主は私の羊飼い 詩篇23篇

この詩篇は大変有名です。羊と羊飼いの関係は、私たち人間と主なる神であるイエス・キリストとの関係を象徴しています。

まず、羊の特徴について説明します。羊は群れを作って行動する習性があります。これは外敵から身を守るために自然にそうなったのでしょう。そのために、群れから離れると強いストレスを感じます。また、羊は臆病な動物で、危険を感じると直ぐにパニックを起こして逃げ出そうとします。なお、羊は広い視野(270~320度)を持っていて真後ろ以外はほとんど見渡せますが、奥行きがうまく認知できず遠くから迫ってくる外敵が判りません。

そのため、羊飼いに導かれないと安全に移動できません。

詩篇23:1~2節に「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ憩いの水のほとりに伴われます。」とあります。

緑の牧場には羊たちが好きな牧草があり、憩いの水のほとりでは新鮮な水を飲むことが出来るのです。だから、羊たちはそれによって体力が与えられ、魂が生き返る思いがするのです。

 ここで、この詩の作者のことも考えてみましょう。この詩には”ダビデの賛歌“という表題がついています。すなわち、ダビデ王によって作られたのです。 彼はサウル王に召し出されるまでは長い間羊飼いをしていました。

ダビデが戦いで勝利するにつれ、彼の人気が高まり、人々から「サウルは千を打ちダビデは万を打った。」(サムエル第一18:7)と言われるようになると、その言葉を聞いてサウル王は非常に怒り、ダビデを妬んで、何度も殺そうとしました。しかし、ダビデは窮地に陥って死を覚悟した時でも、いつも主の助けがあり命が守られました。

 このように彼は主なる神の慈しみと憐みを、身をもって体験しておりました。詩篇23篇4節の「たとえ死の影の谷を歩むとしても、私は災いを恐れません。あなたは私とともにおられますから。」はその体験から放った言葉です。4節後半「あなたの鞭とあなたの杖それが私の慰めです。」の鞭は羊を狼から守るために用いられ、杖は羊を導くために用いられました。

羊飼いの「鞭と杖」はこの詩人にとって、「いつも主が共におられる」ことを実感させ、心強く感じていました。

それで、彼は6節で「まことに私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、わたしを追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいましょう。」と決意表明をしました。

 イエス・キリストは私たちの主であり、”良き羊飼い “です。

主イエスがいつも共におられるので、たとえ困難の只中にあっても必ず克服できます。主は永遠の命につながる道を備えてあなたをリードして下さいます。

ですから、いつも感謝して主の御足の後に従って行きましょう。

皆さんの信仰生活の上に主の豊かな祝福がありますように。

                      (牧師:北林行雄記)

「信仰の証」マルコの福音書5:1~20

イエス様はガリラヤ湖の向こう岸、ゲラサ人の地について、船から上がられると直ぐに汚れた霊につかれた人が墓場から出て来てイエス様を迎えました。

 この男の人は墓場に住みついていて、人々が彼を鎖でつないでもすぐにそれを引き裂いて、足かせも砕いてしまい、だれによっても彼を押さえつけることはできませんでした。彼は夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分の身体を傷つけていました。

彼は好き好んで墓場に住んでいるのではないと思います。悪い霊が彼の心に住みついているので自分ではどうしようもないのです。

夜昼となく奇声を上げて、自傷行為をしなければ、気が落ち着かないのでしょう。本当に哀れな人です。

 この人はイエス様が遠くから歩いて来られるのを見て、走って来てイエス様を拝みました。そして大声で「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。神によってお願いします。私を苦しめないでください。」と叫びました。

この男に取りついている悪霊がこのように言わせたのでしょう。

何故なら、この悪霊に対してイエス様は「汚れた霊よ。この人から出て行け。」と言われたからでした。

続いて、イエス様は「お前の名は何か」とお尋ねになると、彼は「わたしの名はレギオンです。私たちは大勢ですから。」と答えました。レギオンは4000~6000の群団の名に由来するもので本当に大勢の汚れた霊の集まりでした。

 その地方の山腹におびただしい豚の群れが飼われていたので、悪霊たちはイエス様に懇願して「私たちが豚に入れるように豚の中に送ってください。」と言いました。イエス様がそれを許されたので、汚れた霊どもは男の人から出て行って豚に入りました。すると2000匹ほどの豚の群れが崖を下って湖へなだれ込み、その湖で死んだのです。

このように、主イエスは悪霊を追い出し滅ぼす権威を持った方です。豚を飼っていた人たちは逃げ出して町や里でこの出来事を言い広めたので、人々は何が起きたのか見ようとしてやって来ました。そして、イエス様の所に来ると、悪霊につかれていた人が服を着て正気に返って座っているのを見て恐ろしくなりました。

これまでの一連の出来事を見ていた人たちが、悪霊につかれた人に起きたことや豚の事を人々に詳しく話して聞かせると、人々はイエス様にこの地方から出て行って欲しいと懇願しました。

一方、悪霊を追い出していただいた人がイエス様にお供をさせて欲しいと願いますが、イエス様はお赦しにならず、彼にこう言われました。

「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたにどんなに大きなことをして下さったか。どんなに憐れんでくださったかを知らせなさい。」(マルコ5:19)

 彼は、本当はキリストのお供をして町を離れることの方が容易でそれを望んでいたと思います。

なぜなら、この町には彼の忌まわしい過去の想い出が染みついており、町の人々は皆そのことを知っているので、自分は全く受け入れてもらえないかもしれないという恐れがあったと思います。しかも、この町の人々は自分の救いのために、豚二千匹を失ったことでキリストを拒絶して追い出した人たちです。もし、この町に自分が住んだら、憎まれて居心地の悪いところになると思われました。

 しかし、悪霊を追い出してもらったこの人は、イエス様が指示された通り、この町にとどまって、信仰の証をしたため、大きな反響を巻き起こしました。それは、この地の人々は彼の以前の悲惨な状態をよく知っており、彼が正気になって生活できるようになったこと、素晴らしい証と、彼の人生にキリストはどんなに大きな救いと変化をもたらされたかは、明らかな事実で、だれも否定できない者でした。それ故、彼の信仰の証は祝福され、彼の家族をはじめ多くの人々に救いをもたらしたのです。

 是非皆さん、恐れることなく、あなたの信仰を証し、周りの人々にイエス様の素晴らしい愛をお伝えしようではありませんか。(牧師:北林行雄記)

「聖霊降臨の意義」使徒の働き2:1~12,32~33

主イエス・キリストの弟子と主イエスの母と兄弟たち、女性たちなど120名程が一つの場所で祈りに専念しながら聖霊を待ち望んでいました。(使徒1:12~15)。すると、五旬節(ペンテコステ)の日に、聖霊降臨が起きました。「激しい風のような響きが起こり炎のような舌が現れ各人の上に留まり、皆が聖霊に満たされて他国のいろいろな言葉で話し出した。(使徒2:2~4)とあります。

旧約聖書では、風は神の霊を表し(エゼキエル37:9~14)、炎は神の臨在を表します。正に神のなされた特別の業です。また五旬節は「七週の祭り」とも言われ、ユダヤ教三大祭りで各地から大勢の巡礼者が来ていました。

そこに来ていた巡礼者は非常に広範囲で、エジプトやローマ、小アジア、エジプト国境からユーフラテスに至る地域の人々でありました。その人々のお国ことばで主イエスの弟子たちが話すのを聞いて、皆あっけにとられてしまいました。

多国語を習得するには一朝一夕で出来ることではありません。それなのに聖霊が注がれたので、無学な弟子たちがいとも流暢に話しだしたのです。彼らが語った内容はイエス・キリストの福音です。大群衆に向かってペテロはその内容を説明しました。(使徒2:14~36)

 今朝は、ペテロの語った内容についての解説を加えながら、聖霊降臨の意義について学びます。

  • 贖いの業の完了と信仰者の救いの保証

十字架にかかって死に、葬られた主イエスが三日目に復活された。その後弟子たちに姿を現された。これは、すべて完結したことを意味するものです。これにより、キリストの十字架と復活の歴史的事実があるので、「イエスは主です。」と告白する者はすべて救われ、永遠の命を持つことが出来るのです。信仰を持ったクリスチャンは皆救われており天国に行くことが出来ます。

  • 初代教会の誕生

使徒ペテロは大勢の会衆を前に演説をしました。使徒24章14節で「ユダヤの皆さん、並びにエルサレムに住む、すべての皆さん、あなたがたにこの事を知っていただきたい。私のことばに耳を傾けて頂きたい。」と述べました。以下の3つのポイントに要約できます。その内容は、

  • ユダヤ人指導者たちは神が遣わされたイエスを十字架につけて殺したが、この方は蘇られた。自分たち皆は、その事の証人である(使徒2:23,32)
    • 彼らが他国のいろいろな言葉で話しているのは、神の右に上げられた主イエスがこの人たちに聖霊を注がれたからである。(同2:33)
    • 「救われるために私たち人間はどうしたら良いでしょうか?」ペテロは「それぞれが罪を許していただくために、悔い改めて、イエスキリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(同2:38)と宣言しました。現代に生きる私たちも罪を悔い改めイエス・キリストを自らの救い主と信ずるなら救われるのです。

その結果、ペテロのことばを受け入れた人々はバプテスマを受けて、その日、3000人程が仲間に加えられました。これをベースにして、キリスト教会が初めて誕生したのです。

  • 福音宣教の拡大

その後、弟子たちは聖霊によって力を受けて、いろんな国や地域に福音を宣べ伝えました。今も世界全域に向けて福音宣教の働きは続いています。

私もカナダの宣教師を通して信仰に導かれました。

本日が私たちの日本同盟基督教団の国外宣教デーです。

現在、教団からモンゴル、ブラジル、タイ、東南アジア、南アフリカ共和国に宣教師が派遣されております。宣教師の先生方の働きのため、現地教会の成長のために皆さんと共に祈り、捧げ物をしていきましょう。

<まとめ>

聖霊、ペンテコステについては判りにくいという方がおられますので、簡単にまとめますと、イエス・キリストは私たちの真の救い主です。私たちはイエス・キリストを信じることによって救われて聖霊を受けます。

聖霊は私たちが天の御国を受け継ぐことの保証であり、その聖霊によって私たちは励まされ、勇気をもって信仰の証をしていくことが出来るのです。

何と素晴らしい恵みでしょう。

主の豊かな祝福が皆さんの上にありますようにお祈りいたします。

(牧師:北林行雄記)

「聖霊の働き」ヨハネの福音書14:16,26他

 来週はペンテコステ(聖霊降臨節)を迎えます。そこで今朝は聖霊の働きについて学びます。ヨハネの福音書14章16節及び26節を見ると”聖霊“のことを”助け主“と書かれています。この言葉は原語ではパラクレイトス(ギリシャ語)、英語の聖書ではカウンセラーという意味です。つまり、聖霊は単なるヘルパーではなく、高度な専門知識を持ったカウンセラーなのです。それでは、聖霊は私たちにどのような助けを与えて下さるのかを具体的に見て行きましょう。

 ヨハネ14:26にあるように聖霊は私たちにイエス・キリストの語られた言葉を思い起こさせ、大切なすべての事を教えて下さる。例えば私たち人間の罪、その罪が贖われて、救われる方法について教えて下さるのです。

主イエスは私たち人間の心に住みつく罪、自己中心的な思いを指摘されて、私たちの心の中から、「悪い考えが出て来る。みだらな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、傲慢、愚かさ」と言われました。(マルコ7:20~23)生まれながらこのような罪を持った私たちは神の裁きを受けて当然な身ではないでしょうか。

主イエスはご自身が十字架の苦しみを受け、殺されて3日目によみがえること(マタイ16:21)と、この世を去って父なる神のもとに行かれること(ヨハネ13:1)を予め弟子たちに伝えられました。さらに、ヨハネ14:6で「私が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のもとにいくことはできません。」と宣言されました。つまり、私たち人間が救われて、永遠の命を得る道はイエス・キリストを救い主と信じ受け入れること以外にないのです。

 この告白に至る過程に聖霊が大きな働きをされるのです。

第1コリント12:3を見て下さい。

 「ですから、私は、あなたがたに次の事を教えておきます。神の御霊によって語る者は誰も”イエスはのろわれよ“とは言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、”イエスは主です。“と言うことはできません。」

このように、私たちは聖霊の働きによって、イエス・キリストを自らの救い主として信じることが出来るのです。換言すれば、聖霊は人を新生させてくださるのです。

ところで、私たちが信仰生活を歩んで行く中で必ず試練に遭遇し“どうしたら良いか”悩み苦しむときがあります。その時、聖霊が助けて下さるのです。

ローマ人の手紙8:26を読んでください。

 「おなじように御霊も、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは何をどう祈ったら良いか分からないのですが、御霊ご自身が言葉にならないうめきをもってとりなしてくださるのです。」

 聖霊が、悩む者により添って、その人の弁護をしてくださいます。だから、その結果勇気づけられて、問題の解決が与えられることが多いのです。

このように、聖霊はクリスチャン(信者)のために主イエスの話されたことを教え、霊的な命を与え、信者が困っている時はとりなして聖なる歩みをするように導いてくださるのです。素晴らしい助け主なのです。  それゆえ、「すべての祈りと願いを用いて、どんな時にも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」(エペソ人への手紙6:18)(牧師:北林行雄記)

「聖霊降臨の約束」使徒の働き1:3~8

 イエス・キリストは十字架にかけられ、三日目に復活されました。そして、数多くの確かな証拠をもってご自分が生きていることを使徒たちに示され、40日間にわたって彼らに現れ、神の国の事を語られました。

 キリストの十字架の死と復活は、私たち人間は死で終わりでないこと、私たちが自分の罪を悔い改めて、イエスキリストを自らの救い主として信じるなら、永遠のいのちを持つと言うことを証明するものです。

 さらに主イエスは弟子たちに「エルサレムを離れないで、父なる神の約束を待ちなさい。」(使徒1:4)と命じられました。

その約束とは、「しかし、聖霊があなた方の上に臨まれるとき、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで私の証人となります。」(使徒1:8)

この命令を下された後、主イエスは雲に包まれて天に昇られ、私たちの肉眼ではもう見ることが出来なくなりました。その代わり、私たち人間に聖霊が与えられたのです。聖霊が私たちにキリストを見出させて(ヨハネ14:26)神の愛に満たし聖書を理解する力も与えて下さいます。

 復活後40日に渡って彼らに現れ、その10日程後に約束の聖霊降臨がありました。

主イエスが約束された通り弟子たちに聖霊が下り、彼らは力を与えられました。弟子の筆頭のペテロはかっては臆病者でしたが、祭司長や律法学者たちが出席しているサンヘドリン(ユダヤ議会)で大胆に説教しました。「あなた方が十字架にかけて殺したイエスを神は蘇らせました。私たちは皆その事の証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」(使徒2:32~33)と証をしたのです。

 皆さんの中に“あかし”と言うと難しく思う方もいらっしゃるかも知れませんが、自分がイエス・キリストを信じるようになったことを素直に述べるだけで良いのです。

 マタイの福音書28:章16~20節に、主イエスは復活された後、11人の弟子たちの前に近づいて来られ、次のように言われました。「わたしは、天においても地においてもすべての権威が与えられています。「それゆえ、あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28:19~20)

いわゆる“大宣教命令”です。

聖霊を受けた弟子たちはエルサレム、ユダヤ、とサマリヤの全土、更に広い範囲に福音を伝えました。それ以来、福音宣教の時代が続いているのです。世界各国に宣教師が派遣されて来ました。私もカナダの宣教師を通してイエス・キリストを知り、48年前に洗礼を受けました。今は牧師として主イエスに仕えております。

わたしは信仰をもって救われた時は、嬉しくて、嬉しくて、友達や家族にイエス様のことを証しました。そして、信仰に導いた友人や職場の同僚もおります。今は福音宣教が自由にできる時代です。

今年は新型コロナウイルス感染拡大で人々の心が動揺している中、主にある本当の平安が必要とされます。

皆さんの日常生活における証を通して、永遠のいのちに至る素晴らしい福音を、この時こそ皆さんの友人や知人、周りの人々に勇気が与えられて伝えて行きましょう。

(牧師: 北林 行雄記)

「使徒ペテロの回復と再献身」ヨハネの福音書21:15~19

「使徒ペテロの回復と再献身」ヨハネの福音書21:15~19

使徒ペテロは名実共に主イエス・キリストの12弟子の筆頭です。しかし彼はイエスキリストに顔向け出来ないほどの大失敗をしてしまいました。それは彼が公の場で「イエス・キリストを知らない」と3度も否定したことです。

十字架の死が近いことを察知された主イエスは最後の晩餐をなさいました。その時、主イエスはペテロに「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなた方をふるいにかけることを願って聞き届けられました。」(ルカ22:31)、それに対してシモン・ペテロは、「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと覚悟はできております。」と答えました。しかし、イエスは言われた。「ペテロ、あなたに言います。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度私を知らないと言います。」(ルカ22:34)

その後、主イエスはゲッセマネの園で、数時間に及ぶ格闘の祈りをされました。丁度祈りが終わるころ、ユダに先導された祭司長たち、宮の守衛長たちの群衆がやって来てイエスを捕らえました。そして、大祭司の家で裁判が行われている間、ペテロは大祭司の家の中庭で、火を焚いて座り込んでいる人々に交じって腰を下ろしました。すると、召使の女がペテロをじっと見て、「この人もイエスと一緒にいた。」と言うと、彼は「私はその人を知らない。」と否定しました。しばらくして、他の男が「あなたは彼の仲間だ」とペテロに言うと、「いや。違う。」と言って否定し、その1時間ほど後に、別の男が「確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だから。」と強く主張すると、誓ってまで否定しました。するとすぐに鶏が鳴きました。主イエスは振り向いてペテロを見つめられました。ペテロは主イエスの言葉を思い出して外に出て行って、激しく泣いた。彼は最も頼りにし、尊敬している方が捕らえられ、犯罪人にされてしまい、大きな恐れを感じていたのでしょう。そのため、主イエスを三度も否定すると言う大きな失敗をしてしまいました。この事が彼の心の深い傷となっていきました。

主イエスはこのペテロを回復させるために素晴らしい配慮をされたのです。。

ヨハネ21:15~19をご覧ください。

彼らが食事を済ませた時、イエスはシモン・ペテロに言われた。

「ヨハネの子シモン。あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい。主よ。私があなたを愛していることは、あなたが御存じです。」ペテロは主が、「あなたはわたしを愛しますか。」と同じ質問を三回なさったことに心を痛め自分が主イエスを三度も否んだことを思い返しイエス様の愛の配慮に感動して「主よ。あなたは全てを御存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」と答えました。

かつてペテロは弟子の筆頭であると自認し、出たがり屋で、自信家でありました。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決して躓きません。」(マタイ26:33)と豪語して言ったのです。しかし、ペテロは主イエスを三度否むと言う大失敗を犯すことで挫折し、自分の弱さを覚え、本当に心が砕かれました。主の愛に感動し、慰めを受けて変えられ、真の謙遜を身に着けました。そのペテロに主は、「私の羊を飼いなさい。」と新たな使命を与えられました。彼は再献身をして、初代教会のリーダーとして、福音宣教の働きのために公生涯を捧げ、最後は逆さ十字架にかかって殉教の死を遂げたのです。

私たち現代人は生活の豊かさばかりを追求して、一番大切なものを忘れていたのではないだろうか。新型コロナウイルスの感染拡大はその警告と考えられないでしょうか。人間にとって最も大切なことは、創造主を知ること、主を愛し、隣人を愛することです。

主イエスはペテロに言われました。「あなたはわたしを愛しますか。」

私たちも皆この事を問い直してみましょう。

「私の戒めを保ち、それを守る人は、私を愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」(ヨハネ14:21)      (牧師 北林行雄記)

「主の晩餐」 マルコの福音書14:17~25

ユダヤ人は、出エジプトの出来事以来、別名、”過越しの祭り“、「種なしパンの祭り」を毎年実施しています。マルコの福音書14:12~15にかけて主イエスは弟子たちに”過ぎ越しの食事“の準備をするように命じられました。」

2人の弟子(ペテロとヨハネ)ルカ22:8、がエルサレムの都に遣わされた。彼らが都に入ると、主イエスが言われた通り、水瓶を運んでいる人に出逢い、その人に「過越しの食事をする客間」について尋ねると、席が整えられたある大広間が紹介された。そこで、二人は過越しの用意を済ませました。

主イエスと12弟子は夕方その場所に到着されました。皆が席について食事をしている時、主イエスは話始められました。主が最初に語られたことは大変ショックなことです。

18節「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人で私と一緒に食事をしている者が私を裏切ります。」「12人のひとりで私と一緒に手を鉢に浸している者です。」「人の子(イエス様)は、自分について書かれている通り去っていきます。しかし、人の子を裏切るその人は災いです。そういう人は生まれて来なければよかったのです。」

弟子たちに動揺が広がりましたが、食事はそのまま続けられて行きます。それから、聖餐式の場面が始まります。22節から24節までお読みします。

主イエスはパンを取り、神を誉め称えてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これは私の体です。」また、盃を取り、感謝の祈りを捧げた後、彼らにお与えになった。彼らは皆、その杯から飲んだ。

そして、主イエスは彼らに言われた。「これは多くの人のために流されるわたしの契約

の血です。

 そこで、主イエスの催された最後の晩餐がユダヤの伝統的な祭りである過ぎ越しの祭りに行われたことから、その深い意味を考えてみましょう。

イスラエルの歴史の中で、出エジプトの時の過ぎ越しの食事は、主なる神から示された記念すべき出来事です。

 出エジプト12章、主はモーセとアロンに命じてイスラエルの人々に「傷のない一歳の羊を取りそれを屠り、その羊の血を家々の二本の門柱と鴨居に塗りなさい。主の使いがエジプトの地のすべての長子を打って裁かれるとき、イスラエルの家々の二本の門柱と鴨居に塗った血を見てその家を過ぎ越すので、災いが降りかからなかったのです。

それゆえ、主イエスがこれから為さろうとしている、十字架にかかって流される血は、イスラエル人の家々の門柱と鴨居に塗られて血を象徴するように、私たち人間の救いのために流された契約の血なのです。 イエス・キリストの十字架の贖いの御業によって、イエス・キリストを自らの救い主と信じた人々に永遠のいのちが与えられるのです。

 そして、イエス様は弟子たちに、「この杯は私の血による新しい契約です。飲むたびに、私を覚えてこれを行いなさい。」ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。(コリント第一11:25~26)と言われました。これが聖餐式の目的です。

まとめ

主イエスは人々の救いのために、自ら十字架にかかって死ぬことを覚悟しておられました。生まれながら原罪をもった私たち人間が救われるには、罪のないイエス・キリストの十字架の贖い以外にないことを理解しておられたからです。

それにしても、イエス・キリストの十字架の贖いは、主なる神ご自身が大きな痛みを味わう驚くべき御業です。何と大きな愛でしょうか。

 皆さん、私たち人間を愛し救って下さった、深いイエス様の愛に満たされて、毎日感謝して歩もうではありませんか。(牧師 北林行雄記) 

主は私の避けどころ 詩篇16:1~11

新型コロナウイルスの感染拡大で世界中が騒然としています。富山でも3月24日に

最初の感染者が出てから、僅か一か月で感染者が150名になりました。そのため、自分や家族、また友人たちが感染するのではないかと心配されている方々も多いかと思います。

  このような状況下であっても、いつも平安な心で生き抜くにはどうしたら良いでしょうか? その秘訣が詩篇16篇の中に書かれています。

  詩篇16篇は、主なる神様への信頼の歌と呼ばれています。1節では、詩篇記者が自らの見守りを主なる神様に求めて「神よ。私をお守りください。私はあなたに身を避けています。」と祈りました。続く2節で「私はあなたに身を避けています。あなたこそ私の主。私の幸いは、あなたの他にありません。」と信仰告白をしています。 主なる神は天地万物の創造者で全知全能の方です。あなたの心が打ちひしがれて言葉にもならない祈りであったとしても、この方はあなたの気持ちを判ってくださる方です。3節には聖徒たち、すなわち同じ信仰の仲間たち(兄弟姉妹)との交わりの素晴らしさを述べています。「地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びは全て彼らの中にあります。」

  教会で主にある兄弟姉妹と共に祈り、信仰の証を分かち合うことによって大変励まされます。また、心を合わせて一緒に歌う賛美は素晴らしく大きな喜びです。皆さんが困難な状況に立たされ、出口が見えない悩みの中に置かれた時、主なる神は助言を下さるのです。(7節)具体的には、その時のあなたにピッタリの聖書のみ言葉が祈りの中で指し示され、励ましを受け、新たな前進の意欲が生まれます。

  私は網膜剥離の手術を3回受けることになりました。”三度目の正直“ということで絶対大丈夫だと思っておりました。ところが眼帯を外して見ると、目に映る像がかなり歪んで見えました。この病気について調べてみると、この症状が出る時は網膜剥離の再発だと思い第一回目と第二回目の網膜がはがれて来るような予感を感じたので、夜も寝付けず、必死になって祈りました。すると、不思議な心の平安が与えられ、”主なる神は必ず最善を為される。“と確信が与えられ眠りにつきました。翌朝のデボーションの箇所が、丁度ヨハネの福音書9章でした。そこには、生まれつき盲人であった人をイエス様が癒されたことが書かれています。「この人が盲目に生まれついたのは、この人に神の業が現れるためです。」(ヨハネ9:3)から私自身が励ましを受けました。

朝9時に大学病院に電話をし、主治医につながりました。主治医からは、今回のものは第一回目や第二回目と異なり、目の中にシリコンオイルが入っているためであり、緊急を要するものではないことが判りました。本当に安心しました。主は信仰者のために最善を成してくださることを実感した一時でした。

   クリスチャンは幸いな人々です。苦難の中にあっても必ず脱出の道が開かれ天国の御国で祝福が約束されているのです。(9~11節)

   詩篇16篇8節は、信仰者としての生き方の決意を紹介しています。

「私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。」

2017年版聖書には「主を前にしています。」新改訳第3版には「私の前に主を置いた。」とあります。つまり、私たちの擁護者、保護者として主を信頼して歩むことです。だから、動揺することがなく、常に心の平安を保つことができるのです。

コロナウイルス感染拡大の中にあっても、皆さんが平安で過ごすことが出来ますように祈ります。一日も早くこの非常事態が終息しますように!(牧師:北林行雄記)

信仰による癒しの御業 ルカの福音書18:35~43

イエス様はエリコに近づかれた時、一人の目の見えない人が道ばたに座り、物乞いをしていた箇所から学びます。私は今回、網膜剥離で目が見えなくなることの恐ろしさを味わいました。突然、左眼に上から幕のようなものが下りて来て、視野がどんどん狭くなり、かつ、真っ暗になって何も見えなくなって来るのです。本当に不自由なことです。この人は道ばたに座って物乞いしか出来ない身です。かつては有能な人だったかもしれません。誰か私を助けてくれないだろうかと切に祈っていたと思われます。

彼は道ばたに座っていると、沢山の群衆が通って行くのを耳にしました。そこで、彼は「これはいったい何事か?」と尋ねると「ナザレ人イエスがお通りになる。」と人々が知らせてくれました。彼はどこかでイエス様の噂を聞いていたのでしょう。突然、彼は大声で「ダビデの子のイエス様、私を憐れんで下さい。」と叫びました。人々が彼を黙らせようとたしなめても彼はかえってますます激しく「ダビデの子よ。私を憐れんで下さい。」と叫びました。彼は、イエス様が自分を必ず癒してくださるはずだと信じていたのです。なお、“ダビデの子”はメシヤ(救い主)の称号、資格です。

この人の叫び声がイエス様に届きました。

イエス様は立ち止まって、彼を連れて来るように命じられました。彼が近くに来るとイエス様は「私に何をして欲しいのですか?」と尋ねられた。すると彼はイエス様に「主よ目が見える様にして下さい。」とお願いしました。

イエス様は彼に言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」イエス様は目の見えない人を一瞬にして癒す事の出来る権威を持った方です。その人は直ちに見える様になり、神をあがめながらイエス様について行きました。イエス様は神の御子として目の癒しの御業を見事になされたのです。

この出来事について、もう少し掘り下げて考えてみましょう。

主イエスは、この人に言われた言葉「見える様になれ」に続いて「あなたの信仰があなたを救いました。」イエス様の御業には癒されたいと思う本人の信仰が重要な意味を持つのです。私たちは医者に行くときは、この病気が癒されて元気になれると期待して行きます。この医者は本当に治せるだろうかと疑っては行きません。

今回ルカの福音書で紹介された眼の見えない人はイエス様に対する絶対的な信仰がありました。私たちにとって一番必要なことは主イエスを信じる信仰です。なお、この目の見えない人はバルトロマイと言われています。彼は12弟子の一人となり、いつもイエス様と行動を共にしました(マルコ10:46)。彼がイエス様について行くことによって民衆は皆、神を賛美するようになりました。つまりバルトロマイの行動は信仰の良き証となったのです。

皆さん、イエス様への信仰を固くし、どんな時にも証の生活をしましょう。                    (牧師 北林行雄記)

主イエスの復活 マタイの福音書28:1~20

 イエス・キリストの復活は歴史的事実です。マタイ28:5~6に、空っぽの墓、そしてマタイ28:9、16~17、コリント第一15:5~8、等に見られるように、マグダラのマリヤなどの女性たちや、主キリストの弟子たち、500人以上の兄弟たち等、復活された主に出逢った多くの証人がいることです。

 主イエスの復活された身体は、外見は十字架の死以前と同様でありましたが、会話や食事もでき、私たちの身体とは異なる所があります。閉まったドアや壁をそのまま通り抜けることができたのです。そして、40日間使徒たちに現れて下さり、マタイ28:20に大宣教命令を与えられました。また、使徒1:8で「聖霊があなた方の上に臨まれるとき、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、及び地の果てまで私の証人となります。」と聖霊降臨の約束をされました。それ以来、私たち人間の肉眼で昇天された主の御姿は見えなくなりました。

 その代わりに、聖霊の働きを通して私たちは主イエスと交わりを持つことができるのです。具体的に、聖書を読むときに聖霊が私たちに主イエスを示されてその内容が良く理解できるように導かれるのです。「助け主、すなわち、父が私の(イエス・キリスト)名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべての事を教え、また、私があなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださる」ヨハネ14:26とあるように私たちはそのことにより励まされて前に向かって勇気をもって進むことができるのです。

マタイ28:20で「見よ。わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいます。」と今の私たちの現実の世界のなかにおいて①主イエスが信仰者といつも共におられる。何と素晴らしい事でしょう。更に、②主イエスの復活は私たち人間の罪が赦されて永遠のいのちを持つことができることを保証するのです。

 それゆえに、私たちは天の御国に確実に入ることができるのです。  愛する方々、信仰を持って召された人たちにやがて天国で再会できるという希望があるのです。イースターの喜びを共に味わいましょう。(牧師 北林 行雄記)