聖霊降臨の事実とその意味~使徒の働き2:14~33

今回は世界最初のキリスト教会誕生に関わる歴史的な事実についてお話します。イエス・キリストが十字架に架かり死んで、3日目に復活されました。そのときから50日目のペンテコステ(五旬節)の日に約束されていた聖霊降臨が起こりました。すなわち、12弟子や婦人たち、その他、120名ほどの人たちが1箇所に集まって祈っていると、突然、激しい風のような響きが起こり、炎のような舌が現れ、一人ひとりの上に留まり、皆が聖霊に満たされて他国語で話し出しました(使徒2:2-4)。旧約聖書では、風は神の霊を表し(エゼキエル37:9-14)、炎は神の臨在を表します(出エジプト3:2)。
他国語を話した人々はガリラヤ人で、ガリラヤ地方という田舎に住み、外国語など勉強したこともない、無学の人々でした。しかし、聖霊が降ると、彼らは生まれて一度も話したことのない他国語を突然話し出したわけです。この様子を見ていた大勢の人々が驚きました。その頃、エルサレムには敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいました。しかも、ペンテコステは「七週の祭り」とも言われ、ユダヤ教三大祭りの1つで、世界各地から巡礼者も沢山来ていました。彼らは驚き、不思議に思って次のように言いました。「見なさい。話しているこの人たちは皆、ガリラヤの人ではないか。それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」(
使徒2:6、11)。このように、聖霊降臨は12弟子を含む120名ほどの当事者と、当時の世界各地から来た大勢の人々が体験した歴史的事実です。
この出来事に多くの人々が驚き当惑しましたが、ある人々は酒に酔っていると嘲りました(使徒2:4,12-13)。そこで、使徒ペテロは聖霊降臨の意義を大胆に語り出しました。これが彼の最初の説教でした(同2:14-36)。その内容を要約すると、① ユダヤ人たちは神から遣わされたイエスを十字架につけて殺したが、この方はよみがえられた。自分たち皆はそのことの証人である(同2:23,32)。②人々が今他国語で話しているのは、神の右に上げられた主イエスが、約束された聖霊を御父から受けて、この人たちに聖霊を注がれたからである(同2:33)。③ 罪を悔い改めて、主イエスを信じてバプテスマを受けなさい(同2:38)。
イエス・キリストを信じる人はだれでも聖霊を受けることができます。以前ペテロはユダヤ人を恐れて主イエスを3度も否定しましたが、今は聖霊によって力を受けて、勇気と知恵が与えられ、群衆に向って大胆に説教できました。聖霊の働きは皆さんにイエス・キリストを思い起こさせ、聖書を理解する力を与え、生きる希望を与えます。たとえあなたが落ち込んで何をどう祈ったら良いかわからなくても、御霊(聖霊)ご自身が、ことばにならないうめきをもって、聖徒(クリスチャン)たちのためにとりなしてくださるのです(ローマ8:26-27)。ですから、あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りましょう(エペソ6:18)。

ーーーざわつき

ー さて皆さん、今日の箇所は、信徒でない人たちが聖書を読んで躓く、聖書にいくつもある奇跡の箇所です。無神論者ーここでいう、無神論者は軽薄なという形容詞がつく無神論者、すなわち感覚だけで、その根拠を深く考えようとはしない人々と解釈してください。哲学的に無神論を唱える人もいますから、そういう人とは区別しているということです。哲学的無神論はまた別の機会に述べたいと思います。理由は、それだけで長い話になってしまうからですーが、科学的根拠を欠いた、聖書のまやかしの根拠として挙げている箇所でもあります。科学的とは何かということは、別の機会に移したいと思いますが、まずは順を追って話したいと思います。(したがって今日は少しざわつきが長くなりますがご容赦ください。)まずは多国語を話した人がガリラヤの人であったとあります。ガリラヤとは、ガリラヤ湖周辺の地域の名前と思ってください(死海の北にある湖です。グーグルマップなどでご確認ください)。イエスが布教を始められた場所です。イエスの弟子となったペテロやヨハネはこの地方の人です。謂わば世界への伝道も布教の原点から始まったということです。これは意味のないことではありません。私たちが何かに迷ったとき、よく初心に帰るといいますが、正に主(イエスキリスト)に立ちかえるということを暗示しています。(弟子たちは、イエスが十字架に架けられて葬られた時、彼らは故郷であるガリラヤに戻りました。それは主がそう言われたからということでもありますが、弟子たちの心の素直な衝動でもあったろうと思います。)

ー あ、そういうことだったんですね。なるほど?

― 次に多国語をそのガリラヤの人々が話し始めたという意味は、既に察した方もおいででしょうが、布教の原点から多くの国々にその福音を延べ伝えるということを意味します。

ー ハイ、それは前の説明から理解できます。

― このように意味を正しく理解することが大事なのです。字面にとらわれてその通りにしか受け取ることができない人は、ものを正しく理解することができない人たちです。イエスが私たちに教えておられるのは、奇跡を起こしたことではありません。神の御心がなんであるかを原点に返って私たちに教えることでした。当時のパリサイ人たちの様に、律法という表象的なことが信仰の基本ではありません。勘違いしないでくださいね。律法を守ることが意味がないとかダメとか言っているのではないですよ。律法を行う意味を正しく理解して行うことが大事だということなのです。律法を単に盲目的に守ることではなく、律法の意味を正しく理解するということです。イエスが「天の御国が近づいた」という福音の意味をしっかり私たちは理解しなければなりません。イエスが私たちに伝えられたのは、単なる天の御国の知識ではありません。天の御国の理念です。分かりましたか?

ー ・・・。なんか今日の話は難しくてよく分かりません。差し詰め今、私たちがすべきことは何ですか?

ー それを次に言おうと思っていました。聖霊に満たされると聖書にありますね。聖霊に満たされるとはどういうことだと思われますか?

ー すみません。それもよく分かりません。ただ、祈るときに以前言われました、自らの思いや願いを主に伝えることではなくー勿論、伝えて構わないのですが、祈るということはまず、主の御心を知ろうとすることが大事という意味ですよー、主の御心を想って祈りなさいと言われたことがありますが、それが聖霊に満たされるという状態と似ているでしょうか?

ー よく理解しておられます。その通りだと思います。聖霊に満たされるには、自らを空しくして主を只管(ひたすら)思い祈ることの裡に、聖霊の満たしを感ずることができるのです。世の中は、イエスがこの世におられたころから、2000年後の今日に至るまで、天の御国の様では残念ながらないと思います。それは最近のいろんな事件を知るにつけ思われることではないでしょうか?でもです。いや、だからこそです。自ら心を集中して、神の御心を想って祈ることが大事なのです。人間の力はそして知恵は、神から与えられたものです。ですから貴重で尊ぶべきものです。神からのギフトを私たちは大いなる恐れをもって感じなければならないのではないですか!

ー なるほど、おっしゃる意味が漸くですが少し分かったような気がします。ところで、聖霊を感じられたとして、それから私たちはどのように行動すればいいのでしょう?

ー それも聖霊が教えてくれるのではないでしょうか?聖霊はその時に必要な知恵と行動を起こすに充分なエネルギーも与えてくださるでしょうから。

ー でもあれですよね。宝くじが当たる様に一心に祈っても聖霊が満たされることがないですよね?

ー 当たり前です。聖霊に満たされることは、己れの欲望を満たすことではありません。あれ、さっき理解されたと思ったのですが?

ー す、すみません。安心したら、欲望が顔を出してしまいまして(^^;) ご、ごめんなさいm(__)m

ー 主に赦しを乞いましょう。アーメン!

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