キリスト信仰に生きる  ガラテヤ人への手紙2:15~21

先週は大阪北部地震がありました。被災地の皆様の速やかな復興と心身の癒しがありますようお祈りいたします。
本日はガラテヤ人への手紙2章から学びたいと思います。使徒パウロはイエス・キリストの啓示により信仰が与えられ、異邦人に福音を伝える使徒に任命されました(使徒9:3-6,15-16)。3年後にペテロを訪ね(ガラテヤ1:18)、さらに14年後、エルサレム会議でペテロなど主だった使徒に出会いました。彼らはパウロの活動を理解してくれました(同2:6-9)。しかし、ユダヤ人クリスチャンの中に(ペテロもその一人)、異邦人と一緒に食事をとることを敬遠する傾向がありました(同2:11-14)。
それに対して、パウロは自らの回心とキリスト信仰の生き方を次のように ―――
「自分はユダヤ人であるけれども、律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められることを確信する」(同2:16)、「神に生きるために、律法に死に」(同2:19)、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる。今、肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰による」(同2:20)と告白しました。
これは正に、「キリスト信仰に生きる」ことです。クリスチャンは“キリストのもの”という意味です。コリント人への手紙第二5:17に、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
とあります。クリスチャンになって、キリストと共に生きることによって、生き方や考え方が変えられていくのです。
ところで、人が生きるためにはどうしても必要なものがありますね。何でしょうか?
動物ならば、“えさ”ですね。人が生きるためには、食べ物が必要です。物質的な食料ばかりではなく、人間には霊的な食べ物が必要なのです。
皆さんは、主の祈りで、「日用の糧を今日もお与えください」と祈りますね。
食事をしなかったら、力が出ませんし、栄養がつきません。先日、国連難民高等弁務官事務所からお便りを頂きました。ロヒィンギャの人々が大変な窮地にあること、彼らの救済のために、是非献金をお願いしたいとの内容でした。ロヒィンギャの人々はミャンマーの圧制で、家を焼かれ、家族が銃で殺され、子どもたちを連れて必死の思いで、国境沿いの川をいかだで渡り、バングラデシュに逃れて来ました。昨年の8月からロヒィンギャ難民が爆発的に増え続け、わずか3ヶ月で60万人を越えました。しかも、避難民の半数以上が子どもたちです。保護者を失って離ればなれになった子どもたちが多くいます。また、到着するまでほとんど何も食べていない子どもが多く、栄養失調の子どもが約25%と、深刻な問題となっています。今、この人たちは本当に助けを必要としています。私も微力ながら協力したいと思います。この人たちは緊急に物質的援助が必要ですが、彼らは大人から子どもたちまでお互いに支えあう温かい関係を持ち続けています。
日本は経済大国といわれてから、かなりの年月が経ちます。飽食の時代と言われています。一方で、人々の心が貧しくなっているように思えます。自分の富を蓄えても、社会的な弱者を助けようとしない。また、自分の立場を守るために真実を語らない。いわゆる、フェイクニュースであふれています。マタイの福音書4:4に、イエスは答えられた。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」と書いてあります。このような時代だからこそ、聖書のことばが必要なのです。毎日、聖書を読むように努力してください。聖書は私たちが生きるための霊的な糧だからです。
次に、申し上げたいのは、聖書にただ目を通すだけでなく、そこから何を学ぶかが大切です。皆さんがその日に読まれた聖書の箇所において、「主なる神は私に何を教えようとされているのか」を知る必要があります。そのためには先ず、「主の御心を教えてください」と祈ってから、聖書の学びを始めたら良いでしょう。
続いて、教えられたことを実践してみることです。つまり、生活の中に御言葉を活かすことです。そうすれば、“自分が神のことばによって活かされている”ことに気付きます。その結果、皆さんご自身が、キリストに似た品格を備えた人に変えられていくのです。そのようになれば、主の祝福で満たされ、クリスチャン生活をもっと楽しむことができるのです。皆様の上に主の豊かな祝福があるよう祈ります。
(牧師 北林行雄記)

いつも主を見上げて祈ろう 出エジプト17:8~16

過酷な奴隷状態から出エジプトすることのできたイスラエル人の民が、シナイ半島にあるレフィデイムで宿営していた時、宿敵のアマレクが攻撃してきました。そこで、モーセはヨシュアに“戦場に出てアマレクと戦うように”指示し、“自分は神の杖を手に持って丘の頂に立つ”ことを約束しました(出エジプト17:9)。指示に従ってヨシュアはアマレクを戦いました。モーセが手を上げているときはイスラエルが優勢ですが、手を降ろしているときはアマレクが優勢になりました(同17:11)。この戦いは普通の戦いではなく、主なる神の関与を実証しています。
“モーセが手を上げる”ことは、イスラエルの勝敗に関わる重要なことで、その意味は、①主なる神の選びの民として“神の杖”を上げて、イスラエルの民に全能の主の御業を思い起こさせる(戦国時代に武将が旗を掲げ、士気を高めて戦ったように。モーセが神の杖を上げると、主の御業が起き、紅海の水が分かれて乾いた地が現れ、イスラエルの民は海を歩いて渡ることができた)。②イスラエル人のために “とりなしの祈り”を主なる神にささげることです。
続いて、“とりなしの祈り”について考えてみましょう。モーセはイスラエルの民と神との仲保者として、イスラエルの民のために主なる神にとりなしの祈りを捧げました。荒野の生活の中で、イスラエルの人々(その数は約200万人と推定)が訴えてくる様々な要求を聞いて、彼らのために主にとりなしました。大変な働きです。
私は今朝、地域の防災訓練に参加してきました。富山平野を震源とする地震(震度6強)が発生し、避難場所に設定されている宮野小学校に沢山の避難者がやって来たとの想定で訓練が行われました。先ず、通路や受付、仮設トイレ、収容スペース等のレイアウトを速やかに決定します。その後、次から次とやって来る大勢の避難者をどのスペースに配置すれば良いか即座に判断する必要があります。特に、90歳以上の高齢者や、怪我人、熱がある人をどこに配置するか。また、ペットを連れた人はどうするか。周りの影響(ペットアレルギーなど)も考慮しなければなりません。私たちは日頃便利な生活をしていても、いつ地震が起きて、このような事態が起きるかわかりません。常に、心の備えをしておかなければならないことを痛感しました。
イエス・キリストは「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう」と言われました(ヨハネ14:14)。イエス・キリストの御名によって主に祈り求めれば、その祈りは答えられるのです。それゆえ、皆さん、遠慮せずに、助けが必要な自分の気持を、祈りを通して主イエスに打ち明けたら良いのです。
また、イエス・キリストは「すべて、疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と言われました。世の中が変化して、天変地異が起こり、人々の愛が冷えても、イエス・キリストの愛は変わりません。どんなに面倒なことでも、耳を傾けて、私たちを導いてくださる方です。なぜなら、イエス・キリストは私たちを救うために十字架にかかって死んでくださった愛の方ですから。もし、私たちがどのように祈ったら良いかわからないとき、聖霊(助け主)が私たちのためにとりなしをしてくださるのです(ローマ8:26)。だから、どんな苦しみの中にあっても、希望を失うことはありません。
私たちの教会は会堂建設のために祈っています。経済的な必要は全く満たされていません。しかし、会堂建設は神の栄光を現し、地域社会に証しとなるものです。目に見えるものだけを見ていたら、信仰生活は楽しくありません。主の大きな御業を期待して祈り続けましょう。
さらに、モーセが疲れても、彼の手が降りないように、アロンとフルがモーセの手を支えたので、最終的にイスラエルはアマレクに勝利しました。兵力や財力、戦略に勝る側が一般的に有利ですが、それ以上に神の助けが大きいのです。私たちクリスチャンはもっと神の助けを求めて祈る必要があります。牧師は毎日教会員の皆さんのためにとりなしの祈りをささげています。激しい霊の戦いがあって疲れ果てることもあります。アロンとフルのように、役員をはじめ皆さんで教職者のために是非お祈りください。  (牧師記)

すべてが主なる神の導き   ガラテヤ人への手紙 1:1~5

ガラテヤ人への手紙は福音的な香りが高く、福音信仰のマグナカルタ(大憲章)と呼ばれています。マルテイン・ルターは「私はこの手紙と結婚した」というほど惚れこんだ書物です。彼が宗教改革の発端となった95箇条の提題を公にしたのは、ヴィテンベルグ大学でガラヤ人への手紙の第1回の講義を終了した直後でした。
この手紙が書かれた目的は、使徒パウロが第二回伝道旅行で開拓したガラテヤの諸教会が福音信仰から離れて“ほかの福音”に移動する事態が起こり,それを止めて真の信仰に踏み留まらせるためでありました。なお、“ほかの福音”と言っても、もう1つ別に福音があるわけではありませんが、これを説く人たちはガラテヤの信徒たちにパウロの使徒性への疑問を投げかけて、ユダヤ教の律法を遵守することと割礼を要求しました。
これに対して、パウロは、①自分が使徒として召されたのは人間を通してではなく、イエス・キリストと父なる神によること(ガラテヤ1:1、1:11-12)、②私たち人間が義とされるのは律法によってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によること(同2:16)、③キリストは私たちを救うために十字架にかかって私たちの罪を贖ってくださったことを断言しています。さらに、これらすべてのことは父なる神の御心であることを明らかにしています(同1:4)。
パウロは生粋のユダヤ人で、当時有名な律法学者ガマリエルのもとで律法について厳しく教育を受けました。それで、彼は神の義を得るために、ひたすら律法を守ろうと努力しました。しかし、どんなに良いことをしたいと願って頑張っても、それができない自分の弱さに気付き、その原因が自分の心の中に住む罪(原罪、自己中心の思い)であることを発見しました(ローマ7:17)。その結果、私たち人間が救われる道はイエス・キリスト以外ないことを確信したのです。         先週、教会員で施設に入院している高齢の夫妻を訪問しました。二人とも早稲田大学の卒業生です。ご主人は高校生のときに信仰を持ちましたが、奥さんはなかなか信仰を持つことができませんでした。もともと明るい性格でしたが、30代でスモン病にかかり、その後は不自由な身体を抱え、悩みと悲しみの中を、日々自問自答の中を過ごしました。78歳で信仰を持ちましたが、彼女はご主人と自分の信仰を比較して悩んでいました。彼女は有能な女性で、スモン病になる前までは自分の力で何でもやり抜いて来た人でした。高齢になった今も何とかしなければならないと焦り、心はいつも堂々巡りをしていました。私はじっと彼女のことばに耳を傾けて聴いているうちに、パウロの心境が浮かんで来ました。そして、彼女の心の問題を解決できるのはイエス・キリストにある信仰以外にないと判断に、主にすべてを委ねて彼女の気持になって、一緒に次のように祈りました。「主イエス様、私はいろんなことで悩み、堂々巡りをして、どうしたら良いかわかりません。私は罪深い者です。あなたは私の罪のために十字架にかかって死んでくださったことを信じています。私の心の重荷をあなたにお委ねして、平安な気持にしてください。主の御名によって祈ります。」
すると、彼女も「アーメン」と大きな声で言いました。彼女自身、「アーメン」と言えたことに驚いて、目に涙を浮かべて、明るい表情に変わりました。本当に感激のひと時でした。
たといどんな能力があり、意思が強くても、人には限界があります。それゆえ、いろいろなことで悩み、苦しみます。しかし、イエス・キリストがおられます。真の救いは神の恵みによって与えられるものです(エペソ2:8)。皆さんもイエス・キリストにあって心の平安を持ちませんか。      (牧師記)

悔い改めと救いの恵み~使徒の働き2:36~42

使徒ペテロはイスラエルの人々に向って、「神が、今や主ともキリストともされたイエスをあなたがたは十字架につけた」と断言しました(使徒2:36)。これを聞いた人々は心を刺され、「私たちはどうしたら良いでしょうか」と質問しました。そこでペテロは「悔い改めなさい。そして、罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」と答えると(同2:38)、その日に3000人ほどが信仰を持って、弟子に加えられました(同2:41)。
これだけ大勢の人たちの心の変化に着目してみましょう。イスラエル人は全知全能の神の選びの民と言われています。その神の御子であるイエス・キリストを彼らが十字架にかけて殺してしまったのです。厳罰に処せられて当然のことです。ところが、ペテロの答えは、神の赦しと信仰による救いのメッセージでした。
宣教師ジェイク・デイシェイザーは真珠湾報復の爆撃手としてドーリットル空襲に加わったが、乗っていた飛行機が不時着して、40ヶ月戦争捕虜となりました。独房に入れられて、ひどい扱いを受けていたとき、聖書を手にすることができました。3週間むさぼるようにして聖書を読み、キリストの十字架の贖いと復活を確信しました。ローマ人への手紙10章9節「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」
が心に響いて、ジェイクは「主よ、あなたはすべてをご存知です。私は自分の罪を悔いています。私は家から遠く離れ、囚われていますが、神の赦しが必要です。」と祈りました。この時、彼がイエス・キリストを受け入れた瞬間でした。
また、彼は牢の看守を憎んでいましたが、看守に虐待されて足に激痛を感じたとき、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)とのキリストのことばを思い出しました。そこで、彼は自分の心にある憎しみを愛で置き換えようとして、看守に「オハヨウゴザイマス」と言い、何日か好意的な対応をしたら、看守も心を開き、仲良くなったそうです。このようにジェイク・デイシェイザーは変えられ、その後日本人の魂の救いのために宣教師となりました。
神は愛です(Ⅰヨハネ4:8)。私たち人間の罪を贖うために、神の御子キリストが十字架にかかって死んでくださいました。それ故、罪を悔い改めてイエス・キリストを信じて告白する者は救われます(ローマ10:9)。そして、信仰の証しとしてバプテスマを受けます。すると、聖霊が与えられるのです。聖霊は助け主で(ヨハネ14:16)、信仰生活を健全に歩むために、私たちをいつも導いてくださる方です。また、弟子に加えられた人々は、使徒たちの教え(聖書)を堅く守り、交わりをし、パンを裂き(聖餐式)、祈りをしていました(同2:42)。このように教会生活を正しく守ることは大切なことで、豊かな神の祝福を受けることができます。皆さんもご一緒に救いの恵みに預かりましょう。

聖霊降臨の事実とその意味~使徒の働き2:14~33

今回は世界最初のキリスト教会誕生に関わる歴史的な事実についてお話します。イエス・キリストが十字架に架かり死んで、3日目に復活されました。そのときから50日目のペンテコステ(五旬節)の日に約束されていた聖霊降臨が起こりました。すなわち、12弟子や婦人たち、その他、120名ほどの人たちが1箇所に集まって祈っていると、突然、激しい風のような響きが起こり、炎のような舌が現れ、一人ひとりの上に留まり、皆が聖霊に満たされて他国語で話し出しました(使徒2:2-4)。旧約聖書では、風は神の霊を表し(エゼキエル37:9-14)、炎は神の臨在を表します(出エジプト3:2)。
他国語を話した人々はガリラヤ人で、ガリラヤ地方という田舎に住み、外国語など勉強したこともない、無学の人々でした。しかし、聖霊が降ると、彼らは生まれて一度も話したことのない他国語を突然話し出したわけです。この様子を見ていた大勢の人々が驚きました。その頃、エルサレムには敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいました。しかも、ペンテコステは「七週の祭り」とも言われ、ユダヤ教三大祭りの1つで、世界各地から巡礼者も沢山来ていました。彼らは驚き、不思議に思って次のように言いました。「見なさい。話しているこの人たちは皆、ガリラヤの人ではないか。それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」(
使徒2:6、11)。このように、聖霊降臨は12弟子を含む120名ほどの当事者と、当時の世界各地から来た大勢の人々が体験した歴史的事実です。
この出来事に多くの人々が驚き当惑しましたが、ある人々は酒に酔っていると嘲りました(使徒2:4,12-13)。そこで、使徒ペテロは聖霊降臨の意義を大胆に語り出しました。これが彼の最初の説教でした(同2:14-36)。その内容を要約すると、① ユダヤ人たちは神から遣わされたイエスを十字架につけて殺したが、この方はよみがえられた。自分たち皆はそのことの証人である(同2:23,32)。②人々が今他国語で話しているのは、神の右に上げられた主イエスが、約束された聖霊を御父から受けて、この人たちに聖霊を注がれたからである(同2:33)。③ 罪を悔い改めて、主イエスを信じてバプテスマを受けなさい(同2:38)。
イエス・キリストを信じる人はだれでも聖霊を受けることができます。以前ペテロはユダヤ人を恐れて主イエスを3度も否定しましたが、今は聖霊によって力を受けて、勇気と知恵が与えられ、群衆に向って大胆に説教できました。聖霊の働きは皆さんにイエス・キリストを思い起こさせ、聖書を理解する力を与え、生きる希望を与えます。たとえあなたが落ち込んで何をどう祈ったら良いかわからなくても、御霊(聖霊)ご自身が、ことばにならないうめきをもって、聖徒(クリスチャン)たちのためにとりなしてくださるのです(ローマ8:26-27)。ですから、あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りましょう(エペソ6:18)。

ーーーざわつき

ー さて皆さん、今日の箇所は、信徒でない人たちが聖書を読んで躓く、聖書にいくつもある奇跡の箇所です。無神論者ーここでいう、無神論者は軽薄なという形容詞がつく無神論者、すなわち感覚だけで、その根拠を深く考えようとはしない人々と解釈してください。哲学的に無神論を唱える人もいますから、そういう人とは区別しているということです。哲学的無神論はまた別の機会に述べたいと思います。理由は、それだけで長い話になってしまうからですーが、科学的根拠を欠いた、聖書のまやかしの根拠として挙げている箇所でもあります。科学的とは何かということは、別の機会に移したいと思いますが、まずは順を追って話したいと思います。(したがって今日は少しざわつきが長くなりますがご容赦ください。)まずは多国語を話した人がガリラヤの人であったとあります。ガリラヤとは、ガリラヤ湖周辺の地域の名前と思ってください(死海の北にある湖です。グーグルマップなどでご確認ください)。イエスが布教を始められた場所です。イエスの弟子となったペテロやヨハネはこの地方の人です。謂わば世界への伝道も布教の原点から始まったということです。これは意味のないことではありません。私たちが何かに迷ったとき、よく初心に帰るといいますが、正に主(イエスキリスト)に立ちかえるということを暗示しています。(弟子たちは、イエスが十字架に架けられて葬られた時、彼らは故郷であるガリラヤに戻りました。それは主がそう言われたからということでもありますが、弟子たちの心の素直な衝動でもあったろうと思います。)

ー あ、そういうことだったんですね。なるほど?

― 次に多国語をそのガリラヤの人々が話し始めたという意味は、既に察した方もおいででしょうが、布教の原点から多くの国々にその福音を延べ伝えるということを意味します。

ー ハイ、それは前の説明から理解できます。

― このように意味を正しく理解することが大事なのです。字面にとらわれてその通りにしか受け取ることができない人は、ものを正しく理解することができない人たちです。イエスが私たちに教えておられるのは、奇跡を起こしたことではありません。神の御心がなんであるかを原点に返って私たちに教えることでした。当時のパリサイ人たちの様に、律法という表象的なことが信仰の基本ではありません。勘違いしないでくださいね。律法を守ることが意味がないとかダメとか言っているのではないですよ。律法を行う意味を正しく理解して行うことが大事だということなのです。律法を単に盲目的に守ることではなく、律法の意味を正しく理解するということです。イエスが「天の御国が近づいた」という福音の意味をしっかり私たちは理解しなければなりません。イエスが私たちに伝えられたのは、単なる天の御国の知識ではありません。天の御国の理念です。分かりましたか?

ー ・・・。なんか今日の話は難しくてよく分かりません。差し詰め今、私たちがすべきことは何ですか?

ー それを次に言おうと思っていました。聖霊に満たされると聖書にありますね。聖霊に満たされるとはどういうことだと思われますか?

ー すみません。それもよく分かりません。ただ、祈るときに以前言われました、自らの思いや願いを主に伝えることではなくー勿論、伝えて構わないのですが、祈るということはまず、主の御心を知ろうとすることが大事という意味ですよー、主の御心を想って祈りなさいと言われたことがありますが、それが聖霊に満たされるという状態と似ているでしょうか?

ー よく理解しておられます。その通りだと思います。聖霊に満たされるには、自らを空しくして主を只管(ひたすら)思い祈ることの裡に、聖霊の満たしを感ずることができるのです。世の中は、イエスがこの世におられたころから、2000年後の今日に至るまで、天の御国の様では残念ながらないと思います。それは最近のいろんな事件を知るにつけ思われることではないでしょうか?でもです。いや、だからこそです。自ら心を集中して、神の御心を想って祈ることが大事なのです。人間の力はそして知恵は、神から与えられたものです。ですから貴重で尊ぶべきものです。神からのギフトを私たちは大いなる恐れをもって感じなければならないのではないですか!

ー なるほど、おっしゃる意味が漸くですが少し分かったような気がします。ところで、聖霊を感じられたとして、それから私たちはどのように行動すればいいのでしょう?

ー それも聖霊が教えてくれるのではないでしょうか?聖霊はその時に必要な知恵と行動を起こすに充分なエネルギーも与えてくださるでしょうから。

ー でもあれですよね。宝くじが当たる様に一心に祈っても聖霊が満たされることがないですよね?

ー 当たり前です。聖霊に満たされることは、己れの欲望を満たすことではありません。あれ、さっき理解されたと思ったのですが?

ー す、すみません。安心したら、欲望が顔を出してしまいまして(^^;) ご、ごめんなさいm(__)m

ー 主に赦しを乞いましょう。アーメン!

ペンテコステの日の草刈り

ペンテコステの5月20日に、皆で会堂建設用地の草刈りをしました。

ついでにただ空き地のままにしておくのは勿体ないと、一部花を植えたり、畑として土を起こしたりしました。畑にはサツマイモを植えました(^^;)

建設用地は漸く確保しましたが、教会の建設までにはまだ経済的な必要を満たさねばなりません。これからも頑張ってその必要を満たすべく、私達は一所懸命にいたしますが、もし、お志があれば献金いただけると大変助かります。よろしくお願いいたします。

ユダに代わる使徒補充~使徒の働き1:15~26

12使徒のひとりユダは銀貨30枚で主イエスを売って、その逮捕に加担しました(マタイ27:3)。彼はそのことを後悔して自害したので(使徒1:18)、弟子の空席ができ、ユダに代わる人を1名補充することをペテロが提案しました。
なぜ、12人の使徒をそろえる必要があったのでしょうか。使徒はギリシャ語のアポストロスで、特定の使命を与えて派遣された人のことです。パウロは使徒職の重さを「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」と証言しています(エペソ2:20)。主イエスが12弟子を任命されたのは、彼らを遣わして福音を宣べさせるためでした(マルコ3:14)。なお、12と言う数字は旧約時代の12部族に対応しています(マタイ19:28)。
選ばれる使徒としての資格は、①主イエスと行動を共にした者、②復活のイエスにお会いした者(イエスの復活の証人)で(使徒1:21-22)、これに対応する二人を選び、主なる神の御心を求めて祈って(同1:24-25)、くじを引きました(同1:26)。その結果マッテヤにくじが当たり、彼が使徒に加えられました。この補充によってペンテコステの準備が完了したのです。
このようにして新たに編成された12使徒たちが中心になって、ペンテコステ以降、福音宣教の業がエルサレムから始まって各地へと大々的に進められ、その働きが教会に受け継がれて、今や全世界に福音が広められているのです。

ーーーざわつき

ー 使徒とは端的に言えば、福音ー天の御国が近づいたということと今は理解してくださいーを皆に伝えることです。と言いましても、勿論単なる伝書鳩ではありません。イエスの御言葉をきちんと説明もできなければなりませんから、それなりの力が必要になることは言うまでもないでしょう。皆さんは使徒のように皆に伝えられますかぁ。

ー (ん?荷がオモ!話題を変えなきゃ)でもユダはなぜ裏切ったんでしょう?

ー ユダは、イエスの集団の中で会計を任されていもましたから、いい加減な人間ではなかったでしょう。皆から信頼されてもいたに違いありません。ただ、ユダは、当時のユダヤ民族愛からくる愛国心の発露を求めていましたが、イエスにそれを期待したと思われます。しかし、イエス様の教えは、謂わば人の魂の開放であって、そのような政治的な開放ではありませんでした。開放の質が違ったのです。ユダから見れば期待外れに見えたのかも知れませんね。このようなことは、今の社会でもいくらでもありますよね。人は自らの器で他人をも量りますからね。それを防ぐにはどうしたらいいでしょうね、皆さん?

ー (お、またお鉢が回ってきた。)そうですねぇ・・・。どうしたらいいですか?

ー やはり、自らを空しくして、相手を理解する気持ちが必要ではないですかね。自らの気持ちにだけいつまでも寄りかかってないでですね。忠告を、自分への当てこすりとかひねくれないでですね。また、ほかの人への思惑に流されないでです。信仰も主の御心をまず知ろうとすることが大事です!

ー な、なるほど・・・。

ー ところで、先ほどの使徒のように皆に福音を伝えるということについてはどうですかぁ。

ー そうですね。べ、勉強します。(ウワッ、ヤバ!)

ー おぉ、それは素晴らしい!では、勉強会のようなものでも開くことにしますか?

ー ・・・(-_-;)

聖霊降臨の約束~使徒の働き1:3~8

イエス・キリストは十字架の苦しみの後、40日にわたって、復活されてご自分が生きていることを使徒たちに明らかにされました。そして、主イエスは彼らに、「エルサレムを離れないで、父なる神の約束を待ちなさい」と命じられました(使徒1:4、ルカ24:49)。その約束とは聖霊降臨のことで、彼らがまもなく『聖霊によるバプテスマ』(聖霊の満たし)を授けられて(使徒1:5)、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、キリストの証人となるということです(使徒1:8)。この聖書箇所は使徒の働きの中心聖句であり、事実、聖霊降臨により使徒たちは力を受けて、主イエスの復活の証人として世界各地で伝道しました。その事が使徒の働きに記載されています。
ところで、聖霊は弟子たちだけに授けられるのでなく、クリスチャン皆が受けることができます。なぜなら、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主(救い主、キリスト)です」と確信をもって言うことができないからです(Ⅰコリント12:3)。また、聖霊は私たち人間に、キリストを思い起こさせて(ヨハネ14:26)、神の愛で満たし、聖書の理解力も与えてくださいます。それによって、どのクリスチャンも力を得て、キリストの証人としての生活ができるのです。

ーーーざわつき

ー イエスが復活され、その後40日弟子たちの前に現れ、弟子たちに使徒としての働きをさせるため、聖霊の満たしのあることを彼らに教えられました。この箇所は信仰を持って読まないと理解が難しいかもしれませんね。皆さんは理解できますか?聖霊に満たされるということですが。

ー そうね、「満たされる」というのは実感としては分かりません、正直。ただ、聖霊の導きと感じることはあります。ま、後になってからそう思うのですが。心配していたことが不思議とすんなりと運んだり、逆に上手くいかなくて悔しく思ったり、残念に思ったりしたことでも、あとでそのことが返ってより良い結果を生んだり・・・。しかし、その時聖霊に満たされていたという意識はありません。それに正直そういうことって、信仰を持つ前でもあったような気がします。ですからこの箇所は分かりづらいです。

ー そうですね。心配していたことが上手く運んだり、ダメでもそのことが後で返ってよりよい結果となったりは、別に信徒でなくてもあるでしょうね。ただ、後で気付くと、それが聖霊の導きだったのかもと思われたことはあるのですね。そこが大事なことかも知れませんよ。信仰を持つまでなら、それを単にその時の運の良し悪しで片づけたり、深く思わずに過ごしたことが、信仰から聖霊ということを感じるようになった。ここは微妙なところでもありますが、ただ単に運で片づけるのではなく、そこに何か聖霊というものを感じること、またそれを想うことが、即ち聖霊の満たしを得ているということではないでしょうか?そして、聖霊の満たしを感じるということが主を感じるということでもありますから、そのことはこれからのあなたの生きるエネルギーと言いますか、力といいますか、あるいは勇気、さらに言えば確信になっていくのではないですか?

ー なるほどぉ、そう言われればそのような気もして来ますが・・・。あ、でもですよ、聖霊に満たされるから信仰するというふうになると、これまた主客転倒のような・・・。

ー おぉ、素晴らしい!そうですね。聖霊の満たしは神の専権事項です。あなたが満たしてくださいと願うことではありません。一心に神の御心を想って祈る。そのことが、聖霊の満たしにつながるのだと思いますね。いい信仰をお持ちですね!

ー あ、いや、言われるほどの信仰を持っているというわけでも(^^ゞ

心を注ぎ出して祈る~サムエル記第一1:9~18

サムエルはイスラエル最後の士師(さばきつかさ)で、最初の預言者でした。その母、ハンナは夫のエルカナと結婚しても、いつまでも子供が与えられませんでした。そのために彼女は、10人の息子をもつペニンナ(エルカナのもう一人の妻)から嫌がらせを受けて、苦しみ、悩んでおりました。
ハンナはその苦しみを人間ではなく、全知全能の主なる神に訴えて、涙ながら祈り、主の前に、心を注ぎ出しました(Ⅰサムエル1:10、15)。人間の力ではどうすることもできない現実、その課題を解決することができる方は主なる神のみです。彼女は信仰をもって、誓願を立てて「私を心に留めて男の子を与えてくださるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします」と、覚悟を決めて祈りました。すると、心に平安が与えられ、彼女は安心して帰宅しました。彼女の顔は以前とは異なっていました。そして、ハンナは間もなく身ごもり、男の子が誕生しました。その子がサムエルです。彼は生涯、主に仕える人となりました。
私たちの人生には乗り越えなければならない決断のときがあります。イスラエル人はカナンの地を約束されていましたが、『そこには先住民がいて、彼らは力が強く、巨大で、自分たちの手に負えない』と、偵察隊から報告を受けてイスラエルの民は萎縮し(民数13:32-33, 14:1)、その後、何十年も荒野をさまよい、カレブとヨシュア以外は約束の地に入れませんでした。このように、目先のことだけを見ていると主から与えられた素晴らしい約束を見失うことになってしまうのです。
皆さんはいかがですか。主の御心を求めて、現実の課題を解決できるように、砕かれた心で、真実の祈りをささげましょう(詩篇51:17)。
私たちの教会は会堂建設という課題を抱えています。多額のお金が必要ですが、まだ小さな教会で経済的に非常に厳しい現実があります。しかし、昨年、神の奇しき御業により会堂用地を購入することができました。多くの方々の祈りと支援を感謝致します。
どんなに困難と思えることでも、主なる神に不可能はありません。主の御業がなされるように、常に心を注ぎ出して祈り続けていきたいと思います。ホームページをご覧の皆様のご協力をよろしくお願いいたします。

ーーーざわつき

ー 今日は神に祈るということについての話ですね。

ー そうですねぇ。普段そんなに祈ってはいないかも・・・。それって主に向き合っていないと言うことになるのかしら?

ー ま、はっきり申せば、そういうことになりますね。しかし、だからと言って祈らなければならないということにのみ、こだわると返って本末転倒になるのではないでしょうか。大事なのは主にどのように祈るか?つまり、どう向き合うかではないでしょうか?

ー それは具体的にはどういうことですか?

ー 例えば、聖書には奇跡の話がたくさん出てまいりますが、だからと言って奇跡を起こしてもらうことを祈るというようなことは如何でしょうか?奇跡は人間の求めに応じて主が起こすことではないと思います。堅い言葉で言えば、それは主の専権事項だと思うのです。大事なのは主に自らの想いや願いを聞いて頂くということだと思うのです。自分が何もしないで奇跡を願うというのはどんなものでしょう。

ー なるほど、そういう意味なら分かります。

ー ご理解いただいて恐縮です。聞いて頂くというのは、自らの願いや想いが主の御心に適うものであります様にということでもあります。

ー ですから、祈りには主の御心を知ることができるという希望も含まれるのです。

ー なるほどぉ、でもそう聞くと、祈りってなんだか大変そう。

ー あ、いえ決してそのようにお考えになりませんように。すこし正面からお答えしすぎましたかね(;^_^A 要はいつも主を思って祈ってくださいということなのです。自らの想いを主にぶつけるというよりも、主の御心を知ろうと思いながら、主に自らの想いや願いを聞いて頂くという気持ちで祈るということです。そしてそのように祈ることで心の平安も得られると思うのです。あ、もっとわかりにくくなりました(;^_^A す、すみません(^^;)

主の日のための備え~テサロニケ人への手紙第一5:4~11

使徒パウロが第二回伝道旅行でマケドニアに渡り、そこの州都テサロニケでも伝道しました。僅か3週間の滞在で、大勢のギリシャ人が信仰を持ちました(使徒17:1-4)。すばらしいことです。ところが、この祝福がユダヤ人の妬みを買い、暴動が起きたので、パウロたちはベレヤに移動しなければならなくなりました。このような状況にあっても、パウロはテサロニケ教会の信徒たちのことが心配で、弟子のテモテを派遣してテサロニケ教会の様子を聴いておりました(Ⅰテサロニケ3:2,5)。その中で気になる点がありました。それは、信徒の中で主の時(イエス・キリストの再臨)について誤解し、直ぐに再臨があるので働くのを止め、ふしだらな生活に戻る人たちがいた事でした(同4:11-15)。
イエス・キリストは主の日はノアの洪水のときのように、人々が食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしている最中に突然やって来ると言われました(マタイ24:37-39)。確かに主の日は突然到来しますが(Ⅰテサロニケ5:2-3)、イエス・キリストを信じている人々は暗闇の中にいないから、特に心配しなくてもよいのです(同5:4-5)。目を覚ましていても眠っていても、いつも主イエスと共に生きることができるからです(同5:10)。
このことは神の愛に基づくことです(ヨハネ3:16)。テサロニケ人への手紙第一5章9節に「神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからである」と記載されています。
それゆえ、皆さんはしっかりと信仰に留まり、主の日に備えて、①目を覚まし、身を謹んでいること(Ⅰテサロニケ5:6)。②信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶること(同5:7)。③互いに励まし合い、互いを高め合うことを(同5:11)、常に心がけて信仰生活を歩んでください。

ーーーざわつき

ー テサロニケの教会でのこのような反動は、テサロニケのみならずいろんな教会で起きました。そのことはパウロさんを常に悩まさせることでした。しかしパウロさんはそれでも諦めることなく、主の御言葉の真実と意味を忘れないようにと伝え続けました。このことは私たち信徒の大きな生きる指針にもなると思いますね。皆さんはどのようにお感じになられましたか?

ー それはすごいと思います。尊敬に値すると思います。しかし、当時の信徒にすれば、直ぐに再臨があると言われれば、甘言とは思ってもそちらに靡(なび)く気持ちは分からなくないかなぁと。決して良いことではないとはわかりますけどね。

ー なるほど、当時をその場所の臨場感をもって理解をしようとなさることは素晴らしいことですね。たしかに、その場にいれば、再臨がすぐにでも来るようなことを言われれば、それは喜ばしいことですから、否定しづらいかも知れませんね。ただここで大事なのは、信仰の持ち方というか、あり方を考えることだと思うのです。再臨は信仰の対象ですが、それがいつ来るかということは信仰の対象でしょうか?その辺を考えてみる必要はありませんか?

ー そう言われれば、その違いはあるかな?私たちの信仰の持ち方ということですよね。

ー そうですね。そう言えると思うのです。私たちも当時の信徒とそれほど実は違わない。ただ、聖書を通じてそういう先例を知ることができている。そのことを読み取って自らの信仰を振り返ることは意味があることだと思うのです。それが再臨の日の私たちの備えだと。

ー なるほどうまいこと言いますねぇ。ただ備えと言えば、そろそろ教会の草刈りの準備しませんとね。いつするか皆の予定もありますから、どうします?

ー あ、そうでしたね。エッとぉ急がないいけませんね(^^ゞ