さい時に農家で育った。畑をよく耕し、肥沃な土地に改良して、種をまき、水をやり、心を込めて育てている両親の姿が今も目に浮かぶ。

上記のたとえにあるような道端や岩地、茨の中に種をまくことは通常あり得ない。当時のパレスチナにおける農業は粗雑であったかもしれないが、主イエスは種まきのたとえを通して、私たち人間が信仰に導かれ、豊かに成長するための秘訣を示されたものと思われる。そのことは、主イエスがこのたとえの解説をされた(マタイ13:18~23)ことでわかる。 御国のことば、つまり、福音を聴いて悟らないと、悪いものが来てその人の心に蒔かれたものを奪う(道端に蒔かれたもの)。みことばを聞くと喜んで受け入れるが、困難や迫害が起こるとつまずく(岩地に蒔かれた者)。この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐので実を結ばない(いばらの中に蒔かれたもの)。

しかし、みことばを聞いて悟る人(良い地に蒔かれたもの)は本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶ(マタイ13:23)。

 ここで、ジョン・ウエスレーの証をします。

英国国教会の牧師の子として生まれたジョン・ウエスレーは、オックスフォード大学在学中、大学の門番と親友になった。門番はある時、ジョンを訪問し、ジョンが門のところに落とした黒い皮の手帳を渡した。ジョンが礼を言うと、彼はにこにこして首を振った。「こんな大事なものこれからは紐でもつけておかれるといい」そして、がっしりとした手を、まるで父親のように彼の方に置くと、そのまま立ち去った。ジョンが門番といろいろ話すうちに彼はこの男が生まれこそ卑しく、学問を受けていなかったが、素晴らしい信仰を持っていることに気付いた。門番は「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また、『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。」と声高らかに聖句を暗唱した。ジョンは感心して「いつ勉強されたのですか?」と聞くと、彼は「私は字も読めないし、書きもできません。ずっと昔から日曜日が来るごとに庭の草取りや、掃除をしながら、牧師先生が聖書を読むのをじっと聞いて覚えました。耳から入ったことは、直ぐには忘れません。」と答えた。さらに、「人間、必要なものは、決して多くございません。いや、たった一つです。イエス様の愛をちょうだいすること・・・これだけでいいのです。」と答えた。

ジョンはその時はじめて、門番の貧しい小屋を眺めた。椅子と毛布とお粗末な寝台の他、何一つなかった。その時、彼は胸の中に一つのあこがれが(潔い生活をしたい)というあこがれが大きく、大きく育っていることを知った。この門番の生活こそ、本当にクリスチャンらしい、神のみこころにかなった生活ではないだろうか。彼は何一つ持っていないけれど、こんなにも心が豊かで、あふれるばかりの感謝と喜びとを持って生活しているのだ。

その後、父サムエルが病気になったので、彼は大学を辞めて故郷に帰って父に代わり説教をすることになった。彼は地元の人々に馬鹿にされ、聴衆は説教を聞くのでなく、若い副牧師をあざ笑い、ヤジを飛ばすためであった。案の定、彼が説教に入るか入らないかのうちに、彼らは一斉に口笛を吹いたり、罵倒したり、悪口を投げつけたりし始めた。しかし、ジョン・ウエスレーは不思議なほど心が落ち着いていた。彼は、いきなり力強く語り始めた。その声は、人々の罵声を抑えるほど大きく会堂の隅々まで響き渡った。彼が講壇を降りると、人々はおとなしく帰って行った。「お父さん私にはできません。」ウエスレーは父の姿を見ると、急に気が緩んでこう言った。「私には神のことばを語る資格も、その力もないように思います。「息子や」。父のサムエルは彼を抱きしめると静かに言った。「福音の種は、迫害の中でこそ実を結ぶのだよ。種をまいてただちに実を結ぶということはあり得ない。どんなことであれ、神様の時というものがある。一番ふさわしい時に、神様はすべてを成就させて下さるのだ。私たちのすることは、ただ種をまくこと。そして、水を注ぐことだけだ。」と。

 教会ではこれまで伝道礼拝やクリスマス、イースターの案内をし、トラクトや信仰書の配布などを定期的に実施してきた。 “良い地に蒔かれた種” のような人が初めから判るわけではないので、教会の家族や知り合い、周辺地域の方々に案内した。その案内を見て、直ぐに信仰を持つ人は皆無であった。しかし、日頃から、家族や親友など大切な人の救いのために祈り続け、自らの救いの証を語り、御ことばの種をまき、トラクトや信仰書を渡す地道な活動を続けるなら、全知全能の主なる神が、祈っている人々の中から必ず“良い地”に相当する人を起こして下さる。それゆえ、皆さんの大切な人々の救いのために祈り、信仰の証と福音宣教を喜んで継続しよう。           (牧師:北林行雄記)

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