人の光である真のいのち ヨハネの福音書1:1~5

本日の礼拝からヨハネの福音書の学びを始める。最初に、他の3つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ)との違いなどを交えて、ヨハネの福音書の特徴と強調点について紹介する。

 マタイの福音書はユダヤ人向けの系図で始まり、イエスはダビデ王の子孫で、“王であるイエス”を伝え、マルコの福音書はバプテスマのヨハネの宣教から始まり、“神の子イエス”として紹介している。また、ルカの福音書はギリシャ人向けにマタイとは逆に人から神に向かう系図を示し、医者らしく“人としてのイエス”、つまりイエスは神であると同時に人間でもあるという視点で紹介した。

 一方、ヨハネの福音書では系図は全くなく、いきなり、イエスは神の御子として初めから神と共におられた方で、人間の世界に下られた方として紹介されている。『初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は神とともにおられた。』(ヨハネ1:1~2)。

 なお、“ことば”はイエス・キリストのことである。

言葉は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」(ヨハネ1:14)。

その方は血に染まった衣をまとい、その名は『神のことば』と呼ばれていた。」(ヨハネの黙示録19:13)この方(イエス)は、初めに神とともにおられ、すべてのもの(天地万物)を創造された。(ヨハネ1:2~3)

 続いて、暗唱聖句に上げた4節の御ことば「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。」“いのち”と言う単語は、ヨハネの福音書で36回も使用され、この福音書で大変重要なことばである。その意味は「永遠のいのち」のことで、イエス・キリストによって与えられるものである。すなわち、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、まただれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」(ヨハネ10:28)と主イエスは言われた。また、ヨハネの福音書14章6節では,「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことができません。」と言われた。イエス・キリストは私たち人間皆が持っている“自己中心”の罪を贖うために十字架にかかって死に、三日目に復活して下さった。それによってイエスを救い主と信じる者は永遠のいのちが与えられ、天の御国の一員となる資格を頂くことができる。

 光については、ヨハネの福音書8章12節で、イエスは再び人々に語られた。

私は世の光です。私に従うものは、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5)光が私たちの道を明るく照らすので、私たちは安全に歩むことが出来る。

 また、光は希望を与える。試練の中を通る時も、その先に希望が広がっている。

イエス・キリストと共にあるなら、いつも安心と希望が約束されている。

何と素晴らしく、感謝なことであろう。 是非、皆さんもイエス・キリストにある信仰を深め、人々に力強く証をしていきましょう。(牧師:北林行雄記)

ペンテコステの出来事 使徒の働き2:22~41

 イエス・キリストが昇天される前、使徒たちに「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたはまもなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」(使徒1:4~5)と言われた。その約束通り聖霊が下ったのが五旬節(ペンテコステ)の日であった。この日は「七週の祭り」とも言われ、ユダヤ教三大祭りで各地から大勢の巡礼者が来ていた。

 その日、使徒たちとその仲間皆が同じ場所に集まっていた。「すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、ひとりひとり人の上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろな言葉で話し始めた。」(使徒2:2~4)

 旧約聖書では、風は神の霊を表し、(エゼキエル37:9~14)、炎は神の臨在を表し、これはまさに神のなされた特別の業である。そこに、来ていた巡礼者は広範囲で、エジプトやローマ、小アジア、エジプト国境からユーフラテスに至った。彼らは自国のことばで、主イエスの無学な弟子たちが流暢に話すのを聞いて皆あっけにとられてしまった。

この大群衆に向かってペテロは、今起きている出来事は預言者ヨエルによって預言されていたことで(ヨエル2:28~32)、「あなたがたが十字架にかけて殺したイエスが復活されたことであり、『イエスは主です。』と告白するものはすべて救われ、永遠のいのちをもつことができるのです。そのイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注がれたのです。」(使徒2:22~33抜粋)と語った。

 これを聞いた人々は皆心を刺され、ペテロと他の使徒たちに「兄弟たち、私たちはどうしたら良いでしょうか」と言った。そこでペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を許して頂くために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます。」すると、約三千人がペテロのことばを受け入れてバプテスマを受けた。まさに歴史的な出来事となった。これを契機として、世界最初のキリスト教会、エルサレム教会が誕生した。その後、使徒たちは、主イエスの命令(使徒1:8)と聖霊の導きによって各地に宣教師として出掛けて行った。そして、わが国日本にも伝えられ、今私たちは教会において礼拝を持ち、聖書を学ぶことが出来る。

 聖霊の働きは今日でも継続して行われている。私たちの信仰生活の中でも常に聖霊が働かれる。代表的な例を3点に絞って以下に述べる。

① 私たちは聖書を読み、メッセージを聴いて、約2000年前に起きた出来事を通  して信仰に導かれる。「イエスは私の救い主(キリスト)です。」と告白してバプテスマを受ける。当初は処女降誕やイエスの奇跡を直ぐには信じられなかった。しかし、聖霊の助けを求めて祈りながら聖書を読んで行くうちに、素直に理解し、受け入れることができ、すべての事が私たち人間を救うための全知全能の神の御業であることが判った。

②十字架の贖いは私たち人間を救うためになされたことを吟味するうちに、聖霊の働きによって『父なる神の払われた犠牲の何と大きなことか!』そこまでして、私たち罪人を愛される神の愛に感動した。

③生まれながら『自己中心』の罪を持つ人間が救われるのは、唯一イエス・キリストを自らの救い主として信じることである。このことを考えて祈っている時、聖霊が働かれ、自分の大切な人にキリストの福音を伝え、何とか救われてほしいと願うようになる。私の友人(医師)が双子の兄弟が救われるために、身を捨ててまで努力し、最終的にその兄弟を信仰に導いた。

最後に一言。 聖霊は皆さんの助け主で、良きカウンセラーです。皆さんが豊かな信仰生活を歩み、大切な人を信仰に導く上においても聖霊の助けと導きが必要です。皆さんの上に、主なる神、イエスキリストの恵み、聖霊の親しき交わりが益々豊かにありますように!(牧師:北林行雄記)

結婚の教え エペソ人への手紙5:21~33

 本日は聖書エペソ人への手紙から結婚についての教えを学ぶ。創世記2章24節に「男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、二人は一体となるのである。」と書いてある。つまり、結婚とは両親と離れ、二人が独立して、一緒に新しい家族を築くことである。特に、クリスチャン同士の結婚では、二人の真中にイエス・キリストがおられ、この方を中心にして、主なる神から祝福された家庭を作る特権が与えられている。

 エペソ人への手紙5:21「キリストを恐れて、互いに従いなさい。」将来、結婚する二人は、常に相手のことを考えて、お互いに従い合うことが大切である。これを基本にして、夫と妻に対してそれぞれの教えが、エペソ5:22~33に記載されている。

「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。」(22節) 。従うは有無を言わずに服従することではない。むしろ、主なる神によって導かれた人として敬い(33節)、教会がキリストに従うように心から従うことである。(24節)。

「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をささげられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。」(25)。イエス・キリストが私たち人間を救うために十字架にかかって死んで下さった。この素晴らしい事実(主の御業)を信じて救われた人々の群れが教会である。その教会の一員である夫はキリストに習って、自分のいのちをかけて妻を愛すべきである。 近い将来結婚する二人はこれらの教えをかみしめて、婚約期間中に結婚生活のための心の基礎造りをすることをお勧めする。

 私は1974年9月29日(妻の誕生日、当日は日曜日)に結婚し、今年9月で結婚歴が47年になる。幸いにイエス・キリストが私たちの結婚生活の中心にいてくださり、毎日一緒に行う聖書の学びと祈りに支えられ、充実した結婚生活を歩むことが出来、現在も継続中である。長い結婚生活の中で、数多くの恵みを体験してきたが、その中で特に以下の3点について紹介する。

Ⅰ.互いの支え合い

私は研究者として毎日多忙であったが、妻はわたしが健康で働けるように、手作りのお弁当、栄養満載の夕食を作ってくれた。結婚して3カ月後から金曜日の夜に我が家で聖書研究会を始めた。当時、水戸の教会に通っていたが、そこのメンバーで日立に住む信徒や求道者、私の学生時代の友人も集ってくれた。金曜日は残業ゼロの日であり彼らとともに学び後、妻の手作りの夕食を味わった。それが評判で、継続して皆が集まった。その中で新たに信仰を持つ人がどんどん現れて、クリスチャン・カップルや献身者も現れた。

 一方、私は身体が弱い妻を元気にしたいと願い、よく外出に誘って、よく歩いた。そのうち車の免許を取得し、行動範囲も広くなって、妻も新しい友人を見つけ、わたしが日立を退職するころには本当に元気になっていた。

Ⅱ.新しい発見

 神学校入学でカナダのバンクーバーでの生活、卒業後のアメリカのシアトルでの滞在にて妻はすごく明るくなって、カナダやアメリカの紳士が話すユーモアが判り、上手に返答できることを発見した。日本人でこんなにユーモアのセンスがあるのに驚いて、彼らは直ぐに友達になり手厚くもてなして下さった。私は神学校で学んだことを妻に分かち合って、共に学びをすることが出来た。

Ⅲ.良き協力者

 郷里富山で2人だけで開拓伝道した時、生活費を得るために英語教室を始めた。妻の持ち前の英語力で多くの生徒が集まった。そのうち学校の勉強を教えて欲しいとの要望があり数学等は私が指導した。徐々に教会員が与えられるにつれ、英語教室や家庭教師を辞めて牧会に専念することになった。女性の求道者や教会員の対応はすべて妻が担ってくれた。私の眼が不自由になった後は、教会の事務を担当してくれるようになった。

以上、結論として信仰者同志の結婚は、主なる神に守られて、日々、主の恵みを体験できる幸いなものである。「二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。」(伝道者の書4:9新改訳聖書2017) (牧師:北林行雄記)

主の御ことばを信じる ヨハネの福音書4:46~56

イエス・キリストはガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて、イエスとその弟子たちも招待された婚礼の席でぶどう酒が切れてしまった。その時、イエスが水がめいっぱいに満たされた水を上等のぶどう酒に変えられた所である(ヨハネ2:7~11)。このしるし(奇跡)はガリラヤ地方の人々に広く伝わっていたのであろう。イエスが再びガリラヤに来られたと聞いて、ガリラヤの国王ヘロデ・アンテイパスに仕える王室の役人がカペナウムから約20kmもあるカナまでやって来た。そして、重病で死にかかっている息子を癒してくださるようにとイエスに願った。

 イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」(ヨハネ4:48)。これはガリラヤ人全般に言っておられることで人々は “しるしと不思議”、つまり、目に見える形での奇跡を求めて、それを見ないかぎり信じないことを指摘された。王室の役人は「息子が死なないうちに下って来て下さい。」と懇願すると、主イエスは「行きなさい。あなたの子は治ります。」(ヨハネ4:50)と断言された。その人は “イエスが語られたことば” を信じて、帰って行った。つまり、彼は主イエスの御ことばを只ひたすら信じて帰った。

 すると、彼が下って行く途中、しもべたちが彼を迎えに来て、彼の息子が治ったことを告げた。子供が良くなった時刻は、イエスが「あなたの息子が治る。」と言われた時刻であった。それで、王室の役人も家の者たちも皆、主イエスのことばが確かなもので、すばらしい効力を伴うものであることが判り、自ら全幅の信頼を持って主イエスを信ずるようになった。

 主イエスはヨハネの福音書20:29で「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」と言われた。「見ないで信じる信仰」がより大切で優れたことである。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル人への手紙11:1)また、「信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」(ヤコブ5:15新改訳2017)。それゆえ、病などの困難に直面しても、主なる神による癒しを固く信じて待ち望もう。

以上、本日の聖書箇所から学んだように、キリストのことばを聴き、それを見ずに信じることは非常に大切なことであり、クリスチャンの信仰を一層成長させることができる。

 最後に、皆さんの信仰が一層高められ、主の祝福が益々豊かにありますように祈ります。 (牧師:北林行雄記)

永遠のいのちへの水 ヨハネの福音書4:1~26

ユダヤ人はサマリヤ人と仲が悪く、付き合いをしなかったので、多くのユダヤ人はサマリヤを通らずに、ヨルダン川を越えて渓谷沿いの険しい道を通った。しかし、イエス・キリストはサマリヤを通ってユダヤからガリラヤに行かれた。そして、先祖のヤコブが掘った井戸のあるスカルというサマリヤの町に来られ、その井戸の傍に座って、旅の疲れをいやしておられた。正午ごろ丁度そこにひとりのサマリヤの女が水を汲みに来たので、イエスは彼女に「わたしに水を飲ませてください」と言われた。イエス・キリストは人々が持つ偏見にとらわれず、真理に従って歩む方である、なお、ユダヤ人とサマリヤ人との不仲の原因は、紀元前722年にアッシリヤ帝国によってサマリヤが占領され、多くの住民が強制的に移住させられたことにある。残されたサマリヤ人とサマリヤに移住して来た他民族との雑婚が進み、混血民族となり果てた。そのため、他民族が持ち込んだ偶像崇拝をするようになってしまった。

 サマリヤの女はイエスの呼びかけを不審に思ったので、イエスは答えられた。

もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいと言っているのが、誰なのかを知っていたなら、あなたの方からその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたでしょう。」(ヨハネ4:10)。さらに、イエスは「この水を飲む人は皆、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことはありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:14)と言われた。『永遠のいのちへの水』とは、イエス・キリストを信じる者が後になってから受ける聖霊のことである(ヨハネ7:37~39)。

 続いて、サマリヤの女が「その永遠のいのちへの水を下さい。」と言ったら、直ぐに彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」、彼女は「私には夫がいません。」と答えた。イエスは彼女が正直に答えているのを察知して「あなたは本当のことを言った。」といわれた。すると、サマリヤの女は、「あなたは預言者だとお見受けします。」と答えた。イエスは「真の礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23~24)と言われた。

さらに、サマリヤの女が「私はキリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを知らせてくださるでしょう。」と言うと、イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」とイエスは答えられた。

 このようにサマリヤの女は救い主(メシア)イエスに自分の願いや思いを正直に打ち明けることによって、イエスをキリストとして固く信ずることができ、クリスチャンになった。彼女はこの素晴らしい恵みを町に行って人々に言い広めた。(ヨハネ4:28~29)。

彼女の証言を聞いて、さらに多くの人々がイエスのことばによって信じた(ヨハネ4:39~42)。

 今日の私たちは主イエス・キリストを肉眼で見て、耳で直接に御声を聞くことができない。しかし、感謝なことに、主イエスによって遣わされた聖霊の働きによって主の人格に触れることができる。具体的に言うとよく祈ってから、聖書を読む時、私たち人間を救うために十字架にかかって死んで下さったイエス・キリストの愛が本当に深く伝わってくる。これは正しく、永遠のいのちのあらわれである聖霊の働きであると思う。

 皆さんの信仰生活の上に聖霊の導きが益々豊かにありますように!(牧師:北林行雄記)

霊的な礼拝 ローマ人への手紙12:1~8

本日はローマ人への手紙12章から私たちクリスチャンひとりひとりの神に対する献身と、信仰の共同体である教会における倫理について学びたい。

 まず、12章1節の御ことばに注目する。「兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として献げなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(新改訳第3版)。 『からだ』とはあなたがたの生身の肉体のこと、すなわちあなたがた自身のことであり、あなたがた自身を神に喜んで受け入れてもらえる霊のいけにえとして、主なる神に用いて頂くことである。そのことが霊的な礼拝である。簡単に言うなら、あなたがた自身が全存在を神にかけて生きていくことである。

 このために、私たちは「心を新たにすることで、自分を変えていく。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち何が良いことで神に喜ばれ、完全であるのかを見分けることができる。」(ローマ12:2、新改訳2017)。

 ところで、私たち人間は皆、生まれながら自己中心の罪を持ったものである。このようなものが、本当に聖なる神に喜ばれる献身、霊的な礼拝を献げることができるだろうかと心配される方も多いと思う。心配は無用である。神は私たち人間の性質を十分ご存じで私たちの罪を贖うために、御子イエス・キリストの十字架と復活の御業がなされた。大きな犠牲を払ってまで私たちを救って下さった神は、救われた人々(クリスチャン)を主の御用のために用いて下さるのである。それゆえ、私たちも日々心の一新によって、霊的な礼拝を主なる神に献げよう。

 続いて、教会倫理に記載されている12章3節~8節に注目する。要約すると以下の3つの勧めがある。①教会員ひとりひとりが思い上がることなく、神が各自に与えられた信仰の量りに応じて、慎み深く考えること。②教会はキリストのからだで、教会員ひとりひとりが互いに器官である。③教会員各自が神から与えられた恵みに従って、異なる賜物を有効に用いること。預言、奉仕、教育、勧め、施し、指導、慈善の7つの賜物が列記されている。

私は1971年に洗礼を受け、今年はクリスチャンライフ50年になる。50年の経験の中で、これら3つの他に、どうしても加えたい大切なことが1つある。それは、教会において新たな事業を行うときは全員が一致するまで、十分な祈りと話し合いが必要であることである。

 私たちの教会は開拓当初から約25年間、教会堂の建設を祈り求めてきた。昨年、会堂建設プランがまとまり、臨時教会総会を二回開催して会堂建設について審議した。その結果、両総会とも全会一致で議案が承認された。そして、今年のイースター、4月4日に起工式を行い、先週火曜日(4/20)着工した。完全な一致のないまま多数決で決めたために分裂した教会もあることをわたしは耳にしていたので、心を注いで真剣に主の導きを祈り求めてきた。幸いに、皆が一致して建設工事を着工できたことは本当に感謝なことである。

(まとめ)

 教会のメンバーは育った環境が異なり、それぞれが特有のパーソナリティがある。しかし、教会はキリストのからだであり、信仰共同体である。互いに霊的な礼拝を心がけ、主なる神から与えられた恵みに従って賜物を活かして喜んで奉仕しよう。(牧師:北林行雄記)

信仰の祈り サムエル記第一1:9~28

ハンナはエルカナの妻であったが、エルカナにはもう一人の妻ペニンナがいた。ペニンナには子供がいたが、ハンナには子がいなかった。そのため、ハンナはペニンナからひどい嫌がらせを受け、泣いて食事をしようともしなかった。ハンナはなる神に祈り、誓願を立てて次のように言った。「万軍のよ。もしあなたが、はしための苦しみをご覧になり、わたしを心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません。」(サムエル記第一1:11)。

 その時、神殿の柱の陰から見ていた祭司エリは、ハンナが長い間、声もなく唇を動かして祈るのを見て、酒に酔っているのだと勘違いして、声をかけた。ハンナは「私は心に悩みのある女です。主の前に心を注ぎ出して祈っている。」と告げると、エリは彼女に「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」と言った。十分に祈ったハンナは心に平安を得て、帰って食事をした。その顔は以前のように苦渋に満ちた顔ではなかった。

 は彼女を心に留められた(19節)ので、翌年、ハンナは身ごもって男の子を産んだ。なる神は恵み深く、憐れみ深い方である。ハンナの祈りは聞かれ念願の男の子が授けられた。信仰を持って心を注ぎ出して祈るとその祈りには必ず答えて下さる。「信仰による祈りは病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせて下さいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」(ヤコブの手紙5:15)。

 ハンナは生まれた子どもの名前をサムエルと名付けた(20節)。サムエルは“神の名”の意味であり、『神に聞き届けられたもの』を表している。

 エルカナは年ごとの生贄(いけにえ)を主に献げるためにシロの神殿に行こうとしたが、ハンナは行かないで、サムエルが育つまで、家に留まって、その子が乳離れするまで乳を飲ませた。そして、乳離れした時、彼女は子牛3頭、小麦粉1エパ、ぶどう酒の皮袋1つを携えて、その子を伴ってシロにある“の家”(神殿)に連れて行った。彼らは子牛を屠り、その子を祭司エリの所に連れて行った。そこで、ハンナは祭司に行った。『自分はこの場所でこの子のことをに祈った女であり、は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。それで私もまた、この子をにおゆだね致します。この子は一生涯にゆだねられたものです。』(27~28節)。

 こうして、サムエルは幼児の時から祭司エリのもとでに仕えつつ成長し、にも人にも愛された(サムエル記第一2:26)。そして、彼は全イスラエルの預言者となって、各地を巡回して人々をさばいた。また、ダビデ王就任の油注ぎ(王になる儀式)をした。

 以上。サムエルの母ハンナの信仰に焦点を当てて学んだ。

◎ 彼女は子どもが出来ないので悩み、苦しむ中、誓願を立てて、主なる神に心を注ぎ出して祈り続けた。祈りは力である。

◎ はハンナを心に留められ、彼女は身ごもり、男子を出産した。ハンナは幼子を連れて神殿に行って、主に感謝して礼拝をささげた。

◎ ハンナは誓願を立てて約束した通り乳飲み子サムエルをにおゆだねし、サムエルは全生涯に仕える者となった。ハンナはの前に真実に歩んで約束を果たした。

 私たちもハンナの信仰に習って常に主なる神の導きを求めて祈り、感謝と礼拝の日々を過ごしましょう。           (牧師:北林行雄記)

主イエスの昇天 使徒の働き1:3~11

 イエス・キリストは十字架にかかられ死んで、3日目によみがえられた。そして、数多くの確かな証拠を持ってご自分が生きていることを使徒たちに示された。弟子たちが一緒に集まっている時、突然姿を現され、彼らの真中に立たれた。弟子たちは驚き恐れて霊を見ていると思ったが、主イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。」それでも彼らは不思議がるので、焼いた魚を一切れ食べられた(ルカ24:43)。また疑い深いトマスに対して、十字架刑によって残った手の釘跡やわき腹の槍の刺し傷に手を入れて触るように言われた(ヨハネ20:27~28)。

 また、主イエスは使徒たちに次のように命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた子父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたはまもなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」(使徒1:4~5)。

 主イエスは40日間にわたって弟子たちに現れ、神の国のことを語られた後、次の様に言われた。「聖霊があなたがたの上に臨む時あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。主イエスは父なる神の右に着座された。(エペソ1:21)。

 このようにして、イエス・キリストは昇天されたが、その代わりに聖霊が弟子たちや私たちクリスチャンに与えられた。この時から聖霊の働きによる新しい時代が始まった。聖霊は父なる神のもとから遣わされた助け主(ヨハネ15:26)である。私たちが聖書を理解できるように導き、私たちが試練の中で苦しんでいる時に励まし、私たちのためにとりなして下さる方である(ローマ8:27)。

 使徒たちとその仲間たちは一緒に集まっていた。五旬節(ペンテコステ)の日に彼らが皆集まった時、主イエスが約束された聖霊の降臨があった。すると、彼らは皆、聖霊に満たされて、他国のいろいろなことばで話始めた。この様子を見た大勢の人々が驚く中、使徒ペテロは大胆に福音を語り、イエス・キリストの名によって病人の癒しも行った。また、民の指導者、長老、律法学者たちが集まるサンヘドリン(ユダヤ議会)で、大胆に福音の証をした。人々はペテロの弁明を聞いて“無学な普通の人”であるのに、このような説明ができるのかと本当に驚いた。

 私たちも使徒たちのように聖霊に満たされるなら、恐れることなく知恵をもって証することができる。そのためには、信仰により日々新たにされて、聖書の学びと祈りを充実させることが大切である。

 「聖霊があなたがたの上に臨むときあなたがたは力を受けます。」の主イエスのことばを信じ、感謝して日々の証に努めよう。   (牧師:北林行雄記)

復活された主イエス マタイの福音書28:1~10

十字架上で息を引き取られたイエス・キリストのからだをアリマタヤのヨセフが下げ渡しを求め、岩を掘って造った自分の新しい墓にそれを納めた。そして、墓の入り口に大きな石を転がして塞いだ。翌朝、パリサイ人たちの要請により、その墓を番兵たちが見張り、大きな石に封印をして、墓から死体が盗まれないようにした。

 安息日が終わった週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメは墓を見に行った。(マタイ28:1、マルコ16:1~2)。彼女たちは墓の入り口を塞ぐ大きな石を誰が転がしてくれるか心配していた。ところが、大きな地震が起き、主の使いが石を脇に転がしてくれた(マタイ28:2)。それで、彼女たちは墓の中に入ることができた。しかしそこにはイエスの死体はなかった。主イエスが弟子たちに以前から言われていたように、死からよみがえられたからである(マタイ28:5~6,26~32)。イエス・キリストは死んで葬られ、3日目に完全な姿で死からよみがえられた。人間の歴史の中でただ一回だけ、このことが起きた。まさしく全知全能の主なる神の御業である。

 また、御使いはこの事実を弟子たちに報告するように彼女たちに勧めた。その内容は、「イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます。」(マタイ28:7)である。

 彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。すると、そこに主イエスが現れ「おはよう」と言われた。死から復活されたイエスに彼女たちは最初に出逢った。彼女たちが真っ先に墓に出掛け、香料を塗ろうとするひたむきな思いと行動力によって、“イエス・キリストの復活”という素晴らしいニュースを最初に知る恵に預かった。私たちは純粋な信仰と行動力を常に備えていたいものである。

  続いて、イエス・キリストの復活が今日の私たち人間にとってどれ程大きな意味を持つかについて考察する。イエスの復活は次の2つの大きな意味がある。

1.罪のない正しい方であるイエスは十字架にかかり、死んで三日目に復活された事実は、私たち人間の罪を救い主イエスが完全に贖って下さったことの証拠となる。それゆえ、イエスを自らの救い主と信じるクリスチャンは、罪赦され、必ず永遠のいのちを持つことができる。「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はご自分の大きな憐れみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、わたしたちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせて下さいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにして下さいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。」(ペテロの手紙第一1:3~4)。

2.私たちの現在の信仰生活において、主イエスがいつも共に歩んで下さり私たちを安全で正しい道に導いて下さる。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)。この点に関して内村鑑三の証を紹介する。

 内村鑑三は旧制の第一高等中学校(東大教育学部の前身)で教師をしていた時のことである。大学校でも小学校でも日本国中の学校が教育勅語を奉読し、明治天皇の写真を拝む儀式があった。キリスト教徒の先生として人気の高い内村は、「自分は日本を愛し、天皇を愛しているが、天皇を神として拝むことはできない。これを拝むことは偶像崇拝になる。」内村は悩み抜いた末、明治天皇の顔写真に向かって軽く目礼をして自分の席に帰った。いわゆる“不敬事件”である。このことが新聞等で大体的に報道され、人々から“非国民”と罵倒され、教師は首になり、悲惨な状態となって重い肺炎になった。しかし、その時、妻の加津子が励まし、熱心な看病で彼は元気を回復した。

 ところが、幸せな時も長く続かず、看病疲れで身体が弱り果て高熱が続き、遂に天に召されてしまった。内村は限界を超えた大きな悲しみで心が動揺し、『加津子を返せ。加津子を返せ。』と夜空に向かって、叫び続けた。その時、細い声が聞こえた。「神は生きている。生きていればどんなことでもできる。生は死よりも強い。生は人を天使のようにする。わたしを贖うものは生きておられる。わたしを贖うものは末の世に地に立たれる。」内村はハッと胸を突かれる思いで、我に返り、本当に神が判り、次のように祈った。「私は信じます。私の救い主は十字架の上で死なれました。そして、三日目によみがえられました。復活の主を信じます。復活を信じる者は主と共に生きるのです。主と共に加津子は生きる。主と共に私は生きる。主が今、私を贖ってくださった。有難うございます。」と。

 イエス・キリストによって、私たちに永遠のいのちが約束されています。また、復活された主イエスがいつも私たちと共に歩んでくださるのです。感謝して、信仰生活を力強く歩みましょう。          (牧師:北林行雄記)

十字架上の主イエス マタイの福音書27:45~54

ゲッセマネの園での祈りを終えて直ぐにイエス・キリストは逮捕され、祭司長や長老たちから仕向けられた不当な証言に基づく裁判が続き、最終的にローマ総督ポンテオ・ピラトの下での裁判でイエスの十字架刑が承認された。

 ゴルゴダの丘に三本の十字架が立てられた。真中の十字架にイエスが、その両サイドに二人の強盗が張り付けにされた。通りすがりの人たちや祭司長たち、律法学者たちがイエスを嘲笑って、「神殿を壊して三日で建てる人よ。もしお前が神の子なら自分を救ってみろ。そして、十字架から降りて来い。」と言った。さらに、一緒に十字架につけられた強盗たちも同じようにイエスをののしった。これらのことは詩篇22:7「私を見る者はみな、わたしを嘲ります。口をとがらせ、頭を振ります。」と預言されていた。

 十字架につけられたイエス・キリストの苦闘と死の場面がマタイの福音書27:45~50に記載されている。昼の12時から午後3時まで闇が全地をおおった。3時ごろイエスは大声で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。そして、大声で叫んで霊を渡された。すると、エルサレム神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。イエス・キリストの劇的なラストシーンである。白昼3時間に亘り全知が真っ暗になることは天変地異であり、また、エルサレム神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けることは歴史上一度もなかった。まさしく、イエス・キリストの贖罪の御業を物語る出来事であった。これらの出来事を見て、百人隊長や一緒にイエスを見張っていたものは「この方は本当に神の子であった」と言った。(マタイ27:54)

 さて、ここでイエスが叫ばれた「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」について考察する。この発言の意味は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」である。主イエスはゲッセマネの園の祈りにおいて、十字架の苦しみは父なる神の御心であるなら、受けざるを得ないと覚悟を決められたはずである。何故、このギリギリの段階でこう叫ばれたか。それは、イエスご自身が罪人(私たちすべての人間)の身代わりとなって、今、実際に罪の裁きを受けておられることを明らかにするためであり、神から断罪されることの恐ろしさを示すものである。言い換えれば、この時点でイエスは完全に罪人とひとつになって、父なる神との無限の隔たりを体験された。

 主イエスは十字架上で7つのことばを話された。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は第4番目であり、最後の2つは「完了した。」(ヨハネ19:30)と「父よ。わたしの霊をあなたの御手に委ねます。」(ルカ23:46)である。これは、主イエスが十字架刑の苦しみを体験し、父なる神の御心(私たち人間の罪を贖う御業)を全うされたことを表す。

キリストは自ら、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためである。」(ペテロ第一2:24)。

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)  このように、私たち人間を救うために、父なる神と子なる主イエスは大きな犠牲を払って下さった。ことばに尽くすことの出来ない神の恵みに感謝しよう。  (牧師:北林行雄記)