悲しみの不安を、イエスも持たれた

主は弟子たちに言われた。
「私は悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて目を覚ましていなさい。」
(マルコの福音書14:34、マタイの福音書26:38)
と。

 この御言葉に私たちは、「目を覚ましていなさい」という言葉の方に気が惹かれてしまいがちですが、その前の「私は悲しみのあまり死ぬほどです。」という言葉に着目してみたいと思います。なぜなら悲しみのあまり死ぬほどだとイエスがおっしゃったことに引っかかるからです。イエスはすでに自らの運命をご存じです。それを覚悟してこの世に来られた方です。なのに悲しみのあまり死ぬほどだと仰せられた。

 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という言葉よりもある意味苦しい言葉かも知れません。なぜなら、十字架の上のイエスは既に苦しみの中にありますが、「悲しみのあまり死ぬほど」の時は、まだその前の段階だからです。まだその苦しみに遭っていないのに、来るべきその苦しみと向き合っている状態での悲しみだからです。それは不安といってもいいかも知れません。イエスと雖もこの苦しみの不安を覚えずにはおれなかった。

 これは、イエスの弱さでしょうか?私達なら弱さと言っていいでしょう。しかしイエスは私達とは違うと思います。そうでなければ、自らの運命を知っていた方がこの言葉を発するということが理解できないからです。この告白、悲しむということは、どこから来るのでしょうか?自ら死ぬことは民を神に仲介すること。要は民を救うと謂うことだと勿論わかっておられます。にも拘わらず、いや、だからこそ、この悲しみがわからない。

 これに拘泥するとわからなくなります。しかし、この拘泥から離れるとふと分かることがあります。これって、イエスのやさしさ?

 だって、この苦しみ(死を迎えることがわかっていること)から超然とされていたら、多分私たちから離れすぎて、それはそれで尊敬し恐れもしますが、決して私たちの救い主として身近に感ずることはないでしょう。イエスが悲しまれたからこそ、私たちはイエスの死の尊さが分かる!その意味が分かる!と思いませんか?なぜなら「救う」という行為は、私たちを理解しなければ出来はしないでしょうから。

 そう考えると、ここにイエスが自ら示された「愛」の意味が分かってきます。自らの威厳を保つことではなく、自らへりくだって、あくまで人の救いを想われる・・・なんだかありがたくて、これまた涙がこぼれます。

廣瀬 修

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