神岡キリスト教会との講壇交換

先週8月27日は神岡キリスト教会との講壇交換でした。

神岡から小畑光弘牧師が当教会で説教をしてくださいました。

たまにはこういう講壇交換もいいですね(;^_^A

(信徒 廣瀬)

1年は早いなあ

す~っごく久しぶりの投稿です。当教会のホームページをつくったものの、たまに更新するくらいでした😅せっかく礼拝堂が建ったのだから、このホームページを通してもっともっと富山聖書教会のことを知ってもらいたい!そんな思いです。奥村と申します。

さて、礼拝堂が完成してから1年が経とうとしています。昨年、クリスマスに間に合うように、みんなで力を合わせて引っ越しを済ませました。クリスマス礼拝では会堂にたくさん人が集まって、イエス様の誕生をいっしょにお祝いしました。大雪に見舞われたときは駐車場の雪かきが大変でした。春には献堂式がありました。夏にはすぐに草が伸びてきたので、早朝のうちに草むしりに行きました。暑さが長引いたけど、もう、肌寒さを感じるくらいになりました。1年ってあっという間だな。

しみじみ思うので2回言いますが、1年ってあっという間だなあ。私は昨年の春から働き始めた、社会人2年目です。24歳です。働き始めてから、日々の過ぎる速さに圧倒されています。8時間働くと1日はすぐに終わっちゃうし、自由にできる時間のほうが少ないです。毎日が貴重だなあと思います。私は、時間の使い方は命の使い方だと思っています。神様が与えてくださる時間を無駄にせず生きたい。

とりとめのない文章ですが、とりあえず更新します。お読みくださり、ありがとうございます! 奥村恵

老いることー2

前回は、人の原罪ということを自覚することが信仰の始まりですと申し上げたかったのですが、伝わったかどうかわかりません。つたない文章の所為なら一言もありませんm(__)m

今回は、汝の隣人を愛するということをちょっとだけ話せればと思っています。ま、感想の様なものですが(-_-;)
「老いること」と言うタイトルからは脱線しているかも知れまんが、老人の遺言代わりにお聞きいただければ幸いです。

日本は仏教が盛んですから、その信徒であろうと、なかろうと仏教の教えは理解している方は多いだろうと思います。
仏教では、人生には喜怒哀楽が、様々に、人それぞれにある。その中でも怒と哀はできれば、なるべくしたくないと思います。しかし、四苦八苦という言葉あるように、人間生きていればいろいろな苦しみに遭う。しかし、その苦しみも煎じ詰めれば、己に執着するから起こる。己れの欲望が、希望が、願いが満たされないことから、苦しみは起こる。つまり自分に執着すると本来の自分が見えなくなる。だから、自分への執着を捨てて、自らも自然の一部として、あるがままを見詰め、生きなさい。ということだろうと思います。(思想の深さについては今はご容赦ください。)

で、キリスト教はと申しますと、「自らの如く、汝の隣人を愛しなさい」と言われています。(これはキリスト以前の旧約聖書レビ記の中にある言葉なのですが、それは今おきまして)

隣人を愛しなさいというのですから、そこには社会的要素が含まれています。最初から、己れのみならず、隣人を意識しているわけです。人々が互いにどのように生きたらよいのかという意味合いが込められています。

で、ちょっと気になるのは、「自らの如く」です。仏教の教えでは人間の執着とも呼べるものはどこから来るかを突き詰めました、キリスト教ではそれを、原罪という言葉で表現します。自分にこだわる自分を捨てきれない。(自分をダメな人間だと思いたくないので、自分にこだわっているという自分をも認めない。見ようとしないで生きている人もいるくらいです。)人間とはそういうものだという訳です。仏教ではそういう自分を捨てることが大事なのだいうことだと思います。ところが、キリスト教では、「自らの如く、隣人を愛しなさい」とあります。つまり、自分を認めているのです。原罪のあるどうしようもないジコチューな自分ですが、ジコチューのままでいいから、その自分を愛するように隣人を愛しなさいということになります。

隣人とはつまり、他人です。他人を自分や自分の家族のように果たして、何人の人が愛せるでしょうか(愛するふりはできるかも知れませんが)。イエス・キリストは、更に進めて汝の敵をも愛せと言われます。いまウクライナの人はロシアの一方的な軍事侵攻と戦っていますが、そのときロシアを愛せるでしょうか?こんな質問は戯言だと言われてしまうのではと思います。当然に思います。敵を、また隣人を、母が子を愛するように愛せるでしょうか?

イエス・キリストはそれぐらいのことは当然理解しておられます。その上で、それでも愛しなさいと言われたのです。日本人は愛という言葉を普段使い慣れていません。愛と言う言葉も限定的に使っているように思います。(親子の愛とか、夫婦の愛とか、恋人同士の愛とか、勿論友情とか、仕事とかそういう愛もありますが、敵を愛するという意味で愛という言葉を使うことはないと思います。)

しかし、イエス・キリストの愛はもっと深くて、広いのです。無条件なのです。

「ちょっと待った、それは愛を突き詰めればそうなるだろうが、そんな愛を貫ける人間て果たしているだろうか?無理な要求じゃないか?そんな愛、人間には不可能なんじゃないか。人間はそもそも原罪を持つんだろ? それは、己れというこだわりから離れらあれない不完全なものということじゃないか。」と言う声が聞こえます。そのことは否定しません。なにしろ自分を顧みれば、それは明らかなのですから。

ですが、もう一度申しますが、

イエス・キリストの愛はもっと深くて、広いのです。

私たちに、神やイエス・キリストの愛を実現することは適わないとしても、だからダメなんだと諦めることはないと思います。できることはそれでもあると思うのです。

まずは相手を認めること。自分と意見が違っても、立場が違っても、思想が違っても、社会環境が違っても、性が違っても、年齢が違っても、肌の色が違っても、学歴が違っても、好みが違っても、また国が違っても、まずはお互いに相手と向き合い、まずは、あるがままの相手を認めること。そのように努力すること。そういうことから始めることはできるのではないでしょうか?

それもイエスの愛だと思うのです。

だから、私はイエスを真実の人として信じるのです。

信徒 廣瀬修

老いることー1

階段を降りるときにふと足元がふらつくことがあります。書物を読んだり考え事をしたりした時に、ふと脳の毛細血管がブチッと切れるような音を聴いた気がしたり、あるいは何でもない時ふと立ち上がろうとすると妙に躰がふらついたりすることがあります。そんなとき、「もうそろそろかな」とどこか心細い気持ちとともにそう思うことがあります。そういう時、死ぬということの実感が湧くのです。

死そのものを想う時、齢70を超すと、強く死にたくないと思ったり、死への恐怖に慄いたり、また足掻いたりということは、さすがになくなりました。受け入れる準備が整えられてきたのだろうと自分なりに思っています。命あるものいつかは必ず死を迎える。自分の力でどうにかできる物でもないものにあらがうことこそ愚かで無意味なことだと。

しかしだからと言って、死にたいする恐れが消えたという訳ではありません。できれば、死にたくないと思っている自分がいることに気付きます。此の世を素晴らしいと思っているわけではありませんが、それでもこの世から離れる恐怖とか、うら寂しさとかはやはりあるのです。

異教ではありますが、歎異抄の九条に、「念仏をしていても、どうしたわけか、念仏すれば自然に生ずるはずの、踊り、跳びはねたくなるような強い喜びの心がちっとも湧いてこない。それどころか、楽しい筈の極楽浄土に早く逝こうという気もさっぱり起きない。これはどうしたことでしょう?」と弟子の唯円が親鸞におそるおそる訊ねると、親鸞は「私も実は同じ疑念をもっていた。唯円あなたもそうでしたか」と言ったという話が載っています。異教ながらさすが親鸞と思ったことがあります。

よく、「私はイエス・キリストを信じているのだから、永遠の命が保証されている。だから死ぬことはちっとも怖くない」と、さも自慢気に言う人がおりますが、失礼ながら、正直私はそういうオッチョコチョイにはなりたくないと腹の中で思います。この人は本当に信仰の意味を知っているのだろうかと、救われてあることの意味を理解しているのだろうかと、ま、自分のことは棚に上げて、不思議に思います。

信仰は自分を省みるときにこそ、はっきりに見えるのにと思うのです。

主の灯は、まわりが暗いからこそ、亦、己がくらいからこそはっきり見えるのだということが解っていないのだ思えるからです。

信徒 廣瀬 修

クリスマスとは主の証の日?

少し早いですが、クリスマスおめでとうございます。

巷はこの時期クリスマスソングがどこでも聴かれ、子供たちはケーキやプレゼントを楽しみにし、恋人たちには二人で過ごす愉しみな日でもありましょう。それだけでなく、これは宗教の違いをこえてどこでも祝われている気がします。それだけ一般的な行事となっていると言えるのでしょうか。

ただ、クリスチャンにとっては、神自らこの世に降りられたことの証の日と言えます。ですから、クリスチャンにはこの日はまさに特別です。

この機会ですから、個人的な思いですがクリスマス(主がこの世に降られた日)について、思うことを少し以下に書き連ねてみたいと思います。

主はなぜ自らその御子をこの世に下されたのでしょうか?

聖書によれば、主は民に何度も主に立ちかえるようにと、主に従うようにと、何人もの預言者を通して諭されてこられました。今度も預言者を通じて諭すことでもよかったのでは・・・。しかし、主はそうはなさらず、御子を下されました。それだけの理由があったのだと思わずにはいられません。強い思いがあったのだと。現にその後、使徒はいても預言者は出ていません。預言者はもう要らないから。(私の身贔屓な思いかも知れませんが)。

民に伝える強い思いは一つではなかったかもしれませんが、一番は、真実の教えを直に、私たちに伝えるためではなかったでしょうか?

イエスが、今からおよそ二千年前に示された、「愛」という言葉に込められた真実は、二千年後の私達にも真実です。そしてこれからもずっと真実でありましょう。なぜなら真実とは永遠であるのですから。そして永遠は無限の時間ではなく、そもそも時間という概念がない世界のことでありましょう。ですから、愛は、真実は、いつまでも朽ちないでありましょう。私たちはこの言葉を強く思い、重く受け止め、深く考えなくてはならないと思います。また、この世から見た私たちにとっては、この言葉ゆえに、イエスはキリストなのだと心から確信させるものでもあります。そもそも信仰とは確信でなくて何でありましょう。

主の私たちへの愛に、心よりの感謝をこめて、 Merry  Christmas!

2019年12月12日 廣瀬 修

はてさて

人は自らの心で他をも量る。

たしか、聖書の中にも似たような文言がありましたね(^_^;) したがって、その人が誰かをどう思うかは、実はその人自身を暴露しているようなもの。殊にみっともないのはその人の属人的要素(職業、学歴、立場,etc.,)で他人を理解した気持ちになっている人がいることには、時々愕然をさせられますが、当の本人はそのことに気付いていない。というか、寧ろそれを利用しようとしているに至っては・・・(-_-;)

殊にクリスチャンは聖書をよく読めば、そのことの教訓をいたるところで感じるのですが・・・。あるがままの自分を見ようとしないで、見られる自分をいつも気にしている。それを罪とも気付かない。それでも主はそれもご存じの上で人間を愛しておられるのでしょうね。

しかし、こんなこと言うと、「神の愛はもっと厳粛で尊いものだ!神はそんな程度の人間を愛するわけはない。そんな不謹慎なことをいうものではない」などをのたまるのでしょうか・・・はてさて。

さて、今宵は、私の所は窓の外、雨が窓ガラスを打っていますが、秋の宵はそれでもセンチメンタルな気分にさせてくれます。人生を落ち着かせる季節と言っていいかも知れません。

心をば 静かに染めて 秋の宵

秋の宵は、それでなくても人の心を寂しくも落ち着かせてくれるものですが、その落ち着いた気持ちはさらに、心に何かを求めさせもします。ふと読書に耽る気持ちにもなります。さて、今宵はだれの書物に、わが心を染めることになるでしょうか。

2019年11月29日 廣瀬 修

悲しみの不安を、イエスも持たれた

主は弟子たちに言われた。
「私は悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて目を覚ましていなさい。」
(マルコの福音書14:34、マタイの福音書26:38)
と。

 この御言葉に私たちは、「目を覚ましていなさい」という言葉の方に気が惹かれてしまいがちですが、その前の「私は悲しみのあまり死ぬほどです。」という言葉に着目してみたいと思います。なぜなら悲しみのあまり死ぬほどだとイエスがおっしゃったことに引っかかるからです。イエスはすでに自らの運命をご存じです。それを覚悟してこの世に来られた方です。なのに悲しみのあまり死ぬほどだと仰せられた。

 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という言葉よりもある意味苦しい言葉かも知れません。なぜなら、十字架の上のイエスは既に苦しみの中にありますが、「悲しみのあまり死ぬほど」の時は、まだその前の段階だからです。まだその苦しみに遭っていないのに、来るべきその苦しみと向き合っている状態での悲しみだからです。それは不安といってもいいかも知れません。イエスと雖もこの苦しみの不安を覚えずにはおれなかった。

 これは、イエスの弱さでしょうか?私達なら弱さと言っていいでしょう。しかしイエスは私達とは違うと思います。そうでなければ、自らの運命を知っていた方がこの言葉を発するということが理解できないからです。この告白、悲しむということは、どこから来るのでしょうか?自ら死ぬことは民を神に仲介すること。要は民を救うと謂うことだと勿論わかっておられます。にも拘わらず、いや、だからこそ、この悲しみがわからない。

 これに拘泥するとわからなくなります。しかし、この拘泥から離れるとふと分かることがあります。これって、イエスのやさしさ?

 だって、この苦しみ(死を迎えることがわかっていること)から超然とされていたら、多分私たちから離れすぎて、それはそれで尊敬し恐れもしますが、決して私たちの救い主として身近に感ずることはないでしょう。イエスが悲しまれたからこそ、私たちはイエスの死の尊さが分かる!その意味が分かる!と思いませんか?なぜなら「救う」という行為は、私たちを理解しなければ出来はしないでしょうから。

 そう考えると、ここにイエスが自ら示された「愛」の意味が分かってきます。自らの威厳を保つことではなく、自らへりくだって、あくまで人の救いを想われる・・・なんだかありがたくて、これまた涙がこぼれます。

廣瀬 修

神は私たちの罪によって私たちを扱わない

私たちの罪にしたがって 私たちを扱うことをせず

私たちの咎にしたがって 私たちに報いをされることもない

詩篇103:10

 先週の聖書の交読文の中にあった言葉ですが、この言葉はちょっと胸に刺さりました

主は、私たちが何ほどの者であるから、すなわち、私たちが主の望まれるに相応しい人間であるから、私たちに報いてくださるのではない。ただ私たちを愛するがゆえに、愛をもって罪ある私たちを扱い、報いてくださっている。そう、この言葉を理解しました。

勿論、だから私たちは何をしてもいいのだということにはなりません。罪は、私たちの人に対しての罪を云っているのではなく、神に対して犯している罪を云っているのでしょう。そう思うと、少なくとも私は、神の前に常にいると自覚します。その神の前に罪あるものとして私たちが在るという自覚。そして、神の前にいるという自覚は、そこにいる自分が身分とか、社会的地位とか、学歴とか、容姿とか、人種とか、性別とかその他もろもろの属人的要素を取り払った裸の自己自身でいるいう自覚。つまり、実存的に神の前にいるということだろうと思います。だから、自らを主の前に、あるがままの気持ちで佇む。すべてを主にゆだねきる。「罪の反対は徳ではない、信仰である」と、19世紀のある哲学者は言いましたが、真の救いとはそういうところにあるのだろうと思います。

 マタイの福音書5:44に、「私はあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」 という言葉ありますが、それと詩篇のこの言葉が共鳴して私には聞こえました。だから主があなたがたにしたように、あなた方もそうありなさいと。しかし、この言葉通りに出来るかと言われれば、率直に言って非常にむずかしいことです。世の争いはだから消えることがないのでしょう。しかし、出来るかできないかが問題なのではなく、できるように努力することが大事なのだということではないでしょうか。出来ないことを理由に諦めることが罪なのだと。なぜなら、神の愛は何かと問われれば、この言葉のとおりだと思うからです。しかし、神は、それが人には難しいことであることも当然ご存じだろうと思います。それゆえ、「であること」が大事なのではない、「であろうとすること」が大事。それが神の示されている道なのだろうと。おそらく。

 最初の言葉に戻りますが、神様が「私たちの罪にしたがって私たちを扱わず、私たちの咎にしたがって、私たちに報いをされることもない。」と言われます。

これって神様の私たちへの愛の告白ですよね。神様が私たちにプロポーズなさっている。ただ、それを私たちが気づかないで受け入れないでいる。そう思うと、なんだか勿体無くて、もったいなくて、涙が出てくるのです。

廣瀬 修

ある信徒の断片的な詩から

なんかなぁ、

終わりがあるって、悲しいものですね

終わりがあるって、儚いものですね

終わりがあるって、切ないものですね

終わりがあるって、哀れなものですね

生きるって、だから物悲しいのだろうか

だって、どう頑張ったって、どうしようもないことだから

でも、だから人間て素直になれるのかな

素直になればこそ、見えたりするものもあるものね

感じたりすることもあるものね

素直に神様に向き合うこともできるだろうな きっと

自分を素直にするということは

神様が見えるってことかも知れないね きっと