私たちの罪にしたがって 私たちを扱うことをせず
私たちの咎にしたがって 私たちに報いをされることもない
詩篇103:10
先週の聖書の交読文の中にあった言葉ですが、この言葉はちょっと胸に刺さりました。
主は、私たちが何ほどの者であるから、すなわち、私たちが主の望まれるに相応しい人間であるから、私たちに報いてくださるのではない。ただ私たちを愛するがゆえに、愛をもって罪ある私たちを扱い、報いてくださっている。そう、この言葉を理解しました。
勿論、だから私たちは何をしてもいいのだということにはなりません。罪は、私たちの人に対しての罪を云っているのではなく、神に対して犯している罪を云っているのでしょう。そう思うと、少なくとも私は、神の前に常にいると自覚します。その神の前に罪あるものとして私たちが在るという自覚。そして、神の前にいるという自覚は、そこにいる自分が身分とか、社会的地位とか、学歴とか、容姿とか、人種とか、性別とかその他もろもろの属人的要素を取り払った裸の自己自身でいるいう自覚。つまり、実存的に神の前にいるということだろうと思います。だから、自らを主の前に、あるがままの気持ちで佇む。すべてを主にゆだねきる。「罪の反対は徳ではない、信仰である」と、19世紀のある哲学者は言いましたが、真の救いとはそういうところにあるのだろうと思います。
マタイの福音書5:44に、「私はあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」 という言葉ありますが、それと詩篇のこの言葉が共鳴して私には聞こえました。だから主があなたがたにしたように、あなた方もそうありなさいと。しかし、この言葉通りに出来るかと言われれば、率直に言って非常にむずかしいことです。世の争いはだから消えることがないのでしょう。しかし、出来るかできないかが問題なのではなく、できるように努力することが大事なのだということではないでしょうか。出来ないことを理由に諦めることが罪なのだと。なぜなら、神の愛は何かと問われれば、この言葉のとおりだと思うからです。しかし、神は、それが人には難しいことであることも当然ご存じだろうと思います。それゆえ、「であること」が大事なのではない、「であろうとすること」が大事。それが神の示されている道なのだろうと。おそらく。
最初の言葉に戻りますが、神様が「私たちの罪にしたがって私たちを扱わず、私たちの咎にしたがって、私たちに報いをされることもない。」と言われます。
これって神様の私たちへの愛の告白ですよね。神様が私たちにプロポーズなさっている。ただ、それを私たちが気づかないで受け入れないでいる。そう思うと、なんだか勿体無くて、もったいなくて、涙が出てくるのです。
廣瀬 修