たといそうでなくても ダニエル書3:16~27

イスラエルという国はソロモン王の死後、統一国家から北王国と南王国に分裂しました。北王国イスラエルは先に滅亡し、南王国ユダも紀元前605年に、バビロンのネブカデネザル王によって首都エルサレムが包囲され、ユダの王など多くの人々がバビロンに引き連れられて捕囚となりました(Ⅱ歴代誌36:18-21)。捕囚となった人の中から少年たちが選ばれて、将来王宮で使えるための英才教育を受けました。その中にユダ族のダニエルとシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴがいました。
ネブカデネザル王は巨大な金の像を造り、バビロンに住む人は皆、『金の像を拝むように。拝まない者は誰でも、火の燃える炉の中に投げ込まれる』と発令しました(ダニエル3:1-6)。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはバビロン式の英才教育を受けたといっても、彼らはユダヤ人であり、旧約聖書の十戒を承知しています。十戒の中で第一番に登場するのが、『あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない』(出エジプト20:3-5)です。いかにネブカデネザル王の命令であっても、従うことはできません。
それで、あるカルデヤ人がシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが王の命令に背いていると訴えました。ネブカデネザル王は激怒し、彼らは王の前に引き出されましたが、3人は恐れることなく、以下のように明確に答えました(ダニエル3:16-18)。①私たちはこのことについて王に返答する必要がない。②私たちの神は火の燃える炉から私たちを救い出すことができる。③たといそうでなくても、私たちはあなたがたの神々に仕えず、金の像を拝むことはしない。
絶対権力者の前で3人は、どうして恐れないで大胆に返答できたのでしょうか?その理由は、彼らがいつも神に祈り、神の御導きのもとに生きており、“全知全能の主が救ってくださる”との確固たる信仰があったからです。しかも、“たといそうでなくても”、つまり、自分たちが願ったように進まなくても、神は最善を為してくださるから、自分たちのすべてを神の御手に委ねると決意していたからです。
激怒した王は3倍に熱くした火の燃える炉に3人を投げ込みました。しかし、火は彼らに燃えつかず、無傷のまま3人は解放されたのです(同3:26-27)。確かに、主なる神が彼らを救い、栄光を現してくださったのです。また、3人の信仰の証しを通して、ネブカデネザル王は、3人が信じている神は真の生きた神であることを実感し、「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神に対して不敬なことを口にする者はだれでも、八つ裂きにされ、その家はごみの山とされる」と発令しました。彼らの証しが王を変えたのです。
先週も台風21号や北海道地震による大きな被害がありました。平和に過ごしていても、いつ何時、災害や事件に巻き込まれるか判らない時代に生きております。しかし、恐れることも、慌てふためく必要もありません。いつも皆さんを守ってくださる方、三位一体の神がおられます。ぜひ皆さんも、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの信仰を見習って、神と共に歩む生活の素晴らしさを深く味わってください。 (牧師:北林行雄記)

御霊によって歩みなさい ガラテヤ人への手紙5:16~26

私たち人間は自分の状況が悪くなると、心の内に潜む肉の欲望(例えば、敵意や憤り、酩酊や遊興等、ガラテヤ5:19-21)を満たしたくなる傾向があります。同じ弱さを抱え、その弱さと格闘してきた使徒パウロは「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させることはありません。」と言いました(ガラテヤ5:16)。どうして“御霊によって歩む”と肉の欲望を満たす必要がなくなるのでしょうか。
御霊によって歩むとは、御霊(聖霊)に導かれて歩むことです(同5:23)。①イエス・キリストを信じている人々には聖霊が働かれます。なぜなら、聖霊によらなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことができないからです(Ⅰコリント12:3)。②御霊に導かれて歩んでいると、聖霊の働きによって深い神の愛がわかり、困ったときに一番必要な聖書のことばが示されるのです。③神の愛と御ことばによって、罪の思いに打ち勝つ力が与えられるので、肉の欲望を満たそうとしなくなるのです。このように、御霊によって歩むと肉の欲望を満足させることはありません。これが第一のポイントです。
第二のポイントは、御霊によって歩むと、御霊の実を結ぶことができることです。御霊の実とは、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です(ガラテヤ5:22-23)。
次に、御霊によって歩んだクリスチャンの事例について紹介致します。昨晩(2018.9.1)NHKのETV特集を見ました。『高校生俳人小林凛と日野原重明と俳句文通(100歳の差)』というタイトルでした。小林凛君は3ヶ月早くお母さんのお腹から出てきて未熟児として誕生しました。そのため、身体は小さく、脚力や腕力が弱かったのです。小学校のとき、同級生から「消えろ。クズ!」と言われ、歩いていると後ろから突き飛ばされました。その他いろいろ、壮絶ないじめに遭って、不登校になり、大変苦しく辛いときを過ごしました。彼は5歳から俳句を始め、自分の気持を俳句に表しました。ある時、有名な日野原重明先生に便りを出したら、日野原先生から返事があって、100歳の差の俳句文通を始めることになったそうです。
日野原重明氏は1911年に牧師の息子として生まれ、7歳で洗礼を受けられました。聖路加国際病院名誉院長など数多くの要職に就かれ、生涯に亘ってクリスチャンとして素晴らしい証しをして、2017年7月19日に105歳で召天されました。日野原先生は、自殺やいじめの報道に心を痛め、90歳から「10歳の子どもたちにいのちの大切さを伝えたい」と思われ、出張授業を始められました。この先生の著書は沢山ありますが、「生き方上手」の中で、次のことばが書かれています。
私は医師です。寝たきりの患者さんや終末期にある患者さんの苦しみや悩みに向き合うなかで、「いのち」をどのように使うべきかを考えます。そしてゆき着いたのが、「いのちとは、与えられた時間である」ということです。人はみな、かぎりある時間を自分一人のためだけでなく、誰かの役に立つように使えば、時計で測ればたった1時間のことであっても、その時間の質ははかりしれないほど高く、深く意味のあるものとなるでしょう。そうした人が一人でも多く存在すれば、それだけこの世の中は美しく、生きる甲斐のあるものになるでしょう。そんな世界になることを、私は心から願っているのです。
小林凛君は日野原先生と文通することによって心に喜びがわき出てきました。しかも、先生のお宅に招待されて、直接会話することができ、先生の愛に触れ、人生を前向きに考えることができるようになりました。
既に信仰を持っている皆さん、あなたのいのち(与えられた時間)を誰かの役に立つように使いませんか?神は愛です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)。
御霊によって歩むことにより、ますます神の愛に満たされて、その喜びを他の人にも分かち合うことができ、本当に充実した信仰生活を歩むことができるのです。皆さん、どんな環境の中にあっても、是非、御霊によって歩んでください。
(牧師:北林行雄記)

外なる人内なる人 コリント人への手紙第二4:16~18

日本は少子高齢化が著しく進んでいます。先週、内閣府が発表した国民生活に関する世論調査によると、日常生活に悩みや不安を感じている人が国民の63%もおり、特に、老後の生活設計や健康不安を感じる人が多くなっているとのことです。確かに、私たち人間は皆、年をとれば身体が衰え、いろいろと生活の不都合が生じてきます。この身体、主に肉体のことを使徒パウロは「外なる人」と表し、「外なる人が衰えても、内なる人は日々新たにされる」と明言しています(Ⅱコリント4:16)。
それでは、「内なる人」は何を表すのでしょうか。それは、私たち人間の心の中のことで、私たちはイエス・キリストを信じることによって新たに生まれ(ロマ6::4)、キリストのうちにあって新しい人に造り変えられます(Ⅱコリント5: 17)。しかも、内なる人は「日々新たにされる」(同4:16)。つまり、クリスチャンとなった人は、キリストにあって毎日新たな力が与えられ、天の御国に向かって、喜びを持って進むことができるのです。
もう既に召天されましたが、三橋萬利先生という方がおられます。私たち夫婦は36年前に伊豆の天城山荘で三橋夫妻にお会いして、会話したことがあります。そのときの写真を持っていますが、とても素晴らしいご夫妻でした。三橋萬利先生は小児麻痺のために両足と右手の機能を失って、小学校にも入学できず、不自由な身体を背負って、長く苦しいときを過ごされました。しかし、21歳のときにクリスチャンになり、コリント人の手紙第二5章17節のように、“新しい人に “変えられました。そして、新たな希望が与えられ、その喜びを人々に伝えたく思い、伝道者を志しました。
一方、幸子夫人は先に信仰に導かれ、看護学校で学びながら、三橋萬利青年に良い伴侶が導かれるように祈っていました。すると、祈りの中で、彼女自身が彼の伴侶になるように示されました。両親からは大反対され、勘当されました。それでも屈せずに看護学校を中退して結婚し、二人揃って軽井沢聖書学院で聖書の学びと訓練を受けました。
この二人が結婚したときは、夫が27歳、妻が20歳の2日前で、貯金も収入もなしで、生活費は700円でした。そのため、食事は非常につましいもので、朝はパン一切れ、昼は生うどんと醤油、夜はお粥と味噌汁だけでした。しかし、二人はお互いの愛の尊さを学び、毎日聖書のことばで養われていました。彼らは、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(マタイの福音書4:4)をいつも実感していたのです。
三橋萬利先生が講壇に立たれるときは、いつも奥様に背負われて行かれます。この光景は普通の人にはちょっと変な気がしますが、三橋先生は卑下することもなく、幸子夫人も恥ずかしがることなく、二人とも喜んでおられます。お二人互いに尊敬し合い、感謝し合い、共に助け合いながら、神の御ことばを伝えておられました。ご夫妻は神学校卒業後、函館や札幌で教会を設立し、日本国内はもとより、世界数十カ国で聖書のメッセージを伝え、行く先々で聞く人々に勇気と感動を与えました。
このようにイエス・キリストを自らの救い主として信じて歩む人は神の恵みによって日々新たにされて、充実した人生を送ることができるのです。しかも、地上生涯でいろいろな苦難があっても、それとは比べものにならない程の永遠の栄光が天の御国で待っているのです(Ⅱコリント4:17)。なんと感謝なことではありませんか。
また、クリスチャンはこの世にあっても、この世の人とは異なり、見えるものにではなく、目に見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです(Ⅱコリント4:18)。アーメン
(牧師:北林行雄記)

どうして怖がるのですか マルコの福音書 4:25~41

イエス・キリストは弟子たちと舟でガリラヤ湖を渡っておられた時、激しい突風が起こり、波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになりました。弟子たちは怖くなり、船尾で眠っておられる主イエスを起こして、必死になって助けを求め、「先生、私たちが溺れて死にそうでも、何とも思われないのですか。」と言いました(マルコ4:35-38)。そのとき、主イエスは風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われると、風は止んで、湖は大なぎになりました。そして、弟子達に「どうしてそんなに怖がるのですか。信仰がないのはどうしたことですか」と言われました(同4:39-40)。この発言の意味は、“自然界を支配し、彼らを安全に守ることのできる主イエスが自分たちと共におられるのに、どうして怖がるのですか。あなたがたの信仰はどこにあるのですか”(ルカ8:25)であり、彼らの信仰を問われたのです。
皆さんが恐怖の中に置かれたら、どのように行動しますか? 日本でも最近、地震や集中豪雨などの自然災害が頻発。さらに、ストーカーや脱獄者の徘徊、インターネットにまつわる架空請求や不当請求など、身の危険を感じることが多くなりました。“信仰があれば、どんな恐怖の中にあっても、全く大丈夫”と言い切れますか?今朝は皆さんが恐怖の中におかれても、恐れないで生きることの出来る秘訣を聖書から学びたいと思います。
キリストの受難予告を聞いた弟子たちが不安そうにしているのをご覧になって、主イエスは彼らに言われました。「あなた方は心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14:1)。つまり、恐怖を感じるときは自分を見るのでなく、神を見上げて、神を信じ、イエス・キリストを信じることです。これが第一の秘訣です。私たちが信じる神は天地万物の創造者で、全知全能の方です。また、イエス・キリストは真の救い主であり、世の終わりまで、いつも信仰者と共にいてくださるからです(マタイ28:20)。
第二の秘訣は神の愛に満たされることです。ヨハネの手紙第一4章18節を見てください。そこには、「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」と記載されています。
私の長男は小学校に入学すると直ぐに、近くに住む6年生の男子生徒から激しいいじめに遭いました。その子は登校班のリーダーでしたが、新入生を可愛がるどころか、長男に向って、「お前はゴミ箱に捨てられていた子だ。死ね!死ね!」と言い続け、農業用水に落としたり、傘の先で彼の首を突いたり、B.B弾で腹を撃ったり、恐ろしいことを毎日仕掛けてきました。そのため、長男は恐怖から不登校になり、直ぐに富山市中心部のモデルスクールに転校しました。
ところが、4年生1学期に小1のときにいじめられた記憶が蘇り、PTSD(心的外傷後ストレス障害)になって、再び不登校になりました。幸いに学校の先生方の協力もあり、半年間で復帰できましたが、近所の5歳上の男子生徒のストーカー行為は執拗で、中学や高校になっても全く止まることはありませんでした。そのため長男は中学校に入学しても、いじめられた記憶が思い出されて不登校になり、苦しみました。自己評価を極端に落とし、生きる力を失い、何度も自傷行為や家庭内暴力をしました。
私は何度も主の前に跪き、涙ながら彼のために祈りをしました。或る日真剣に祈っているとき、ゴルゴダの丘に連れて行かれる主イエスの姿が私の目に浮かびました。主の苦しみは私たちのためだ。主イエスは私たちを救うために、十字架の苦しみを味わわれた。私も長男の本当の気持を判ってやらなければならない。彼が暴力をするのは、『お父さん、僕は辛いのだ。僕のことをわかって欲しい』と訴えていることに気付き、その後、彼がどんなに暴力をして来ても、彼を認めて寄り沿うように努めました。そうすると、彼の気持が少しずつ変えられてきました。
中学卒業後、長男は山形県にある基督教独立学園高校に入学し、素晴らしい先生に出会って変えられ、生きた真の神に出逢う個人的体験もあり、生きる喜びが与えられて、人生を前向きに考えるようになりました。さらに、高校卒業後は新潟聖書学院に入学し、聖書の学びを深めることができました。韓国の先生によく面倒を見てもらい、自分が愛されていること、しかも、自分の幼少の頃、親から深く愛されて育ったことがわかり、今では、彼の口から出る言葉は“感謝”と“有難う”になってきました。確かに長男は約10年間に亘り、いじめによる恐怖に苦しめられてきましたが、神と人との愛に触れて、過去の苦しみを克服し、人生を前向きに考えることができるようになりました。
愛は人を良い方向に変えます。勇気を与え、苦難を克服し、恐れを取り除き、喜びと新たな希望を与えることができます。人間にとって最高の愛は神の愛です。イエス・キリストは私たち人間を救うために十字架にかかってくださったのです。これ以上の愛はどこにもありません。
皆様の上に神の愛が益々豊かに降り注がれますように祈ります。

(牧師:北林行雄記)

キリストにある一体性 ガラテヤ人への手紙 3:26~29

私たち人間は生まれながら原罪を持っているので、どんなに努力をしても人間の力では神の義を得られません。そこで、キリストは私たちのために十字架にかかって贖罪の死を遂げて復活し、人が救われる道を開いてくださいました。それゆえ、“イエス・キリストを信じる者”(クリスチャン)は誰でも救われて、キリスト・イエスにあって“神の子ども”となるのです(ガラテヤ3:26)。つまり、クリスチャンは天地万物の創造者なる神に属し、神の支配下(神の祝福の中)に置かれる者と認められるのです。
また、救いの証しとしてバプテスマを受けることによって“キリストを着る”(同3:27)。つまり、キリストとの親密な霊的交わりを持つことで、キリストのように自分自身が変えられていくのです。さらに、“キリストのもの“とされたので、クリスチャンは神の約束による相続人(御国の相続人)となることができるのです(同3:29)。
これらの恵みは人種や身分、性別を超えて、イエス・キリストを信じるすべての人に与えられるものです。「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」(ガラテヤ3:28)。すべてのクリスチャンは、イエス・キリストにあって一体なのです。
私は今から32年前にカナダのバンクーバーにある神学校の修士課程で3年間学びました。カナダやアメリカはもちろん、アフリカ、インド、ドイツ、中国、韓国、マレーシアなど文化や伝統が異なるクラスメートと一緒に授業を受けました。講師の先生が大切なポイントを説明された後、二つのグループ(賛成派と反対派)に分かれてよくデイベイトをしました。クラスメートはそれぞれ文化的背景が異なるので、いろいろな意見が出て、議論は白熱しました。私は慣れていなかったので、そんなに活発ではありませんでしたが、先生から「行雄はどう思うか?」と問われたとき、何とか自分の考えを話そうとしますが、うまくいかず、窮地に立ったことがありました。そのとき、自分の考えのベースにある聖書のことば、例えば、ヨハネの福音書3:16と言うと、皆が納得してくれました。このとき、たとい国が違い、カルチャーが違っても、イエス・キリストにある信仰の一致があり、互いに理解し合えること、つまり、キリストにある一体感を味わいました。
現代は格差や多様化が顕著になっている時代ですが、クリスチャンの皆さんはすべてイエス・キリストにある一体性をいつでも体験できるのです。
(牧師:北林行雄記)

律法とは何か  ガラテヤ人への手紙3:19~24

律法は人が正しく歩むために創造主なる神から与えられた命令であり、それを代表するものが十戒です(出エジプト20:1~17)。パウロは旧約の律法を専門的に学んだ律法学者で、律法を遵守することで神の義を得ようと努力しましたが、“罪ある者として生まれた人間”の限界を知りました。彼は「私のうちに罪が住みついているので、善をしたいと願っても、したくない悪を行ってしまう。」と告白し(ローマ7:15~20)、「このみじめな人間を救い出せるのは主イエス・キリストである」と結論付けました(ローマ7:24~25)。
それでは、律法は人の救いにどのような役割を果たすのでしょうか。「律法は私たちをキリストへ導くための養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。」(ガラテヤ3:24)。養育係の原語は先生というよりベビーシッターという意味です。幼い子は分別がありませんので、何をするかわかりません。ベビーシッターは赤ちゃんが危険に遭わないように守り、健やかな成長を助ける働きをしますね。
私は4人兄弟で、上から3番目、一番下に妹がいます。実は、私と妹の間に、二人の妹がいたのですが、赤ちゃんのときに死亡しました。そのうちの一人は1歳のとき、間違って囲炉裏の中に這って入って行きました。そのため、大やけどを負って死亡しました。彼女のギャーという声が今も私の脳裏に残っています。大変悲しい想い出です。このような事故をなくすためにはどうしてもベビーシッターの見守りが必要なのです。
同様なことが、律法の働きに言えるのです。すなわち、私たち人間が何も知らないで神の裁きに遭って死ぬことのないように、イエス・キリストの十字架の贖いの意味を理解して、“イエスは私の救い主”であると信仰に導かれるまで見守ることです。生まれながら原罪を持った私たち人間が救われる道はイエス・キリストの御名以外にないのです(使徒4:12)。
人が救われるのは行いによるのではなく、“イエスを主と信じる”信仰によるのです。その信仰を通して、私たちは神の大きな愛に満たされ、喜びの人生を歩むことができるのです。皆さんの上に、父なる神の愛、主イエス・キリストの恵み、聖霊の親しき交わりが豊かにありますように!
(牧師:北林行雄記)

主なる神を待ち望む  詩篇42:1~11

連日猛暑の中、新鮮な水は格別に貴重なものです。渇水期のとき鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、詩篇42篇の作者は生ける真の神を慕い求めました(詩篇42:1-2)。
詩篇42篇は“コラのマスキール(教訓詩)”と呼ばれますが、コラとその仲間はモーセとアロンに逆らい、祭司職まで要求して神の前に大きな罪を犯しました。そのため、コラとその仲間、仲間の子どもたちは、生きたまま地に飲み込まれ、よみに下りました(民数16:32-33)。彼らは皆、神に裁かれたのです。ところが、コラの子たちは神の特別な恵みによって助けられたのです。彼らはすばらしい神の恵みを受けた後、感謝の気持ちで満たされて、救われたいのちを主なる神の栄光のためにささげるべく、音楽の奉仕に励んだと伝えられています。
この詩篇作者は以前、主の恵みに浴し、信仰の友と一緒に喜びと感謝の声をあげていましたが(同42:4)、今は厳しい環境の中で、「お前の神はどこにいるか」と主なる神への冒瀆のことばを聞いて心を痛めているのです(同42:3)。しかし、環境がどうあれ、彼は「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め、私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを」(同42:5,11)と宣言しています。
つまり、どんな困難の中にあろうと、主なる神を見上げ、神を待ち望むことが一番大切なことです。それが、クリスチャンの特権です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。」とイエス・キリストは約束してくださいました(マタイ28:20)。
さらに、詩篇42章8節には、「昼には、主は恵みを下さり、夜には、主の歌が私とともにあります。私のいのちなる神への祈りが」とあります。信仰者はどんな苦しみの中にあっても、神に祈り、賛美することができます。祈りにおいては心の内をできるだけ率直に神に申し上げれば良いのです。また、賛美は沈んだ気持を元気づけます。
パウロとシラスがピリピで伝道したとき、反対派の抗議によって逮捕されて投獄されました。足かせをはめられ、看守に厳重に見張られている状況で、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていました。すると、突然、大地震が起こり、牢の扉が開き、囚人の鎖が解けたのです。しかも、この出来事を通して看守とその家族が救われ、バプテスマを受けることができたのです(使徒16:22-33)。このように、迫害にあっても神に祈って賛美していると、そこに主なる神の業が現れるのです。ですから、どんな環境の中にあっても、いつも祈り、賛美しましょう。
本日のメッセージのポイントは、①どんな苦難の中にあろうと、主なる神を見上げ、神を待ち望むこと、②どんな苦難の中にあっても、いつも祈り、賛美することです。
(牧師:北林行雄記)

主イエスとの個人的接触 マルコの福音書5:25~34

完璧な人はいません。人はだれでも弱さをかかえ、他人に言えない心の悩みを持っているものです。本日紹介する女性は12年間も長血を患っている人です。長血は女性特有の病気で、それを患う人は旧約時代から“汚れた者”として扱われていました(レビ15:25)。彼女はその病を癒すために持ち物すべてを使い果たして医者にかかっても全く改善せず、かえって悪くなる一方で、彼女は悩んでいました。
ちょうどその時、彼女はイエス・キリストが通られることを聞き、群衆と共にやって来て、うしろから主イエスの衣に故意に触れました。それは、彼女は自分の病が癒される最後の頼みとして“主イエスの衣に触れれば癒される(救われる)”と思ったからです(マルコ5:28)。
彼女が主の衣に触れたとき直ぐに血の源が乾いて、病気が癒されました。正しく主の御業によって、奇跡が起きたのです。主イエスは自分のうちから力が出て行ったことに気付き、群集に向って「だれがわたしの衣にさわったのですか」と言われました(同5:29-30)。
彼女は長血を患う者として常に負い目を持っていたので、直ぐに応答しませんでした。しかし、主イエスが周囲を見回して、「だれが触ったか」を真剣に知ろうとされたので、彼女は恐れおののきながら、主の前にひれ伏し、真実をすべて話しました。つまり、彼女は、自分のことを隠さずに主に打ち明けて、身体の癒しと、心の重荷を下ろすことができたのです。
そこで、主は彼女に、「娘よ。あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいない。」と言われました(マルコ5:34)。
(まとめ)
群衆の中でイエスの衣に触れるという小さなことであっても、そのことによって12年間長血を患っていた女性がイエス・キリストと個人的な接触ができたのです。そして、彼女は病が癒され、新しい歩みを始めることができたのです。このように、主イエス・キリストとの個人的交わりを持つことは、心の悩みや重荷を取り除く最善の方法です。肉体の弱さや心の重荷を抱えている方はぜひイエス・キリストとの個人的な接触を試みてください。主イエスは言われます。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげましょう。」(マタイ11:28)。
(牧師:北林行雄記)

義人は信仰によって生きる ガラテヤ人への手紙3:1~14

本日は、私たち人間が義人となって、神様から祝福を受けるようになることについて学びたいと思います。義人とはどのような人のことでしょうか?また、善人とはどう違うのでしょうか?国語辞典には、善人は正しくて良い人のことで、“お人よし”。義人は正義を固く守る人のことあると書かれています。日本はマナーが良いことで世界に知られていますが、最近、政治家などトップリーダーが正義を固く守るどころか、反対に、不正を働いて、そのことに対する国民の批判を全く無視するような言動が目立ちます。大変残念なことです。聖書で言う義とは、「全知全能の神の目から見て、人が正しい者と認められる」ことです。
そこで、イスラエル民族(ユダヤ人)は、「律法を守ることによって神の義を得よう。」と考えました。しかし、どれだけ努力をしても、人は完全に潔くなることはありません。なぜなら、すべての人間の心の内に、罪(自己中心の思い)が住んでいるからです。使徒パウロは、「私は、自分がしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私がしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」(ローマ7:19-20)と言っています。
それでは、私たち人間が神の義を得る方法が残されているのでしょうか。ただ1つあります。それは信仰による義です。イスラエル民族が尊敬するアブラハムは人間的に見て全く不可能であると思われるときも信仰をもって待ち続けました。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」(ガラテヤ3:6、創世記15:6)。彼は75歳で、「故郷を離れて主が示された地に行きなさい」との命令を受けたとき、どこに行くか判らなくとも、主なる神に忠実に従いました(創世記12:1-4)。しかも、妻サライが不妊の女で、子どもがいない時に「あなたの子孫が空の星のようになる」と約束されても(同15:4-5)、疑わず、信仰をもって待ち続け、100歳の時にイサクが生まれました。アブラハムは信仰に生きた人で、“信仰の父”と呼ばれます。人が義とされるのは律法の行いによるのではありません。「義人は信仰によって生きる」のです(同3:11)。
なお、律法は神が与えられた掟ですから、それを守れない者は呪いの中に留まります。ところが、「キリストは、私たちのために呪われた者となって、律法の呪いから私たちを贖い出してくださいました。」(ガラテヤ3:13)。そして、イエスをキリスト(救い主)として信じる者はだれでも救われて(ローマ10:9-10)、永遠のいのちを持つことができるのです。つまり、私たち人間は生まれながら罪(原罪)を持っていますが、その人間を救うために神のひとり子イエス・キリストが十字架にかかって私たちの罪を解決してくださいました。それゆえ、イエス・キリストを信じる人たち(クリスチャン)は、その信仰のゆえに神に受け入れてもらえるのです。つまり、義人として扱われ、神の豊かな祝福、永遠のいのちを持つことができるのです(ヨハネ3:16)。「ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。」(Ⅱコリント9:15、新改訳2017)。
(牧師:北林行雄記)

待っておられる主なる神 (イザヤ書30:18~26)

イザヤは紀元前400年頃ユダのウジヤ王が死んだ年に預言者としての召命を受けて、ヨタム王、アハズ王、ヒゼキヤ王、マナセ王の時代まで、約50年間にわたって活動した人物です。イザヤ書は旧約聖書中、最も多く新約聖書に引用されています。特に、イエス・キリストに関係する処女降誕の預言(7章14節)や、十字架刑や墓への埋葬(53章)などが有名です。また、イザヤ書は聖書全体の構造と類似し、1~39章と40~66章に大別されて、旧約聖書39巻と新約聖書27巻に対応します。イザヤ書の前半は罪の告発に始まり、新しい時代への待望で終わり、後半は捕囚からの開放宣言に始まって、新天新地で終わります。この流れは旧約聖書および新約聖書の流れに合致しております。
多くの方から『新約聖書は判り易く、特に「神の愛」に感動するが、旧約聖書は罪を犯した人間に対する残酷な裁きが多く登場して、新約の神と違うような気がする』と言った話を聞きます。そこで、今朝は神の性質について学んでみたいと思います。
天地万物の創造者なる神(偶像の神ではありません)の性質は新約および旧約聖書を通じて一体であります。つまり、神は聖(きよく)、義(正しく)、愛と憐れみに富む方です。
神の選びの民と言われるイスラエル人は出エジプトによって奴隷の身から解放され、神の恵みを味わった人々です。しかし、彼らの歴史は神に背き、罪を犯し続けるものでした。しかも、大国アッシリヤの侵略の恐れがあると、全能の神に寄り頼まず、エジプトと同盟を結ぼうとしました。この民に対する主の裁きの宣告はイザヤ30章1-17節に書いてあります。彼らは神のことばを退けて、「虐げと悪巧みに拠り頼んだ。それゆえ、彼らの不義はそそり立つ城壁に広がって、今にもそれを倒す裂け目のようになり、その倒壊は瞬く間に来る」。つまり、彼らは神のことばを退けたので、罪に罪を重ね、重大な裁き(滅び)を受けることになるのです。
しかし、イザヤ書30章18節から救いのメッセージが始まります。「主はあなたがたに恵みを与えようとして待ち、あなたがたを憐れもうと立ち上がられる」。つまり、主は正義の神であられるので、正当な裁きの後は、主の民を憐れみ、恵みを施すときを待っておられるというのです。神は愛です(Ⅰヨハネ4:8)。裁きの中にも、主は民が悔い改めに進むことを願い、その機会を待っていてくださるのです。
主を待ち望む者は幸いです。罪を悔い改めて、救いを求めて主に叫ぶなら、主なる神はお答えになり、あなたに恵みを与えてくださるのです(イザヤ30:19)。しかも、あなたの行く所どこにでも主がともにおられ、正しい道を教えてくださるのです。なんとすばらしいことでしょうか。それゆえ、信仰が与えられた皆さんは、いつも神の恵みの業を待ち望み、謹んで信仰生活を歩むことが大切なのです。
(牧師 北林行雄記)