本日は、ルカの福音書8章49~56節から、特に、信仰について学びたいと思います。
イエス様の評判を聞いて、会堂司ヤイロがやって来ました。彼は、イエス様の前にひれ伏して自分の家に来てほしいと懇願しました。彼には12歳の一人娘がいて、その子が死にかけていました。彼は何とかイエス様に癒してもらいたいという熱い思いを持ってやってきました。それで、イエス様はヤイロと共に出掛けられますと、それを知った群衆が押し迫ってきました。その群衆の中に12年間長血を患っている女性が主イエスに近づき、その衣の房に触れると癒されました。この出来事もあって、会堂司の家への到着が遅れていました。
そこに会堂司の家から人が来て次のように言いました。「お嬢さんは亡くなりました。もう先生を煩わすことはありません。」。ヤイロは娘が癒されることに、“いちるの望み”を持っていました。しかし、娘が死んだ以上はもう終わりだと一瞬心で思ったでしょう。その時、これを聴いてイエス様は答えられました。「恐れないでただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」(ルカ8:50)。ヤイロはイエス様の言葉を信じて、そのままイエス様を伴って自宅に向かいました。
ヤイロの家に着くとイエス様は3人の弟子ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、と娘の両親の他は、誰も一緒に入ることを赦されませんでした。 人々はみな、少女のために泣き悲しんでいました。しかし、イエス様は言われました。「泣かなくてよい。死んだのではなく、眠っているのです。」(ルカ8:52)。人々は、少女が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑いました。
イエス様のことばの真意は以下のことです。『眠っている』は死の婉曲表現であって、娘の死を遠回しに言われたのです。『死んだのではない』は永遠の死ではない。よみがえる可能性があることを示唆されたのです。
続いて、イエス様は少女の手を取って叫ばれました。「子よ。起きなさい。」すると、少女の霊が戻って、少女は直ちに起き上がったのです。それでイエス様は、その子に食べ物を与えるように命じられました。両親はこの奇跡を見て驚きました。このように、イエス様は人間の目には全く不可能と思える癒しの奇跡を行う力のある方です。
今日、医療技術の進歩によって、かつて難病と言われた病気も治療できるようになりました。しかし、どんな素晴らしい技術があっても解決できない宿命的な病気があります。それは人間が生まれながら持っている原罪です。私たち人間は,どんなに修行しても自己中心の心を変えられません。自分が順風満帆の時は、弱い人や困った人を助けることができても、不利な立場になると、他の人を妬んだり、恨んだりするようになってしまいます。人の心には悪が宿っている現実です。
この問題を解決できる方はイエス・キリスト以外に誰もいません。イエス・キリストは罪のない方ですが、私たち人間の罪のために十字架にかかって死に、三日目に復活されて、罪の病を癒して下さいました。イエス様は言われました。「恐れないで、ただ信じなさい。」。 そこで、“信じる”ということについて、もう少し深く学んでみましょう。
“信じる”とは、
- 相手、つまりイエス様に全幅の信頼を寄せて、言われたことに一切の疑いを持たずに、確信を持って受け入れることです。
- 委ねることです。イエス様の言われたこと、示された御ことばに委ねて歩むことです。
- 従うことです。行動をもって信仰を表すことです。
皆さん、どんな環境に置かれても常に主を信じて生き抜いていこうではありませんか。
(牧師:北林行雄記)