心を注ぎ出して祈る~サムエル記第一1:9~18

サムエルはイスラエル最後の士師(さばきつかさ)で、最初の預言者でした。その母、ハンナは夫のエルカナと結婚しても、いつまでも子供が与えられませんでした。そのために彼女は、10人の息子をもつペニンナ(エルカナのもう一人の妻)から嫌がらせを受けて、苦しみ、悩んでおりました。
ハンナはその苦しみを人間ではなく、全知全能の主なる神に訴えて、涙ながら祈り、主の前に、心を注ぎ出しました(Ⅰサムエル1:10、15)。人間の力ではどうすることもできない現実、その課題を解決することができる方は主なる神のみです。彼女は信仰をもって、誓願を立てて「私を心に留めて男の子を与えてくださるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします」と、覚悟を決めて祈りました。すると、心に平安が与えられ、彼女は安心して帰宅しました。彼女の顔は以前とは異なっていました。そして、ハンナは間もなく身ごもり、男の子が誕生しました。その子がサムエルです。彼は生涯、主に仕える人となりました。
私たちの人生には乗り越えなければならない決断のときがあります。イスラエル人はカナンの地を約束されていましたが、『そこには先住民がいて、彼らは力が強く、巨大で、自分たちの手に負えない』と、偵察隊から報告を受けてイスラエルの民は萎縮し(民数13:32-33, 14:1)、その後、何十年も荒野をさまよい、カレブとヨシュア以外は約束の地に入れませんでした。このように、目先のことだけを見ていると主から与えられた素晴らしい約束を見失うことになってしまうのです。
皆さんはいかがですか。主の御心を求めて、現実の課題を解決できるように、砕かれた心で、真実の祈りをささげましょう(詩篇51:17)。
私たちの教会は会堂建設という課題を抱えています。多額のお金が必要ですが、まだ小さな教会で経済的に非常に厳しい現実があります。しかし、昨年、神の奇しき御業により会堂用地を購入することができました。多くの方々の祈りと支援を感謝致します。
どんなに困難と思えることでも、主なる神に不可能はありません。主の御業がなされるように、常に心を注ぎ出して祈り続けていきたいと思います。ホームページをご覧の皆様のご協力をよろしくお願いいたします。

ーーーざわつき

ー 今日は神に祈るということについての話ですね。

ー そうですねぇ。普段そんなに祈ってはいないかも・・・。それって主に向き合っていないと言うことになるのかしら?

ー ま、はっきり申せば、そういうことになりますね。しかし、だからと言って祈らなければならないということにのみ、こだわると返って本末転倒になるのではないでしょうか。大事なのは主にどのように祈るか?つまり、どう向き合うかではないでしょうか?

ー それは具体的にはどういうことですか?

ー 例えば、聖書には奇跡の話がたくさん出てまいりますが、だからと言って奇跡を起こしてもらうことを祈るというようなことは如何でしょうか?奇跡は人間の求めに応じて主が起こすことではないと思います。堅い言葉で言えば、それは主の専権事項だと思うのです。大事なのは主に自らの想いや願いを聞いて頂くということだと思うのです。自分が何もしないで奇跡を願うというのはどんなものでしょう。

ー なるほど、そういう意味なら分かります。

ー ご理解いただいて恐縮です。聞いて頂くというのは、自らの願いや想いが主の御心に適うものであります様にということでもあります。

ー ですから、祈りには主の御心を知ることができるという希望も含まれるのです。

ー なるほどぉ、でもそう聞くと、祈りってなんだか大変そう。

ー あ、いえ決してそのようにお考えになりませんように。すこし正面からお答えしすぎましたかね(;^_^A 要はいつも主を思って祈ってくださいということなのです。自らの想いを主にぶつけるというよりも、主の御心を知ろうと思いながら、主に自らの想いや願いを聞いて頂くという気持ちで祈るということです。そしてそのように祈ることで心の平安も得られると思うのです。あ、もっとわかりにくくなりました(;^_^A す、すみません(^^;)

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