キリスト・イエスに習いて  ピリピ人への手紙2:1~11

 パウロにとってピリピ教会は特別に想い出深い教会であった。使徒の働き16章9~40節にパウロが聖霊に導かれてマケドニアに渡り、ピリピに行って伝道した記事が書かれてある。彼はピリピ教会に宛てた手紙に「私はあなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。」(ピリピ1:3~5)。と書いている。そのようにピリピ教会は、紫布の商人リデイアの家族や牢の看守家族など、敬虔なクリスチャンたちを中心に成長した良い教会で、パウロの伝道活動をサポートしている教会であった。

しかし順調に見えるピリピ教会にも問題を起こす人たちがいた。彼らはみな福音伝道には熱心であったが、、「党派心からキリストを宣べ伝えており、純粋な動機からではなかった。」(ピリピ1:17)。そのため教会内に分派の動きが起き、危険な状態であった。そこで、パウロは「キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情と憐れみがあるなら、あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして私の喜びを満たしてください。」(ピリピ2:1~2)と言った。つまり、教会が“キリストの愛”で結ばれ、聖霊の交わりがあるなら、必ず皆が一致することができる。

 教会では、生まれや育ちが違う人々が集まってくるので、違いがあって当然である。その違いを超えて“ひとつにまとまる”ことができる秘訣がキリストの愛に満たされることである。互いを認め合い、相手の意見に耳を傾け、誤りがあるなら、相手の人格を損なわないように、愛をもって矯正してあげる。また自分自身も誤りがあれば素直に認め、主イエスにあって、赦し合える関係を作ることである。これが、第一のポイントである。

 第二のポイントとして、「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」(3節)と語った。人間は生来、自己中心の性質を持っているが、むしろ、相手のことを尊重して、謙遜に対処することを勧めたのである。

 第三に、それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことを顧みること(4節)の大切さを語った。

 これら三つのポイントを見事に実行されたのが、主イエス・キリストである。キリストは神の御子であられるのに、ご自分を無にして、しもべの姿をとり、私たち人間と同じようになられた。自らを低くして(へりくだって)、死にまでそれも十字架の死にまで従われた。 キリストは罪のない方である。それにもかかわらず、私たち人間の罪を背負って私たちの身代わりになって、断罪された。つまり、罪人とともに十字架に磔(はりつけ)にされて死なれた。そのことによって、私たち人間は「イエスは私の救い主(キリスト)です。」と信じて告白するなら、罪が赦され、永遠のいのちを持つ特権が与えられる。本当に感謝なことである。

 そこで、十字架にかかられたイエスの御姿に焦点を当てて考察する。十字架刑は呪いの刑とも言われるほど、痛みと苦しみで、発狂するほど苦しんで死ぬ極刑である。その恐ろしい刑を人々から尊敬され、愛されたイエス様がかかられた。

 何故、罪のない正しい方、イエスが十字架にかかられたか。それは、人間の罪を贖うことはイエス様にしかできないからである。とは言っても、罪のない方が罪人の身代わりとなって断罪されることは、簡単に決断できることではない。 しかし、神の御子イエスは十字架にかかられた。父なる神もそれを認められた。はかり知ることのできない何と大きな愛であろうか。「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛は誰も持っていません。」(ヨハネの福音書15:13)。 イエスは自分を愛する人々のためだけでなく、自分を十字架にかけた者や敵の救いのためにも十字架にかかっていのちを捨てられた。人知をはるかに超えた神の愛である。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために宥めのささげものとしての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネの手紙第一4:10)

 それ故、皆さん、私たちもイエス・キリストの贖いの御業をもっと深く感謝し、罪人をも愛される神の愛に満たされ、まだ救われていない人々の救いを祈り、信仰の証に努めよう。 また、教会の兄弟姉妹の中にあっては、お互いに相手を尊重して生きるようにしよう。 (牧師:北林行雄記)

 

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