恐れずに信ぜよ ルカの福音書8:49~56

本日は、ルカの福音書8章49~56節から、特に、信仰について学びたいと思います。

イエス様の評判を聞いて、会堂司ヤイロがやって来ました。彼は、イエス様の前にひれ伏して自分の家に来てほしいと懇願しました。彼には12歳の一人娘がいて、その子が死にかけていました。彼は何とかイエス様に癒してもらいたいという熱い思いを持ってやってきました。それで、イエス様はヤイロと共に出掛けられますと、それを知った群衆が押し迫ってきました。その群衆の中に12年間長血を患っている女性が主イエスに近づき、その衣の房に触れると癒されました。この出来事もあって、会堂司の家への到着が遅れていました。

 そこに会堂司の家から人が来て次のように言いました。「お嬢さんは亡くなりました。もう先生を煩わすことはありません。」。ヤイロは娘が癒されることに、“いちるの望み”を持っていました。しかし、娘が死んだ以上はもう終わりだと一瞬心で思ったでしょう。その時、これを聴いてイエス様は答えられました。「恐れないでただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」(ルカ8:50)。ヤイロはイエス様の言葉を信じて、そのままイエス様を伴って自宅に向かいました。

 ヤイロの家に着くとイエス様は3人の弟子ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、と娘の両親の他は、誰も一緒に入ることを赦されませんでした。 人々はみな、少女のために泣き悲しんでいました。しかし、イエス様は言われました。「泣かなくてよい。死んだのではなく、眠っているのです。」(ルカ8:52)。人々は、少女が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑いました。

 イエス様のことばの真意は以下のことです。『眠っている』は死の婉曲表現であって、娘の死を遠回しに言われたのです。『死んだのではない』は永遠の死ではない。よみがえる可能性があることを示唆されたのです。

続いて、イエス様は少女の手を取って叫ばれました。「子よ。起きなさい。」すると、少女の霊が戻って、少女は直ちに起き上がったのです。それでイエス様は、その子に食べ物を与えるように命じられました。両親はこの奇跡を見て驚きました。このように、イエス様は人間の目には全く不可能と思える癒しの奇跡を行う力のある方です。

 今日、医療技術の進歩によって、かつて難病と言われた病気も治療できるようになりました。しかし、どんな素晴らしい技術があっても解決できない宿命的な病気があります。それは人間が生まれながら持っている原罪です。私たち人間は,どんなに修行しても自己中心の心を変えられません。自分が順風満帆の時は、弱い人や困った人を助けることができても、不利な立場になると、他の人を妬んだり、恨んだりするようになってしまいます。人の心には悪が宿っている現実です。

 この問題を解決できる方はイエス・キリスト以外に誰もいません。イエス・キリストは罪のない方ですが、私たち人間の罪のために十字架にかかって死に、三日目に復活されて、罪の病を癒して下さいました。イエス様は言われました。「恐れないで、ただ信じなさい。」。 そこで、“信じる”ということについて、もう少し深く学んでみましょう。

“信じる”とは、

  • 相手、つまりイエス様に全幅の信頼を寄せて、言われたことに一切の疑いを持たずに、確信を持って受け入れることです。
  • 委ねることです。イエス様の言われたこと、示された御ことばに委ねて歩むことです。
  • 従うことです。行動をもって信仰を表すことです。

皆さん、どんな環境に置かれても常に主を信じて生き抜いていこうではありませんか。

                       (牧師:北林行雄記)

信仰の証しと福音宣教 ルカの福音書8:26~39

 昨年は新型コロナウイルス感染拡大で社会全体が自粛状態となり、厳しい生活を強いられた人が多かった。仕事がなくなって失業し、生活困窮者が増大した。そのために、ただ、豊かさを求めて経済発展を進めるだけでなく、むしろ、孤立した人が自らで命を絶つことがないように、その人に寄り添って、助け合う社会を根付かせることが大切であることを。   

 今、人々は助けを求め、真の生きる希望を求めている。それ故、今こそ私たちは福音を宣べ伝える時である。今年の年間主題聖句として主から示された御言葉がコリント人への手紙第二6章2節である。「神は言われます。『恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助ける。』見よ。今は恵みの時、今は救いの日です。」

今朝は福音宣教の一環として、先ず私たちがどのように信仰の証しをしていくかについて学ぶ。ルカの福音書8章26~39節にゲラサ人の地で悪霊につかれて、長い間墓場に住んでいた男を主イエスが救われたことが書いてある。この男は服を身につけず家に住まないで、墓場に住んでいた彼が主イエスを見ると直ぐに叫び声をあげ御前にひれ伏して大声で言った。「いと高き神の子イエスよ。私とあなたに何の関係があるのですか。お願いです。私を苦しめないでください。」。それは、イエスが汚れた霊に、この人から出て行くよう命じられたからであった。この人は大勢の悪霊につかれているために、自分の意志ではなく、ただ悪霊によって動かされていた。彼は鎖と足かせでつながれて監視されていたが、それらを断ち切っては悪霊によって荒野に駆り立てられていた。

悪霊どもは自分たちが底知れぬ所(地獄)に行かせられないように願って、その地方で飼われていた豚の群れに入ることを懇願した。イエスがそれを許されたので悪霊は男の人から出て 豚に入った。すると豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれて死んだ。豚を飼っていた人たちはこの出来事を見て逃げ出し、町や里でこのことを伝えた。ゲラサ周辺の人々は皆、イエスに自分たちの所から出て行ってほしいと願った。彼らは非常な恐れにとりつかれていたからであった。

一方、悪霊の去った男は服を着て、正気の返って座っており。イエス様にお供をしたいとしきりに願った。これに対して、イエス様は彼に「あなたの家に帰って、神があなたにして下さったことをすべて話して聞かせなさい。」(ルカ8:29)と言われた。彼はそれに従って立ち去り、イエス様が自分にして下さったことをすべて町中に言い広めた。 ここに、私たちが“信仰の証し”をするための良い見本が示されている。すなわち、自分がどのようにしてイエス様を信じたかを正直に語ることである。

私たちは今、歴史上の人物を肉眼で見ることができないが、聖書を学んでいく中で、イエス・キリストの人格とその御業を知ることができる。イエス様は私たち人間を救うために、ご自分が十字架にかかって死んで下さった。 ”罪人のために命を捨てられた。“イエス・キリストはこれ程大きな愛の持ち主である。なお、証しは言葉で伝えるだけではない。

皆さんがキリストの愛に満たされて、喜んでいる姿そのものが証しである。毎週、教会に集い、御言葉を聴いて兄弟姉妹との交わりを楽しみ、生き生きとして毎日歩んでいるなら、周りの人も”あなたの信仰が本物である“と判ってくれる。ただし、自分の家族が救われるには忍耐が必要であり、そのために継続して祈ることが大切である。主の導きによりあなたの姿を見ている家族がそのうち目が開かれて必ず救われる日が訪れるのです。

皆さんの上に主の豊かな祝福がありますように!    (牧師:北林行雄記)

主の守りと導きへの感謝 詩篇34:1~22

2020年は新型コロナウイルス感染拡大で社会全体が大変重苦しいムードに包まれた。感染拡大を防止するために3密を避けることや、新しい生活様式が叫ばれた年であった。

 わたしたちの教会も大きな試練を体験した。2月から牧師が左眼の網膜剥離や黄斑前膜の手術で4回の入退院があった。教会に緊張感と動揺が起こり、車が大破してしまうという大きな事故が2件連発した。その苦しい状況の中で、役員を中心として教会の中から「毎日、夜10時から会堂建設のために、皆が心を合わせて祈ろう。」という提案があり、今日まで毎日実施してきた。

すると、主なる神の恵みと導きにより、教会員の団結心が高まり、新会堂建設の意欲が一層強くなった。そして、会堂建設に関する2回の臨時総会は全会一致で了承された。そのようにして念願の会堂建設のための資金が満たされ、12月16日(水)に梅清建設と工事契約を締結することができた。主の恵みと導きに心から感謝します。

 今朝はこの体験をベースに、詩篇34編から主の恵みと導きの素晴らしさについて共に学びたい。詩篇34篇には主を求める者に対する応答が以下の通り記載されている。

「この苦しむ者が叫ぶと、主は聞かれ、すべての苦難から救ってくださった。」(6節)。「若い獅子も乏しくなり飢える。しかし、主を求める者は良いものに何一つ欠けることがない。」(10節)。「苦しむ者が叫ぶと、主は聞かれ、そのすべての苦難から救い出して下さる。」(17節)「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、魂の砕かれた者を救われる。」(18節)

主の恵みの第一のポイント:主なる神は真実で、心の打ち砕かれた者の切なる祈りに、確かにお答えくださるお方である。従って、コロナ禍など苦しい中に置かれても、希望を失うことはない。主が必ず助けてくださるから。

第二のポイントは、主を恐れることである。「主を恐れよ。主の聖徒たちよ。主を恐れる者には、乏しいことがないからだ。」(9節)。「来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。」(11節)。

「主を恐れること」は全知全能の創造主なる神の前で、心砕かれつつ生きることであり、敬虔な行為である。そのような人たちに神は目を留めて、彼らを助け、救いに導かれるのである。知恵の書と言われる箴言に「主を恐れること」がよく記載されている。「主を恐れることは知恵の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」(1:7)ほかに1:29,2:5,8:13,9:10等。

 第三のポイントは「主をほめる」ことである。「私はあらゆるときに主をほめたたえる。私の口にはいつも主への賛美がある。」(1節)。信仰者はいつも主なる神をほめたたえ、主を賛美することを勧めている。主に祈り、いろいろな課題を解決してもらったら、一層主をほめたたえ、賛美することを忘れてはならない。

以上、詩篇34篇から示されたことに従って、私たち信仰者は、主を恐れ、常に砕かれた心で祈り、主を賛美する者でありたい。

 来たる2021年も皆さんの上に主の豊かな祝福がありますように!

                (牧師:北林行雄記)

真の救い主の誕生 ルカの福音書2:1~20

 クリスマスおめでとうございます。

私たちの救い主イエス・キリストは今から2000年前に誕生された。その約700年前に預言者ミカによって、この方の誕生の場所がベツレヘムであると預言されていた。

ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの民族の中であまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」(ミカ5:2)

 ヨセフとマリヤはガリラヤの町ナザレに住んでいたが、ローマ皇帝アウグストが全世界の住民登録をせよという勅令を出したために、ユダヤのベツレヘムに上って行くことになった。ベツレヘムはダビデの町であり、ヨセフはダビデの家に属し、その血筋でマリヤも同様にダビデの系統だったからである。

 マリヤは聖霊によって身ごもり(ルカ1:31)、身重になっていた。彼らがベツレヘムに滞在中に、月が満ちて男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。(ルカ2:6~7)住民登録のため各地から大勢の人が来て宿屋は満杯だったので、そこに彼らのいる場所がなかったからである。このようにして、救い主イエスは誕生された。

それにしても、聖霊によって処女マリヤが身ごもったことや、700年前の預言の通り幼子がベツレヘムで誕生したことは、わたしたち人間の常識を遥かに超えた、まさしく全知全能の主なる神の御業であった。

 主イエス誕生のニュースが最初に伝えられたのは、野宿をしながら羊の群れの夜番をしていた羊飼いであった。彼らは社会的に最下層の人たちで、人々から無視された存在であった。しかし、主なる神はそのような人々にも常に目を留めて、最高の祝福を与えられた。神は偏った方ではなく、公平で、愛と慈しみに富むお方である。

御使いが羊飼いたちの所に来て、主の栄光が周りを照らした。そして、御使いは羊飼いたちに次のように言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のための素晴らしい喜びを知らせに来たのです。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ1:10~11)。すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。

 「いと高き所で、栄光が神にあるように。

地の上で、平和が, みこころにかなう人々にあるように。」

(讃美歌106「グロリア・イン・エクセルシス・デオ」)

御使いたちが天に帰った時、羊飼いたちは『ベツレヘムに行って、主が知らせて下さったこのできごとを見届けてこよう。』と話し合い、急いで行って、彼らはマリヤとヨセフと飼い葉桶に寝ているみどり子を捜し当てた。羊飼いたちは御使いのことばを素直に信じて直ぐに行動に移したのである。そして、見聞きしたことがすべて御使いの話の通りだったので、彼らは神をあがめ讃美しながら、帰って行った。

 一方、マリヤはこれらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。(恐らく彼女は自分が産んだ神の子イエスの将来について、大きな期待を持って・・・)

 赤ちゃんの誕生はその子の両親や兄弟、親族や友人たちの喜びであるが、イエス・キリストの誕生は、全人類にとって、非常に大きな喜びとなるものである。その理由は、この方が私たち人間の身代わりに十字架にかかって死んで、三日目によみがえって、私たちの罪(本来人間が持っている原罪)を贖ってくださった救い主だからである。それゆえに、イエス・キリストを信じる者は、誰でも罪赦され、永遠のいのちを持つことができるのである。

「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ1:11)。

皆さん、イエス・キリストの御降誕を喜び、この喜びの知らせを周りの愛する人々に届けましょう。

                     (牧師:北林行雄記)

処女降誕の御告げ ルカの福音書1:26~38

 イエス・キリストの母となる処女マリヤに御使いガブリエルが次のように言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(ルカ1:28)。

突然のことばに、マリヤはひどく戸惑った。すると、御使いは彼女に「恐れることはありません。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」(ルカ1:30~31)と言った。

 マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」。もし未婚のまま出産したら抹殺される厳格なユダヤ社会でマリヤは生きており、しかも、彼女は純粋な信仰を持っているので、未婚の出産など全く考えたこともなく、絶対にあり得ないことであった。

 そこで御使いは処女降誕が実現する3つの根拠を彼女にのべた。

第一に「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおう。」つまり、マリヤが聖霊に満たされて、新しい生命を宿す力が与えられるということである。エゼキエル書37章に、主なる神の息(聖霊)が骨に吹きかけられることによって骨と骨がつながり、筋が付き、肉がついて人が生き返ったように、処女マリヤも新しい生命を宿すことができると言った。

第二に、「生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」つまり、誕生する子はマリヤから生まれた人の子であると同時に、聖霊によって宿った聖なる神の子である。

第三に、親類のエリサベツが高齢にもかかわらず、男の子を宿し、6カ月に入った。神にとって不可能なことは何もない。

これらのことを御使いから聞いたマリヤは「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことば通りこの身になりますように。」と言った。彼女は覚悟を決めて、信仰をもって御使いのことばに従うことを決断した。 なお、イエスの誕生はイザヤ書7:14の御ことば「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」の成就である。

マリヤは妊娠したエリサベツに逢い、彼女が聖霊に満たされて「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は何と幸いなことでしょう。」との言葉を聞いて、喜びに満たされて言った。「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めて下さったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も、わたしを幸いな者と呼ぶでしょう。」(ルカ1:46~48)

その後、マリヤは主のことばを思い巡らして、自分の産んだ幼子が “神の子"であることを意識しながら養育し、その成長を見守った。イエスの偉業を見て喜びに満たされると共に、イエスの十字架に立ち会った時は、母として心裂かれる悲しみも体験した。主イエスの昇天後、マリヤは熱心に120名ほどの信者と共に祈っていた(使徒1:14)。

 マリヤは御使いガブリエルから処女降誕の告知を受けて以来、主なる神のことばは必ず成就すると信じ切って、主の御ことばに自らを委ねる信仰を守り通した人生であった。

「神にとって不可能なことは何もありません。」(ルカ1:37)

皆さん、世の中がいかに変化しても、永遠に続く神の愛と恵の中を、信仰を持って歩もうではありませんか。               (牧師:北林行雄記)

バプテスマのヨハネの誕生 ルカの福音書1:5~17

 バプテスマのヨハネはイエス・キリストより半年前に誕生し、イエスのことを「私はその方の履物のひもを説く値打ちもありません。この方は神の子です。」(ヨハネ1:27、34)と人々に紹介した人物である。

彼の両親はユダヤ教の祭司ザカリヤとその妻エリサベツである。二人は神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を、落ち度なく行っていた。ところが、彼らには、長い間子どもが出来なかった。なぜなら、エリサベツは不妊の女だったからである。二人がすでに高齢になった時に、全知全能の主なる神の特別な計らいがあった。

ザカリヤは"神殿に入って香をたく"と言う職務がくじで当たった。この職務を担当することは一生に一度しかなく、全く担当せずに生涯を終える祭司もあり、大変名誉あるものであった。ザカリヤが香をたいている時に、主の使いが現れて次のようにいった。「恐れることはありません。ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。」(ルカ1:13)

 思いもかけないことばにザカリヤは戸惑って、御使いに「私はそのようなことを何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」と言った。すると、御使いは「この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために遣わされたのです。見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばをあなたが信じなかったからです。」(ルカ1:19~20)と答えた。

 香をたき終えてザカリヤは神殿から出てきたが、御使いが言った通り、ザカリヤは話をすることが出来なかった。外でザカリヤを待っていた民衆に彼は合図をするだけだった。その後、妻エリサベツは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。御使いの言った通りのことが実現した。「神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカ1:37)。

それにしても、ザカリヤは神に仕える祭司であり、妻エリサベツもアロンの子孫であり、夫婦共にユダヤ社会では特別な名門である。そのザカリヤは御使いの言ったことばが信じられなくて、その結果、彼はしゃべれなくなった。この時から息子ヨハネの誕生まで、彼は何を考えたであろうか。恐らく彼は反省し、自分の不信仰を悔い改めたことであろう。その証拠が、幼子に名前をつける時に近所の人たちや親族が父の名にちなんでザカリヤと名付けようとしたが、エリサベツはヨハネとすることを主張し、ザカリヤも書き板に「その子の名はヨハネ」と書いた。すると直ちにザカリヤの口が開かれ、ものが言えるようになって神を誉めたたえた。

 今日、少子化対策として、政府は不妊治療費の助成を図ろうとしている。現代の医療技術が全くない約2000年前に、高齢の夫婦に新生児が与えられたのである。正しく、神の業である。現代に生きる私たちは、科学的根拠を大切にするとともに、今も生きて働かれる神の御業を、信仰を持って正しく受けとめるべきである。

 このように誕生したバプテスマのヨハネは、イスラエルの民の前に現れる日まで荒野にいた(ルカ1:80)。そして、彼は神殿ではなく、荒野で罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。(マルコ1:4)。このヨハネから主イエスはバプテスマを受けられ、聖霊がご自分の上に下るのをご覧になった後に、宣教活動を開始された。このように、バプテスマのヨハネは「主の道を用意し、主の通られる道を真っ直ぐにした。」(マルコ1:3)。

主イエスは人々に神の国のことを伝え、私たち人間の罪を贖うためにご自身が十字架にかかって死んで、三日目に復活された。この方、イエス・キリストを信じる者は誰でも永遠のいのちを持つことができる。これが福音であり、私たち人間にとって最高の知らせである。使徒パウロは福音宣教に命をかけた人であるが、彼は福音について次のように宣言している。「私は福音を恥とは思いません。福音はユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって救いを得させる神の力です。」(ローマ1:16)。

是非、皆さんも、ご自分の家族や友人、周りの人たちの救いのために祈りつつ、しっかりと福音を伝えて行きましょう。        (牧師:北林行雄記)

キリストの最初の弟子たち マタイの福音書4:12~22

イエス・キリストはバプテスマのヨハネが捕えられたことを聞いて、ナザレの町を離れ、“ゼブルンとナフタリの地方”(ガリラヤ地方の事)に退かれた。そして、ガリラヤ湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。(マタイ4:13)。当時カペナウムは、北はダマスコから南はエジプトに通じる主要道路が走る非常に繁栄した町であった。ここに救い主イエスが住み、宣教活動の拠点とされたことは、キリスト誕生の約700年前に活動した預言者イザヤの書の成就である。「異邦人のガリラヤ。闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。」(イザヤ9:1~2)

 主イエスの宣教開始第一声は、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4:17)である。神の子主イエス御自身が人間の歴史の中に入って下さったので、主イエスを通して天国の道が開かれた。それゆえ、罪を悔い改めて、主イエスが教えられる生き方をするように勧められた。

 「イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の弟子、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。」(18節)。そして、主イエスは二人に「私について来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。(19節)と言われた。主イエスがこのように言われたのは彼らと初対面ではなく二人のことを知っておられたからである。そのことはヨハネの福音書1:35~42から判る。アンデレはバプテスマのヨハネの弟子であり、ヨハネは主イエスが歩いて行かれるのを見て「見よ。神の子羊。」と言ったのを聞いて、他の弟子と一緒にイエスについて行った。そして、主イエスの泊まっておられる所を知り、弟のシモンをそこに連れて行った。主イエスはシモンを見て「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケパ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます。」と言われた。(ヨハネ1:42)。この印象的な出逢いの後に二人は主イエスに再会し、「わたしについて来なさい。」と言われたことに反応して、直ぐに網を捨てて主に従った。

 さらに、イエスはそこから進んでいき、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのを見て、二人をお呼びになった。彼らは直ぐに舟と父親を残してイエスに従った。

主イエスの弟子となったアンデレ、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの四人は、全幅の忠誠を持って主に従った。彼らは主イエスと寝食を共にし、主の御業や説教を身近で聞いて、主イエスを心から尊敬していた。

 そこで、4人の弟子の人柄と功績について説明する。ペテロは弟子の筆頭であり、出たがり屋であった。コリントなど各地で熱心に伝道し多くの人々を導き、ローマ教会の初代監督となった。ヤコブは激しい気性で、勇敢に伝道した。ヨハネは「愛の使徒」と呼ばれエルサレム教会の育成やエペソの伝道に尽力した。迫害でパトモス島に流されたが、そこで、ヨハネの黙示録やヨハネの福音書、ヨハネの手紙を執筆し、エペソで紀元100年頃、94歳で天寿を全うした。アンデレは謙虚な人柄であった。ヨハネ以外は皆、殉教の死を遂げた。ヤコブは最初の殉教者であった。ペテロもアンデレも、殉教の死を恐れず、イエス様と一緒の十字架ではもったいないと言って、ペテロは逆さ十字架刑にかかり、アンデレはX形十字架刑で殉教した。

以上のように、キリストの最初の弟子四人は、それぞれの働きと生涯は異なるが、主なる神に用いられて素晴らしい功績を残した。「神を愛する人たち、すなわち、神の御計画に従って召された人々のためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ人への手紙8:28、新改訳聖書第3版)。

このような素晴らしい信仰の先輩がいるので、私たちも常に主イエスを見上げて、忠実に従って行こう。社会が変化してどんなに厳しい環境に置かれても信仰を最後まで全うしよう。 (牧師:北林行雄記)

主イエスに対する悪魔の試み マタイの福音書4:1~11

 イエス・キリストはヨルダン川でバプテスマを受けて、水から上がられると直ぐに、神の御霊が降り、天から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」と声があった(マタイ3:17)。つまり、主イエスは “神の子"として明言されたのである。このことに悪魔は目をつけて、主イエスを3つの質問で試みた。

 第一の誘惑

主イエスは荒野に上って行かれ、そこで40日40夜断食された。空腹を覚えられた時に試みる者(悪魔)が近づいて来て言った。「あなたが神の子ならこの石がパンになるように命じなさい。」(マタイ4:3)。つまり、『あなたは全能の神の子と認められたのだから,何だってできる。石をパンに変えることなんてたやすいことだから、直ぐにやってみなさい。』と言う意味である。能力があると認められた人間の心の高ぶりにつけ込んだ誘惑である。これに対して、主イエスは「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」(申命記8:3)と言って、神のことばで回答された。人の生命を維持するためには、確かにパンは必要なものであるがそれだけでは不十分である。神のことばによって養われることが最も大切なことである。

 第二の誘惑

悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。」(マタイ4:6)と言い、彼も聖書のことば「主があなたのために御使いたちに命じて、あなたのすべての道で、あなたを守られるからだ。彼らはその両手にあなたを乗せ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする。」(詩篇91:11~12)を使って、主イエスに父なる神が守って下さるかどうか試すように仕向けてきた。それに対して主イエスは「あなたの神である主を試みてはならない。」(申命記6:16)の神のことばで悪魔の誘惑に対抗された。

 第三の誘惑

 最後に悪魔は富と栄誉を求めようとする人間の心の面から、誘惑してきた。主イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、「もしひれ伏して私を拝むならこれをすべてあなたにあげよう。」(マタイ4:9)と言った。それに対して主イエスは次のように言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい。』(申命記6:13)と書いてある。」(マタイ4:10)以上のように主イエスは悪魔による三つの誘惑に完全に勝利された。悪魔はイエスを離れ、その代わり、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。

まとめ

 本日の聖書箇所から特に二つの大切なことが教えられる。

  • 主イエスは神の子であるのにへりくだり、人間としての立場で悪魔の誘惑を受けとめられ、旧約聖書のことばを引用してその誘惑に勝利された。神のことばは悪魔の策略に立ち向かう有力な「御霊の剣」(エペソ6:17)である。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる。」
  • 主イエスは悪魔の試みや苦しみを味わい、十字架の苦しみまでも負われた。それ故、私たち人間が受けるどの様な試みや苦しみも十分わかって下さる。「主イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。」(ヘブル人への手紙2:18)。                      (牧師:北林行雄記)

主を待ち望む者の幸い 詩篇33:1~22

 詩篇33篇は3つの段落からなる。1~3節で神を賛美することの招きをし、4~19節で神の御性質とその御業の素晴らしさを語り、最後に結論として20~22節で神を信頼して待ち望めと結んでいる。今朝はこの詩篇から特に「主なる神を待ち望む者の幸い」について学びたい。

 “主を待ち望め”と詩篇33篇作者が勧める理由は、

第一に、主は正義と公正を愛され、天と地の創造者であるから。

「主の言葉は真っ直ぐで、その御業はことごとく真実である。」(4節)。

”真っ直ぐ“と訳されている言葉の意味は、正しいことで、偏ったり、歪んだりしないことである。主の言葉によって天は造られた。天の万象もすべて、御口の息吹によって。」(6節)。

創世記1章に天地創造の記事が書かれてある。主は壮大な宇宙や豊かな自然界を創造された。有史以来約5000年以上に亘って続いている天体の正確な動きや自然界の循環は驚異的なものである。

第二に、主は一人ひとりの心を形作り、わざのすべてを読み取る方であるから。

「主は、天から目を注ぎ、人の子らのすべてをご覧になる。御座が据えられたところから地に住むすべての者に目を留められる。」(13~14節)。主は全知能力の方で、天の御座から人の心とその行いを洞察される。

第三に、主の目は主を恐れる者に注がれるから。

「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。主の恵みを待ち望む者に。」(18節)。

人間社会においては、いつも争いがある。人間の歴史には国と国との戦い、また、民族間の戦いが数多くあった。その戦いの中では軍勢の大きさや軍馬は大きな力を発揮すると思われてきた。しかし、「王は軍勢の大きさでは救われない。勇者は、力の大きさでは救い出されない。軍馬も勝利の頼みにはならず、軍勢の大きさも救いにはならない。」(16、17節)。

 敵に打ち勝つために強力な兵器が考案されて、一時は攻勢を誉っても、しばらくすると、敵はさらに優れた兵器を作り出す。そればかりかとんなに強い軍隊であっても、地震のような自然災害には勝てない。

しかし ”主を待ち望む者“ には、主なる神は「彼らの魂を死から救い出し、飢餓の時にも、彼らを生かし続けるために」(19節)働いて下さる。

 今のコロナウイルス禍の影響で、世界中の人々の中で、生活不安や社会不安が広がっている。しかし、そういう中にも希望がある。信仰を持って主を待ち望む者には特別に、主は愛の目を向けて、導き、苦難から脱出させて下さるので、安心して歩むことができる。

是非皆さんも、いつも主を待ち望んで、充実した人生を歩まれますようお祈り致します。              (牧師:北林行雄記)

信仰と試練 使徒の働き14:19~28

本日の聖書箇所はパウロの第一次伝道旅行における出来事である。アンテオケ教会で皆が主を礼拝し、断食している時に聖霊によってパウロとバルナバが宣教師として召されれた。二人は聖霊によって送り出され、キプロスに行った。その後パンフリヤのペルゲに渡り、ピシデヤのアンテオケにやって来た。そこの会堂でパウロはイスラエルの歴史から初めて説教をした。その内容を要約すると、

「神は約束に従って、ダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送って下さった。しかし、エルサレムに住む人々と指導者たちはイエスを認めず、イエスを罪に裁め、ポンテオ・ピラトの下に十字架にかけて殺してしまった。しかし、神はイエスを死者の中から蘇らせた。復活されたイエスは何日にもわたって弟子たちや多くの人々に現れた。この方を通して罪の赦しが宣べ伝えられている。この方によって、信じる者はみな義と認められる。」(使徒の働き13:23、27、30、38)。

 パウロのメッセージを聞いた人々は次の安息日に同じことを話してほしいと頼んだので、パウロは語った。さらに次の安息日にはほぼ町中の人々が、主のことばを聞くために集まってきた。しかし、この群衆を見たユダヤ人たちは妬みに燃えて、パウロが語ることに反対し、口汚くののしった。そして、町の主だった人たちを先導してパウロとバルナバを迫害させ、二人をその地方から追い出した。二人は足の塵を払い落として、イコニオムに行った。

 ところが、そこでも同じことが起こった。ユダヤ人の会堂に行って話をすると、ユダヤ人もギリシャ人も大勢の人々が信じた。しかし、信じようとしないユダヤ人たちは異邦人たちを先導して、兄弟たちに対して悪意を抱かせ、パウロとバルナバを辱めて石打にしようと企てた。そこで二人はルステラに逃げて福音宣教を続けた。

 ルステラでは、生まれつき足が動かず、これまで一度も歩いたことのない男がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に“癒されるにふさわしい信仰”があるのを見て、大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がり、歩き出した。(使徒14:9~10)。これを見ていた群衆が驚いて、二人に動物のいけにえを捧げようとした。二人は必死になって彼らを説得し、かろうじてそれを止めさせることができた。しかし、アンテオケとイコニウムからユダヤ人たちがやって来て、群衆を抱き込み、パウロを石打にした。彼らはパウロが死んだものと思って、町の外に引きずり出した。(使徒14:19)この迫害は酷いもので、後にパウロは次のように述べている。「何というひどい迫害に私は耐えてきたことでしょう。しかし、主は一切のことから私を救い出して下さいました。」(第二デモテ3:11新改訳)

 その翌日、パウロはバルナバとともにデルベに行って、福音をのべ伝え、イコニオム、アンテオケに引き返した。

 パウロは死に至るほどの迫害を受けた地域になぜ行ったのか?

その理由は第一に、新しく生まれたクリスチャンの弟子たちを励ますためだった。パウロは弟子たちに「心を強め、信仰にしっかりと留まるように」勧めて、「私たちは神の国に入るために多くの苦しみを経なければならない」と語った(使徒4:22)。

 第二に、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食して祈った後、彼らをその信じている主に委ねるためであった(使徒4:23)。なお、長老はクリスチャンの群れの霊的指導者であり、その群れを神に従って牧会する責務があった(ペテロ第一5:2)。

 次に信仰者は何故試練に逢うのか考えてみよう。もし、試練が全くない生ぬるい環境に置かれたら、残念ながら、信仰も腐ってしまう可能性が大きい。それゆえ、私たちの信仰を磨くには試練も必要なものである。ただし、試練によってその人の信仰がつぶれてしまわないために、「神は私たちが耐えられないような試練に逢わせられない。むしろ試練とともに脱出の道も備えてくださる。」(コリント第一10:13)。

 さらに、「私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです」(コリント第二4:17)。

 皆さん、どんな試練の中でも、常に主イエスを見上げ、希望を持って、信仰にしっかりととどまっていましょう。              (牧師:北林行雄記)