神の栄冠を得るために~ピリピ3:12~14

使徒パウロは生粋のヘブル人として生まれ、良い教育も受け、一流の律法学者でしたが(ピリピ3:5-6)、「イエス・キリストを知っているすばらしさのゆえに、一切のことを損と思うようになった」(同3:7-8)と告白しています。彼はイエス・キリストに出会って大きく変えられた人物です。
しかし、彼は「既に得たのでもなく、既に完全にされているのでもない」と言っています(同3:12)。何故でしょうか?それは不思議なことではなく、キリストのすばらしさを本当に知っている者の声であり、信仰の高嶺を目指す姿から出る発言です。
パウロは、ただ一事のことに励みました。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向って進み、神の栄冠を得るために目標を目指して一心に走ることでした(同3:13-14)。平昌オリンピックでの日本選手の活躍は記憶に新しいと思います。レース中、選手たちは走ることに集中し、ひたすらゴールを目指しました。もし過去の失敗に捉われていたら、ハプニングが起こり、良い結果は出せません。
ところで、神が与えてくださる栄冠は、この世のものではなく、天において与えられるもので、最高のものです。また、地上のレースにおける栄冠とは異なり、このレースに参加して完走したすべての者に与えられるものです。だから、一緒に走っている人に勝って、自分が一番になろうと思う必要がないのです。一緒に走っている人同士が互いに励まし合い、神の栄冠を得るために邁進しましょう。なお、このレースはイエス・キリストを自らの救い主として信じているすべての人に開かれたものですが、皆さんの家族や友人、知人もこのレースに参加できるように、信仰の証しと福音宣教に励みましょう。

ーーーざわつき

ー 皆さぁん、オリンピック愉しまれましたかぁ。これからパラリンピックも始まりますが、これまでの実力を発揮できる人もいれば、発揮できずに残念な思いをする人もいるでしょう。しかし、一所懸命に頑張る姿は美しいものですよね。

ー そうね。スポーツって皆が共通のルールでするから、フェアーだし結果もはっきりわかるじゃない?だから選手も目標がはっきりするし、見る方もそれを共有できるから、応援しながら興奮もできるんじゃないかしらね。ただ、実際の生活の上ではルールがあるにしても、結果がはっきりするわけのものではないでしょ?また、そのルールもフェアーだと必ずしも言えないんじゃないかしら。そこが悩ましいというか・・・。

ー 確かにこの世にあって皆が平等で、誰もが努力すれば同じように報われ、誰もが幸せということでは、多分ないでしょうね。そう考えると虚しくなるでしょうが、ただ、昔、名前は忘れたのですがイギリスのある学者だったか、評論家だったかの人がこのように言ったそうです。「人生の価値とは、人が死んだとき何をしたかではなく、何をしようとしたかなのだ。」と。向かう目標をもって、そこへたどり着こうと努力することに人の価値はあるのじゃないでしょうか。パウロさんの、「この一事に励んでいます。すなわち、後ろの物を忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」という言葉もそう考えれば身に沁みて感じられるのではないでしょうか。

ー なんであるかではなく、何であろうとするか、ですか。

ー 別の言い方をすれば、こうも言えるかも知れません。「他人にどう思われるかではなく、自分がどうありたいか」が大事だと。

ー どうありたいか。そうねぇ、とりあえず今思いつくのは、亭主をいかに素直に私の言うことを聞くようにさせるか、ですかね。

ー え、そこですか?あ、なるほど(;^_^A

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