老いることー1

階段を降りるときにふと足元がふらつくことがあります。書物を読んだり考え事をしたりした時に、ふと脳の毛細血管がブチッと切れるような音を聴いた気がしたり、あるいは何でもない時ふと立ち上がろうとすると妙に躰がふらついたりすることがあります。そんなとき、「もうそろそろかな」とどこか心細い気持ちとともにそう思うことがあります。そういう時、死ぬということの実感が湧くのです。

死そのものを想う時、齢70を超すと、強く死にたくないと思ったり、死への恐怖に慄いたり、また足掻いたりということは、さすがになくなりました。受け入れる準備が整えられてきたのだろうと自分なりに思っています。命あるものいつかは必ず死を迎える。自分の力でどうにかできる物でもないものにあらがうことこそ愚かで無意味なことだと。

しかしだからと言って、死にたいする恐れが消えたという訳ではありません。できれば、死にたくないと思っている自分がいることに気付きます。此の世を素晴らしいと思っているわけではありませんが、それでもこの世から離れる恐怖とか、うら寂しさとかはやはりあるのです。

異教ではありますが、歎異抄の九条に、「念仏をしていても、どうしたわけか、念仏すれば自然に生ずるはずの、踊り、跳びはねたくなるような強い喜びの心がちっとも湧いてこない。それどころか、楽しい筈の極楽浄土に早く逝こうという気もさっぱり起きない。これはどうしたことでしょう?」と弟子の唯円が親鸞におそるおそる訊ねると、親鸞は「私も実は同じ疑念をもっていた。唯円あなたもそうでしたか」と言ったという話が載っています。異教ながらさすが親鸞と思ったことがあります。

よく、「私はイエス・キリストを信じているのだから、永遠の命が保証されている。だから死ぬことはちっとも怖くない」と、さも自慢気に言う人がおりますが、失礼ながら、正直私はそういうオッチョコチョイにはなりたくないと腹の中で思います。この人は本当に信仰の意味を知っているのだろうかと、救われてあることの意味を理解しているのだろうかと、ま、自分のことは棚に上げて、不思議に思います。

信仰は自分を省みるときにこそ、はっきりに見えるのにと思うのです。

主の灯は、まわりが暗いからこそ、亦、己がくらいからこそはっきり見えるのだということが解っていないのだ思えるからです。

信徒 廣瀬 修

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