計り知れない神の愛と赦し~マタイの福音書18:21~35

兄弟が私に罪を犯した時、何度まで赦すべきかの問いに、主イエスは「7度を70倍するまで」と答えられました(マタイ18:22)。聖書では3が完全数で、7は無限数。7を70倍するとは無制限に赦しなさいという意味ですが、私たち人間にとって自分をいじめた人や意地悪した人をなかなか赦せないものですね。

それでは、主イエスの発言は単なる“綺麗ごと”に過ぎないのでしょうか。そうではありません。イエス・キリストは、私たち人間の罪を背負って、十字架にかかり、私たちの罪を贖ってくださったほどの愛の方です。主イエスは、ご自分を十字架にかけて、くじを引いている兵士等のために、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないからです。」と父なる神に祈られました(ルカ23:34)。主イエスは敵を愛し、敵のために祈られたのです。

それゆえ、もし私たちがキリストの愛を知り、その愛に満たされているなら、私たちも兄弟の罪を限りなく赦すことは十分できるのです。また、「主君に1万タラント(現代のお金で6000億円相当)の借金を免除された家来が、同僚に貸した100デナリ(100万円)の返済を強要して牢に投げ入れた結果、主君の怒りを受けて、負債をすべて返すまで投獄された」喩え(マタイ18:22-35)から、私たちは、主イエスの十字架の贖いによって自分の巨大な罪を赦されたのだから、当然、兄弟を赦すべきであることを教えられます。
今週の暗唱聖句:「互いに赦し合いなさい。主があなたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ3:13)。

ーーーざわつき

ー 7の倍数どうのこうのはともかく赦しなさいということですよね。裁くな裁かれないためですよね。ま、頭ではそうよねぇとは思うんですけどねぇ。

ー それは実際はできないと思われるんですね。確かに!簡単にできることではないと思います。言うは易くです。しかし、だからと言ってできなくていいというものでもないですよね。譬え、裁いて服させたところで、相手が心から服しているわけではないことは経験からおわかりでしょ?人は裁き合っても実は何も解決はしていない。しこりが残るだけですね。残念ながら。大事なのはその人を認めてあげることでしょうね。それが赦すことの始まりになるでしょうか。そしてそれは、自分が神から赦されているという自覚からできることでしょうね。そして、その神の愛を感じることです。ただひとつ、戒めると裁くとを混同しない様にしなければなりませせんがね。それを理解していない人もいますから困りますが・・・。

ー あなたが赦されているのだから、ほかの人にもそうしなさい?ということですか?

ー そうなのですが、そもそも人は罪びとであるとするなら、罪びとが罪びとを裁くことはおかしなことですよね?ま、ちょっと理屈っぽい言い方ですが・・・。まずは自分が罪びとであると自覚することから始まるのじゃないでしょうか?イエスさまはまず「悔い改めなさい」ということを言われていますから。それは、まずは自分自身を見つめなさいということでもあろうかと思います。

ー ちょっと、私修行が必要だわ。

ー あ、いえいえ、修行が必要なのはあなただけではありません。私もです。人は皆そうなのだと思います。ただ、その気持ちが大事だと思います。一緒に修行いたしましょう。

ー まずは、何から修行しようかしら。ま、おいしいご飯でも家族に作ってやりますか!しょうがないから。

ー あのぉ、まずはそのしょうがないというのを無くしましょう(^^ゞ

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