主の日のための備え~テサロニケ人への手紙第一5:4~11

使徒パウロが第二回伝道旅行でマケドニアに渡り、そこの州都テサロニケでも伝道しました。僅か3週間の滞在で、大勢のギリシャ人が信仰を持ちました(使徒17:1-4)。すばらしいことです。ところが、この祝福がユダヤ人の妬みを買い、暴動が起きたので、パウロたちはベレヤに移動しなければならなくなりました。このような状況にあっても、パウロはテサロニケ教会の信徒たちのことが心配で、弟子のテモテを派遣してテサロニケ教会の様子を聴いておりました(Ⅰテサロニケ3:2,5)。その中で気になる点がありました。それは、信徒の中で主の時(イエス・キリストの再臨)について誤解し、直ぐに再臨があるので働くのを止め、ふしだらな生活に戻る人たちがいた事でした(同4:11-15)。
イエス・キリストは主の日はノアの洪水のときのように、人々が食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしている最中に突然やって来ると言われました(マタイ24:37-39)。確かに主の日は突然到来しますが(Ⅰテサロニケ5:2-3)、イエス・キリストを信じている人々は暗闇の中にいないから、特に心配しなくてもよいのです(同5:4-5)。目を覚ましていても眠っていても、いつも主イエスと共に生きることができるからです(同5:10)。
このことは神の愛に基づくことです(ヨハネ3:16)。テサロニケ人への手紙第一5章9節に「神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからである」と記載されています。
それゆえ、皆さんはしっかりと信仰に留まり、主の日に備えて、①目を覚まし、身を謹んでいること(Ⅰテサロニケ5:6)。②信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶること(同5:7)。③互いに励まし合い、互いを高め合うことを(同5:11)、常に心がけて信仰生活を歩んでください。

ーーーざわつき

ー テサロニケの教会でのこのような反動は、テサロニケのみならずいろんな教会で起きました。そのことはパウロさんを常に悩まさせることでした。しかしパウロさんはそれでも諦めることなく、主の御言葉の真実と意味を忘れないようにと伝え続けました。このことは私たち信徒の大きな生きる指針にもなると思いますね。皆さんはどのようにお感じになられましたか?

ー それはすごいと思います。尊敬に値すると思います。しかし、当時の信徒にすれば、直ぐに再臨があると言われれば、甘言とは思ってもそちらに靡(なび)く気持ちは分からなくないかなぁと。決して良いことではないとはわかりますけどね。

ー なるほど、当時をその場所の臨場感をもって理解をしようとなさることは素晴らしいことですね。たしかに、その場にいれば、再臨がすぐにでも来るようなことを言われれば、それは喜ばしいことですから、否定しづらいかも知れませんね。ただここで大事なのは、信仰の持ち方というか、あり方を考えることだと思うのです。再臨は信仰の対象ですが、それがいつ来るかということは信仰の対象でしょうか?その辺を考えてみる必要はありませんか?

ー そう言われれば、その違いはあるかな?私たちの信仰の持ち方ということですよね。

ー そうですね。そう言えると思うのです。私たちも当時の信徒とそれほど実は違わない。ただ、聖書を通じてそういう先例を知ることができている。そのことを読み取って自らの信仰を振り返ることは意味があることだと思うのです。それが再臨の日の私たちの備えだと。

ー なるほどうまいこと言いますねぇ。ただ備えと言えば、そろそろ教会の草刈りの準備しませんとね。いつするか皆の予定もありますから、どうします?

ー あ、そうでしたね。エッとぉ急がないいけませんね(^^ゞ

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